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4月は旅立ちの時です。東京計器にも沢山の新入社員 |
三浦_副会長 |
が入社してくるでしょう。今を遡ること56年前私は東京 |
計器に入社しました。出社時間の駅から会社までの人の |
流れは若い私には遅くゆっくり感じ、前の人を避けて、 |
さっと前に出たときに、なんと電柱からはみ出ていた針 |
金に背広の後ろが引っ掛かり、新調の背広にかぎ裂きを |
作ってしまいました。このかぎ裂きはその後の会社生活 |
の波乱を予想するものであったのかどうか、それは今で |
も定かではありません。 |
会社に入り、ロッカールームで着替えていた時に「おはよう」と声をかけてくれた |
先輩がいました。私も「おはようございます。三浦と申します。よろしくお願いしま |
す。」と挨拶をしました。後で分かったことですが、私に挨拶をしてくれた方は大学 |
の4年先輩でした。また私と同じ国立駅から通勤していることも判り、その奇遇に驚 |
いた次第です。その先輩とはその後家族ぐるみのお付き合いになり、56年経った今で |
もお付き合いが続いています。まさに新しい出会いでした。先日も二人で一献交えた |
ばかりです。 |
さて、実は私の孫が今春大学を卒業し、就職が決まり、この4月から勤務が始まり |
ます。手前味噌で申し訳ありませんが、この孫のことを綴ってみることにさせて頂き |
ます。 |
拓と私 |
私の親、兄弟、従弟などの親戚は皆、普通に学校を卒 |
業して専門を生かして企業に就職していますが、これか |
ら紹介する私の初孫(拓)はそういった我々とは全く違 |
う学生生活を送って社会人になりました。 |
3月生まれの拓は同学年の中では一番遅く生まれた方 |
であり、幼く可愛かった記憶があります。左の写真は私 |
が四国の会社に勤務していた時に家族で四国を訪ねてき |
た時の私59歳、拓2歳の時のツーショットです。 |
拓の両親は背が高く大きかったため、拓も成長するたびに段々背が高くなり、小学 |
校を卒業するころには身長が170cmにまでなっていました。運動神経も良く、時々キ |
ャッチボールなどで遊ぶと、えっと驚くようなグラブさ |
中学時代 |
ばきをしてボールをキャッチしていたのを覚えています。 |
野球をすればかなりいい選手になるのではないかと身び |
いきの思いをしていましたが、背が高いこともあり中学 |
校に入ってからは本人の希望もあって、バスケットボー |
ル部に入部しました。中学時代のバスケットボール部で |
の拓の活躍ぶりはよく覚えていませんが、部活動は一生 |
懸命続けていました。右の写真はそんなころの拓の写真 |
です。 |
いよいよ高校受験となり、都立高校に入学すべく勉強をしていたころ、私も時間を |
見ては数学や英語の勉強を教えていました。このころの拓は身長も188cmになり、バ |
スケットボールを続けたい気持ちが強く、都立高校のバスケットボールの強豪校を第 |
一志望にしていましたが、更に上のレベルの学校でバスケットボールを続けたいとの |
思いが大きくなり、八王子学園に行きたいという希望を教師に伝えました。教師は |
「八王子学園はまさにバスケットボールの強豪校であり、全国から良い選手が集まる |
学校なのでレギュラーになるのは難しい」との思いを拓に伝えたそうです。そんな経 |
緯があって志望校を日本学園にしました。 |
日本学園は戦後の総理大臣吉田茂が卒業した伝統のある高校です。またバスケット |
ボールも東京都では5本の指に入るくらいの強豪校でした。バスケットボールでの推 |
薦入学を受けるべく学校を訪問しましたが、バスケットボールの監督の目にかない入 |
学することができました。 |
インターハイ出場 |
拓は部活に打ち込み、2年生の時にはレギュラーとな |
って頑張っていました。この年のバスケットボール部の |
東京都予選で上位3校に入り、インターハイ出場が決ま |
ったのです。まさに高校野球の甲子園出場に匹敵する快 |
挙です。左の写真はインターハイ出場の時の拓の写真で |
す。わが家系にこのようにスポーツで活躍する人材が出 |
るということは思ったこともありませんでしたが、この |
快挙に、会場のある愛知県一宮市に応援に行った次第で |
す。3年生の時は残念ながらインターハイ出場はなりませんでしたが、大学はバスケッ |
トボール部が関東大学バスケットボール一部リーグに所属している神奈川大学に学校推 |
薦で4年前に入学しました。時あたかもコロナ禍で学校 |
神大のエース |
への登校も難しい時期でしたが、部活は順調に続け、拓 |
は大学でもレギュラーとして活躍しました。このころに |
は身長も193cmになり、まさに大男です。 |
関東一部リーグでも上位校だけが出場できるインカレ |
