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HPが完成したのが2005年(平成17年)の夏頃、この年の総会はOB会創立30周年に |
当たり、10月1日の土曜休日の東京計器本社をお借りしての記念行事を予定していま |
した。会員が創作した各種作品をお借りして展示したり、栃木3支部もバスで参加し |
たりと幹事会の準備が忙しい中、HPオープニングセレ |
HPオープニングセレモニー |
モニーを華やかにやろうということが決まったそうです。 |
当日、大会議室に集まった会員約200名の前で黒石会長が |
パソコンのキーを押し、「訪問者延べ人数000001」と書 |
かれたトップ画面がプロジェクタいっぱいに表示された |
ときの感激は忘れません。晴れの舞台を設定していただ |
いた当時の幹事会の皆様に感謝しています。 |
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私とヨットとの出会いは、関野さんの手作りのヨット |
本部幹事_太田 安穂 |
が故障したとのことで駆り出された事による。当時、産 |
業フィールド技術部に所属していて、野外作業に慣れて |
いるだろうと思われたからであろう。修理後、誘われて、 |
参加し始めたが繋留場所が木更津だったのでデイクルー |
ズは、釣りがメインになった。その後、船舶営業の藤岡 |
さんが仲間と所有しているヨットに移った。横浜市民ヨ |
ットハーバーに繋留してある34フィートの外洋ヨット |
キハダマグロ |
(船内で5人宿泊できる)で、クルーさえ揃えば何処に |
でも行くことが出来た。藤岡さんがヨット部出身ですべ |
てに詳しく、安心して遊び回った。伊豆大島を始め、新 |
島、神津島までは夏休みを利用して何回も通った。行程 |
が長く夜間航行が必須なので、華麗な日没、漆黒の海で |
のワッチをしながらの航行、荘厳なご来光には思わず柏 |
手の上、拝礼してしまったものである。島巡りでは食事 |
が自炊になるので買い出し等で苦労はするもののサバイ |
バル体験をしているようで気分転換になった。釣りをすればカサゴ、アジ等が得られ |
煮つけ、刺身で美味しく食べた。仲間がまだ若かった時には、素潜りでシッタカとい |
う貝とかカニを捕って来てくれたので豪華な食卓になった。 |
島巡り以外では、三崎から真鶴・伊東・下田のコースは、行程が長く辛かったが、 |
自炊でなく外食することが出来たので満足している。 |
2007年に大病をしてヨットはもう駄目かと思ったが、せっせとリハビリに努めた結 |
果、それなりに回復した。 |
更に2010年に入り、違うヨットグループの鷲塚さんから三宅島に行かないかとの誘 |
いがあった。伊豆諸島の中で 三宅島と八丈島は、別物であるとよく言われている。 |
大島から新島・式根島、神津島は方向が一緒で比較的に距離が近いので避難時にも安 |
心である。しかし、三宅島は、真南に舵をとって神津島より遠い行程が必要になる。 |
八丈島は、距離があり過ぎて2日間の船中泊を覚悟しなければならない。仲間の船だ |
とクルーをしての責任があるが、鷲塚さんの船にゲストとして参加する分には、自分 |
の体調だけを維持していればよいと考え、進んで参加させてもらった。 |
三宅島と云えば、スキューバダイビングのメッカであ |
被災現場 |
り、イルカ・クジラウオッチングが人気な所で観光に事 |
欠かないという期待はあった。しかし、何より見て見た |
かったのは2000年の火山活動の被害状況の見学と、どこ |
まで復興出来たかを確認したかった。 |
当時、全島民約3,800人が4年5か月の間、島外避難し |
ていた。2010年の訪問時、有毒ガスによる一部立ち入り |
禁止場所が、未だ存在していた。行程は、前日ベイサイ |
ドマリーナを出航し、三崎でクルーを入れ替えて、式根島まで夜間航行し、民宿で一 |
泊し、翌日は、新島から三宅島に流れる早い潮流にのって順調に到着した。島ではホ |
テルが予約してあった。贅沢と思ったが、ホテルの宿泊客だから、繋留場所を確保し |
ておいてくれたそうである。島内観光は、レンタカーで回り、生々しい火山災害現場 |
と対照的な美しい海岸線に落ち込む溶岩流、その中で、周囲を椎の木に覆われた大路 |
池は、パワースポットと呼ぶ相応しい場所であった。 |
