『トップページ履歴』2019年1月〜2019年12月
 
          トップページ 履 歴 一 覧  
2019. 7. 1 縄文文化についての考察        本部監査:太田 安穂 
2019. 6. 1 OB会写真サークルを作りませんか   本部幹事:三浦 弘幸
2019. 5. 1 終活を始める              副会長:佐藤 雅寿 
2019. 4. 1 佐野の石灰岩を訪ねて        佐野支部長:辻 隆太
2019. 3. 1 65歳を迎えて、今年も大好きな球技、家庭菜園に頑張っています 矢板支部長:荒井 一夫
2019. 2. 1 孫との夏休み            那須支部長:池田 知之
2019. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
      『 ト ッ プ ペ ー ジ  履 歴 』
2019. 7. 1 縄文文化についての考察        本部監査:太田 安穂 
 
 昨年、OB会のトップページへの執筆依頼を受け、青 太田_監査
太田_監査
森の三内丸山遺跡に感銘を受け、縄文時代の魅力につい
て述べた。その中で、戦後、団塊の世代である私達は
「日本は、中国・朝鮮半島から渡来してきた文明人に教
え・指導してもらい野蛮な原始生活から解放された。」
と教育されたことが見事に覆り、約1万5千年前から1
万年以上暮らし続けていることに嬉しくなって関連事項
の勉強を続けた。
 日本人とは、身体的特徴として一般に皮膚の色は黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色
で直毛、また幼児期に蒙古斑が現れることなどから、人種としてはモンゴロイド大人
種に属していることは疑いない。しかしモンゴロイドはいくつかの集団にわかれてお
り、これらの集団が日本列島において混じり合い、現在の日本人が形成されていった
過程は必ずしも単純ではない。
 現代においてもアイヌ、本州日本人(四国・九州を含む)、南西諸島人の身体形質
の間にはかなりの偏差がみられ、本州人と一括される人々においても地域や時代によ
って明確な変異が指摘できる。こうしたことから現在の日本列島に渡来し、日本人形
成に主要な役割を果たしたのがどのような人々であったかについては古くから諸説が
あり、速断できないものの、以下の仮説が現在有力である。
 まずウルム氷期にアジア大陸から縄文人の根幹をなした後期旧石器人(古モンゴロ
イド)が渡来し、氷期後に自然環境が緩和されて比較的安定した生活が始まると、日
本列島全域の縄文人の骨格は頑丈となり、独自の身体形質を獲得していった。やがて
縄文時代終末期から弥生時代にかけて再びアジア大陸から新石器人(寒冷地に適応を
した新モンゴロイド)が西日本の一隔に渡来する。渡来地域では急激に新石器時代人
的な身体形質が生じたが、渡来民が直接及ばなかった地域では弥生時代にもなお縄文
人的形質をとどめた。その後古墳時代から奈良時代にかけて本州(四国・九州を含む)
においては混血が進み、徐々に均一化の方向に向かったが、地理的に隔離された北海
道や南西諸島の人々は文化の変動に対応した身体形質の変化はあったものの、縄文人
的特徴が残されている。そこで新しい事実の発見と言う事で手に取ったのが「日本人
の源流」斉藤成也著である。帯には“縄文人の遺伝子は中国人・東南アジア人とはか
DNA
DNA
け離れていた。”と言う書である。
 核DNA解析で我々の起源を解き明かそうという試みで
解説してあるが、概ね前述の解説を否定するものではな
い。それによると関東、東北、北海道の各地から出土し
た縄文時代人の骨や歯からDNAを抽出し、現在では、100
個体を超える主としてミトコンドリアDNA系統を決定した。
ミトコンドリアDNAは常に母性遺伝すると考えられる。そ
こでの結論は、北海道と東北の縄人は、明確なグループ
を生成しているが関東の縄文人は、むしろ現代人に近い。アイヌ人は他の民族にちか
くなっている。但し、ミトコンドリアDNAは母系をたどることしかできないため、人
類の系統や移住の足跡をたどるためには、学問的には不十分である。
 そのため人類の足跡をたどるためには、父系の系統のみをたどるとができるY染色
体の分析と併せ検証するか、或いは人類の核DNAそのものを分析する必要がある。
そこで「日本人の源流」では、核DNA解析を試みている。しかし、ヒトゲノムの塩基配
列が決定されたのが2003年、世界の多数集団1.000人余りのゲノム配列が2012年に決定
されたものと比較検討をしている縄文人は、3貫地縄文人と呼ばれる1サンプルであ
る。まだまだ結論を導ける段階にはないと思う。ただ、古代日本列島に住み着き1万
年以上継続して独特の文明を築いた縄文人が繁栄・発展して今の日本人になったと言
うことはなく、最初に渡来したのはアイヌ人の先祖集団であり、縄文文化の担い手で
あった。その後、大陸・朝鮮半島から別系統の集団が渡来し弥生文化・古墳文化を生
み出した。残念ながらこの集団と縄文人の混血が現在の我々の祖先であるのは間違い
なさそうである。これらは、人骨その他の研究とも矛盾しない。
 そこで、どの位の人数の人がいたのかと思っていると次のような解説を見つけた。
4.300年前の頃、日本には26万人が住んでいたと言われている。原始時代としては高度
な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられている。住
居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高
かったといわれる。ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少する。
それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だった。原因は、気候
変動で気温が下がり、食料供給量が激減したこと。クルミ、ナラ、トチの実……貴重
な食料であったナッツ類が気温低下の影響を受けて激減してしまう。そして食料の供
給量に合わせるように、人口はみるみる減っていった。
 この時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が、一 火山灰
火山灰
瞬、大きく人口を減らしたこともあった。ただし、これ
は地域的なものであって、列島全体の人口減少という波
には結びつかなかった。 
 26万人といえば、東京ならほぼ墨田区の人口となる。
これが日本列島全土を使って生活していたと考えると、
かなりの余裕の人口密度と考えがちだが、当時の技術水
準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせる
ところまで増やしたギリギリの人口だった。そんなときに、気候変動がやってきた。
これが急激な減少の大きな原因となった。26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減
し、まもなく迎えた弥生時代。再び人口は増加に転じる。
 海の向こうから持ち込まれた稲作の技術が、全国に拡大。食料供給量がアップして、
それに合わせるかのように、またたく間に人口を押し上げたのだ。そんな「正のスパ
イラルによって」、4300年前から3000年前までの約1000年間で、8万人まで落ち込ん
だ人口はおよそ8倍の60万人まで伸びていく。 
 この縄文後期の人口減少期から、弥生時代の人口増加期にかけての人口カーブは、
日本列島の人口変動に共通する黄金パターンと言うことができる。その後も、日本列
島の人口の増加のポイントには、多くの場合、海外から持ち込まれた技術革新があっ