にも出場し、大学時代も部活に打ち込んでいました。 |
大学では選手を紹介する活動があり、拓は「寡黙な神大 |
のエース」ということで選手紹介をされていました。右 |
がその写真です。 |
娘は一生懸命拓の面倒を見て出来る限り試合の応援に行っていたようです。 |
「寡黙な・・・」という選手紹介を読んで「???」だったようです。いよいよ就職 |
験を受ける時期になり、バスケットボールを止めて普通の会社に就職するのか、実業 |
団またはプロリーグでバスケットボールを続けるのかと身内としていろいろ考えてい |
ましたが、本人は監督に任せていると言っていました。ということはバスケットボー |
ルを続けるつもりだなと理解していました。 |
「ペッカーズ」 |
バスケットボールはBリーグと称したプロリーグがあ |
りますが、実業団チームも沢山あり、どこに行くのだろ |
うと関心を持っていましたが、娘から「JR東日本からス |
カウトされ、受験することになった」との話がありまし |
た。JR東日本は71年前創部の実業団の強豪チームです。 |
社会人の大会で4年連続日本一になっています。 |
就職試験にも受かり、いよいよ「旅立ちの時」になり |
ました。JR東日本のバスケットボール部は秋田市を本拠 |
地にしているため、この4月からJR東日本秋田支局勤務となります。旅立ちにあたり、 |
新たな環境で一所懸命頑張ろうという気概を持ち、活動してほしいと思っています。 |
「旅立ちの時は新しい出会いの始まり」です。諸先輩との新しい出会いを大切にし |
てこれからの長い社会人生活を元気に過ごしてほしいと思っています。そして社会人 |
チームでもレギュラーとして活躍することを願望しています。 |
拓がプレーするJR東日本のバスケットボールチームの正式名はもちろん社名の |
「JR東日本」ですが、「ペッカーズ」という愛称がついています。この名前は青森県 |
から秋田県に分布している世界遺産白神山地に住むクマゲラの英語名black woodpecker |
から取ったとのことです。 |
これをお読みになった皆様もぜひペッカーズを応援していただきたく、よろしくお |
願いします。 |
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<省力機器> |
昭和48年入社時の配属先は、産業事業部省力グループ |
本部幹事_太田 安穂 |
で、設計ではなく検査担当であった。 |
当時は、労働争議の真っ最中で、入社教育完了後、直 |
ぐに油圧検査課に実習に出され、先ずは油圧を勉強しろ |
と検査の合間にハイドロリックスクールを受講した。ま |
ともに所属に戻れたのは、5月のGW明けであった。 |
当時、稼働していたロボットは黒崎窯業殿と東京三洋 |
殿に納品されたものだけであった。新しく受注したもの |
で、日本鋼管/福山での形鋼のラベリングマシンがあった。コンピューターからデー |
タを受け取り、プリンタで印字して台紙から剥がして型鋼に貼り付ける装置で、鉄の |
爪で引き摺られてくる型鋼に次々に貼りつける、ロボットアームを装備した台車も制 |
御する装置で、リレーシーケンスの大きな制御盤で、リレーのON/OFFを確認するだけ |
で大変の手間であった。 |
この時期には、本当に良く勉強した。油圧は、教育されたが、空圧回路は、現場で |
実際に使用して覚え、更にシーケンンス回路を理解しないと機械が動かない。そのた |
め、機械科卒なのに半田ゴテをもってa接をb接に替えたりせざるを得なかった。 |
もう少しアカデミックなことには、ロボットの担当者が開発の設計計算書を残して |
くれたので非常に勉強になった。故障等が発生して修理完了後には、原因分析を要求 |
されたが、余り考えずに、直ぐに、伊東 公四郎さんと云う博士に相談にいった。 |
博士は、しょうがないなと云う感じで引き出しから古くて薄い参考書を出し、この式 |
に結果を代入してこのように結論つけろと指導してくれた。「宜しくご賢察の上、ご |
査収願います。」との言い回しはこの時に覚えた。その後、ロボットの受注は全くな |
く、アルミサッシの組付け機の調整装備が主な仕事になった。アルミサッシの組付け |
機は、サッシの下縁部分に戸車・フエルトリボン等を挿入する機械でYKK殿と東洋サッ |
シ殿に納品していた。装備工事が始まると先ず、大月にある日本工機という協力工場 |
で出荷前調整を1週間、納品して各現地工場で1週間と云うような調整員の合宿生活 |
を送っていた。YKKには工場が多く、八代・名張・魚津など耳慣れない地方を訪れる事 |
が出来た。工場の作業員は、若い女性が主で、食堂などで同席すると一様に行儀がよ |
く、終業後には、華道・茶道等の手習いを受けるそうである。農家のおばさん達も少 |
