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多くの研究者、技術者が憧れ、夢見るのは国を挙げて |
清水_副会長 |
のビッグプロジェクトに参加することではないでしょう |
か。なかでも官民一体で巨額の予算で構築された巨大設 |
備での研究は、機会があればせめて見学だけでもしたい |
ものです。 |
巨大設備での研究と言えば、頭に浮かぶのは巨大な円 |
形加速器を使う素粒子研究です。有名なのはヨーロッパ |
アルプスの地下に造られた世界最大の円形加速器「LHC」 |
です。ここには日米欧など各国から1万人超の研究者が集まって、素粒子の研究に |
取り組んでいます。このような巨大な設備を使用して、物質の最小構成単位である |
素粒子の性質を調べる。何とも不思議でもあり、ロマンを感じます。 |
同じような研究形態は、日本にも無いのか、元技術者の端くれの気概で調べてみ |
ました。 |
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1.何を見つける設備 |
当初の目的は、「陽子崩 |
カミオカンデ内部 |
カミオカンデ概要図 |
壊」を観測するためでした。 |
水の中の陽子が壊れる時に |
生じるわずかな光を観測す |
るために、カミオカンデで |
は、3000トンの水(陽子約 |
10の23乗個)をたたえた巨 |
大タンクの内側に1000本の |
光センサ(光電子増倍管)を設置しました。陽子の平均寿命は約10の30乗年で、途 |
方もない長さですが大量の陽子を集めて観察すれば、何年かで崩壊を観測できる可 |
能性がありました。 |
1983年からスタートした実験によって、陽子の崩壊が見つからないことから、陽 |
子に寿命があるとしても、当初の想定よりもさらに長いことが分かったそうです。 |
その一方、カミオカンデの性能の高さも実証されたため、当時注目を浴びていた太 |
陽から来るニュートリノの観測へと方針変更されました。ごくまれでしたが、ニュー |
トリノがタンク内の水の粒子にぶつかったときにも、わずかな光が生じるからです。 |
装置を改造し、本格的な観測が開始されたのは、1987年からです。 |
スーパーカミオカンデは、5万トンの水を入れた直径39.3m、高さ41.4mの円筒 |
形タンクと、その壁に設置された約1万3千本の光センサで造られています。 |
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2.ニュートリノとは |
ニュートリノ |
地球上には、宇宙から宇宙線と呼ばれる粒子が降り注 |
いでいます。これらが地球の大気とぶつかるとミュー粒 |
子や電子、ニュートリノなどが生まれ地上にやってきま |
す。このミュー粒子も水の分子とぶつかって光を出すの |
で、ニュートリノの観測には邪魔になります。ほとんど |
のミュー粒子は、土の中で止まりますがニュートリノは |
通り抜けて来ます。地下1000mでは、ミュー粒子は地表 |
の10万分の1まで減ります。それでニュートリノの観測 |
が可能になるわけです。 |
現在のスーパーカミオカンデでは、太陽から来るニュートリノを一日約15個、地球 |
の大気でつくられる約10個観測しています。ハイパーカミオカンデは、スーパーカミ |
オカンデの約10倍の体積があるので、スーパーカミオカンデで100年かかるデーター |
を10年ほどで集めることができるそうです。 |
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私が東京計器に入社したのは昭和43年である。丁度そ |
三浦_副会長 |
の頃に空調の自動制御を生業にする子会社「東京計器エ |
ンジニアリング」が設立されたように記憶している。 |
そして昭和43年当時の日本一の高層ビル「霞が関ビル」 |
の空調自動制御の仕事を受注したことは社内でニュース |
になっていた。私は舶用関連の部署に配属されたため、 |
この子会社がどんな仕事を主体にしていたのかは、その |
頃はよく理解していなかった。 |
霞が関ビル |
この子会社はその後、「東京計器ランディスギア→ |
トキメックランディスギア」と社名を変え、スイスの |
「ランディス&ギア」社の製品を使用してビル空調の自 |
動制御を事業の主体にしていた。つまり技術的には東京 |
計器とは全く無関係で、会社運営に必要な人間数名が東 |
京計器から出向して、事業を行っている会社であった。 |
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バブル絶頂期 |
