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| 2-2 ディープラーニングの原点も「大阪」にあり |
| **福島邦彦博士とネオコグニトロン** |
| ヒントン博士たちの名が一般にも広まった一つの端緒は「深層学習 Deep learning」 |
| の成功(2006)です。これ以降、ヒントン研究室及びその関係者がビジネスを含むAI |
| 界を牽引したのは、2012年のグーグル・キャット(グーグルが発表した論文で、「キ |
| ャットペーパー」と呼ばれる。内容は、機械学習により、コンピュータ−が猫を認識 |
| する能力を身につけられる)以降です。この「深層学習」という発想もまた、日本人 |
| 研究者が、ヒントン博士たちの試みの30年近く前に、日本の大阪で発想、実装し、実 |
| 現していたものにほかならない。開発したのは福島邦彦博士です。 |
| 当時、NHK大阪技研に勤務していた福島博士は、デイヴィッド・ヒューベルとトール |
| ステン・ヴィーゼル両博士による、視覚認識の階層型ニューラルメカニズム(1981年 |
| ノーベル医学生理学賞)を参考に、全く独自に多層・畳み込み型ニューラルネットワー |
| ク「ネオコグニトロン」をまず理論的に確立(1978)、次いで、実装(1979)した。 |
| いずれにしても1970年代、世界的な「第1次」と「第2次」のAIブームの谷間にあ |
| って、日本人研究者が営々と基礎研究を継続する過程で創り出した、世界史に残る素 |
| 晴らしい理論である。明らかに世界で最初の「ディープラーニング」システムは、ヒ |
| ューベル+ヴィーゼル両氏の業績を基に、日本・大阪で、福島博士が独自に考案され |
| たオリジナルです。ヒントン博士が実際に応用できる形にした。今回それが評価され |
| ノーベル賞に結びついたと言えます。福島邦彦博士のことを忘れては困ります。 |
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| 3.「AI研究」にノーベル物理学賞と化学賞 |
| **その理論と技術を解説** |
| 3-1 2024ノーベル物理学賞の解説 |
| **AIへの衝撃** |
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| ノーベル物理学賞は、米プリンストン大学のジョン・ホップフィールド教授とカナ |
| ダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン教授が受賞した。この受賞に関しノーベル |
| 財団のホームページには「This year's laureates used tools from physics to co- |
| nstruct methods that helped lay the foundation for today's powerful machine |
| learning.(今年の受賞者は、物理学のツールを使用して、今日の強力な機械学習の |
| 基礎を築くのに役立つ方法を構築した)」と、物理学と、AIの領域の一つである「機 |
| 械学習」に言及し、その功績をたたえている。 |
| ホップフィールド教授の受賞理由となった研究は、1982年に公開された論文「Neur- |
| al networks and physical systems with emergent collective computational abil- |
| ities.(集合的な計算能力を備えたニューラルネットワークと物理システム)」にま |
| でさかのぼる。この論文で、画像などのパターンの記憶と再現が可能な「ホップフィー |
| ルド・ネットワーク」と呼ばれる人工ニューラルネットワークを考案した。ホップフ |
| ィールド・ネットワークは、データの一部しかなかったり、またはノイズが入ったり |
| したような状態から、元の完全な状態を復元する。関連する情報の断片から思い出す |
| 「連想記憶」のような仕組みが、単純なネットワークで実現できる点が画期的であっ |
| た。 |
| ホップフィールド教授は、元々物理学の研究者であった。そのため、人工ニューラ |
| ルネットワークが記憶を定着させた状態とは、物質の安定状態に相当するエネルギー |
| の低い状態ではないかと考え、物理学で既に確立されていた理論を応用した。このよ |
| うに、ホップフィールド教授の貢献は、物理学の理論を他分野に橋渡しし、情報学や |
| 人工知能に新たな道を切り開いた点にある。 |
| ヒントン教授の受賞理由となったのは、ボルツマン分布を用いるなどし、ホップフ |
| ィールド・ネットワークを拡張した「ボルツマンマシン」である。ボルツマン分布と |
| は、19世紀のオーストリアの物理学者であったルートヴィッヒ・ボルツマンが考案し |
| た気体中の分子の動きに関する確率分布(発生確率のパターン)である。 ヒントン |
| 教授は、ホップフィールド・ネットワークにボルツマン分布を活用し、確率的な要素 |
| を取り入れ、さらに現代のディープニューラルネットワークにも通じる「隠れ層」に |
| 似た多層構造を導入し、モデルの表現力を大幅に向上させた。その後も改良は粘り強 |
| く30年以上続けた。2012年の画像認識コンテスト「ILSVRC(the ImageNet Large Sca- |
| le Visual Recognition Challenge)」で、圧倒的な性能をたたき出すことになるデ |
| ィープラーニングモデル「Alexey」へと進化した。ヒントン教授の粘り強さに福島 |
| 邦彦博士も敬意を持って、称賛している。 |
| ホップフィールド教授とヒントン教授は、今日の機械学習に多大な貢献を果たした |
| 人物であり、物理学の理論を独創的なアイデアで応用した先駆者でもあった。 |
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| 4.AIの貢献 |
| 4-1 数年かかっていた計算が数十分に |
| ではなぜ、コンピューターシミュレーションが、それほど大きな偉業といわれるの |
| か。 |
| 自然界で確認されているほとんどのたんぱく質は、20種類の標準アミノ酸の順番を |
| 変えてつなぎ合わせた分子からなる。ただし、アミノ酸が連なってできたタンパク質 |
| は、複雑に折り畳まれるなどした立体構造を取っている。このため、構成するアミノ |
| 酸の情報だけではたんぱく質を再現できず、また、機能の解明にも立体構造が不可欠 |
| である。しかしながら、X線を用いた構造解析には、たんぱく質の結晶化という難題 |
| が前提条件となるなど、実験的手法には制約が多く容易でなかった。そこで期待され |
| てきたのが、コンピューターによるシミュレーションであった。 |
| 最適化のアルゴリズムを用いる従来型のシミュレーションでは、膨大な演算が必要 |
| であり結果が出るまでに、数カ月から数年もの時間を要するものも多く、たんぱく質 |
| の構造解析は次のブレークスルーを待っていた。そこに登場したのが、Alpha Foldで |
| あった。Alpha Foldは、同じコンピューターの使用だが、わずか数十分程度で、良好 |
| な結果が得られ、従来の手法で解けなかった構造の解析に成功するなど、AIを予測に |
| 用いた効果は絶大であった。Alpha Foldシリーズのプログラムはインターネットで公 |
| 開されており、AlphaFold2は、すでに全世界で200万人以上が使用している。Alpha |
| Fold1の誕生からまだ10年もたたない中でのノーベル賞受賞は、AIを含む情報技術の |
| 伝播(でんぱ)がいかに速く、社会的影響が大きい、等を示した好例と言える。 |
| 今後もソフトウエアで完結し、高度な実験器具の操作を伴わない作業には、ますま |
| すAIが活用されるであろう。 |
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| 4-2 Alpha Go(アルファ碁) |
| デミス・ハサビス氏の名が、世界に知れ渡ったのはノーベル賞の受賞前の2016年。 |
| ディープマインド社(当時の社名、現在グーグルの1部門)が開発した囲碁AI「Alpha |
| Go(アルファ碁)」が世界最強のプレーヤーの一人韓国のイセドル九段との5番勝負 |