なくないが、地域に工場を立地する確固たるポリシーを感じた。東洋サッシは、東邦 |
精機で調整を行ったので通うことが出来たが、搬送速度が速く、1台当たりの生産は |
YKKの3割増しくらいあったと思う。 |
その他の珍しい物件で、タイヤ更生機と云うものがある。スチールタイヤのトレッ |
ト部分を削り、ゴムを巻き付けて、タイヤの内側に200℃の水蒸気で膨らましたゴム |
袋を入れ、上下をアルミ金型で350kgの油圧で押さえることにより加硫プレスされ新 |
品に負けない強度があるそうである。有賀ゴム殿が全国で販売しており、油圧装置を |
納品していたがコストダウンの為のトラブルで忙しかった記憶がある。 |
省力グループの廃止が決まる頃、川鉄/千葉のコークス炉の上昇菅自動設備の受注 |
が決まり、私が担当者になった。トップカバーと高圧安水弁を制御する装置で33門繋 |
がった装置である。制御設計は、オムロンに依頼しPLC(Programmable Logic Contro- |
ller)の初めての経験であった。所属が省力からNDT技術に替わったが1年近くコーク |
ス炉に掛かったため、NDT技術の職場に戻ってもほとんど仕事をせず、直ぐに産業フ |
ィールド技術部への異動を言い渡された。 |
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<流量計> |
先ずは、静電容量レベル計を勉強し、河野さんの運転手で現場を回った。その時期 |
はトランジスタがTTLのICに替わる時代で、ブール代数の講習会等にも参加させられ、 |
更に夜間の職業訓練の講習会に通って電子回路基板を理解した。そうこうしているう |
ちに、装備工事を担当している金内さんから、強い誘いがあり、工事グループ担当に |
なった。最初に担当したのが小右衛門浄水場の配管交換工事で、およそ我社には相応 |
しくない仕事であった。富士電機が不祥事を起こして指名停止なったため、代わりに |
受注せざるを得なかった物件であり、殆どが土木工事で、サービス室の天井を撤去し、 |
直径2mの配管に穴を開けて溜水を排水後、新しい伸縮菅に交換し、超音波流量計を |
設置する工事であった。役所御担当者も、素人の現場代理人であると良く理解されて |
いて、会計検査で問題に成りそうな書類は全てご自分で作られていた。交換工事当日 |
は、朝から手動の高速カッターで切り込みを入れていると水が溢れでて、用意した電 |
源車に繋いだポンプを降ろしてサービス室からの満水を防いだ。最後は菅に四角い穴 |
を開けその中にポンプを入れて掻き出した。新旧の鋼管の交換作業も大変で土建屋か |
ら10名近く応援を集めてクレーン車2台の連携作業であった。 |
その後、神奈川県企業庁の流量計設置工事を経て、電気設備技術基準の理解、キュー |
ピクルの設置、流量計室からのケーブル埋設の土木工事、通線作業等を経験した。 |
産業の流量計、レベル計は、年度末の納品が主で、通常2月・3月は休日を取得し |
たことが殆どなかった。出勤するのは日曜だけで、報告と次の週のスケジュールを段 |
取り・調整し、各々の現場に張り付いた。下期偏重の傾向は、最後まで続いたと思う。 |
ひどい時には、出入りの土建屋からトラックを借りて、矢板からキューピクルを現場 |
に運んだ事がある。営業からは、竣工検査に製品がなかったら大変なことになると泣 |
きつかれ、製造側に出荷を間に合わせる様に強く云っても、残業規制があるから無理 |
だとのこと。年末の交通渋滞の中、徹夜で運び、据え付け終わった時には、朝を迎え |
ていた記憶がある。今思い出してみれば、無茶なことをしたと思うが、無保険のトラ |
ックに数百万の製品をよく預けてくれたものである。この時期に一緒に工事をやって |
いた代行店と相談して、皆で電気工事士の免許を取得することにした。更にトランシー |
バでは、限界があるのでアマチュア無線免許を取ろうとしたが、電工とは違い、無線 |
は私しか合格せず、計画は瓦解した。 |
地方の役所廻りの出張で金内さんの夕食に付き合うと、検収を担当する技術者の必 |
要性を説かれた。役所での設計書に基づく現場代理人の責任と最終的に竣工検査をう |
まく納める。一般企業の場合には、検収迄の残工事を客先と打ち合わせて手配し工事 |
を納める人材になるように繰り返し諭された。その後、流量計関係では、UVHと云う |
下水道の流量計を販売し始めて、新たな問題に直面した。長野の業者だった思うが、 |
汚穢屋の仕事は出来ないと工事そのものを断られた。印旛沼広域下水道の仕事を受注 |
したが、ホテルを予約するほど遠距離でなく、通うのに苦労した。人手を掛けられず、 |
マンホール内で作業していたサービスマンが成田闘争の名残りか警察に誰何されたこ |
ともある。 |
サービスで流量計のセンサの交換工事では、夜間、流れが少ない時に、土嚢を積ん |