たからだ。新しい技術や社会制度などが持ち込まれるたびに、文明システムが転換し、
人口は増えていった。一方、そうした新しい技術が定着し、発展の余地がなくなると、
人口は横ばいに転じるのが常。そこに気候変動などが起こると、一転、人口が減少し
ていく。これが、日本の人口変動のひとつのパターンとなっている。 
 稲作技術をきっかけに始まったこの人口増加も、その後奈良時代には500万人と順
調に伸びていったが、平安時代の700万人をピークに再び減少期に入っていくとある。
そこで環境・自然災害について調べると、1万5千年〜3千年前と言うのはいわゆる
「縄文海進」と呼ばれる温暖期で海面が100m以上上昇した時期で低い場所に海水が流
れ込んで、島とか半島がなくなる等、環境的には厳しかった。更に約7300年前の鬼界
カルデラの大噴火に伴って噴出した火山灰は、鬼界アカホヤ火山灰と呼ばれ幸屋火砕
流と同時に噴出した火山灰のうち、上空に噴き上げられてから地上に降下したものを
いう。白色または淡褐色(オレンジ色)を呈し、雨にうたれると表面がコンクリート
のように固まるので、植生が大きく変わり、農業には適さない。火山灰に覆われた面
積は約200万平方km、体積は約100立方kmにもなる。偏西風にのって東北地方まで到達
した。
 九州南部において地下の比較的浅い場所に厚さ約1mの層をなしており、四国、中国
地方西南部および紀伊半島においても層として確認することができる。種子島では、
20〜40cm、琵琶湖では3〜5cmの厚さである。また、層が不明瞭な地域においては土壌
分析によって検出可能であり、おおむね日本全域で確認されている。
 地層の年代決定において縄文時代の早期と前期とを分ける重要な鍵層の一つになっ
ている。特に、種子島、屋久島、薩摩半島南部および大隅半島南部は、幸屋火砕流が
直撃し、当時居住していた縄文人は、壊滅的な打撃をうけた。このため縄文時代草創
期、早期の南九州で作られていた貝文土器(貝殻による模様「貝文」をつけた土器)
が滅亡した。一方、東日本では、約10万年前から新たな活動時期に入った富士山を古
富士火山と呼ぶ。
 古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、大量のスコリア、火山灰や溶岩を噴出し、標
高3,000mに達する大きな山体を形成していった。古富士火山の山体は宝永山周辺等富
士山中腹にかなり認められる。約2万年前に田貫湖岩屑なだれを生じた。氷河期と泥
流北東麓側で富士相模川泥流(1万7000前から1万4000年前)などの火山泥流が複数
回発生した。当時は氷河期で、最も寒冷化した時期には富士山における雪線(夏季に
も雪が消えない地帯の境界)は標高2,500m付近にあり、それより高所には万年雪また
は氷河があったと推定され、山頂周辺の噴火による火山噴出物が雪や氷を溶かし大量
の泥流を生じる融雪型火山泥流を発生させたと推定されている。
 東京周辺には、関東ローム層と呼ばれる褐色の細かい砂質の土が広がっている。こ
れは古富士火山から飛んできた火山灰が主体の土である。同時期には箱根山も大量の
火山灰を大規模に噴出させていたが、箱根の火山灰は白っぽく、古富士火山の火山灰
は褐色なので見分けが付く。約11700年前、三島溶岩流。約8500年前、山梨県大月市ま
で流れた猿橋溶岩。約8000年前、馬伏川岩屑なだれ。新富士火山旧期8000年前頃から
5600年前頃まで富士黒土層を形成。この時期は活動が低調であった。
 新富士火山中期5600年前頃から3500年前頃まで現在の円錐状の山体を形成。ほとん
どが玄武岩からなる。新富士火山旧新期前半3500年前頃から2300年前頃まで噴火様式
が「山頂山腹からの溶岩流出」から「山頂山腹での爆発噴火」に移行した。
 3300年前頃の噴火で大室山と片蓋山が形成。2900年前頃、御殿場岩屑なだれが発生。
新富士火山旧新期前半2300年前頃から現在まで新富士火山の火山灰は黒色が多い。
 新富士火山の噴火は地層的にも新しく、また8世紀以後には日本の古文書に富士山
の活動が記載されており、噴火について貴重なデータを提供しているが、噴出源およ
び年代が明らかになっていない溶岩流も多くある。
 一方地震では、長野県の阿久尻遺跡(縄文前期前半)の住居跡や柱穴が四角く並ん
だ「方形柱穴列」が見つかっている。これらの遺構は最大幅1.5mで西北西-東南東に
伸びる多くの地割れで引き裂かれており、これ以降生活の痕跡がしばらく途絶えてい
る。地割れは6千年前頃と考えられているが近くの活断層の影響と考えられる。
破 砕
破 砕
 このように縄文遺跡が地震の起きた時期の決定に役立
っている。その他地震の痕跡は、地割れ、液状化現象に
よる砂層などで全国的に見られ、頻繁に起こっていたも
のと思われる。この事から前述の人口変動の妥当性も納
得出来る。
 4300年前から3000年前までの約1000年間で、8万人ま
で落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人まで伸びた。
海の向こうから持ち込まれた稲作の技術が、全国に拡大。
食料供給量がアップして、それに合わせるかのように、またたく間に人口を押し上げ
たのだ。しかし、食料事情の改善と1000年という期間を考えても自然増だけで8倍に
なるとは、考えにくいので、相当数の渡来人が入ってきて、混血を繰り返した結果と
考えるのが妥当であろう。
 見方を変え文化的な面から検討していきたいがこれからは、殆ど私論である。
 この時期、中国では殷王朝があり、稲作技術と同時に文字、暦、国家制度なども入
ってきた筈だ。しかし、これらを伝えた渡来人達に支配、征服されたとは、考えられ
ない。当時の中国では、覇権争いを繰り返しており、もし、征服、支配されていたと
すれば習慣、言葉がもっと中国的になっているはずである。
 弥生、古墳時代を越えて渡来してきた「文明」の名の通り覇権争いを繰り返して、
国家が形作られる時に神武東征、大和朝廷による蝦夷討伐と縄文人の子孫であろう出
雲族・蝦夷が排除されていった。
 蝦夷と言う呼び方も中華思想そのもので他勢力に対し蔑んだ名称を付けて他に強要
する。その後は歴史に記された如く覇権争いに明け暮れて現代まで続く。
 縄文人・蝦夷が排除されたと云っても殺されたわけでなく恭順し支配下に組み入れ
られ同化していった。中には、拘束されるのを嫌い山の民・マタギ猟師となって生き
続けた者もいたろう。昔、矢口高雄の漫画「マタギ列伝」を思い出し嬉しくなる。話
を戻すと大量の渡来人が入ってきて、我々子孫に受け継がれた縄文人の割合が少なく
なっているとしても私達が持っている気質、慣習、性格に色濃く残っていると思う。
それには、日本独自の宗教「神道」が役立っているのではないか。民の支配の為、神
話と天皇制を関連させ、権威を象徴しているのは別にして、山岳や巨石、巨木など自
然そのものを神として祀り、そこから森羅万象に神が宿ると考えるのが「神道」であ
る。教典を持たない宗教として世界でも珍しく、日本人の不可解な性質、性格の根本
を形作っていると思う。神仏習合等も他の国では考えられないことで、厳しい風土、
環境中で生き抜き発展した縄文人達の生き方であり、智慧なのではないかと考える。
 日本列島そのものがユーラシア大陸の東岸を剥ぎ取ったもので北米プレートが東か
らぶつかり北海道、フィリッピンプレートが南からぶつかり伊豆半島ができるなど、
世界でも珍しい4つのプレートがせめぎ合っている不安定の場所である。
 海と大陸の境であるため台風等も発生するが四季が移ろい自然の恵みを授けてくれ
る。自然を崇め、稔りに感謝し、厄災を恐れ静まることをただ祈る。
 縄文人達から受け継がれたこの様な気質が戦後の困窮期や東日本大震災に世界を驚
かす行動、対処が出来たのだと思う。
 