その後、藤岡さんがシンガポール人と結婚して移転したため、元々の仲間と大喧嘩 |
してヨットを降りた。 |
2010年、せっかく集まった仲間同志なので、続けようという事になり、仲間6人で |
25フィートのヨットを購入した。以前の34フィートとは、比べくもないが、ワンパー |
スン仕様で1人での操船を基本にしており船内では3人しか宿泊出来ない。デイクルー |
ズで回数を重ね、最近では、テントを用意して大島、新島まで足を延ばしている。ヨ |
ットのオーナーになった為に1級小型船舶操縦免許を取得した。この状態が現在も続 |
いている。 |
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憧れの八丈島 |
10年位前から、仲間と八丈島に行きたいね。東海汽船で渡り、民宿に滞在し、釣り |
を含めて楽しもう、と考えていた。しかし、友がペースメーカーを装着したり、私自 |
身が肺癌になったりで何時の間にか立ち消えになっていた。昨年「東京亜熱帯の楽園・ |
神秘の離島、八丈島」という2泊3日のツアーを見つけ、この機会を逃したらもう訪 |
れる事はかなわないと思い、更に今の健康状態では、単独での個人旅行が許して貰え |
る最後の機会なると考え参加した。 |
八丈島は、東京の南方海上286kmに位置し、面積69.11平方kmのひょうたん型をした |
島である。地形的には富士火山帯に属する火山島であり、南東部を占める三原山 |
(700.9m)と北西部を占める八丈富士(854.3m)から成り立っている。気候は、黒潮 |
暖流の影響を受け高温多湿で、雨が多いことが特徴である。集落は、島の南東部に位 |
置する三原山を中心とする樫立(かしたて)・中之郷(なかのごう)・末吉(すえよ |
し)で形成される坂上地域と、島の経済活動の中心地である大賀郷(おおかごう)・ |
三根(みつね)で形成される坂下地域がある。八丈小島は、八丈島の北西7.5kmの海上 |
にあり、島のほぼ中央にあたる大平山(616.8m)から成る面積3.1平方kmの火山島で、 |
昭和44年6月に全員離島し、現在は無人島である。 |
・八丈富士:八丈島の北西部を占める山で、東の三原山に対して『西山』とも呼ば |
れており、伊豆諸島の中では最も高い標高の854.3m。1605年の噴火後、活動を停止し |
ている火山で火口は直径400m深さ50mで、さらに火口底には中央火口丘がある二重式 |
火山である。裾野が大きく |
八丈富士 |
ふれあい牧場 |
のびた優雅な姿は、八丈島 |
を代表する美しさのひとつ |
である。 |
八丈富士の鉢巻き道路沿 |
いにある「八丈富士牧野・ |
ふれあい牧場」は八丈島を |
一望できるロケーションも |
魅力で、黒牛が放牧されていたが、牛舎などの施設はなく全くの野ざらし状態で飼育 |
されているそうである。 |
・陣屋跡(玉石垣):八丈島に陣屋が設置されたの |
玉石垣 |
は、亭禄元年(1528年)のことで、それから明治41年 |
に向里に支庁が移転するまで、実に380年の間ここが |
八丈島の政治の中心だった。周りの玉石垣は、八丈島 |
の中で一番古く、規模・美しさともに秀逸である。こ |
れらの玉石は、流人たちが一日の糧を得るために、前 |
崎ヶ浜や横間ヶ浦からひとつひとつ運んできたものと |
され、島の歴史を語る上でも貴重なものといえる。 |
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・その他:八丈島で中学生が磨製石器を発見したことから湯浜遺跡、倉輪遺跡が調 |
査され、7,000年程前に人はいたが、ずっと住み続けた訳でなく、島伝いに移って来 |
て、また移り去ったか或は、死に絶えたものと考えられる。統治機能が置かれたのは、 |
室町時代(1338)に足利氏の執事が代官を在島させたのが最初で、その後、北条氏 |
(1515)が「黄八丈」をめぐる権力争いのすえ、支配するに至った。1604年から明治 |
に至るまで徳川幕府の支配が続いたが、この間にしばしば天災地変・飢餓・悪疫に襲 |
われおり、島民の生活は厳しく苦しいものだった。この265年間に約1,900人の流罪人 |
が流されてきた。明治以降は、伊豆諸島が韮山県、足柄県、静岡県の所管から東京府 |
に属して以降、現在の東京都になった。明治41年に島嶼町村制が施行されたが、八丈 |