| を開催。アルファ碁が4勝1敗で勝利した。 |
| 人間の頭脳を駆使するゲームの中でも特に複雑かつ膨大な分岐を持つ囲碁における |
| 「人間超え」は、AI開発者の大きなマイルストーンだった。その難度の高さから「10 |
| 年はかかるだろう」というのが当時の専門家のコンセンサスだった。ところが、アル |
| ファ碁は、その10年を一気に飛び越えた。多くのタイトル獲得経験を持つ囲碁の高尾 |
| 紳路九段は当時、「我々の常識ではアルファ碁は形勢を損なう手を打っている。それ |
| なのに、局面が進むにつれて実はアルファ碁が優勢であることが明らかになっていっ |
| た」と衝撃を受けていた。 |
| AIが人間を超える「シンギュラリティー(技術的特異点)」を多くの人が目撃した |
| のだ。大一番の後、ハサビス氏は「アルファ碁のメソッドは他の分野にも応用できる」 |
| と述べ、応用分野として医療や気象解析といった社会的課題の解決などを上げた。そ |
| の言葉の通り2018年、ディープマインドはたんぱく質の立体構造を高精度で予測する |
| AI「Alpha Fold(アルファフォールド)」を発表した。無償公開や改良を経て、同分 |
| 野の研究において欠かせない存在となった。多くの研究に貢献し、今回のノーベル賞 |
| の受賞につながった。 |
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| 3.AI、RPA導入後の仕事について |
| AI、RPAの導入後、事務の仕事が変わると思われます。その場合でも事務の仕事の |
| 目的・内容をしっかり理解することで、新たな仕事・局面に繋がっていきます。一般 |
| 的にAIやRPAシステムは、機械であり、行っている目的を理解していません。目の前の |
| ことをうまく行うように期待されており、特に「損して得取れ」のような局面は生成 |
| AIでも的確な判断は困難と思われます。 |
| RPA・AIの導入後にノーコード開発という手法が注目されています。プログラミング |
| の知識がない人でも開発ができるツールが今、提案されています。事務系・技術系を |
| 問わず現在の担当者、すなわち現場を知る当事者が開発に直接参加して業務アプリケー |
| ションの内製開発を行える現場主導型のローコードツール又はノーコードツールが開 |
| 発されています。ローコード・ノーコード開発ツールは、今はまだ規模が小さいが、 |
| 将来応用範囲が広く規模も大きいツールがつくられると思われます。 |
| 開発目的は、例えば具体的には下記の内容があります。 |
| (1) RPA・AIのメンテナンス |
| ・通常のRPA立ち上げ設定手続き |
| ・故障対応 |
| ・電源の管理 |
| ・正常動作の確認 |
| ・バージョンアップ、 |
| (2) RPA・AIの評価 |
| RPAまたはAI技術の新たな導入時、仕事の内容が変わるため、RPAの変更が頻繁に必 |
| 要になります。その時に新たなデータの評価と複数のRPAの組み合わせと評価が必要に |
| なります。 |
| 評価の際のポイントを下記にあげる。 |
| ・導入後、AIまたはRPAが作成したデータ(書類)等)のチェック |
| ・導入後、日々進歩するため(生産性を上げるため)RPAの改善提案が必要。 |
| ・導入時及び導入後、RPAの統合及び評価 |
| ・RPA・AIそのものの評価 |
| ・導入前後の生産性の評価 |
| ・導入したことによる他部署への通知及び他部署からの評価 |
| (3) どのような仕事 |
| 事務の仕事は必要であるため、形を変えて取込むことになる。その時、事務の目的 |
| をしっかり理解すれば、どのような形に変えれば良いか検討できます。 |
| (4) AIまたはRPAが作成したシステムを使う場合、 |
| 実際の現状とシステムの前提の確認・チェックが必要 |
| (5) ツールの種類を含めて、次々と新たなテクノロジーが出てきます。現場の担当 |
| 者がそれらを評価し、導入するテクノロジーの長所と短所を見据え、自社の製品やサー |
| ビスの競争力に着実に結びつける。それらも担当者の新たな仕事になり得ます。その |
| 時に重要なことは、その目的と効果の認識です。 |
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| 3.印象に残っている競技は |
| (1)女子バレーボール |
| このころの女子バレーボールは大変強く、「東洋の魔女」と呼ばれていた。海外の |
| メディアが1961年頃にネーミングしたらしいが、今の「なでしこジャパン」などど比 |
| べると何とも猛々しい。また監督は大松博文氏で「鬼の大松」と言われた人である。 |
| 「俺についてこい」「なせばなる」などの言葉でも有名 |
女子バレーボール |
| だが、回転レシーブの導入等、今ではパワハラになって |
| しまうような考えられないほどのスパルタ方式の練習を |
| 取り入れている。 |
| 社会人チーム日紡貝塚を中心としたメンバーでの決勝 |
| はソ連との戦いとなり、強打に苦しんだものの、3-0で |
| 勝っている。私もテレビにかじりついていたように思う |
| が、この時のテレビの視聴率は66%とも言われ、いまだ |
| にスポーツ中継では破られていないそうだ。 |
| (2)柔 道 |
| このオリンピックから柔道が正式競技になり、日本は軽量級、中量級、重量級、無 |
アントン・ヘーシンク |
差別級の全4種目の制覇を目指した。(当時は×× |
| キロ級などの細かい体重別ではなかった)無差別級を除 |
| く3階級は順調に勝利したが、無差別級に立ちはだかっ |
| たのはオランダのアントン・ヘーシンク。日本は決勝で |
| 神永 昭夫が対したが、崩され、袈裟固めに抑え込まれ、 |
| 1本負け。ヘーシンクの強さを目の当たりにした。日本 |
| のお家芸が、外国人に敗れたことに対し、当時のマスコ |
| ミは騒いだが、柔道の国際化が進んだことの証でもあっ |
| た。 |
| (3)マラソン |
| 今も昔も、陸上競技の花である。国立競技場を出て西へ向かい甲州街道に出るコー |
| スで行われた。(今の東京マラソンのコースは東に向かうコース)ローマオリンピッ |
| クの覇者アベベが当時の世界最高記録で優勝した。アベベはゴールした後、倒れこむ |
| こともなく、淡々としていたのが印象深く、驚きでもあった。これぞ世界王者にふさ |
| わしい強さだと思った。日本の円谷は最後、競技場でイギリスの選手に抜かれ、惜し |
| くも3位だったが、快挙であった。 |
| ただ、円谷選手はその後、怪我に泣き、期待に押しつ |
アベベ連覇 |
| ぶされ、次のメキシコオリンピックの前に自死してしま |
| った。当時も(今も)重圧に抗い、メンタルを正常に保 |
| ち続けることは相当な精神力が必要である。特に最近、 |
| 多くは負けた人に対し、ネットで誹謗中傷を浴びせかけ |
| るのは全くもって由々しきことである。最近スポーツ選 |
| 手が「楽しんでくる」言うのは期待に対する自分のメン |
| タルを正常に保つおまじないの言葉なのだろう。 |
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| 4.閉会式 |
| 開会式と異なり、夜に行われ、静かに始まった。入場行進は、各国の旗手だけが国 |
| 旗を持って入場し、最後の日本選手の後に各国の選手団が国立競技場に入る前に国別 |
| に整列し入場を待つ予定であった。しかし、全ての競技を終えてリラックスした各国 |
| の選手団が係員の指示に従わず、その結果入り乱れたままになって、そのままで閉会 |
| 式になだれ込むような形になったようである。別の国の選手を肩車で担いだり、踊る |
| 選手がいるなど秩序が無いものとなったが、そのために却ってまさに「平和の祭典」 |
閉会式 |
を体現した和気あいあいとした雰囲気のものとなった。 |
| 今では、警備上考えられない事態であったが、感動した |
| のを覚えている。最後に電光掲示板に、[SAYONARA]の |
| 文字が映し出され、このオリンピックが成功に終わった |
| ことをつくづく実感した次第である。パリの閉会式のよ |
| うにトム・クルーズが出てくるような派手な演出は勿論 |
| ない。 |
| さてここまで、60年前のオリンピックを振り返ってき |