2019. 6. 1 OB会写真サークルを作りませんか   本部幹事:三浦 弘幸
 
 何度かOB会ホームページに私の写真の趣味について 三浦_本部幹事
三浦_本部幹事
紹介させていただいていますが、実は私が本格的に写真
撮影を始めたのは今から6年半ほど前、67歳のときです。
 同じ町内に住む大学の先輩から「国立市(クニタチシ)在住
の同窓生の美術展に写真を出しませんか」と声がかかり
ました。写真を撮ることは好きで景色を撮ったり、記念
撮影的な写真を撮ったりしていて、パソコンに保存して
ありましたが写真展に出すような写真がどんなものかも
わかりませんのでお断りしたのですが、「今まで撮った写真の中から10枚くらい印刷
して持ってきてください」と言われ、それではと思って昔の写真の中から10枚の写真
を選んで、その先輩にお見せしたところ「なかなか筋が良いですね」とお世辞を言わ
れ、結局4点を写真展に出すことになりました。
 その後、その先輩から「実は私は日本写真会という会に入って長い間写真を撮って
います。三浦さんも日本写真会に入会しませんか。日本写真会は大正13年に資生堂の
初代社長福原信三がアートとしての写真を標榜して創った会で、日本で一番伝統のあ
る写真会なのですよ」と入会を勧められました。これがいわゆる「アートとしての写
真」を始めるきっかけとなりました。
 毎月第二土曜日に例会があり、会員が持ち寄った写真が150枚くらい展示されます。
例会に出席した会員はその中から良いと思った写真を8枚選んで投票します(自作は
選びません)。結果は直ちに集計され一席〜三席、佳作が発表されます。その後合評
会が始まり、一席〜三席の作品について各々作者の撮影意図、この作品を投票した人
の評価のポイントなどが発表されます。
 私を勧誘した先輩は同じ会社出身の日本写真会の会員の方々と「SPC会」という会を
作って毎月一回勉強会をしています。私もその会に入会させていただき、「アートと
しての写真」について少しづつ理解を深めるようになりました。
 「光とその諧調」、「光と影」、「写真は逆光で撮れ」といったキーワードをだん
だん理解できるようになってきましたが、日本写真会に入会してから約1年半は例会
に出した私の作品は全く評価されず佳作にも入ることはありませんでした。ところが
入会して3年目になって私の作品が立て続けに入賞(一席、二席、三席)するように
なりました。年に11回ある例会でなんと5回も入賞したのです。
全国大会会長賞
全国大会会長賞
 全国大会で会長賞を受賞、年間で最も票をたくさん受
賞した会員が受賞する「年間最優秀賞」を受賞、そして
翌年には一般会員から同友に推挙されました。同友にな
った年の日本写真会展では私の作品が同友の部の「最優
秀作品」に選ばれました。
 こんなことがあって写真撮影は私にとって大変大切な 
趣味になったのです。今年2019年、入会から丸6年が過
ぎて7年目に入りました。4月の日本写真会の総会で私
は「同人」に推挙されました。これは写真会の活動への寄与と、写真の実績が評価さ
れたことによります。同人には「指導的な立場での活動」が求められます。大変なこ
とになりました。
 
   <日本写真会での私の写真撮影活動の一端を紹介いたします>
 毎月の例会では二種類の写真を出展します。一つは毎月決められた撮影ポイントで
撮影する「撮影会」写真です。もう一つは「自由題」というジャンルで各自自由に写
真を選んで出展します。各々2枚ずつ写真を出展します。「撮影会」は自由参加です
が、私は必ず参加して作品作りをしています。そして「自由題」のためにいろいろな
ところに行って写真を撮らなければなりません。
撮影会作品_輝く軌道
撮影会作品_輝く軌道
撮影会作品_橋梁を走る
撮影会作品_橋梁を走る
 ちなみに2019年5月の例
会に発表する「撮影会作品」
は撮影の範囲が「鉄道写真」
と決められていて、撮影期
間は4月の例会日の第2土
曜日から翌週の火曜日まで
の4日間と決められていま
した。最初に構想を練り、
どこでどんな写真を撮ろうかと考え、日曜日に「北浦橋梁」、月曜日に「新幹線」、
火曜日に「江ノ電」という計画を立て、実行しました。そしてその中から2枚を「撮
影会作品」して出展しました。新幹線の写真は影会作品」して出展しました。新幹線
の写真は「流し撮り」で撮影しましたが例会作品としては選びませんでした。
 連休で混雑が予想される 自由題作品_夕映え
自由題作品_夕映え
自由題作品_順風満帆
自由題作品_順風満帆
中、令和初日の5月1日か
ら2泊3日で大洗、霞ケ浦
方面に撮影旅行に行ってき
ました。3日間、朝早くか
ら夕暮れまで撮影場所を求
めて移動を繰り返し、撮っ
た枚数は600枚。その中で
気に入った写真はとなると4〜5枚なのです。5月の例会の「自由題」の部に出展す
る写真はこの撮影旅行で撮った作品の中から選びました。
 大洗の海と反対にある「涸沼」で夕景を狙ったときに写した「釣りをしている人」
の写真と、もう一枚は5月3日にかすみがうら市で行われた「帆引き船フェスタ」で
撮った「帆引き船」です。「帆引き船」は霞ケ浦の風物詩でしたが、今では7月から
11月の日曜日に観光用に出航するだけになっています。「帆引き船フェスタ」の日に
特別に出航することを知り見学船から「帆引き船」を撮ることが出来ました。そして
5月の例会の結果は撮影会作品の「輝く軌道」が佳作、自由題作品は「夕映え」が佳
作という結果でした。
 以上私の入会している日本写真会の活動の一端を紹介させていただきました。
 