小島の2カ村には施工されず昭和22年の地方自治法施行まで名主制度が続いた。 |
今回は、ホテルの関係で縁がなかったが、三原山を望む中ノ郷、末吉エリアには、 |
温泉もあり、絶景の海水浴場として評判である。その他、明日葉加工館、登龍峠展望 |
台等見どころは、まだまだあるが、何より感動するのは、星空の美しさである。少し |
雲が出ていても雲間の向こうに満天の星が輝くのを見ると時間を忘れ、単独旅を堪能 |
した。 |
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バイオ炭に注目 |
バイオ炭で農地改良 |
日本では昔から、炭が田畑の土壌改良材として利用さ |
れてきました。元禄時代の農書「農業全書」には、炭や |
灰を土に混ぜ込む手法が記載されているそうです。 |
現代は植物などの生物資源(バイオマス)を低酸素状 |
態で熱し、炭化させた「バイオ炭」が注目を集めていま |
す。特別な炉は要らず、草木を土中で蒸し焼きにするな |
ど低コストでも作れます。 |
アマゾン奥地の黒い肥沃な土「テラ・プレータ」に生 |
物由来の炭が多く含まれることが2000年代に判明し、欧米で関心が高まりました。 |
炭は微小な穴が多く、栄養の少ない土に水や肥料を蓄える作用があります。 |
作物の収量を増やすだけでなく、二酸化炭素を吸収し |
CO2削減 |
た植物をバイオ炭に加工し、土に埋めれば温室効果ガス |
の実質的な排出量の削減につながり、不要な木材等の有 |
効活用にもなります。 |
京都府亀岡市では、農家が放棄された竹林や稲わらを |
炭にして野菜を育て、ブランド商品として販売する取り |
組みをされています。炭の活用を研究されてきた九州大 |
の凌 祥之教授は「まさにブーム到来」と驚いておられ |
るそうです。 |
バイオ炭は2020年9月、政府が認証し排出削減量を売買できる「削減量(クレジ |
ット)取引」制度にも認められました。バイオマス発電で廃棄物の炭を回収し、農 |
地の肥料にする試みも行われています。 |
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ゲノム編集の普及 |
品種改良 |
高級魚のクエ漁が盛んな和歌山県みなべ町では「クエ |
タマ」の養殖が行われています。 |
クエは2キロの成魚に育つまで4〜6年以上かかるそ |
うです。それを近畿大水産研究所が2011年、クエの卵と |
同じハタ科で200キロ以上に育つタマカイを人工授精させ |
交雑種を開発し、みなべ町の漁業生産組合が2年余りで |
2キロ級に成長させることに成功しました。20度以上の |
水温で食欲が増すことも判明し、さらなる養殖期間の短 |
縮を目指しています。 |
地元漁協の漁業者は約100人で、20年前に比べ6割減ったそうで、町のブランドに |
育て漁業を盛り上げようと努力されています。 |
生命の設計図であるゲノム「全遺伝情報」の特定の箇所を狙って切り取り、養殖魚 |
を品種改良するゲノム編集技術の普及も進んでいます。肉厚なマダイなどの新食品が |
誕生しています。 |
九州大では「おとなしいマサバ」の開発が進められています。マサバは稚魚の間に |
共食いし、10センチ程度に育つまでに1割程度しか残らないそうです。そこで魚の攻 |
撃性に関係する遺伝子を壊し、共食いが少ない品種改良を目指そうというわけです。 |
すでに1時間当たりの攻撃回数を半減させた結果が得られています。 |
魚種が多様な日本で品種改良を高速化すれば、新しい輸出品になると期待される分 |
野です。 |
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培養肉の進化 |
牛のげっぷを調節 |
肉や乳を生む牛は、地球温暖化の一因とも言われてい |
ます。温室効果ガスのメタン排出量の約3割は農業由来 |
で、牛のげっぷが主な排出源だそうです。 |
北海道大学では、牛が排出するメタンを減らす研究を |
進めています。四つの胃を持つ牛は、最初の胃に7000種 |
類以上の微生物がすみ、その1〜2%がメタンを作りま |
す。そこで抗菌成分のあるカシューナッツの殻の抽出液 |
を米ぬかに加えるなどした餌を出光興産と共同開発し、 |
メタン排出量を20〜40%減らすことに成功したそうです。さらに、メタンを減らす |