| たが、何故、直近のオリンピックまだしも、3年前のオリンピックよりも昔の方が鮮 |
| 明に思い出せるのだろうか。最近のことより、昔のことの方が記憶に残っていること |
| は、加齢によるものであるということは、疑いのないことだろうが、昔のことを調べ、 |
| 記憶を蘇らせ、脳を活性化することは悪いことではあるまい。 |
| | | |
| 佐野の水害 |
| 2019年10月の台風19号は東日本を縦断、佐野市も直撃、秋山川が氾濫し浸水被害が |
| 広がった。上流の山間部が豪雨、市街地でも大雨。止んだ翌日、まさかと思っていた |
| ら秋山川の菊沢川放水路と合流する付近で土手が切れ、泥水が市街へ。消防隊や自衛 |
| 隊の支援でみんな元気が出た。私も友人宅へ泥の掻き出しなどに行った。 |
| 報道によれば、さらに下流域でも、田畑が沼のようになったとか。洪水は決壊場所 |
| 付近だけではなく、そこ以外でも堤防を越えて水害は発生することを知った。下流に |
| も友人宅があったと後で知った。応援できなくて残念。大反省しています。 |
| 台風や豪雨などで発生する廃棄物の収集方法や仮置き場の選定基準、リサイクル手 |
| 順等の処理計画の立案や改善方法を、国が各自治体への支援指導を強化している。 |
氾 濫 |
廃棄物 |
護岸工事 |
| 佐野市もこれを受け、復旧までの経過報告と、多くの教訓を今後に伝えるために、 |
| 「令和元年東日本台風記録誌 最終報告」を今年の4月に改訂発行した。これにより |
| 改訂されたハザードマップなども参考に、台風シーズンの今日この頃、安全・安心を |
| 確保したい。最近の能登半島震災の復旧支援にも、この報告書の内容を身につけた佐 |
| 野市の派遣員も活躍している。このような浸水災害対策は、佐野市だけではなく栃木 |
流域治水 |
県でも流域全員での治水が推進されており、同様の水害 |
| を少しでも減らせるようにと、行政側では洪水防御施設 |
| の整備拡充等を、企業では雨水貯蔵タンクの設置や管理 |
| を、更に一時的に貯水能力のある田んぼでは排水路から |
| 河川への流出制御が目的の田んぼダムの設置が支援制度 |
| もあり進められている。私達でも出来る事では、大雨が |
| 降ったら風呂の水を流すのを止めて川の負担を軽くする |
| 等の積み重ねで被害を減らしたい。 |
| | | |
| 老人と海 |
| キューバの田舎ハバナの漁村に住む老人サンチャゴと |
ハバナにて |
| 彼を慕う少年マノーリンの心温まる支援の物語。 |
| 老人はそれまで一緒の船に乗り技術指導してきた少年 |
| に見送られ9月の早朝まだ暗い海へ、独り小舟で漕ぎ出 |
| た。84日も不漁で港に帰ったので、「運に見放された」 |
| と漁師仲間から囁かれているのを少年も聞いていた。太 |
| 陽が昇って真上に来た頃やっと強い当たりが来た。老人 |
| は綱を体に巻きつけ踏ん張った。獲物は深く潜って小舟 |
| ごと沖へと引いていく。獲物との戦いは3日にも及んだ。綱をあやつりながら獲物は |
| 巨大なカジキだと分かった。「あの子がいたらなー、助けになるんだが」睡眠不足と |
| 疲労で気を失いかけながらも独りで頑張り、浮上して来た巨大なカジキに銛を突き立 |
| て仕留めた。獲物を綱で舷側に括りつけて帰港の途中カジキの血の匂いを嗅ぎつけた |
| サメが次々と襲って来た。持てる道具全てを使って闘ったが、獲物のカジキは、ほと |
| んど食い荒らされハバナの小さな浜に着くころには骨を残すのだけになっていた。浜 |
| に着いた老人は船を岩に繋ぎ吾が小屋にたどり着き道具を纏め、粗末なベッドにへた |
| り込み眠った。翌朝目を覚ました老人は少年が淹れてくれた暖かいコーヒーを飲みな |
| がら、浜で漁師達が、老人の遠出を心配していたこと、獲物のカジキの巨大さに驚い |
| ていたことなど少年から聞いた。少年は老人の手の傷を見て独りでの漁の大変さを知 |
| った。かつては一緒に漁に出ていた少年から「今度はまた一緒に行こう」と誘われる。 |
| 老人はマノーリンを一人前の漁師に仕立てた満足と彼の優しさに触れ、喜びを噛みし |
| めながら、少年と次の漁の準備の話などが終わって、また眠りに落ち、やがて昔見た |
| ライオンの夢を見るのだった。少年は静かに付き添って座っていた。 |
| | | |
| 6月で子会社である東京計器テクノポ−トを雇用機会 |
荒井_矢板支部長 |
| 満了の70歳で退職しました。 |
| 入社以来、半世紀を東京計器関連にお世話になり、 |
| 色々と貴重な経験をさせていただき感謝をしています。 |
| 晩年は子会社である城南運輸を得て、現在の東京計器テ |
| クノポート(子会社合併にて)で約18年間お世話になり |
| ました。当時は、会社のリストラ問題で多くの方々が退 |
| 職され、辞められた方、残られた方、大変苦労したので |
| はないかと思います。私もリストラの一環で、第一候補として会社から営業を勧めら |
| れたが50歳を過ぎていたこともあり、話し合いの中で、第二候補として上がった物流 |
| 関係の業務はどうかとなり、工場に残り子会社である城南運輸に出向にてお世話にな |
| ることになりました。業務内容も梱包・輸送の他に品揃え業務も委託を受け、現在に |
| 至っています。その後、転籍、テクノと合併となり、70歳まで務めることが出来まし |
| た。私も「人生百年時代」と言われる現代、65歳までの雇用確保及び70歳までの就業 |
| 確保措置を講じることが努力義務と囁かれる中、人生の折り返し地点を過ぎ70歳まで |
| 年金を貰いながら働くことが出来たことは、ひとえにお世話になった先輩方々、同僚 |
| の方々に感謝しかありません。有難うございました。 |
| 退職してからは、これからの人生を大好きな趣味を自分の体力に合わせて、謳歌し |
| ていきたいと思います。 |
| 私はトップペ-ジで何を書こうか悩んでいましたが、今回も趣味の球技、家庭菜園 |
| について書かせて頂きます。 |
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野球では矢板還暦シニア、また70歳を迎え、新たに矢 |
| 板古希シニアに所属して、試合に参加しています。練習 |
| も3月末から、原則は毎週日曜日が練習日です。昨年ま |
| は、関節及び肩を痛め(通称60肩)余儀なく運動が出来 |
| なく、毎回、休部状態のようでした。今年は体調(肩の |
| 調子)も良く、年齢を考慮しながら、気持ちで頑張り過 |
| ぎないようセーブをしながら頑張っています。今までの |
| 経験から、この年になったら怪我をしたから休んでは、 |
| 中々復活するときに、モチベ−ションが上がらず苦労したことから、ごまかしながら |
| 続けることも大事であることをつくづく感じています。 |
| 試合については、還暦は原則土曜日、古希は原則火曜日、水曜日で日程が組まれま |
| す。今年の開幕戦は4月16日から関東選抜古希鹿沼市長大会でした。成績はベスト4 |
| で惜敗でした。2試合目は4月23日からの関東選抜古希宇都宮市長杯2回戦敗退、3 |
| 試合目は関東選抜還暦宇都宮市長杯1回戦敗退、4試合目は5月3日からの東日本選 |
| 抜古希烏山大会では、結果、今年初めての優勝を飾りました。その後、5月18日、 |
| 還暦の大会、栃木市のリーグ戦等大会が目白押しでした。 |
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三光寺 |
三光寺庭園 |
不動院 |
| 三光寺は興楽寺から車で10分程度のところにありました。話し好きの住職によれば、 |
| 平安時代に創建された古刹で、弘法大師空海が1本の霊木から3躯の歓喜天を彫刻し |
| た内の1躯をご本尊としており、日本三大聖天の一つとのことです。また、白河藩主 |
| 松平定信直筆の「聖天」の篇額が奉納されており、その扁額と、寺宝である「絹本墨 |
| 書 聖天掛軸」は那須町指定文化財に指定されているため残念ながら撮影禁止でカメ |
| ラに収めることが出来ませんでした。狭い本堂の格子天井には人物、動物、花鳥など |
| が見事に描かれていました。庭木の手入れも行き届いておりさわやかな気分を味わえ |
| ました。 |
| 昼食は、直径12mの非常の大きな水車があり、その水車の動力で石臼挽きした蕎麦 |
| を食べることが出来る「道の駅東山道伊王野」に入りましたが、平日にも拘わらず、 |