     <東京計器OB会「写真サークル」を作りませんか>
 東京計器OB会でも写真を趣味にされている方はたくさんいらっしゃいます。
「東京計器OB写真サークル」を作り、月に一度の例会、撮影会の実施などで一緒に
写真撮影を楽しみませんか。良い運動にもなります。そして帰りに一杯。またいつか
我々の写真展を開催することも夢見て。沢山の方々のご賛同をお待ちしています。
 ご参加を希望される方はOB会事務局または三浦宛てにご連絡ください。
         (三浦携帯:090-2565-8972、Eメール:miura2199@nifty.com)
 
2019. 5. 1 終活を始める              副会長:佐藤 雅寿 
 
 昭和、平成と生きてきて今年の秋に喜寿を迎えること 佐藤_副会長
佐藤_副会長
になった。
 75歳になり「後期高齢者」を迎えたときに、人生の終
わり仕舞いを考えねばと思いつつ、日を重ね今に至って
しまったが、残り時間も少なくなり真剣に考えるところ
に来た。「終活」を考える年齢は70代が一番多いとのこ
とであり、やっと間に合ったかという思いである。
 

 「終活」という言葉は就職活動をする「就活」のもじ
りと言われここ数年定着してきたようで、インターネッ
トで検索すると定義を初め、なぜやるか、また「終活」
のためのチェックリストなどのほか、アドバイザーの紹
介や、実際に代行してくれるサービスなどもあり至れり
尽くせりという感じだ。やるやらないを含め、程度の差
こそあれ全ての人が通過する儀式であろうと思う。
 さて、自分の終わり仕舞いは「人」「物」「金」の順
でやろうと思っている。
 「人」とは家族や親類縁者ではない、いろいろお付き合いのある友人知人や属して
いる組織や団体での人間関係などをどう店じまいをするかである。ここ数年年賀状を
今回限りで止めたいなどの挨拶が来るようになった。私はまだそうした挨拶を出して
いないが、儀礼的に年末に急ぎ出すことは止め、頂いた挨拶状に返事を出すか、寒中
見舞いでご返事を出すようにしている。これで年賀状は大分減った。
 またいろいろと所属している団体や組織からは役員や幹事は辞退し、ゆるゆると退
くことを考えている。住所録や、メールアドレスなども思い切って消去することにす
る。
 次に「物」であるが、これはいろいろあり、全く個人
のものから家族で共有しているものなど含めると物理的
にもかなりの量となる。自分のものは本、衣類(古い背
広、ネクタイ、Yシャツその他)これらは必要最低限に
する。書類は東京計器時代のものや、各種団体や組織で
の書類のファイルなどがかなりあるが、これらは全く価
値はなく見ることもないので即廃却する。これで本棚や
ファイルボックスが劇的に減少する。また、写真や資料
を記録した記憶媒体は最新のもののほか、破壊して処分する。
 写真は子供の成長を記録したものや、家族で旅行したときに撮った写真を含め、ア
ルバムに収めてあるが何十冊もあり、重くてかなりの場所を占めている。子供に欲し
いかと聞いても生返事であり、こちらで適当に処分するしかなさそうだ。他に夫婦二
人の生活には不要な食器なども処分の対象となろう。

 最後に「お金」関係であるが、これは遺言書に記すべ
きことが多いようである。まずは我が家の資産の状況を
把握する必要がある。それをベースに病気や介護が必要
になったらどうしたいか、場合によっては延命治療を施
すか、葬儀はどうするか、お墓は…医療や生命保険の見
直しの必要性はなど。そして遺産相続をどうするかであ
る。残されたものができるだけ戸惑わないように事細か
に記さねばならないようであり、これは頭が痛い。必要
なら専門家のアドバイスも考えたい。
 忘れていましたが、最近の高齢者の交通事故を考えれば、運転免許の返上が先にや
るべきことかもしれません。
 平成のうちに終えれば良かったのに「令和」に入ってしまい、そのため「令和」最
初のHPの記事が余りめでたく無い「終活」の話となったことは申し訳けない気がし
ます。
 
2019. 4. 1 佐野の石灰岩を訪ねて        佐野支部長:辻 隆太
 
 「新元号」にあらたまの、この良き年の春の日に、化 辻_佐野支部長
辻_佐野支部長
石と石灰岩が今も活躍中と聞き、東風に誘われて、佐野
市葛生地区を散歩して来ました。
 古い奴だとお思いでしょうが何億年も前からの話です。
 古い話には調査中・研究中も紛れてございます。聞き
かじりではございますが、しばしご容赦をくださいます
よう、お頼申します。
 
          葛生・石灰岩の 実家と親戚
現在は、東武電車館林発佐野線終点葛生駅を含めて足尾山地の南斜面佐野市北東部
の葛生地区に居りますが、元を質せば、葛生の石灰岩の山は2億〜3億年前は赤道に
近い暖かい海中にあり珊瑚や殻を付けた生物達の骨殻が積り積って生まれ、地殻移動
などにより日本列島が出来上がる過程で現在の位置にやって来たとのこと。
地殻移動
地殻移動
 移動や隆起の在り方については現在異なる説もあるそうですが実家は赤道に近い海
の中にあったことは間違いないようです。”龍宮城”の近くでしょうか。
 海の中の生物たちに発しました石灰岩の親戚は、アルプス山脈・ヒマラヤ山脈など
にも有り、遠くはギリシア時代から建物や彫刻に使われている大理石も親戚だとか。
 また、大陸の縁辺の浅い海や大陸棚で生まれた大量の石灰岩の堆積層、あのアメリ
カのグランドキャニオンも親戚で、現在育ちつつある例としてはオーストラリアのグ
レートバリアリーフや東シナ海なども、新しい親戚筋にあたるんだとか。更に、地球
から約3億数千万キロ離れた 「リュウグウ」 へは、ロケットで行く時代になりまし
たね。そこには炭素を含む化合物(有機物)や水分の存在も有望とされており、炭素
と水は人類を含む地球上の生物の基本的な要素であるそうで、地球生命の謎を解くデー
タを秘めた 「リュウグウ」 からのお土産、楽しみですね。
 