で水をせき止め、取付板を外して交換しなければならず、土嚢の上げ下げで全員バテ |
バテになったのを思い出す。年度末の2月・3月をほとんど休まなかった分、新年度 |
には、仕事が無くなり、代休消化と定期点検が主な仕事になった。 |
三島市水道局の箱根の別荘地の点検等、風光明媚な所も多く、契約人員は守るため |
余裕の作業になった。 |
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<接岸速度計> |
接岸速度計(docking-sonar)は、大型の船舶が着岸する時に距離と速度を表示す |
る測定器である。船首(bow)と船尾(stern)に、海中3mの深さに送受波器を設置し、 |
超音波にて船の船体から反射波を測定する装置である。桟橋には防舷材が設置されて |
おり、垂直方向の力には十分性能を発揮出来るが、斜めに擦るように当たると簡単に |
毟れてしまうそうで、破損した際の賠償責任で港湾水先案内人と揉めることが多い。 |
この防舷材が200万円以上するそうで、桟橋用表示器を付けた接岸速度計を約200万円 |
で販売していたので一時は寡占状態で、日本全国だけではなく海外にも販売した。 |
私の初めての海外出張がインドネジア、スマトラ島の接岸速度計の装備工事であっ |
た。前年に1回装備したところで、その時には、工事屋、調整員、通訳の営業と3人 |
で行ったそうである。今回は、私一人であった。シンガポール経由でスマトラの空港 |
に到着したが迎えが来なかった。空港近くの基地で一泊したが、電話での問い合わせ |
が相次ぎ、最後に関係者が面会に来てくれてインビテーションカードを確認して移送 |
先が決定したようだった。到着日は、独立記念日だったそうで、不手際は致し方無か |
ったとあきらめた。因みにどこから独立したのか聞くと日本からだとの事。翌朝、迎 |
えが来て5時間近くのドライブの末、港近くの基地に到着した。CALTEXのベースキャ |
ンプでプール、ゴルフ場、レストランを備えており、そこのゲストハウスを宛がわれ |
た。最初のうちは一人で贅沢に使っていた。後半以降はダイバーが同居したがそれ程、 |
不自由はしなかった。朝6時にレストランに行くために道を歩いていると、道端でお |
祈りをしている人に出くわし、飛び上がる事もあった。朝夕歩いていると黒く毛の長 |
い猿が木の上から叫んでいる。タバコを買うためキャンプ外に連れて行ってもらった |
時、道路脇にコモドドラゴンがいるのを見つけ、少し観察していた。道路を猛スピー |
ドの車が通過した後、前を睥睨していたコモドドラゴンが1、2秒後慌てて後ろ側に |
逃げだした。こんな反射神経では、絶滅危惧種から逃れる術はないと思った。仕事自 |
体は、担当のエンジニアに指示して順調に完了して実船による検収テストを行い無事 |
完了した。約3週間の出張であった。 |
接岸速度計は、石油基地のタンカー用が多く、当然、桟橋用表示器は、防爆構造が |
求められ、半田鏝は使用禁止で、圧着工具を使った結線であった。電光表示盤等が付 |
属している場合には、内圧防爆構造の必要があり、更に港での潜水作業には、港長の |
許可が必要であった。機器の設置から通線まで、潜水作業を含む工事で、人数を揃え |
て臨んでいたが、これ以降、海外の接岸計は単独での出張が当たり前になった。その |
他、接岸速度計の装備工事は、マレーシア、香港ラマ島、韓国、タイ、トルコで行っ |
た。タイでは、スーパーバイザーの費用が 高いため工期短縮を狙って、夜中まで、 |
働かされた。ダイバーの夜間作業などは、日本では認められていない。夜食が出て、 |
ビニール袋に入ったチャーハンとスープを始めて飲食した。 |
トルコでは、高沢さんの応援を得て更に、教育と検収テストのためにイギリス人の |
ヒーリーさんを出してもらい順調に完了した。同じゲストハウスの中にヨーロッパか |
らの作業員が来ており、真面目すぎるのをからかわれたりしていたが、その中にNECが |
3人来ていて、シリアからの通信施設の装備だそうで、危険な目に沢山合ったそうで |
ある。作業を統括する担当者は、最低5か国語は話すそうでEUの底力を感じた。雇っ |
てもらったダイバーがギリシャ人で、碧眼金髪のギリシャ神話に出てきそうな美男・ |
偉丈夫であったが、態度がなんとなく卑屈で、私の皮手袋を欲しがったので持参の赤 |
手帳と一緒にプレゼントした。国の勢いが態度にも表れるのを感じた。2人での出張 |
になったので、ギリシャとアムステルダムで休暇を取ったら、ヒーリーさんから報告 |
がされ、本社では大騒ぎで大目玉を食らった。24日間の出張であった。 |
トルコは、7が月後にもう1度あり、その時は、最初からヒーリーさんが同行して |
くれた。ただし、一般のレストランに入ると英語が通じず、ドイツ語が日常的であっ |