| 駐車場はほぼ満車でした。食事処で天盛蕎麦を食べましたが、口の中に蕎麦の香りが |
| 広がり天ぷらもサクサクして満足いくもので、近くにお越しの際にはおすすめ処です。 |
| 次の不動院は、国道294号と並行して走る県道27号沿いにありましたが、駐車場は車が |
| 登り切れないのではと思えるほどの急な坂道の上でした。山門を潜り愛嬌のある置物 |
| の亀と顔を合わせから本堂に向かいました。ご本尊は不動明で宝印モチーフは破魔招 |
| 福の秘剣です。本堂の脇にある八溝七福神の布袋尊にもお参りしました。 |
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| 1.新紙幣に描かれる3人の人物 |
| 新しく発行される日本銀行券には1万円札に栄ちゃんこと「渋沢栄一」、五千円札 |
| に梅ちゃんこと「津田梅子」、千円札に柴ちゃんこと「北里柴三郎」の肖像が描かれ |
| る。 |
| 日本の紙幣はこれまでにも約20年ごとにデザインが更新されており、どれも偽造防 |
| 止策が主な理由のようだ。 |
| ・渋沢 栄一(新1万円札) |
| 渋沢栄一は、「近代日本経済の父」と呼ばれる埼玉県深谷市出身の実業家で、明治 |
| 〜昭和初期にかけて活躍し、とくに有名なのは、みずほ銀行の前身となる日本初の銀 |
| 行「第一国立銀行」を創設したことである。更には日本に当時近代国家と言われたヨー |
| ロッパなどの経済制度を導入した重要な人物である。 |
| 渋沢は、過去にも肖像画候補に挙がったことがあったが、偽造防止策として“ひげ” |
| がないため肖像画が複雑にならない、とのいう理由で落選した経緯があるらしい。 |
| ・津田 梅子(新五千円札) |
| 津田梅子は、日本の女子教育に尽力し、女子英学塾(のちの津田塾大学)の創設者。 |
| NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」を昔に観ていた記憶では、幼い頃に岩倉使節団に入り |
| 女子留学生としてアメリカ渡り帰国後にのちの津田塾大学となる「女子英学塾」を創 |
| 設した人物。2004年(平成16年)に五千円札に描かれた「樋口一葉」に続く2人目の |
| 女性登用である。女性の地位向上や女性の個性を尊重した教育に努めたことからも、 |
| まさに令和の時代の紙幣に相応しい人物と言えるでしょう。 |
| ・北里 柴三郎(新千円札) |
| 北里柴三郎は、ジフテリアと破傷風の抗血清開発など、細菌学の分野でさまざまな |
| 功績を上げ、近代医学の礎を築いた「近代日本医学の父」ともよばれる人物で、現在 |
| 流通している千円札に肖像が描かれている野口英雄に続く細菌学者。 |
| | | |
| 4月は旅立ちの時です。東京計器にも沢山の新入社員 |
三浦_副会長 |
| が入社してくるでしょう。今を遡ること56年前私は東京 |
| 計器に入社しました。出社時間の駅から会社までの人の |
| 流れは若い私には遅くゆっくり感じ、前の人を避けて、 |
| さっと前に出たときに、なんと電柱からはみ出ていた針 |
| 金に背広の後ろが引っ掛かり、新調の背広にかぎ裂きを |
| 作ってしまいました。このかぎ裂きはその後の会社生活 |
| の波乱を予想するものであったのかどうか、それは今で |
| も定かではありません。 |
| 会社に入り、ロッカールームで着替えていた時に「おはよう」と声をかけてくれた |
| 先輩がいました。私も「おはようございます。三浦と申します。よろしくお願いしま |
| す。」と挨拶をしました。後で分かったことですが、私に挨拶をしてくれた方は大学 |
| の4年先輩でした。また私と同じ国立駅から通勤していることも判り、その奇遇に驚 |
| いた次第です。その先輩とはその後家族ぐるみのお付き合いになり、56年経った今で |
| もお付き合いが続いています。まさに新しい出会いでした。先日も二人で一献交えた |
| ばかりです。 |
| さて、実は私の孫が今春大学を卒業し、就職が決まり、この4月から勤務が始まり |
| ます。手前味噌で申し訳ありませんが、この孫のことを綴ってみることにさせて頂き |
| ます。 |
拓と私 |
私の親、兄弟、従弟などの親戚は皆、普通に学校を卒 |
| 業して専門を生かして企業に就職していますが、これか |
| ら紹介する私の初孫(拓)はそういった我々とは全く違 |
| う学生生活を送って社会人になりました。 |
| 3月生まれの拓は同学年の中では一番遅く生まれた方 |
| であり、幼く可愛かった記憶があります。左の写真は私 |
| が四国の会社に勤務していた時に家族で四国を訪ねてき |
| た時の私59歳、拓2歳の時のツーショットです。 |
| 拓の両親は背が高く大きかったため、拓も成長するたびに段々背が高くなり、小学 |
| 校を卒業するころには身長が170cmにまでなっていました。運動神経も良く、時々キ |
| ャッチボールなどで遊ぶと、えっと驚くようなグラブさ |
中学時代 |
| ばきをしてボールをキャッチしていたのを覚えています。 |
| 野球をすればかなりいい選手になるのではないかと身び |
| いきの思いをしていましたが、背が高いこともあり中学 |
| 校に入ってからは本人の希望もあって、バスケットボー |
| ル部に入部しました。中学時代のバスケットボール部で |
| の拓の活躍ぶりはよく覚えていませんが、部活動は一生 |
| 懸命続けていました。右の写真はそんなころの拓の写真 |
| です。 |
| いよいよ高校受験となり、都立高校に入学すべく勉強をしていたころ、私も時間を |
| 見ては数学や英語の勉強を教えていました。このころの拓は身長も188cmになり、バ |
| スケットボールを続けたい気持ちが強く、都立高校のバスケットボールの強豪校を第 |
| 一志望にしていましたが、更に上のレベルの学校でバスケットボールを続けたいとの |
| 思いが大きくなり、八王子学園に行きたいという希望を教師に伝えました。教師は |
| 「八王子学園はまさにバスケットボールの強豪校であり、全国から良い選手が集まる |
| 学校なのでレギュラーになるのは難しい」との思いを拓に伝えたそうです。そんな経 |
| 緯があって志望校を日本学園にしました。 |
| 日本学園は戦後の総理大臣吉田茂が卒業した伝統のある高校です。またバスケット |
| ボールも東京都では5本の指に入るくらいの強豪校でした。バスケットボールでの推 |
| 薦入学を受けるべく学校を訪問しましたが、バスケットボールの監督の目にかない入 |
| 学することができました。 |
インターハイ出場 |
拓は部活に打ち込み、2年生の時にはレギュラーとな |
| って頑張っていました。この年のバスケットボール部の |
| 東京都予選で上位3校に入り、インターハイ出場が決ま |
| ったのです。まさに高校野球の甲子園出場に匹敵する快 |
| 挙です。左の写真はインターハイ出場の時の拓の写真で |
| す。わが家系にこのようにスポーツで活躍する人材が出 |
| るということは思ったこともありませんでしたが、この |
| 快挙に、会場のある愛知県一宮市に応援に行った次第で |
| す。3年生の時は残念ながらインターハイ出場はなりませんでしたが、大学はバスケッ |
| トボール部が関東大学バスケットボール一部リーグに所属している神奈川大学に学校推 |
| 薦で4年前に入学しました。時あたかもコロナ禍で学校 |
神大のエース |
| への登校も難しい時期でしたが、部活は順調に続け、拓 |
| は大学でもレギュラーとして活躍しました。このころに |
| は身長も193cmになり、まさに大男です。 |
| 関東一部リーグでも上位校だけが出場できるインカレ |
| にも出場し、大学時代も部活に打ち込んでいました。 |
| 大学では選手を紹介する活動があり、拓は「寡黙な神大 |
| のエース」ということで選手紹介をされていました。右 |
| がその写真です。 |
| 娘は一生懸命拓の面倒を見て出来る限り試合の応援に行っていたようです。 |
| 「寡黙な・・・」という選手紹介を読んで「???」だったようです。いよいよ就職 |
| 験を受ける時期になり、バスケットボールを止めて普通の会社に就職するのか、実業 |
| 団またはプロリーグでバスケットボールを続けるのかと身内としていろいろ考えてい |
| ましたが、本人は監督に任せていると言っていました。ということはバスケットボー |