             化石館で(入館無料)
地球の歴史と葛生の化石
地球の歴史と葛生の化石
 予約無しで訪れたのですが、要すれば、そして在館中
なら、いつでも案内・解説してくれるとのこと。早速受
付で頼んだ。しばらくして、幸運にもOKとのこと。
 優しいお姉さんの「奧村よほ子」学芸員が快く引受け
てくれた。「葛生の化石を調べることは日本列島や地球
の歴史の解明につながる」とロマンを交えて優しく解説
してくれた。命枯れてもなお情報を発信し続ける化石。
さらなる発見で宇宙の謎がまた明らかになるとのこと。
 
フズリナ
フズリナ
新種の化石
新種の化石
ニッポンサイ
ニッポンサイ
〈フズリナ〉 米粒くらいの大きさで暖かい海に住んでいた有孔虫の仲間であるとか。
 進化の系統がよく研究されており、古生代末に突然絶滅した痕跡から、中生代への
転換期に起きた環境変化による大量絶滅原因を研究する化石としても注目されている。
存続期間は約1億年、石灰質の殻を持つ単細胞の動物で今は石灰岩中にある化石。
〈新種の化石〉 葛生化石館の学芸員奥村(おくむら)よほ子さん率いる古生物研究
チームが2015年に佐野市仙波町大釜地区で発見した二枚貝のような形状の化石も、古
生代ペルム紀(約2億7千年前)の腕足動物の新種であることが分かり、発見場所か
ら「アクリトシア・オガメンシス」と名づけられた。学名に地名が入り、命名者の一
人として「Okumura」の名前も刻まれたとのこと。すばらしい!
 奧村さんは「ペルム紀に海流の影響を受けた証しで、その後の日本列島の形成を解
き明かす一助となる」と教えてくれた。腕足動物研究の第一人者であり、古生代研究
チームリーダーで現在も活躍中。さらなる新種の発見と研究成果が期待されている。
〈ニッポンサイ〉 佐野市相沢地区で発見。ほぼ全身が揃ってる日本唯一の貴重品。
 石灰岩地帯で、侵食などで出来た地面の裂け目に埋もれている化石の仲間とのこと。
歯の形から、子供のサイで、元気なうちに穴に落ちてしまったとも推測されている。
 
 化石の系図、存在期間、絶滅・存続原因等の調査・研究から、今後の地球環境の変
化を予測し、これからの災害対策の貴重な資料となることも確かだと感じました。
 
             石灰岩も活躍中
 「葛生といえば石灰、石灰といえば葛生」と言われるほど広く知られています。
 石灰は海外資源に頼ることなく、国内で自給できる数少ない資源の1つだとのこと。
 セメントは石灰岩から作られる。大きな山が順次削ら 羽鶴地区の砕石風景
羽鶴地区の砕石風景
れて近くの工場に運ばれ、セメントに加工されている。
 また、石灰岩は銑鉄を作る高炉に運ばれ鉄鉱石・コー
クスと一緒に入れ鉄鉱石中に含まれるを不純物を、石灰
岩が熱分解して生じる塩基性の生石灰(酸化カルシウム)
と反応させ、溶融状態で高炉の外に取り出し易くするの
にも使われているとか。日本で採掘される、海で生まれ
た石灰岩は純度が高く工業原料としても非常に優秀なも
のだそうだ。また、石灰岩に含まれるカルシウムの一部がマグネシウムに置き換わっ
たドロマイト石灰は薬品・食品・農業・環境・化学工業・土木建材など幅広く、産業
分野で活躍中とのこと。ボーっと散歩に出かけましたが、葛生産の石灰岩は今日も道
路や建物なども含め私達の社会・文化を支えていることを教わりました。
 
「羽鶴小唄」のレコード
「羽鶴小唄」のレコード
 葛生の羽鶴(はねつる)地域のドロマイト石灰産業発
展期に工場長が社員や地域の和を目指して作成依頼した
「羽鶴小唄」が今もある。
 作詞は西条八十、作曲は古賀政男、唄は神楽坂はん子、
踊りの振り付けは初代の西崎 緑と、豪華メンバーによ
り昭和29年5月に制作され、コロムビアレコードから発
売された。現在はCD化され、地元常盤地区の盆踊りな
どで踊り伝えられている。
 この羽鶴小唄は,元はレコード盤だったが葛生地区には現在3枚しかないとのこと。
写真は無傷の盤で、佐野市葛生伝承館に保存されているものです。
 
 羽鶴峠まで来たらもうちょっと北へ、出流山(いずるさん)満願寺へ。出流山満願寺
は弘法大師作千手観音菩薩を本尊とする第十七番札所で1200余年前に修験の行者によ
り鍾乳洞が見つけられ、勝 出流山満願寺の奥の院
出流山満願寺の奥の院
鍾乳洞の十一面観音
鍾乳洞の十一面観音
道上人によって開山された
由。
 本堂の横を過ぎて、山道
をのんびり20分程行くと、
崖の上に奥の院が見え、階
段状の道を登ると「奥の院」
に到着。参拝し奥を見ると
洞窟があり、頭をぶつけないように進むと、自然にできた鍾乳石の「十一面観音像」
があった。資料によれば、この鍾乳石の観音像を拝しに紀州から来た旅の僧が石灰石
の実用性も説き、その後この地区の石灰石は、御用石灰として江戸に送り続けられ、
江戸城の修復、更に日光東照宮の造営にも使われたとか。彼も町興しの恩人ですね。
 帰路は、街道名物、出流(いずる)蕎麦を楽しみながら、今、なんどきでエ〜。
 
                追 記
 こちらも古い話ですが、三橋さんが2006年8月のホームページ3日付のよもやま話
で紹介されていた「東山魁夷画伯の日記」のことを思い出しました。画伯が、「東京
計器、小諸工場に勤務されていたことがある」との話です。
東山魁夷の略歴
東山魁夷の略歴
 お正月に上野発の鈍行列車京成本線に乗り市川市八幡の次の鬼越(おにごえ)で降
りて、友人からの誘いで近くの「東山魁夷記念館」に行ってきました。
 「巡礼への道のり」という特別展で 東山魁夷画伯と平山郁夫画伯の作品でした。
 絵画は心の表現であり、画家の描いた心を、心眼で観ると、言葉を超えた感動があ
るとのこと。私は見るレベルですが、素敵と感じました。最も感動したのは魁夷画伯
が三橋さんの「よもやま話」で紹介のあったように、東京計器のOBであったことを
会場のパネルと図録中にもある「略歴」にて改めて確認できたことでした。
 三橋さんがお世話になった小暮和代学芸員さんは既に退任されており、残念ながら
お会いできませんでしたが。  
 