私は空調事業とは全く違う事業分野で仕事をし、昭和60年、40歳のときに企画室に |
異動になり、事業計画の進捗管理、経営会議の事務局業務などの仕事を担っていた。 |
この頃から世の中はいわゆるバブル景気と呼ばれる好景気が始まっていた。銀行は |
どんどん金を貸す。ゴルフ場の会員権を買えば、どんどん値上がりする。日本中に新 |
しいビルがどんどん建設される、そんな時代であった。 |
子会社トキメックランディスギアが急激に忙しくなってきた。この子会社の社長で |
あった笠井社長も頻繁に本社を訪れ、西村会長、廣野社長と面談をしていた。元々親 |
会社の体質になじまないといって子会社にした事業である。忙しくなっても親会社に |
は対応する部門がなかった。しかしこの忙しさに何とか対応をしなければいけないと |
いうことで「トキメックランディスギアをどう支援するか」という議題で年が明けた |
二月頃に、常務会が開かれた。私は立場上、事務局としてこの常務会に出席していた。 |
冒頭廣野社長は「トキメックランディスギアの事業を親会社が全面的にサポートす |
ることにする」と皆に言った。社長の決断に誰も異議を唱えるわけはない。どのよう |
に子会社をサポートするかという内容についていろいろ議論をしている中で、私は議 |
事録を取っていたが、この話は私に来るなと直感した。丁度そんな時に「三浦お前は |
企画室に来て何年になった」と廣野社長が私に質問した。「今年の5月で4年になり |
ます」。「企画室のようなところは4年もやればよい。お前がトキメックランディス |
ギアに行ってこの事業を担当しろ。親会社は何でもサポートするから、何をサポート |
すれば良いか、答申を出せ。期限は5月末だ」有無を言わせない社長命令であった。 |
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空調事業強化のための答申 |
私は新しいミッションを与えられ、答申案を作るべく、検討に入った。そして4月 |
になりトキメックランディスギアに出向することになった。 |
この頃のトキメックランディスギアの売上高は年間約45〜50億円程度であった。バ |
ブル景気になってから急激に売上が伸び、この数年で売上は倍増していた。 |
常務会の後、親しい人間には私がトキメックランディスギアに出向することを内々 |
に伝え、空調事業への支援を依頼していた。子会社に行ってからは、親会社からどん |
なサポートが必要かという内容で社員から聞き取りを行った。 |
製品開発部門を親会社に設立すること。空調システムの提案業務を充実させるため |
の人員の補充、営業部隊の拡充などが主な内容であったが、売上50億円でやっと利益 |
の出ている会社に、これだけの補強をしては当然利益確保ができない。売上高を倍の |
100億にすることは可能かどうか、子会社の社長や現場の幹部社員に聞いたところ、 |
全員が可能だと言う。そのためには今の倍の受注活動をしなければならない。親会社 |
のサポート費用を負担し事業として黒字を出すためには売上を伸ばすしか方法はない。 |
5月に出した答申書は「5年後、売上高100億円」の目標を掲げ、市場分析の説明と |
売上高100億円達成の戦略を柱としてまとめた。そして、私の作成した答申案は親会 |
社の経営会議で議論され、承認された。 |
親会社に技術部門が設立され、研究所でもコントローラーや監視装置についての研 |
究が始まった。子会社の営業や設計部門には親会社から数十名の人員が補充され、 |
「5年後、売上高100億円」に向かって体制がスタートした。 |
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バブルの崩壊 |
私が出向して3年が経った頃、バブル景気もだんだん先行きがおかしくなってきて |
いた。受注が思ったように伸びない。売上高はピークの50億円からずっと横ばいであ |
る。5年後、売上高100億円達成の目標期限は2年後に迫っている。営業活動の分析 |
を見ても、これはほぼ絶望的であり、戦略の変更が必要と感じていた。 |
会長として残っていた廣野前社長は私を呼び、バブル景気が一変し、思うように受 |
注が伸びていかないことに対しては理解を示したが、「トキメックビルシステムの赤 |
字が親会社の重要な経営課題になっている。何とか改善をするように」と私に言った。 |
その年の事業計画のヒヤリングで、親会社の森田社長は「3年後、子会社単独黒字、 |
翌年親会社との連結で、事業としての黒字を達成すること」を指示した。会議の後社 |