「プロピオン酸」の生成菌を増やすため、胃内環境の解明も進めるとのことです。 |
メタンが減る分のエネルギーは肉や乳の増量になり、一石二鳥です。 |
将来は小さな装置を牛に飲ませて胃のデータを測定し、メタン生成を抑える餌やり |
システムを目指すそうです。 |
家畜に頼らず肉を作る研究も進んでいます。細胞を人工的に増やした「培養肉」で |
す。従来はミンチ肉に近い塊でしたが大阪大のグループは3Dプリンターなどでサシ |
(脂肪)入り肉を再現しました。 |
細胞から肉を作る |
ゼラチンが主成分のゲルに、牛の細胞を含む培養液をプリンターで注入します。筋 |
肉や脂肪、血管を長さ約1.5センチ、直径0.5〜0.76ミリのひも状の形で培養し、72本 |
束ねて酵素でつなぎ、指先大の「霜降り肉」を作り上げたそうです。 |
このプロセスは、私の知識では到底理解できません。この技術は、人工臓器の製作 |
など、医療のへの応用にもつながるそうですので、ぜひこちらの分野での成功をお願 |
いしたいものです。どちらかと言えば、「培養肉」は食べたいとは思いません。 |
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私は67歳の時に日本写真会に入会しました。写真を撮 |
三浦_副会長 |
ることは好きで、記念写真や景色を撮っていましたが、 |
所謂アートとしての写真は初めての経験でした。過去10 |
年間ほとんどの例会に参加してきましたが、入会して2 |
年くらい経って、やっとアートとしての写真が理解でき |
るようになりました。色々な場所に撮影に行きますが、 |
毎回必ず良い写真が撮れるわけではありません。しかし |
撮影に行かなければ絶対良い写真は撮れませんので、そ |
れを求めて各地を訪ねます。入会3年目で会員から同友に推挙され、7年目に同人に |
推挙されました。同人は会では一番上のランクの会員で、指導的立場になります。一 |
般会員と同友には年間に表彰される各賞が沢山用意されていますが、同人には二つだ |
けしか賞がありません。 |
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2022年日本写真会展作品 |
青の洞窟 |
一つは毎年一回開催される「日本写真会展」での最優 |
秀作品「福原信三賞」です。もう一つは「自由作品」の |
部で、年間の例会を通して一番評価された同人に送られ |
る「最優秀同人賞」です。私は同人になってから3回の |
「日本写真会展」がありましたが、残念ながら「福原信 |
三賞」には縁がありません。いつかこの賞が取得できる |
ことを願っています。左の作品は昨年の「日本写真会展」 |
の作品です。能登半島の珠洲市にある「青の洞窟」で撮 |
影しました。もう一つの「最優秀同人賞」については2021年と2022年の2年連続して |
受賞することができました。「最優秀同人賞」の評価の基準は一年間で獲得した同人 |
票の総計が一番多い同人ということになります。この賞も大変嬉しい賞です。2022年 |
の一年間で佳作以上に評価された作品をご紹介させていただきます。(評価の期間は |
前年の12月〜翌年の11月までです) |
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初 詣 |
新年を迎えて皆様の中にも初詣をされる方は多いと思 |
鶴岡八幡宮 |
います。氏神さまなど近所の神社でしょうか、それとも |
各地の有名社寺でお詣りでしょうか。私は近所の神社で、 |
ときどき鶴岡八幡宮、明治神宮、寒川神社など賑わうと |
ころもお詣りします。 |
古くは家長が大晦日から元日にかけて氏神様に籠もる |
習慣がありましたが、その後に籠もることのない元日詣 |
が始まったそうです。 |
今のような氏神様以外の遠方の社寺まで初詣に出かけるのは明治中期からのことで |
鉄道の発展とも関係しているようです。 |
元旦からの3が日に初詣の参拝者数について集計した全国のランキングがあります。 |
年によって多少の変動はあるかも知れません。ベストテンは、明治神宮、川崎大師、 |
成田山新勝寺、浅草寺、伏見稲荷大社、住吉神社、鶴岡八幡宮、熱田神宮、氷川神社、 |
太宰府天満宮となっています。川崎大師(金剛山平間寺)と成田山新勝寺は寺院です |
が、どちらも真言宗のお寺で神仏習合思想が強いと考えられます。高尾山薬王院も同 |