2019. 3. 1 65歳を迎えて、今年も大好きな球技、家庭菜園に頑張っています 矢板支部長:荒井 一夫
 
65歳を迎えて、今年も大好きな球技、
         家庭菜園に頑張っています 矢板支部長 荒井 一夫
        
 
 来年度も子会社である東京計器テクノポ−トにシニア 荒井矢板支部長
荒井矢板支部長
職として再契約を頂き、微力ながら頑張っていく所存で
す。私も「人生百年時代」と言われる現代、折り返し地
点を過ぎ五分の三に達し、65歳を迎えて年金を貰う時期
を迎え、雇用機会満了後の生活について時々考えること
がありました。幸い再契約をして頂いたこともあり、今
後は自分の体力に合わせて働き、会社に貢献できるよう
に頑張っていきたいと思っています。
 何時も今頃になると、トップペ-ジに何を書こうか悩んでいます。何もない私です
ので今回も趣味の球技、家庭菜園について書きます。
 今年も1月20日に矢板シニアの総会が行なわれました。懇親を深めながら、今年の
活動方針及び昨年の反省等などが議論されました。また、練習も1月25日から始まり、
体に相談しながら頑張っています。
野 球
野 球
 一昨年の夏(8月)に、股関節及び肩を痛め(通称60
肩)、余儀なく運動が出来なく去年も前半は休部状態に
なってしまいました。本調子でないが復活できたのが8
月以降で、試合に出る機会も少なく残念な年でありまし
た。今年は肩の調子も良いようなので、年齢を考慮しな
がら一年間頑張っていいくつもりで練習に取り組んでい
ます。私としても、今までこのような怪我をしたことも
無く、自信過剰の処があったような気がします。大いに
反省をしています。
 今年も、矢板シニア60歳以上の野球と地域のソフトのチ−ムのみに登録を絞り頑張
って行こうと思います。
 昨年を振り返ってみますと野球チームの勝率成績は5 ソフトボール(バッター)
ソフトボール(バッター)
割そこそこで今一であった。個人の成績は後半の3試合
しか参加していないので評価は出来ません。
 ソフトについては昨年同様、優勝1回、準優勝2回あ
り、素晴らしい成績でありました。個人としては、チー
ムの代表兼選手であり選手としては50歳以上の大会のみ
の参加で機会が少なかっです。
 今年も野球、ソフト共に出場機会が少なくなりますが、
体力と相談しながら無理をせず、健康維持をしながらチームに貢献できるよう取り組
んでいきます。
 今年の矢板シニア野球部は、1月25日から練習を開始していますが、練習試合の予
定も3月から入っており、私として体調を整え、試合に出場できるよう調整をしてい
きたいと考えています。試合に出場するのも、昨年から若い人も加入して、層が厚く
なりレギュラ−の確保も大変です。
 ソフトボ−ル(中西ソフト)については、4月7日がディゲ−ムで矢板市会長杯の予
定が組まれています。昨年は2回戦で敗退をしてしまったので、更なる上を目指して
頑張るつもりです。今年も矢板の5月以降の大会は全てナイタ−で開催されます。
 もう一つ今年の目標としてゴルフのスコア−をコンスタントに80台で回れるように
練習に取り組んでいきたいと考えています。次回報告します。
 
 次に今年も、恒例の趣味として続けている家庭菜園の話をします。
 昨年は春先にジャガイモ、トマト、キュウリ、ネギを秋口には白菜、大根、ホウレ
ンソウ、シュンギクを植えました。
キュウリ
キュウリ
大 根
大 根
 毎年の反省として、美味
しい野菜を作るには、土壌
作りが一番大切です。その
ために今年も、色々な教材
等で知識を深め、狭い自宅
の庭の隅の畑に石灰、肥料、
堆肥を混ぜて耕し土壌を作
り、色々な野菜を植えまし
た。
 毎年のように、反省を踏まえて色々な野菜を作っているのですが、土壌が悪いせい
か、思った通りの野菜ができません。その中でトマトだけは毎年、10月頃まで収穫が
出来て家族に喜ばれていま トマト
トマト
ジャガイモ
ジャガイモ
す。トマトは水をあまりや
らない方が甘いものが出来
るそうです。トマト以外で
も美味しくて、沢山収穫出
来るようにするには、失敗
しながら経験を積むことが
重要であると、毎年反省さ
せられます。
 何時も家族には買った方が「安くて美味しいとか」????と嫌味を言われないよ
うに頑張ります。これからも家族に喜ばれる野菜作りに専念していきたいと思います。
 最後に本年は改元、そして上皇誕生という二重の国家行事が執り行われる年であり
ます。そもそも、この元号というものは、大化に始まり、その後二百四七回改元され
て現在に至っていて、ここで採用された漢字は七十二字で全て縁起の良いものが選ば
れているそうです。また、明治維新から一世一元号になったそうですが、それ以前に
は、大きな災害等などがあった際には改元されているそうです。気分一掃、人心一新
が図れたのではないでしょうか。在任中に九回も改元された天皇もおられたそうです。
 さて、この平成という時代は皆様方にとってどのような時代であったのでしょうか。
今こそ真摯に見極め、数か月後にやってくる次なる時代を楽しみに心待ちにしたいも
のです。そして新元号が明るい希望を託し、意識を新たにして大いなる躍進を図って
参りたいと願っているところです。
 