| ルを続けるつもりだなと理解していました。 |
「ペッカーズ」 |
バスケットボールはBリーグと称したプロリーグがあ |
| りますが、実業団チームも沢山あり、どこに行くのだろ |
| うと関心を持っていましたが、娘から「wR東日本からス |
| カウトされ、受験することになった」との話がありまし |
| た。wR東日本は71年前創部の実業団の強豪チームです。 |
| 社会人の大会で4年連続日本一になっています。 |
| 就職試験にも受かり、いよいよ「旅立ちの時」になり |
| ました。wR東日本のバスケットボール部は秋田市を本拠 |
| 地にしているため、この4月からwR東日本秋田支局勤務となります。旅立ちにあたり、 |
| 新たな環境で一所懸命頑張ろうという気概を持ち、活動してほしいと思っています。 |
| 「旅立ちの時は新しい出会いの始まり」です。諸先輩との新しい出会いを大切にし |
| てこれからの長い社会人生活を元気に過ごしてほしいと思っています。そして社会人 |
| チームでもレギュラーとして活躍することを願望しています。 |
| 拓がプレーするwR東日本のバスケットボールチームの正式名はもちろん社名の |
| 「wR東日本」ですが、「ペッカーズ」という愛称がついています。この名前は青森県 |
| から秋田県に分布している世界遺産白神山地に住むクマゲラの英語名black woodpecker |
| から取ったとのことです。 |
| これをお読みになった皆様もぜひペッカーズを応援していただきたく、よろしくお |
| 願いします。 |
| | | |
| <省力機器> |
| 昭和48年入社時の配属先は、産業事業部省力グループ |
本部幹事_太田 安穂 |
| で、設計ではなく検査担当であった。 |
| 当時は、労働争議の真っ最中で、入社教育完了後、直 |
| ぐに油圧検査課に実習に出され、先ずは油圧を勉強しろ |
| と検査の合間にハイドロリックスクールを受講した。ま |
| ともに所属に戻れたのは、5月のGW明けであった。 |
| 当時、稼働していたロボットは黒崎窯業殿と東京三洋 |
| 殿に納品されたものだけであった。新しく受注したもの |
| で、日本鋼管/福山での形鋼のラベリングマシンがあった。コンピューターからデー |
| タを受け取り、プリンタで印字して台紙から剥がして型鋼に貼り付ける装置で、鉄の |
| 爪で引き摺られてくる型鋼に次々に貼りつける、ロボットアームを装備した台車も制 |
| 御する装置で、リレーシーケンスの大きな制御盤で、リレーのON/OFFを確認するだけ |
| で大変の手間であった。 |
| この時期には、本当に良く勉強した。油圧は、教育されたが、空圧回路は、現場で |
| 実際に使用して覚え、更にシーケンンス回路を理解しないと機械が動かない。そのた |
| め、機械科卒なのに半田ゴテをもってa接をb接に替えたりせざるを得なかった。 |
| もう少しアカデミックなことには、ロボットの担当者が開発の設計計算書を残して |
| くれたので非常に勉強になった。故障等が発生して修理完了後には、原因分析を要求 |
| されたが、余り考えずに、直ぐに、伊東 公四郎さんと云う博士に相談にいった。 |
| 博士は、しょうがないなと云う感じで引き出しから古くて薄い参考書を出し、この式 |
| に結果を代入してこのように結論つけろと指導してくれた。「宜しくご賢察の上、ご |
| 査収願います。」との言い回しはこの時に覚えた。その後、ロボットの受注は全くな |
| く、アルミサッシの組付け機の調整装備が主な仕事になった。アルミサッシの組付け |
| 機は、サッシの下縁部分に戸車・フエルトリボン等を挿入する機械でYKK殿と東洋サッ |
| シ殿に納品していた。装備工事が始まると先ず、大月にある日本工機という協力工場 |
| で出荷前調整を1週間、納品して各現地工場で1週間と云うような調整員の合宿生活 |
| を送っていた。YKKには工場が多く、八代・名張・魚津など耳慣れない地方を訪れる事 |
| が出来た。工場の作業員は、若い女性が主で、食堂などで同席すると一様に行儀がよ |
| く、終業後には、華道・茶道等の手習いを受けるそうである。農家のおばさん達も少 |
| なくないが、地域に工場を立地する確固たるポリシーを感じた。東洋サッシは、東邦 |
| 精機で調整を行ったので通うことが出来たが、搬送速度が速く、1台当たりの生産は |
| YKKの3割増しくらいあったと思う。 |
| その他の珍しい物件で、タイヤ更生機と云うものがある。スチールタイヤのトレッ |
| ト部分を削り、ゴムを巻き付けて、タイヤの内側に200℃の水蒸気で膨らましたゴム |
| 袋を入れ、上下をアルミ金型で350kgの油圧で押さえることにより加硫プレスされ新 |
| 品に負けない強度があるそうである。有賀ゴム殿が全国で販売しており、油圧装置を |
| 納品していたがコストダウンの為のトラブルで忙しかった記憶がある。 |
| 省力グループの廃止が決まる頃、川鉄/千葉のコークス炉の上昇菅自動設備の受注 |
| が決まり、私が担当者になった。トップカバーと高圧安水弁を制御する装置で33門繋 |
| がった装置である。制御設計は、オムロンに依頼しPLC(Programmable Logic Contro- |
| ller)の初めての経験であった。所属が省力からNDT技術に替わったが1年近くコーク |
| ス炉に掛かったため、NDT技術の職場に戻ってもほとんど仕事をせず、直ぐに産業フ |
| ィールド技術部への異動を言い渡された。 |
| | | |
| <流量計> |
| 先ずは、静電容量レベル計を勉強し、河野さんの運転手で現場を回った。その時期 |
| はトランジスタがTTLのICに替わる時代で、ブール代数の講習会等にも参加させられ、 |
| 更に夜間の職業訓練の講習会に通って電子回路基板を理解した。そうこうしているう |
| ちに、装備工事を担当している金内さんから、強い誘いがあり、工事グループ担当に |
| なった。最初に担当したのが小右衛門浄水場の配管交換工事で、およそ我社には相応 |
| しくない仕事であった。富士電機が不祥事を起こして指名停止なったため、代わりに |
| 受注せざるを得なかった物件であり、殆どが土木工事で、サービス室の天井を撤去し、 |
| 直径2mの配管に穴を開けて溜水を排水後、新しい伸縮菅に交換し、超音波流量計を |
| 設置する工事であった。役所御担当者も、素人の現場代理人であると良く理解されて |
| いて、会計検査で問題に成りそうな書類は全てご自分で作られていた。交換工事当日 |
| は、朝から手動の高速カッターで切り込みを入れていると水が溢れでて、用意した電 |
| 源車に繋いだポンプを降ろしてサービス室からの満水を防いだ。最後は菅に四角い穴 |
| を開けその中にポンプを入れて掻き出した。新旧の鋼管の交換作業も大変で土建屋か |
| ら10名近く応援を集めてクレーン車2台の連携作業であった。 |
| その後、神奈川県企業庁の流量計設置工事を経て、電気設備技術基準の理解、キュー |
| ピクルの設置、流量計室からのケーブル埋設の土木工事、通線作業等を経験した。 |
| 産業の流量計、レベル計は、年度末の納品が主で、通常2月・3月は休日を取得し |
| たことが殆どなかった。出勤するのは日曜だけで、報告と次の週のスケジュールを段 |
| 取り・調整し、各々の現場に張り付いた。下期偏重の傾向は、最後まで続いたと思う。 |
| ひどい時には、出入りの土建屋からトラックを借りて、矢板からキューピクルを現場 |
| に運んだ事がある。営業からは、竣工検査に製品がなかったら大変なことになると泣 |
| きつかれ、製造側に出荷を間に合わせる様に強く云っても、残業規制があるから無理 |
| だとのこと。年末の交通渋滞の中、徹夜で運び、据え付け終わった時には、朝を迎え |
| ていた記憶がある。今思い出してみれば、無茶なことをしたと思うが、無保険のトラ |
| ックに数百万の製品をよく預けてくれたものである。この時期に一緒に工事をやって |
| いた代行店と相談して、皆で電気工事士の免許を取得することにした。更にトランシー |
| バでは、限界があるのでアマチュア無線免許を取ろうとしたが、電工とは違い、無線 |
| は私しか合格せず、計画は瓦解した。 |
| 地方の役所廻りの出張で金内さんの夕食に付き合うと、検収を担当する技術者の必 |
| 要性を説かれた。役所での設計書に基づく現場代理人の責任と最終的に竣工検査をう |
| まく納める。一般企業の場合には、検収迄の残工事を客先と打ち合わせて手配し工事 |