た。現場は、イスタンブールから飛行機で数時間かかる所で、西欧人のペースで優雅 |
に完了した。最終日、イスタンブールで外国人向けのナイトクラブに連れていって貰 |
い、ベリーダンスを見学した。 |
接岸速度計は、新規開発が完了しDS-1000になった。送受波器の取付位置確認のた |
め、2m前方にパイプを降ろして受信波を確認したところ生で0.3Vもあった。今まで |
は、10mV位しかなくS/Nが取れない時には、編組線を持ってアースを取り直したり、 |
非常に苦労した。NSC/釜石では200mを測定出来ているかを検証すると言われ、検収 |
を上げてもらえなかった。その時は、レーザー距離計が上手く使えずに結論が出ずに、 |
測定出来ていると押し通した。開発者を捉まえ、如何にして感度を上げたのかと問い |
ただすとCRでマッチングを取っただけで常識だそうである。DS-1000では、距離表示 |
が256mを良表示する。表示桁の制限を取り払ったら300mでも測れそうである。その |
後、日本光電が軍事用レーザーを応用した地上型の接岸速度計を開発し、瞬く間に市 |
場から駆逐された。 |
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<自動探傷装置> |
自動探傷装置は、NSC/名古屋のNo.1USTで初経験した。電縫管製造装置で板を丸め |
て我々の装置の前で溶接し、ビードをバイトで削りその部分を探傷するものであった。 |
新設の工場で、事前に安全施行計画書なるものを提出して施工管理者に説明をしなけ |
ればならなかった。そのため、名古屋営業所のパソコンを3日間ぐらい借用し完成さ |
せた。全体ラインの制御は、三菱電機のPLCが担っており、10人近くの作業員を連れて |
きていた。更に毎日朝礼と行程会議があり、翌日の作業予定と前後の行程との干渉を |
検討する必要があった。この様な工事の場合は、労災保険を企業体が担うそうで作業 |
員の教育・把握に努める事を叩きこまれた。 |
韓国の浦項にあるPOSCOに角ビレットの自動探傷装置の装備工事で出張した。作業 |
中途で労使交渉のため、一時帰国を余儀なくされたが順調に完了し、教育も完了した |
が検収を挙げてくれない。日本人を区別しているのが垣間見える。米国人は、話し方 |
も喧嘩腰であからさまに韓国人を信用してない態度で事を押し通していた。ドイツ人 |
は何時の間にか帰国していた。メンテ要員を確保しているつもりで検収試験を実施せ |
ず、営業と代行店を伴い強硬に申し入れを行ったが回答・帰国許可は下りなかった。 |
結局、水野事業部長の決断で下川さんが検収・引渡しを無視して私を連れ帰ってくれ |
た。結局前後合わせて44日間の出張になった。 |
角ビレットの自動探傷装置は、もう一回あり、全体のラインを住友重機械工業が請 |
け負い、そこからの受注であった。輸送中に部品が紛失して、再製作して輸送して貰 |
う等のトラブルはあったが順調に終了し、住友重工の担当者を間に入れて装備報告を |
して約3週間で無事完了した。 |
同じ韓国で江原産業という工場に鋼管の探傷装置を装備した。全ての作業が完了し、 |
取扱い説明を含めた教育の最中、聴講していた2人が突然殴り合いの喧嘩を始めた。 |
当然、教育は中断し、何が原因か問いただした所、操業部署と品証部署の人間で聞く |
のを邪魔したのが原因であった。部長同志の仲が悪く、品質管理面で操業に口を挟ま |
れたくないのが本音のようだ。ただ、部長の意向を忖度して体を張る人間性が理解で |
きない。 |
薄板自動探傷装置は、タイヤ探触子の特許が効いているのか、我社の製品がよく納 |
入されている。薄板の上にタイヤを接触させ、薄板の表面波からの反射を検知するも |
のである。神鋼/加古川と日新/堺が同時期に受注したので両方を私が担当することに |
なったが、日新/堺の出図がされず、PLC(シーケンサー)は私が設計した。大阪のサー |
ビスの協力を得て、残処理事項を整理して、何とか検収まで漕ぎつけた。1物件1億 |
の売り上げで合計2億を売り上げた。1か月以上家に帰って無かったので久しぶりに |
出社すると、川鉄/知多の回転式探傷器の装備を担当しろと言われ、流石に即断しなか |
った。私と交互に装備工事を担当していた、先輩のサービスマンが退職したとの事で、 |
課長自ら担当する気は全くなく、他に人材がいないため仕方なく了解した。現場は、 |
前後にシートを掛けた廃墟のような所で、我々の機械が搬入されると動き始めた。 |
あとから、理解できたことは、東京計器の製品が納品されないため、建設計画を中断 |
していたそうである。工場での試運転も満足に終わっていなかったので、他企業の調 |
整作業が終了した深夜に、搬送システムのハンドルを任せてもらい、残っているキャ |