2019. 2. 1 孫との夏休み            那須支部長:池田 知之
 
孫との夏休み 那須支部長 池田 知之
 
 東京に住む小学校5年生の孫は、東関東大震災の年を 池田_那須支部長
池田_那須支部長
除き、生まれてから毎年、春休み・5月の連休・夏休み・
冬休みには那須の我が家に来る。夏休みは長い年では20
日近く居ることもあり、その間に自由工作・自由研究の
宿題を完了させる習慣になっている。
 小学校1年生の自由工作では、図書館で一緒に借りて
来た本の中から500mlのペットボトルを車体にしたレーシ
ングカーを選んだ。近くのスーパーのゲームコーナにあ
レーシングカー
レーシングカー
るガチャガチャのカプセル置き場から同じ大きさのもの
を手に入れタイヤに使うことにした。他の材料は家にあ
るもので全て揃え、組み立方や作業の仕方を説明しなが
ら、実作業は本人一人でやらせた。途中で飽きて他のこ
とをやりだしたりして時間はかかったが、何とか完成さ
せ、家族全員に説明し、走らせ自慢していた。よほど嬉
しかったようだ。また、放課後友達と走らせ遊んだと話
していた。
 2年生になると、友達と遊べるビー球を使ったパチンコ台を作りたいとポンチ絵
(とはいえない?)を描いてきたが、いまいち不明であったが、30cm角のベニヤ板に
釘を打ち、半分に切ったマスキングテープの芯を穴にして、何とか仕上げていた。こ
れもともだちに人気があり、放課後遊んだと自慢していた。また、この夏行った、ク
ラゲで有名な“鶴岡市立加茂水族館”の様子を絵葉書に 絵葉書掛け
絵葉書掛け
書いていたのを見て、絵葉書の壁掛けを作ろうと提案し
たら、やってみたいと言い出し、一番易しい四ツ目編を
教え“四ツ目編み絵葉書掛け”を作った。当然、手持ち
材を使い、縁作りは小2には無理なので、接着剤で止め
た。作業を始めるまでは時間がかったが、始めると熱中
してやり遂げたのには感心した。
 私の趣味の竹工芸にも少しは興味があるようで、毎年
出品している全国竹芸展を見に来る。
自由研究「化石}
自由研究「化石}
 小学校3年生の夏休みには、孫の希望により3泊4日
で福井県の恐竜博物館へ車で出かけた。館内は想像して
いたよりもはるかに広く、多くの種類の恐竜が展示され、
迫力満点で、大人も十分楽しめた。孫は4日間通い詰め
で館内を飛び回り150枚以上の写真を撮っていた。
 4日目には事前に申し込んでいた発掘体験で恐竜の化
石を掘りあてると張り切っていたが、植物の木の葉の化
石は採れたが、恐竜の化石は発掘できず残念がっていた。
この博物館で見たり経験した内容を自由研究にまとめ提出したようだ。
 4年生の時は、自由研究の題材が決まらず悩んでいた孫は、塩原温泉街を流れてい
る箒川の河原で「化石」が採れるという話に興味を示した。ただ、私と同様、化石が
本当に採れるのか?疑っていたが、取りあえず場所を調べ、大黒岩と云う場所に行っ
てみた。駐車場には、1台の車もなく、周りにはスズメバチが飛んでおり、崖下への
道は狭く、急な坂道を降りる途中では蛇の歓迎に会い、やっとの思いで河原に出た。
この場所は「崖を壊したり、削るのは禁止だが,河原に落ちている石は持ち帰りOK」
の立て札があり、7〜8個の石を持ち帰った。我が家の車庫で、孫と二人でトンカチ
で石を割ってみたら化石のようなものが出てきた。鑑定してもらうため「那須野が原
博物館」に持ち込んだが、担当者不在で判定不能。翌日、母親も加え3人で石を取り
に行き、リュック一杯に石を詰め持ち帰った。駐車場に作業場所を用意し、孫と夢中
になって割り、化石らしきものが出てきたときは、二人で飛び上がってハイタッチを
して喜んだ。次の日、採掘した物を鑑定してもらいに塩原にある“木の葉化石園”に
行ったところ、タイミングよく県内では一番詳しい(と言われていた)教授が居り、
化石とただの石とを見分けてくれた後、貝の名前は図鑑に載っているからと「とちぎ
の化石図鑑」(この教授の名前が編集委員名簿にあった)を安く譲ってくれた。
マガキ
マガキ
カイ
カイ
タイオウシラトリガイ
タイオウシラトリガイ
 この図鑑や博物館の資料によると、「中新世中期〜後期(約1500万年〜約900万年
前)の栃木県は、現在の八溝山地や足尾山地などが所々、島であったほかは、海底に
沈んでいた。この海だった時代に形成された地層には、貝類や魚類、海生哺乳類など
の化石が含まれている。中新世の化石海成層からは、貝類の化石は普通に産出する。
場所によっては、化石が多産したり、貝の化石が集まって層を形成したりする。また、
塩原は火山高原山の塩原カルデラ内にできた東西約6km、南北3kmの三日月型の塩原
化石湖(または古塩原湖)の湖底に堆積した堆積物の塩原湖成層があり、貝・魚・植
物・哺乳類・爬虫類の化石が発掘されている。」とあり、私も孫も化石が採掘できた
ことに納得した。
 孫は、哺乳類や爬虫類や恐竜の化石を発掘してみたいと感想文に書いていた。私も
自由研究に付き合ったことで、こんな身近に化石が眠っているのに驚き勉強になった。
 5年生になると、我が家 大和さざれ石
大和さざれ石
ご神木
ご神木
に来た時には、那須に古く
から伝わる「九尾の狐伝説」
を調べるとテーマを決めて
いた。
 資料を集めるため那須高
原観光案内センターへ行っ
た。孫が自由研究で調べに
来た旨を伝えるとセンターの人は、“殺生石伝説と九尾の狐”のパンフレットと地図
をくれ、色々と丁寧に説明をしてくれた。那須温泉神社を見学しながら殺生石に向か
ったが、境内は広く、君が代に出てくる“細石”やその石碑、見事なご神木などがあ
り、長閑で神聖な気分を味わいながら見学していたが、孫は説明文が書いてある立て
看板を読み、写真を撮りまくっていた。
殺生石
殺生石
 温泉神社から「殺生石」まではハイキングコースにな
っており、上から全景を一望でき、緑に包まれた景色の
中に、草木が一本も生えていない場所があり、その瓦礫
の中に「殺生石」が見えた。見学コースは木道が設置さ
れ、その両脇には「教伝地蔵」「千体地蔵」「湯の花採
取跡」などがあり、ここでもその都度看板を熱心に読み
写真を撮っていた。帰りに観光案内センターへ寄り、
“九尾の狐が姿を変えた石が3つに割れた残りの二つは
何処へ行ったのか?“など疑問点を質問していた。その後、職員から、九尾の狐が射
止められたといわれている“鏡が池”が大田原市内の「玉藻稲荷神社」にあることを
教えられ、カーナビで探しながら行った。
 誰もおらず、寂しい神社であったが、綺麗に清掃され 玉藻稲荷神社
玉藻稲荷神社
ており、狛犬ではなく狛狐がおかれ、本殿の横には、
“鏡が池”あった。
 立て札には「池の面近くに伸びた桜の木の枝に蝉の姿
に化けている狐の正体が池に移ったので三浦介は難なく
九尾の狐を狩ったと伝えられ、これが“鏡が池”と呼ば
れるようになったと」と書いてあるのを見て、孫はこの
神社は九尾の狐と関係があると思うと言っていた。
猿が池
猿が池
 感想文には、「九尾の狐は、特別なすごい力を持つす
ぐれた狐だと思う。それを悪行に使うことはいけない。
その力を良いことに使っていれば」とあったのにはホッ
とする思いだった。孫と一日付き合って、疲れたが、近
場にもいろいろな伝説があることを知らされ、楽しかっ
た。また、これほど根気よく、熱心に取り組んでいた孫
の姿を見て、成長したものだと感心し、嬉しかった。
 