長室に呼ばれた私は森田社長から「私はあなたがトキメックビルシステムに行った時 |
のことは良く知っている。時代が変わって、計画どおり事業強化が進んでいない。前 |
期の赤字から続いて、今期、さらに赤字を計上するに至っては、もはや見過ごすこと |
は出来ない状況である。ヒヤリングで指示したとおり黒字を達成しなければトキメッ |
クビルシステムの存続はない。三浦がトキメックビルシステムの社長になって黒字化 |
を達成しろ」との指示を受けた。 |
トキメックビルシステムに来て4年、バブルの絶頂期からバブルの崩壊という、当 |
初、まったく予想していなかった事態を迎え、経営の舵取りを大きく変えなければい |
けない時期にきていた。今までの経緯から言って、経営再建を託すのは私しかいない |
状況であった。私は49歳でトキメックビルシステムの社長になった。 |
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バブル崩壊後の黒字化戦略 |
前年度の決算は、売上高42億円、経常利益△3億円、親会社との連結での事業損益 |
は△6億円という惨憺たる結果であった。途方もない数字である。こうすれば黒字に |
なるという戦略は、直ぐには出てこない。もがく日々が続いたが、手を付けていかな |
ければならない。そしてこの会社のあるべき姿をまず決めて、それを実現する戦略を |
立てようと決めた。 |
この会社の現状の実力は売上高40億円である。この数字を希望的観測で増やせば楽 |
であるが、それは現実味がないし無責任である。40億円の売上で、粗利率は30パーセ |
ントとして、粗利は12億円である。利益を出すには従業員の数は100人で考えなけれ |
ばならない。「売上高40億円、粗利率30パーセントの確保、従業員100名」、この3 |
つの数字を核にして再建策を考えることにした。 |
トキメックビルシステムは、北は札幌から南は福岡まで、東京本社を含めて全国に |
12ヶ所の営業拠点があった。私が出向してから4年経ち、社員の働きぶりは把握して |
いた。働きぶりが、他の社員の示しにならないのと思われる3名の管理職を退職させ |
た。これは会社を改革するぞという私の決意表明であった。そして改革の時には必ず |
反旗を翻すものが出てくる。古株のプロパー社員の何人かが退職していった。 |
私は、今回の再建の中で一つの決心をしていた。下請けと元請けの関係で色々なお |
金が動く業界である。健全経営のためにはこれらの癒着を払拭する必要があると考え |
た。事業計画で予算を組んでも、いつも大幅に予算をオーバーするのが交際費と遠距 |
離出張費の2つの費目であった。この件も毎年問題にしていながら、適切な手を打て |
ていなかった。私は全社に交際費と遠距離出張費は全て事前の社長決済を義務付ける |
ことにした。FAXで事前申請し、私がサインしてFAXで送り返す。私がいない場合は経 |
理部長が代行する。営業の社員から猛反発があった。「急に決まる場合もある」「昼 |
食のような小額の場合は事前申請出来ない」など。しかし、すべて特例は認めず、急 |
な場合は事後申請を認め、私のサインがないものは、経理は支払わない、というルー |
ルを決め実行した。後日談であるが、私は申請してきたものは全て承認し、一件たり |
とも否認しなかった。年度が終わってみると、今まで全く管理できていない経費であ |
ったが、予算内に収まったのである。管理とは、とやかく言うことではない。こうい |
うことなのである。しかし大仕事はこれからであった。 |
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大阪単身赴任 |
子会社の売上は40億円規模で、平均粗利益率は30パー |
大阪市役所 |
セントであった。しかし、以前から、大阪営業所の粗利 |
益は極端に少なかった。率にして18パーセントくらいで |
ある。前社長も、前々社長もその理由を追及していたが、 |
結局は受注した物件の指値がきついとか、工事で思いの |
ほか原価がかかったとかという理由を並べるだけであっ |
た。私はここには大阪営業所特有の事情があると感じて |
いた。社長の立場であったが、大阪営業所の利益率の悪 |
さを改善するために、大阪に単身赴任することを決めた。社長の立場もあり、長い時 |
間はかけられないが、最長でも1年で目処をつけるつもりで大阪に赴任した。 |
4月、新年度になり、大阪営業所に赴任し、皆に挨拶した。「皆さんと一緒に仕事 |
をしに来ました。皆さんが一生懸命仕事してくれているのに、大阪営業所の利益率は |