| を納める人材になるように繰り返し諭された。その後、流量計関係では、UVHと云う |
| 下水道の流量計を販売し始めて、新たな問題に直面した。長野の業者だった思うが、 |
| 汚穢屋の仕事は出来ないと工事そのものを断られた。印旛沼広域下水道の仕事を受注 |
| したが、ホテルを予約するほど遠距離でなく、通うのに苦労した。人手を掛けられず、 |
| マンホール内で作業していたサービスマンが成田闘争の名残りか警察に誰何されたこ |
| ともある。 |
| サービスで流量計のセンサの交換工事では、夜間、流れが少ない時に、土嚢を積ん |
| で水をせき止め、取付板を外して交換しなければならず、土嚢の上げ下げで全員バテ |
| バテになったのを思い出す。年度末の2月・3月をほとんど休まなかった分、新年度 |
| には、仕事が無くなり、代休消化と定期点検が主な仕事になった。 |
| 三島市水道局の箱根の別荘地の点検等、風光明媚な所も多く、契約人員は守るため |
| 余裕の作業になった。 |
| | | |
| <接岸速度計> |
| 接岸速度計(docking-sonar)は、大型の船舶が着岸する時に距離と速度を表示す |
| る測定器である。船首(bow)と船尾(stern)に、海中3mの深さに送受波器を設置し、 |
| 超音波にて船の船体から反射波を測定する装置である。桟橋には防舷材が設置されて |
| おり、垂直方向の力には十分性能を発揮出来るが、斜めに擦るように当たると簡単に |
| 毟れてしまうそうで、破損した際の賠償責任で港湾水先案内人と揉めることが多い。 |
| この防舷材が200万円以上するそうで、桟橋用表示器を付けた接岸速度計を約200万円 |
| で販売していたので一時は寡占状態で、日本全国だけではなく海外にも販売した。 |
| 私の初めての海外出張がインドネジア、スマトラ島の接岸速度計の装備工事であっ |
| た。前年に1回装備したところで、その時には、工事屋、調整員、通訳の営業と3人 |
| で行ったそうである。今回は、私一人であった。シンガポール経由でスマトラの空港 |
| に到着したが迎えが来なかった。空港近くの基地で一泊したが、電話での問い合わせ |
| が相次ぎ、最後に関係者が面会に来てくれてインビテーションカードを確認して移送 |
| 先が決定したようだった。到着日は、独立記念日だったそうで、不手際は致し方無か |
| ったとあきらめた。因みにどこから独立したのか聞くと日本からだとの事。翌朝、迎 |
| えが来て5時間近くのドライブの末、港近くの基地に到着した。CALTEXのベースキャ |
| ンプでプール、ゴルフ場、レストランを備えており、そこのゲストハウスを宛がわれ |
| た。最初のうちは一人で贅沢に使っていた。後半以降はダイバーが同居したがそれ程、 |
| 不自由はしなかった。朝6時にレストランに行くために道を歩いていると、道端でお |
| 祈りをしている人に出くわし、飛び上がる事もあった。朝夕歩いていると黒く毛の長 |
| い猿が木の上から叫んでいる。タバコを買うためキャンプ外に連れて行ってもらった |
| 時、道路脇にコモドドラゴンがいるのを見つけ、少し観察していた。道路を猛スピー |
| ドの車が通過した後、前を睥睨していたコモドドラゴンが1、2秒後慌てて後ろ側に |
| 逃げだした。こんな反射神経では、絶滅危惧種から逃れる術はないと思った。仕事自 |
| 体は、担当のエンジニアに指示して順調に完了して実船による検収テストを行い無事 |
| 完了した。約3週間の出張であった。 |
| 接岸速度計は、石油基地のタンカー用が多く、当然、桟橋用表示器は、防爆構造が |
| 求められ、半田鏝は使用禁止で、圧着工具を使った結線であった。電光表示盤等が付 |
| 属している場合には、内圧防爆構造の必要があり、更に港での潜水作業には、港長の |
| 許可が必要であった。機器の設置から通線まで、潜水作業を含む工事で、人数を揃え |
| て臨んでいたが、これ以降、海外の接岸計は単独での出張が当たり前になった。その |
| 他、接岸速度計の装備工事は、マレーシア、香港ラマ島、韓国、タイ、トルコで行っ |
| た。タイでは、スーパーバイザーの費用が 高いため工期短縮を狙って、夜中まで、 |
| 働かされた。ダイバーの夜間作業などは、日本では認められていない。夜食が出て、 |
| ビニール袋に入ったチャーハンとスープを始めて飲食した。 |
| トルコでは、高沢さんの応援を得て更に、教育と検収テストのためにイギリス人の |
| ヒーリーさんを出してもらい順調に完了した。同じゲストハウスの中にヨーロッパか |
| らの作業員が来ており、真面目すぎるのをからかわれたりしていたが、その中にNECが |
| 3人来ていて、シリアからの通信施設の装備だそうで、危険な目に沢山合ったそうで |
| ある。作業を統括する担当者は、最低5か国語は話すそうでEUの底力を感じた。雇っ |
| てもらったダイバーがギリシャ人で、碧眼金髪のギリシャ神話に出てきそうな美男・ |
| 偉丈夫であったが、態度がなんとなく卑屈で、私の皮手袋を欲しがったので持参の赤 |
| 手帳と一緒にプレゼントした。国の勢いが態度にも表れるのを感じた。2人での出張 |
| になったので、ギリシャとアムステルダムで休暇を取ったら、ヒーリーさんから報告 |
| がされ、本社では大騒ぎで大目玉を食らった。24日間の出張であった。 |
| トルコは、7が月後にもう1度あり、その時は、最初からヒーリーさんが同行して |
| くれた。ただし、一般のレストランに入ると英語が通じず、ドイツ語が日常的であっ |
| た。現場は、イスタンブールから飛行機で数時間かかる所で、西欧人のペースで優雅 |
| に完了した。最終日、イスタンブールで外国人向けのナイトクラブに連れていって貰 |
| い、ベリーダンスを見学した。 |
| 接岸速度計は、新規開発が完了しDS-1000になった。送受波器の取付位置確認のた |
| め、2m前方にパイプを降ろして受信波を確認したところ生で0.3Vもあった。今まで |
| は、10mV位しかなくS/Nが取れない時には、編組線を持ってアースを取り直したり、 |
| 非常に苦労した。NSC/釜石では200mを測定出来ているかを検証すると言われ、検収 |
| を上げてもらえなかった。その時は、レーザー距離計が上手く使えずに結論が出ずに、 |
| 測定出来ていると押し通した。開発者を捉まえ、如何にして感度を上げたのかと問い |
| ただすとCRでマッチングを取っただけで常識だそうである。DS-1000では、距離表示 |
| が256mを良表示する。表示桁の制限を取り払ったら300mでも測れそうである。その |
| 後、日本光電が軍事用レーザーを応用した地上型の接岸速度計を開発し、瞬く間に市 |
| 場から駆逐された。 |
| | | |
| <自動探傷装置> |
| 自動探傷装置は、NSC/名古屋のNo.1USTで初経験した。電縫管製造装置で板を丸め |
| て我々の装置の前で溶接し、ビードをバイトで削りその部分を探傷するものであった。 |
| 新設の工場で、事前に安全施行計画書なるものを提出して施工管理者に説明をしなけ |
| ればならなかった。そのため、名古屋営業所のパソコンを3日間ぐらい借用し完成さ |
| せた。全体ラインの制御は、三菱電機のPLCが担っており、10人近くの作業員を連れて |
| きていた。更に毎日朝礼と行程会議があり、翌日の作業予定と前後の行程との干渉を |
| 検討する必要があった。この様な工事の場合は、労災保険を企業体が担うそうで作業 |
| 員の教育・把握に努める事を叩きこまれた。 |
| 韓国の浦項にあるPOSCOに角ビレットの自動探傷装置の装備工事で出張した。作業 |
| 中途で労使交渉のため、一時帰国を余儀なくされたが順調に完了し、教育も完了した |
| が検収を挙げてくれない。日本人を区別しているのが垣間見える。米国人は、話し方 |
| も喧嘩腰であからさまに韓国人を信用してない態度で事を押し通していた。ドイツ人 |
| は何時の間にか帰国していた。メンテ要員を確保しているつもりで検収試験を実施せ |
| ず、営業と代行店を伴い強硬に申し入れを行ったが回答・帰国許可は下りなかった。 |
| 結局、水野事業部長の決断で下川さんが検収・引渡しを無視して私を連れ帰ってくれ |
| た。結局前後合わせて44日間の出張になった。 |
| 角ビレットの自動探傷装置は、もう一回あり、全体のラインを住友重機械工業が請 |