 どのようにまとめたか気になっていたが、この冬休み 自由研究「九尾の狐」
自由研究「九尾の狐」
に持参したのを見て、良くまとめたと思った。また、小
学校5年生でパソコンを使って、ワープロでまとめてあ
ったのには驚いた。
 このように振り返ると、子供は一年ごとに成長してい
るのが分かるし、孫と一緒にやると楽しいし、少し若返
った気分を味わえた。
 今年の6年生の夏休みの題材は? 今から楽しみにし
ている“じぃ〜じ“である。
 
2019. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
   新年のご挨拶 OB会 会長 八木 宏  
 

 
         明けましておめでとうございます。
 会員の皆様には、ご家族ともども健やかに新年をお迎えになったこととお慶び   
申し上げます。地震や台風などの自然災害がなく穏やかな毎日が続くとともに、
日本と世界のさまざまな困難が少しずつでも解決することを願っています。
 
 今年は秋にラグビー・ワールドカップが開かれます。きっと成功して来年の東京
オリンピックに繋がっていくものと期待しています。
 OB会もさらに充実するよう幹事一同で努めたいと思いますので、皆様もさまざま
な形で参加し互いに交流していただけると幸いであります。
 
             はじめての栃木市    
 栃木県は佐野、矢板、那須の3事業所に田沼も加えて東京計器の重要な製造拠点に
なっています。またOB会の3支部がそれぞれ活発に活動していただいています。
 私自身をふりかえると、出張は何度もありますが栃木への転勤の経験はありません。
 それでも那須高原、塩原温泉、日光、宇都宮などに行ったことがあり栃木のことを
多少は知っているつもりになっていました。
 先日「ちょっとしたきっかけ」があり栃木市をはじめて訪れました。
 栃木市というからには栃木県の中心であって然るべき 栃木の町並み
栃木の町並み
ですが、県庁は宇都宮にあり栃木市には新幹線も通って
いません。しかし人口は宇キ宮市、小山市につづき県内
3番目の16万2千人です。
 歴史を振り返りますと明治4年の廃藩置県で栃木県と
宇キ宮県が設置されました。2年後に両県が統合されて
栃木県となり明治17年まで県庁は栃木町(現栃木市)に
置かれました。それだけ栃木は栄えた町だったのです。
 栃木駅のコンコースに栃木市観光案内所があり、その上部が「からくり時計」にな
っています。正時になると動き出して栃木市の見どころを紹介しています。
 賑わう商家と蔵の街なみ。 からくり時計_1
からくり時計_1
からくり時計_2
からくり時計_2
 巴波川(うずまがわ)を
行く舟には花嫁さん。
 まつりの山車が動きます。
 店の前にいる丁稚さんは
「路傍の石」の吾一少年で
作者の山本有三は栃木市の
出身だそうです。
 
                蔵の街
 駅を出て大通りを進むと蔵の街らしい風情が続きます。通りは無電柱化がされてい
ます。蔵は普通の土蔵のほかに1階を店舗にする見世蔵も多くあります。
 昔の店舗や蔵を改装・利用した記念館、郷土館や山本有三ふるさと記念館などもあ
りました。豪商・善野家の200年前の土蔵を改装した「とちぎ蔵の街美術館」では
「浮世絵で見る歌舞伎の世界」石川常四郎コレクションの役者絵という展示を行って
いて、なかなか楽しめました。
電柱のない町並み
電柱のない町並み
見世蔵
見世蔵
とちぎ蔵の街美術館
とちぎ蔵の街美術館
 山車を使う祭は秩父夜祭、高山祭、京都の祇園祭、岸和田だんじり、博多祇園山笠
など全国に多数あり各地で盛大に行われるようですが、 山車・劉備玄徳
山車・劉備玄徳
栃木市でも2年に1度の「秋まつり」に12台の山車が曳
き出され市内を練り歩き大いに賑わうそうです。
 私が行ったのは数日前に終わった時で、後の祭り。
 山車会館には3台が保管されていて、祭の歴史を紹介
したり、祭を楽しむ人々の様子を伝える映像の中から山
車がせり出して来る迫力ある演出で楽しめました。山車
に関わる資料もたくさん展示されていました。
 大通りから少し横道に入っても蔵があちこちに残って店舗に改造されたり記念館に
なったりしていました。珍しく洋風木造2階建、銅板葺の建物もありました。
 大正2年建築で文化庁の 蔵の前の店
蔵の前の店
栃木病院
栃木病院
登録有形文化財に指定され
ている旧栃木病院です。
 今も病院として現役です。
 江戸時代や明治時代の蔵
が立ち並ぶ街にあって少し
雰囲気が違う建物も大いに
印象に残りました。
 
             日光例幣使街道
 大通りを進んでいくと岡田記念館(慶長以来の旧家・岡田嘉右衛門屋敷)のあたり
に日光例幣使街道、嘉右衛門町・伝統的建造物保存地区などの立て札がありました。
 先に「ちょっとしたきっかけ」と書きました。実はBSの「にっぽん縦断こころ旅」
を見ていたら火野正平さんがここに「とうちゃこ」したのです。
 中でも例幣使というものに興味を引かれて栃木市を訪ねる気になりました。
 東照大権現に祈りを捧げる「幣」(ぬさ)を朝廷から東照宮に奉納するために毎年
派遣されたのが例幣使です。「幣」を納めた黒革長持を中心に例幣使及び随員たち50
人前後の一行は京、近江草津から中山道を進み、倉賀野宿から例幣使街道に入り太田、
天明(佐野)、栃木宿などを経て楡木宿に至り、壬生道を経由し今市からは日光道を
通って日光・東照宮に至るという14泊15日の旅だったそうです。
例幣使街道
例幣使街道
岡田記念館
岡田記念館
油伝味噌店
油伝味噌店
 栃木はこの街道の宿場町となって人が集まり物も集まるようになりました。さらに
巴波川の舟運により江戸との交易が盛んになって栃木の 蔵の街遊覧船
蔵の街遊覧船
商人たちは隆盛を極めました。
豪商たちが巴波川の両側に沿って建てた多くの白壁土蔵
が現在の蔵の街につながっています。
 蔵の街遊覧船で往時の隆盛をしのぶことができます。
 蔵の街を駆け足で回りましたが十分楽しめました。
 日光例幣使街道は倉賀野から楡木まで約82km。
 ほかの宿場や街道はどんな様子でしょうか。
 いつか2泊3日ぐらいで歩いてみたいものです。