リブレーション(較正)を完成させることにした。その作業中、名古屋の代行店の作 |
業員に責任を押し付ける形になり、可哀そうなことをしたと反省している。制御はど |
うにか動くようになったが、探傷器の受信波にノイズが乗って使い物にならない。 |
現状報告と対策会議のため本社に戻った。状況を聞いた、佐藤 泉(故人)が簡単に |
解決できるというので同行し、見せた所、感度は少し落ちたがノイズは全くなくなっ |
た。CRでローパスフィルタを作っただけで常識だそうである。その他、問題あったが |
程なく完了した。 |
あと探傷装置では、F15の国産化の為、探傷装置も米国製の物を使う必要があった |
ようでその装備を担当したことがある。三菱/名航・川重/岐阜・富士重/宇都宮等の |
工場を廻り、四角いガントリー上で走行台車を往復させる装置や大きな水槽を据え付 |
ける工事を実施した。今でも覚えているのは、翼のハニカムの接着具合を確認する探 |
傷装置で米国から、エンジニア1名が出張して来ていて、本国の数名の部下に仕事を |
割り振りメール送信にて統合して機械を動かしていた。OSはまだMS-DOSの時代で、機 |
械制御から、探傷結果の画像処理までを完成させているのが信じられなかった。海外 |
出張を一人で納め、検収を上げて、満足していた私には、米国人とのスキルの差を見 |
せつけられた。ただ本人はモルモン教だそうで、飲食に苦労をしていた。あと、航空 |
機産業を担う各工場で仕事をしていると、那須工場と同じ雰囲気を感じた。 |
特別な出張で思い出に残っているのがB超(診断装置)の中国出張である。担当営業 |
が派遣するサービスマンがいないとの話を聞きつけ立候補したらすんなり決まってし |
まった。なぜ希望したかと |
佛国寺 |
故 宮 |
云うと、共産党中国を実際 |
に観たかったのと、史記や |
宮城谷 昌光の小説を読ん |
で日本と違うと感じたから |
である。人民解放軍に売り |
まくった超音波診断装置の |
修理で、天津工科大学の日 |
本語の先生と商社の担当者との3人で天津・北京・太原・蘭州・西安・武漢・長沙・ |
広州と廻った。1986年当時、通貨は、外国兌換券しか使えず、国民の旅行も制限され |
ていた。そのため、飛行機・列車の席を確保するには、私のパスポートが必要で、出 |
張先に到着すると商社マンが次の行程のキップを手配するために走る。列車には軟座 |
と硬座があり、硬座だと昔の引き揚げ列車の立ちっぱなしである。軟座切符では、ど |
んなに行列が出来ていても先頭から控室に入る。実際、今でも忘れられないのは、蘭 |
州でトイレに入ったらブロックが並んでいるだけで仕切りが全くなかった。中に入り |
しゃがむと、中の全員が私を見ていたので、順番に見返していくと二度と見なくなっ |
た。また、我々3人を招待して、もてなしてくれたことがあった。私が酒を飲めない |
のは、事前に伝えていたにも関わらず、中年のおばさんが薦める飲み物を飲むと顔が |
真っ赤になってしまいケタケタ喜ばれた。後日、話を聞くと彼女が病院の院長だそう |
で茶目っ気たっぷりなおばさんが院長とは、女性登用は、明らかに中国の方が進んで |
いる。 |
規模の大きさで圧倒されたのが、西安の兵馬俑である。広い館内に展示された俑の |
兵士たちはどれも同じ顔をしておらず、一人一人を見ていると地位や人格まで想像出 |
来る。全体の1/3位しか掘り出されておらず、大半が砂に埋まっている。日本のお寺の |
五百羅漢を思い出すが、兵士は全て実物大で、見るからに漢民族と判る180cmの者から |
南方系部族出の155cmまで揃っており、知人の誰かにそっくり似ている。全体的に蘭州 |
と太原以外は、近代化が急速に進んでおり、ホテルは高級で、日本人故の待遇であった。 |
ただ広州のホテルでは、北京語が通じず、料理の注文は、私の英語で行った。一巡した |
感想は、政治の中心の北京よりも南の武漢、広州に勢いを感じた。 |
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T.訪問した二つの古墳 |
・「富雄丸山古墳」を訪ねて |
12月2日、京都駅から地下鉄烏丸線を利用し、途中で近鉄奈良線に乗り換えて学園 |
前駅で降りました。近くには帝塚山学園大学があり、その後、バス停で奈良県立医療 |
センタ―行きに乗って、「若草中央」バス停で下車しました。そこは市街からかなり |
外れた住宅街の奥にある小高い山の中にあって、その入口に富雄丸山古墳の案内板が |
立っていました。 やっと「辿り着いたぞ」との思いとどこにあるのかという不安が |
沸いてきました。とにかく案内板に表示されている方向を目指して突き進みますが、 |
公園内とはいえ、発掘された古墳らしきものは、何一つなくただ小高い丘が残ってい |