| け負い、そこからの受注であった。輸送中に部品が紛失して、再製作して輸送して貰 |
| う等のトラブルはあったが順調に終了し、住友重工の担当者を間に入れて装備報告を |
| して約3週間で無事完了した。 |
| 同じ韓国で江原産業という工場に鋼管の探傷装置を装備した。全ての作業が完了し、 |
| 取扱い説明を含めた教育の最中、聴講していた2人が突然殴り合いの喧嘩を始めた。 |
| 当然、教育は中断し、何が原因か問いただした所、操業部署と品証部署の人間で聞く |
| のを邪魔したのが原因であった。部長同志の仲が悪く、品質管理面で操業に口を挟ま |
| れたくないのが本音のようだ。ただ、部長の意向を忖度して体を張る人間性が理解で |
| きない。 |
| 薄板自動探傷装置は、タイヤ探触子の特許が効いているのか、我社の製品がよく納 |
| 入されている。薄板の上にタイヤを接触させ、薄板の表面波からの反射を検知するも |
| のである。神鋼/加古川と日新/堺が同時期に受注したので両方を私が担当することに |
| なったが、日新/堺の出図がされず、PLC(シーケンサー)は私が設計した。大阪のサー |
| ビスの協力を得て、残処理事項を整理して、何とか検収まで漕ぎつけた。1物件1億 |
| の売り上げで合計2億を売り上げた。1か月以上家に帰って無かったので久しぶりに |
| 出社すると、川鉄/知多の回転式探傷器の装備を担当しろと言われ、流石に即断しなか |
| った。私と交互に装備工事を担当していた、先輩のサービスマンが退職したとの事で、 |
| 課長自ら担当する気は全くなく、他に人材がいないため仕方なく了解した。現場は、 |
| 前後にシートを掛けた廃墟のような所で、我々の機械が搬入されると動き始めた。 |
| あとから、理解できたことは、東京計器の製品が納品されないため、建設計画を中断 |
| していたそうである。工場での試運転も満足に終わっていなかったので、他企業の調 |
| 整作業が終了した深夜に、搬送システムのハンドルを任せてもらい、残っているキャ |
| リブレーション(較正)を完成させることにした。その作業中、名古屋の代行店の作 |
| 業員に責任を押し付ける形になり、可哀そうなことをしたと反省している。制御はど |
| うにか動くようになったが、探傷器の受信波にノイズが乗って使い物にならない。 |
| 現状報告と対策会議のため本社に戻った。状況を聞いた、佐藤 泉(故人)が簡単に |
| 解決できるというので同行し、見せた所、感度は少し落ちたがノイズは全くなくなっ |
| た。CRでローパスフィルタを作っただけで常識だそうである。その他、問題あったが |
| 程なく完了した。 |
| あと探傷装置では、F15の国産化の為、探傷装置も米国製の物を使う必要があった |
| ようでその装備を担当したことがある。三菱/名航・川重/岐阜・富士重/宇都宮等の |
| 工場を廻り、四角いガントリー上で走行台車を往復させる装置や大きな水槽を据え付 |
| ける工事を実施した。今でも覚えているのは、翼のハニカムの接着具合を確認する探 |
| 傷装置で米国から、エンジニア1名が出張して来ていて、本国の数名の部下に仕事を |
| 割り振りメール送信にて統合して機械を動かしていた。OSはまだMS-DOSの時代で、機 |
| 械制御から、探傷結果の画像処理までを完成させているのが信じられなかった。海外 |
| 出張を一人で納め、検収を上げて、満足していた私には、米国人とのスキルの差を見 |
| せつけられた。ただ本人はモルモン教だそうで、飲食に苦労をしていた。あと、航空 |
| 機産業を担う各工場で仕事をしていると、那須工場と同じ雰囲気を感じた。 |
| 特別な出張で思い出に残っているのがB超(診断装置)の中国出張である。担当営業 |
| が派遣するサービスマンがいないとの話を聞きつけ立候補したらすんなり決まってし |
| まった。なぜ希望したかと |
佛国寺 |
故 宮 |
| 云うと、共産党中国を実際 |
| に観たかったのと、史記や |
| 宮城谷 昌光の小説を読ん |
| で日本と違うと感じたから |
| である。人民解放軍に売り |
| まくった超音波診断装置の |
| 修理で、天津工科大学の日 |
| 本語の先生と商社の担当者との3人で天津・北京・太原・蘭州・西安・武漢・長沙・ |
| 広州と廻った。1986年当時、通貨は、外国兌換券しか使えず、国民の旅行も制限され |
| ていた。そのため、飛行機・列車の席を確保するには、私のパスポートが必要で、出 |
| 張先に到着すると商社マンが次の行程のキップを手配するために走る。列車には軟座 |
| と硬座があり、硬座だと昔の引き揚げ列車の立ちっぱなしである。軟座切符では、ど |
| んなに行列が出来ていても先頭から控室に入る。実際、今でも忘れられないのは、蘭 |
| 州でトイレに入ったらブロックが並んでいるだけで仕切りが全くなかった。中に入り |
| しゃがむと、中の全員が私を見ていたので、順番に見返していくと二度と見なくなっ |
| た。また、我々3人を招待して、もてなしてくれたことがあった。私が酒を飲めない |
| のは、事前に伝えていたにも関わらず、中年のおばさんが薦める飲み物を飲むと顔が |
| 真っ赤になってしまいケタケタ喜ばれた。後日、話を聞くと彼女が病院の院長だそう |
| で茶目っ気たっぷりなおばさんが院長とは、女性登用は、明らかに中国の方が進んで |
| いる。 |
| 規模の大きさで圧倒されたのが、西安の兵馬俑である。広い館内に展示された俑の |
| 兵士たちはどれも同じ顔をしておらず、一人一人を見ていると地位や人格まで想像出 |
| 来る。全体の1/3位しか掘り出されておらず、大半が砂に埋まっている。日本のお寺の |
| 五百羅漢を思い出すが、兵士は全て実物大で、見るからに漢民族と判る180cmの者から |
| 南方系部族出の155cmまで揃っており、知人の誰かにそっくり似ている。全体的に蘭州 |
| と太原以外は、近代化が急速に進んでおり、ホテルは高級で、日本人故の待遇であった。 |
| ただ広州のホテルでは、北京語が通じず、料理の注文は、私の英語で行った。一巡した |
| 感想は、政治の中心の北京よりも南の武漢、広州に勢いを感じた。 |
| | | |
| T.訪問した二つの古墳 |
| ・「富雄丸山古墳」を訪ねて |
| 12月2日、京都駅から地下鉄烏丸線を利用し、途中で近鉄奈良線に乗り換えて学園 |
| 前駅で降りました。近くには帝塚山学園大学があり、その後、バス停で奈良県立医療 |
| センタ―行きに乗って、「若草中央」バス停で下車しました。そこは市街からかなり |
| 外れた住宅街の奥にある小高い山の中にあって、その入口に富雄丸山古墳の案内板が |
| 立っていました。 やっと「辿り着いたぞ」との思いとどこにあるのかという不安が |
| 沸いてきました。とにかく案内板に表示されている方向を目指して突き進みますが、 |
| 公園内とはいえ、発掘された古墳らしきものは、何一つなくただ小高い丘が残ってい |
| ました。しかも、周囲は囲まれていて立ち入り禁止の案内が目に入ってきました。想 |
| 像していた富雄丸山古墳はどこにもなく、発掘して出土した国宝級の銅鏡や鉄剣等は、 |
| 別の所で管理されていました。失望しながらも帰途に着き、帰りは同じバス停から富 |
| 雄駅行きのバスに乗って周りを見渡すと、小高い山が複数あり、もしかしたらあの山 |
| にも知らない古墳があるのではないかと思いながら乗っていました。富雄駅周辺は街 |
| の中心で、車の往来も多く賑やかな感じがしました。特に富雄ラーメンが有名とかで |
| 食べたかったのですが、昼食を終えて間もないのと次の仁徳天皇陵訪問を急がねばと |
| いう思いで諦めることにしました。あれほど、期待して訪れた富雄丸山古墳を確認で |
| きず残念・無念!! |
立ち入り禁止 |
案内板 |
富雄駅と富雄 |
| | | |
| <銅鏡は初の「盾形」、鉄剣は国内最長> |
盾形銅鏡 |
| 盾形銅鏡は長さ64cm、最大幅31p、最大の厚さ0.5cm、 |
| 表面は研磨され、裏には全体に神像や霊獣をあしらった |
| 円形の文様が施されています。これまで出土した銅鏡は |
| 大半が円形で盾形は初めて。鉄剣は幅6cmの剣身が蛇の |
| ように曲がりくねる「蛇行剣」で、長さ2.37mは国内で最 |
| 大です。製造時期はこれまでの全国古墳などから出土し |
| た約80本の蛇行剣の中で最古とみられています。 |
| <4世紀の奈良に合った高度な加工技術> |