じです。ベストテンの社寺はいずれも3が日で200〜300万人の参拝者があるそうです。 |
しかし、そういう有名どころではない近所の神社に初詣する人の数も全国では相当な |
ものではないでしょうか。 |
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数が多い神社 |
北野天満宮 |
全国的に数が多い神社は八幡神(応神天皇)を祭神と |
する八幡神社(八幡社、八幡宮などとも)で、全国各地 |
に40,000社以上あるそうです。鶴岡八幡宮のほか蒲田で |
は京急蒲田駅近くに蒲田八幡神社があります。 |
栃木にも宇キ宮・塙田八幡宮、足利・下野国一社八幡 |
宮、塩原八幡宮など多数あるようです。 |
次に天満宮(天神神社、菅原神社などとも)と呼ばれ |
る神社は菅原道真公を祀り、学問の神様として信仰され |
童謡「通りゃんせ」でもお馴染みです。全国に12,000社以上と言われています。京都 |
で育った私は北野天満宮が発祥だと思い込んでいましたが、菅原道真公が左遷されて |
いた地に創建された太宰府天満宮と北野天満宮が全国の総本社なのだそうです。さら |
に山口県の防府天満宮は菅原道真公の没後翌年に創建され、日本三大天神の一つとさ |
れています。 |
次に神明神社(神明社、神明宮、皇大神社、天祖神社などとも)は天照大御神を主 |
祭神とし、伊勢神宮が総本社です。全国では5,000社ほど |
熊野本宮・八咫烏 |
あるそうです。また伏見稲荷大社を総本宮とする稲荷神 |
社(稲荷神)は3,000社ほどですが、境内社、分祀社、 |
企業や個人などの屋敷神などを含めると膨大な数になり |
ます。 |
熊野神社は熊野権現(スサノオ、イザナギ、イザナ |
ミ)を祭り全国に3,000社ほどあるようです。スサノオ |
に仕えるのが八咫烏(やたがらす)で、サッカー・ワー |
ルドカップで日本代表の胸に描かれていたのは記憶に新しいところです。 |
そのほかに日吉神社(日枝神社、山王神社とも)、諏訪神社、白山神社、八坂神社、 |
春日神社、愛宕神社、住吉神社、氷川神社なども全国的に広がっています。 |
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地域の神社 |
一方、特定の地域だけに存在する神社群もあります。だいぶ前に横浜市保土ケ谷区 |
杉山神社・仏向 |
の水道道あたりを歩いている時に一つの神社に出会いま |
した。社名は杉山神社とありました。人の苗字みたいな |
神社名で面白いと思って調べたら、横浜市、川崎市、町 |
田市、稲城市あたり(旧・武蔵の国の一部)に杉山神社 |
が40社ほどあることが分かりました。多摩川を渡った東 |
京側にはありません。祭神は、五十猛神(イソタケルノ |
ミコト)または日本武尊(ヤマトタケル)です。 |
平安時代の続日本後記には杉山神社が官幣に預かった |
とか従五位下を授かったなどの記述があるようです。全国的には他に数社ありますが、 |
いずれも祭神が異なります。 |
次に、私の住まいの近く横浜市瀬谷から藤沢市北部にかけて、杉山神社の分布より |
もっと狭い範囲に12社だけ集まっている神社群があります。 |
それはサバ神社というもので、鯖(4社)、左馬(6社)、佐波(1社)、佐婆 |
(1社)などの字が当てられています。祭神は3社が源満仲(平安時代中期)で、残 |
り9社は源義朝(平安時代 |
藤沢今田の鯖神社 |
大和市上和田の佐馬神社 |
後期)です。いずれも左馬 |
頭に任じられているそうで |
す。しかし神社の創設はも |
っと古いものもあると言わ |
れています。地域の湧水を |
サワノカミ様として祀った |
祠が、後に義朝崇拝に変わ |
ったというのもあるかも知れません。 |
江戸中期から明治時代には疫病(疱瘡など)が流行すると、「七鯖参り」として境 |
川流域のサバ神社7社を1日かけて回り、厄除け、疫病払いをするという風習があっ |
たと言います。 |
私は、南北11km東西最大3kmぐらいの範囲にある12社全部を歩いて巡ったこと |
があります。どれも氏神様という言葉がふさわしい小さな神社で、境内はゲートボー |
ルや子供の遊び場にもなっているようでした。これからも希少な神社を見つけてお詣 |
りしたり由緒を調べたりしたいと思っています。 |