全社で一番悪い。みんなの努力の結果を自慢できるようにしたいと思っています」。 |
次に、管理職を集めて話をした。「昨日までのことは一切問いません。今日から私に |
協力してください。私が、社長という立場でありながら、大阪営業所に赴任した理由 |
は大阪営業所の粗利率の改善が全社の最重要テーマになっているからです。今まで、 |
何年も改善されていないのは何か理由があると思っています。こうすれば良いという |
仕掛けが作れればそれが最高です。粗利率が改善したら、私は本社に戻ります」。ま |
ず手始めに大阪営業所が担当している物件、一つ一つの粗利を調べ、原価率の悪い物 |
件については理由を聞いた。そして所員全員と話をした。仕事が終わると、毎日、居 |
酒屋に行き、愚痴を聞いた。段々と大阪営業所の管理不在の状態が浮き彫りにされて |
きた。 |
大阪営業所に常駐している外注業者10名分として請求してくる人件費・経費の合計 |
が、年間で1億円を越えている。当社、社員1人当たりの平均の人件費・経費と同等 |
である。家賃も、通信費などの事務所経費も当社が負担しているのに、この額はべら |
ぼうである。この業者の社長を除く社員の平均年齢は20代である。毎月の請求書に明 |
細がついていない。まったくの管理不在であった。 |
外注業者との間では契約書によって、各人の仕事のレートや外出・出張の条件も決 |
まっている。どう考えてもこんな金額にはならない。この外注を担当する管理職と相 |
談し仕掛けを考え、外注の社員には毎日、一日ごとの経費がわかる日報を書いて提出 |
してもらうことにし、月末にそれを計算して、月ごとの支払いをこちらから連絡する |
ことにした。こんな当たり前のことが実践されていなかっただけの話で、当たり前の |
管理をすることに変更しただけの話である。一件落着である。大阪営業所の利益は大 |
幅に改善した。そして、その後、この方法は、全社に実行させ、会社全体でも大幅に |
利益改善が実現できた。大阪営業所の粗利率はかつて18パーセントであったが、なん |
と7ポイントも改善し、25パーセントを達成した。利益改善が実現し、所員の顔に笑 |
顔が出てきた。私は大阪営業所単身赴任の目的を達し半年後に本社に戻った。 |
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黒字達成への布石 |
黒字達成のための具体案は決まった「これを全て実行すれば、絶対黒字になる」最 |
後にはそこまでの自信があった。一番大切なことは、この全てを実行することである。 |
当然具体案の中心は人員減であったが、営業の人員だけは極力いじらないことにして |
いた。受注が減って40億円の売上が達成できなくなったらこの計画は成り立たない。 |
当初、東京計器が製品開発、製造を担当することで新たな体制を構築したが、これを |
止め、開発、製造、メンテナンスといった業務を一括、親しい協力会社に依頼するこ |
とにした。これらの施策に森田社長にも賛成して頂き、一つ一つ実行していった。申 |
し訳ないのは、5年前に私が作った先行投資計画で子会社に来てくれた人たちであっ |
た。一人一人と話し、親会社に戻ることを了解してもらった。トキメックビルシステ |
ムの社員は親会社からの出向者を含めて100人に絞り、親会社に設置していたサポー |
ト部隊は解体し、他の組織に吸収されることになった。 |
社長に就任して2年目になっていた。最初の1年間は試行錯誤の1年であったが、 |
改革の具体案を決めることができ、2年目に入って、それを実行することにした。 |
「3年後、子会社単独黒字、翌年親会社との連結で事業としての黒字の達成をするこ |
と」の指示を1年早めることが可能となり、2年後には事業として黒字化する目途が |
立った。 |
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目標より1年早く黒字を達成 |
改革に着手した1年目の上期はまだ改革の効果が顕著ではなかったが、下期には少 |
しずつ効果が出始めていて下期単独の黒字化が可能と判断できた。そして下期の着地 |
予想について、全営業所に指示を出した。「全営業所を回った結果、今年度の下期の |
黒字化が可能であると判断している。通期では残念ながらまだ赤字であるが、下期を |
黒字にすることで来年以降に弾みをつけよう。下期の利益が私と約束した目標を上回 |
ったら、上回った分の10パーセントを営業所に報奨金として配布することを約束する |
ので、目標を上回るように頑張って欲しい」。これまでやろうとしてもどうしても出 |