2.37mの蛇行剣 |
銅鏡の表は美しく磨かれ、裏の精緻な文様にも高度な |
| 技術が使われています。鏡と盾をあわせて僻邪の効果を |
| 高めようという発想も独創的で面白いです。2mを超える |
| 蛇行剣を1本の刀として鋳型から作り上げるのは、現代 |
| でも難しいと言われています。銅鏡も蛇行剣も国産の可 |
| 能性は高く、4世紀の大和(奈良県)には、既に高度な |
| 金属加工技術とデザイン力を融合させてお宝を作る職人 |
| 集団がいたというのは驚きであります。 |
| <誰が埋葬されているの> |
| これほどすごい副葬品が出土した富雄丸山古墳には、誰が埋蔵されているのか。多 |
| くの研究者は、ヤマト王権直属の有力な豪族と推測しています。副葬品から見て被葬 |
| 者は相当な富と力を持っていたと思われています。 |
| <ヤマト王権直属の有力豪族?> |
| 円墳からこれだけすごい埋葬品が出るのなら、円墳よりランク上の全国各地の前方 |
| 後円墳からは、更にすごい副葬品が出てもおかしくないのにそういう話は聞かないと |
| のことです。「今回出土した副葬品は相当な権力者でなければ持てないはずだから、 |
| 古墳の被葬者はヤマト王権直属の有力豪族に違いない。」と推測されています。なお、 |
| 異説もあるようです。 |
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| V.AI(人口知能)が新規古墳を34か所も発見 !! |
| AIによる解析結果を基に実施した兵庫県たつの市の現地調査で見つかった円墳の |
| 「中垣内平見古墳」は、古墳の形状を学ばせたAI(人口知能)に自治体が公開してい |
| る立体地形上を「探索」させ、未発見の古墳を突き止める手法が開発され実用化され |
| ています。(奈良文化財研究所のグループ) |
| 特に、開発の機会が少ない山間部は調査の難しさもあり未発見の遺跡が数多くある |
| とみられています。研究は兵庫県内で実施され、県内で把握されている約7000カ所の |
| 古墳の形状をAIに学ばせた。その上で、同県が公開している詳細な三次元の地形デー |
| タをAIが解析。学習したものに類似した形状の地点を抽出させ、その場所が古墳かど |
| うかの確率も数値で示させた。AIは新たな候補地として、1342カ所を挙げています。 |
| この結果を受けて、特に古墳の可能性が高い地点が多かった同県たつの市と豊岡市で |
| 2023年に現地調査を実施しました。内部に石室があり古墳と確定できたものや、隆起 |
| の形から古墳と考えられる遺構などを新たに計34か所で確認できたとのことです。 |
| また、今まで円墳とみられていたたつの市の古墳が、首長級の墓とされる前方後円墳 |
| だったこともAIの指摘で分かりました。グループは他の地域でもAIを使った古墳など |
| の探査を進めていきたいとのこと。そして「より効率的な遺跡を見つけることができ |
| るようになり、身近に多くの遺跡が眠っている可能性がAIで示されれば、保存への関 |
| 心も高まるのではないか」と話しています。 |
| (奈良文化財研究所、高田祐一・主任研究員グループ) |
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| 終わりに |
| 今回は二つの古墳を訪ねましたが、当方の準備不足とスケジュール管理の拙さもあ |
| って、肝心の資料館等を見学できず悔いの残る結果となりました。古墳なるものが全 |
| 国で約16万個発見されているのですが、宮内庁管轄で首長級の古墳の発掘調査が進ん |
| でいないものが沢山あるらしく、今後、AIによる解析調査でどれだけの新発見がでる |
| のか興味津々です。特に、歴史上の空白の4世紀(注1)と言われている時代が、今 |
| 後のAIによる古墳の調査分析により種々の事実が解明されるかもしれないのです。今 |
| 後の考古学研究者・団体等と宮内庁が連携を密にして歴史の事実を明かして欲しいと |
| 切に願う次第であります。今回の訪問に懲りることなく、今後も古墳探訪にトライし |
| てみようと思います。 |
| (注1)歴史上の空白の4世紀について(謎の4世紀とも言われています。) |
| 空白の4世紀とは、3世紀後半から5世紀初頭までの期間を指します。この |
| 時代、日本には文字が定着しておらず、当時の様子は中国の史書(魏志倭人 |
| 伝)から推測するしかないのですが、4世紀は中国も西晋が滅亡し南北町朝 |
| 騒乱の時代で日本についての記録がないのです。また、国内でも文字的な資 |
| 料も考古学上の発見も乏しい状況にあります。古事記(712年)や日本書紀 |
| (720年)にもこの時代のことは記載されていないのです。 |
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| 干支を復習 |
| 干支(えと)というと今の日本では一般的に、子丑寅卯辰巳午羊申酉戌亥の十二支 |
| を指すことが多いですが、本来は十干と十二支を組み合わせたものです。 |
| まず十干は、日の順番を甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、 |
十 干 |
| 辛、壬、癸と10日ごとに一括りにして一旬(いちじゅん) |
| とし、上旬、中旬、下旬で一か月と捉えたものです。 |
| (読みは順に こう、いつ、へい、てい、ぼ、き、こう、 |
| しん、じん、き) |
| そして古代中国の五行説が関わって、五行では甲乙は |
| 「木」、丙丁は「火」、戊己は「土」、庚辛は「金」、 |
| 壬癸は「水」とされ、さらに陰陽説により甲、丙、戊、 |
| 庚、壬を陽とし、乙、丁、己、辛、癸は陰としました。日本では陽を兄(え)、陰を |
| 弟(と)に見立てて、甲は「きのえ」乙は「きのと」丙は「ひのえ」丁は「ひのと」 |
| 以下「つちのえ」、「つちのと」、「かのえ」、「かのと」、「みずのえ」、「みず |
| のと」と呼ばれます。 |
十二支 |
次に十二支は古代中国で尊い星とされた木星の公転周 |
| 期が12年(正確には11.86155年)ということに由来して |
| いるそうです。 |
| いろんな時間を12分割した時に、その一つ一つを子、 |
| 丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥と呼びま |
| した。例えば1日の時間を12分割して、午前0時を挟む |
| 2時間は「子」の刻、その12時間後は「午」でピッタリ |
| 12時は正午というわけです。 |
| 1年を12分割すると月になるわけですが、各月も十二支で呼ばれます。なぜかは知 |
| らないのですが、子からではなく1月の寅から始まり12月が丑の月だそうです。 |
| 年の呼び方になると、十干と十二支が組合されます。例えば今年は「甲辰」です。 |
| まず十干の最初である甲と十二支の最初である子が組合されて「甲子」(きのえね) |
| から始まります。次の年は十干を一つ進めて乙に、十二支も一つ進めて丑にするとい |
| う組み合わせで「乙丑」(きのとうし)、同様に「丙寅」(ひのえとら)「丁卯」 |
| (ひのとう)、さらに「戊辰」「己巳」「庚午」「辛未」「壬申」「癸酉」と続きま |
| す。ここで十干は一巡しましたから、甲に戻ります。十二支は続いて戌ですから「甲 |
| 戌」、その次は「乙亥」で十二支も一巡しました。そのまま続きますから次は「丙子」 |
| 「丁丑」「戊寅」「己卯」「庚辰」・・・「庚申」「辛酉」「壬戌」そして60年目の |
| 「癸亥」で十干と十二支の組み合わせが一巡します。還暦です。 |
| 昨年の流行語大賞・岡田監督の「アレ」の舞台となった甲子園球場は100年前の1924 |
| 年(大正13年)「甲子」の年に完成したことで、甲子園と名づけられたそうです。 |
| また壬申の乱とか戊辰戦争など歴史上の出来事の名前にも干支を使っていることは |
| 少なくありません。 |
| 生まれ年によって運勢や性格などを占うこともあり、有名なものとして丙午(ひの |
| えうま)生まれの女性は「気性が激しく夫を弱める」というのがあります。私の親友 |
| が昭和44年に第一子(女の子)を授かりましたが、丙午の年ということで出生率は前 |
| 年比25%減だったそうです。しかし60年近くの間、幸せに暮らしていますから迷信で |
| すね。 |