ました。しかも、周囲は囲まれていて立ち入り禁止の案内が目に入ってきました。想 |
像していた富雄丸山古墳はどこにもなく、発掘して出土した国宝級の銅鏡や鉄剣等は、 |
別の所で管理されていました。失望しながらも帰途に着き、帰りは同じバス停から富 |
雄駅行きのバスに乗って周りを見渡すと、小高い山が複数あり、もしかしたらあの山 |
にも知らない古墳があるのではないかと思いながら乗っていました。富雄駅周辺は街 |
の中心で、車の往来も多く賑やかな感じがしました。特に富雄ラーメンが有名とかで |
食べたかったのですが、昼食を終えて間もないのと次の仁徳天皇陵訪問を急がねばと |
いう思いで諦めることにしました。あれほど、期待して訪れた富雄丸山古墳を確認で |
きず残念・無念!! |
立ち入り禁止 |
案内板 |
富雄駅と富雄 |
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<銅鏡は初の「盾形」、鉄剣は国内最長> |
盾形銅鏡 |
盾形銅鏡は長さ64cm、最大幅31p、最大の厚さ0.5cm、 |
表面は研磨され、裏には全体に神像や霊獣をあしらった |
円形の文様が施されています。これまで出土した銅鏡は |
大半が円形で盾形は初めて。鉄剣は幅6cmの剣身が蛇の |
ように曲がりくねる「蛇行剣」で、長さ2.37mは国内で最 |
大です。製造時期はこれまでの全国古墳などから出土し |
た約80本の蛇行剣の中で最古とみられています。 |
<4世紀の奈良に合った高度な加工技術> |
2.37mの蛇行剣 |
銅鏡の表は美しく磨かれ、裏の精緻な文様にも高度な |
技術が使われています。鏡と盾をあわせて僻邪の効果を |
高めようという発想も独創的で面白いです。2mを超える |
蛇行剣を1本の刀として鋳型から作り上げるのは、現代 |
でも難しいと言われています。銅鏡も蛇行剣も国産の可 |
能性は高く、4世紀の大和(奈良県)には、既に高度な |
金属加工技術とデザイン力を融合させてお宝を作る職人 |
集団がいたというのは驚きであります。 |
<誰が埋葬されているの> |
これほどすごい副葬品が出土した富雄丸山古墳には、誰が埋蔵されているのか。多 |
くの研究者は、ヤマト王権直属の有力な豪族と推測しています。副葬品から見て被葬 |
者は相当な富と力を持っていたと思われています。 |
<ヤマト王権直属の有力豪族?> |
円墳からこれだけすごい埋葬品が出るのなら、円墳よりランク上の全国各地の前方 |
後円墳からは、更にすごい副葬品が出てもおかしくないのにそういう話は聞かないと |
のことです。「今回出土した副葬品は相当な権力者でなければ持てないはずだから、 |
古墳の被葬者はヤマト王権直属の有力豪族に違いない。」と推測されています。なお、 |
異説もあるようです。 |
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V.AI(人口知能)が新規古墳を34か所も発見 !! |
AIによる解析結果を基に実施した兵庫県たつの市の現地調査で見つかった円墳の |
「中垣内平見古墳」は、古墳の形状を学ばせたAI(人口知能)に自治体が公開してい |
る立体地形上を「探索」させ、未発見の古墳を突き止める手法が開発され実用化され |
ています。(奈良文化財研究所のグループ) |
特に、開発の機会が少ない山間部は調査の難しさもあり未発見の遺跡が数多くある |
とみられています。研究は兵庫県内で実施され、県内で把握されている約7000カ所の |
古墳の形状をAIに学ばせた。その上で、同県が公開している詳細な三次元の地形デー |
タをAIが解析。学習したものに類似した形状の地点を抽出させ、その場所が古墳かど |
うかの確率も数値で示させた。AIは新たな候補地として、1342カ所を挙げています。 |
この結果を受けて、特に古墳の可能性が高い地点が多かった同県たつの市と豊岡市で |
2023年に現地調査を実施しました。内部に石室があり古墳と確定できたものや、隆起 |
の形から古墳と考えられる遺構などを新たに計34か所で確認できたとのことです。 |
また、今まで円墳とみられていたたつの市の古墳が、首長級の墓とされる前方後円墳 |
だったこともAIの指摘で分かりました。グループは他の地域でもAIを使った古墳など |
の探査を進めていきたいとのこと。そして「より効率的な遺跡を見つけることができ |
るようになり、身近に多くの遺跡が眠っている可能性がAIで示されれば、保存への関 |
心も高まるのではないか」と話しています。 |
(奈良文化財研究所、高田祐一・主任研究員グループ) |
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終わりに |
今回は二つの古墳を訪ねましたが、当方の準備不足とスケジュール管理の拙さもあ |