来なかったインセンティブ給を、この下期に限って導入することにした。もし目標利 |
益を500万円上回れば90パーセントの450万円を会社の利益に計上し、10パーセントの |
50万円をインセンティブとして社員に配布することになる。もともと固い事業をして |
いた親会社ではインセンティブ給が話題になったことはあったが、これまで導入した |
ことはなかった。インセンティブ給の導入は子会社を含めたグループ全体で初めての |
ことであった。その翌年、社長就任以来3期目、苦節3年にして黒字事業となった。 |
親会社の指示よりも1年早い黒字化の達成であった。この間、一度も社員に大声を出 |
したことはない。方針を決めるまではかなり悩んだが、これを全てやれば黒字になる |
と思っていたので、みんなと一緒になって、真剣に業務改革に取り組んでいった結果 |
であった。 |
後で知ったことであるが、この子会社改革の前は、親会社からの出向者の人件費の |
1/2は親会社が負担していたそうである。理由は、親会社の都合で、子会社に出向 |
を受けさせていたからという理由とのことであった。この年の黒字は出向者の人件費 |
の親会社負担ゼロでの達成である。長年この事業の経緯に詳しい親会社の経理部の部 |
長は言った。「今回の黒字は今まで誰も成し得なかったことを実現したのですよ」。 |
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親会社の危機 |
ランディスギアとの提携は解消され、社名は「トキメックビルシステム」に変更さ |
れていた。トキメックビルシステムが黒字化を達成し、数年経った頃、親会社に不祥 |
事が発生した。親会社は経営の危機に直面し、希望退職者を募ることになった。 |
トキメックビルシステムの社長であった私はこの子会社を守るためにどうすればい |
いか真剣に考えなければならない状況になった。トキメックビルシステムの社員には |
影響が及ばないようにしなければならない。それが社長としての責任だと考えた私は、 |
親会社の社長を訪ね、「トキメックビルシステムは何とか黒字経営を続けています。 |
私が今までお付き合いのあった会社に当社の譲渡を打診したいと思っています。ご許 |
可をいただければ私が先方に打診してまいります」と、申し入れた。その後1年が経 |
過し、企業譲渡の話は現実となり、空調の事業は松下電工に譲渡されることになった。 |
バブル経済、バブル崩壊と経済の大変動に翻弄された会社運営であったが、空調事 |
業はこのような変遷をたどって、東京計器から他の会社に譲渡されていくことになっ |
た。 |
後日談であるが、本社企画室で上司だった新免さんとお会いしたときに、新免さん |
は私に言った。「バブル景気という一時の状況はありましたが、親会社にシーズの無 |
い空調事業をどこに譲渡するかということはずっと東京計器の経営課題だったのです |
よ」。 |
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さて、東京計器OB会は昭和51年(1976)12月5日に |
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平和島温泉会館で鈴木重徳会長を初め38名の参加で発足 |
いたしました。また早くも翌年の昭和52年4月には会報 |
創刊号が発行されています。 |
さらに平成17年(2005)10月1日にはトキメック(東 |
京計器)本社で30周年記念総会が開催され、この日に開 |
始されたOB会ホームページの紹介とデモも行われまし |
た。このホームページの「話題」欄の「トップページ履 |
歴」をクリックし2005.10.1まで溯ると黒石会長による「ホームページ開設にあたり」 |
という記事があります。その中で黒石会長はホームページに関して、二つのお願いを |
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しておられます。一つは「参加していただくこと」もう |
一つは「輪を広げていただくこと」です。改めてこの言 |
葉をかみしめたいと思います。 |
今年秋(10月4日)には東京計器本社をお借りして、 |
第50回記念のOB会総会を開催しようと準備を進めてお |
ります。栃木3支部からもバスをチャーターして多数参 |
加していただけるようにいたします。総会についても |
黒石会長の言葉は当てはまるものと思います。ぜひ楽し |
い会にいたしましょう。 |
末筆になりましたが、今年も本部・支部幹事一同で努力してまいりますので、皆様 |
のご支援を賜りますようお願いいたします。 |