って、肝心の資料館等を見学できず悔いの残る結果となりました。古墳なるものが全 |
国で約16万個発見されているのですが、宮内庁管轄で首長級の古墳の発掘調査が進ん |
でいないものが沢山あるらしく、今後、AIによる解析調査でどれだけの新発見がでる |
のか興味津々です。特に、歴史上の空白の4世紀(注1)と言われている時代が、今 |
後のAIによる古墳の調査分析により種々の事実が解明されるかもしれないのです。今 |
後の考古学研究者・団体等と宮内庁が連携を密にして歴史の事実を明かして欲しいと |
切に願う次第であります。今回の訪問に懲りることなく、今後も古墳探訪にトライし |
てみようと思います。 |
(注1)歴史上の空白の4世紀について(謎の4世紀とも言われています。) |
空白の4世紀とは、3世紀後半から5世紀初頭までの期間を指します。この |
時代、日本には文字が定着しておらず、当時の様子は中国の史書(魏志倭人 |
伝)から推測するしかないのですが、4世紀は中国も西晋が滅亡し南北町朝 |
騒乱の時代で日本についての記録がないのです。また、国内でも文字的な資 |
料も考古学上の発見も乏しい状況にあります。古事記(712年)や日本書紀 |
(720年)にもこの時代のことは記載されていないのです。 |
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干支を復習 |
干支(えと)というと今の日本では一般的に、子丑寅卯辰巳午羊申酉戌亥の十二支 |
を指すことが多いですが、本来は十干と十二支を組み合わせたものです。 |
まず十干は、日の順番を甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、 |
十 干 |
辛、壬、癸と10日ごとに一括りにして一旬(いちじゅん) |
とし、上旬、中旬、下旬で一か月と捉えたものです。 |
(読みは順に こう、いつ、へい、てい、ぼ、き、こう、 |
しん、じん、き) |
そして古代中国の五行説が関わって、五行では甲乙は |
「木」、丙丁は「火」、戊己は「土」、庚辛は「金」、 |
壬癸は「水」とされ、さらに陰陽説により甲、丙、戊、 |
庚、壬を陽とし、乙、丁、己、辛、癸は陰としました。日本では陽を兄(え)、陰を |
弟(と)に見立てて、甲は「きのえ」乙は「きのと」丙は「ひのえ」丁は「ひのと」 |
以下「つちのえ」、「つちのと」、「かのえ」、「かのと」、「みずのえ」、「みず |
のと」と呼ばれます。 |
十二支 |
次に十二支は古代中国で尊い星とされた木星の公転周 |
期が12年(正確には11.86155年)ということに由来して |
いるそうです。 |
いろんな時間を12分割した時に、その一つ一つを子、 |
丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥と呼びま |
した。例えば1日の時間を12分割して、午前0時を挟む |
2時間は「子」の刻、その12時間後は「午」でピッタリ |
12時は正午というわけです。 |
1年を12分割すると月になるわけですが、各月も十二支で呼ばれます。なぜかは知 |
らないのですが、子からではなく1月の寅から始まり12月が丑の月だそうです。 |
年の呼び方になると、十干と十二支が組合されます。例えば今年は「甲辰」です。 |
まず十干の最初である甲と十二支の最初である子が組合されて「甲子」(きのえね) |
から始まります。次の年は十干を一つ進めて乙に、十二支も一つ進めて丑にするとい |
う組み合わせで「乙丑」(きのとうし)、同様に「丙寅」(ひのえとら)「丁卯」 |
(ひのとう)、さらに「戊辰」「己巳」「庚午」「辛未」「壬申」「癸酉」と続きま |
す。ここで十干は一巡しましたから、甲に戻ります。十二支は続いて戌ですから「甲 |
戌」、その次は「乙亥」で十二支も一巡しました。そのまま続きますから次は「丙子」 |
「丁丑」「戊寅」「己卯」「庚辰」・・・「庚申」「辛酉」「壬戌」そして60年目の |
「癸亥」で十干と十二支の組み合わせが一巡します。還暦です。 |
昨年の流行語大賞・岡田監督の「アレ」の舞台となった甲子園球場は100年前の1924 |
年(大正13年)「甲子」の年に完成したことで、甲子園と名づけられたそうです。 |
また壬申の乱とか戊辰戦争など歴史上の出来事の名前にも干支を使っていることは |
少なくありません。 |
生まれ年によって運勢や性格などを占うこともあり、有名なものとして丙午(ひの |
えうま)生まれの女性は「気性が激しく夫を弱める」というのがあります。私の親友 |
が昭和44年に第一子(女の子)を授かりましたが、丙午の年ということで出生率は前 |
年比25%減だったそうです。しかし60年近くの間、幸せに暮らしていますから迷信で |
すね。 |