|  |  |  | 
  
    |  平成最後の褒章、叙勲が昨年の秋に発表、授与されま | 
    
     
     佐藤_副会長 | 
  
  
    | した。 | 
  
  
    |  そこで、東京計器の元会長、社長の廣野信衛氏が平成 | 
  
  
    | 7年(1995年)の春の叙勲で「勲三等瑞宝章」を受けら | 
  
  
    | れた時のことを思い出しました。廣野信衛氏(以後廣野 | 
  
  
    | さんとお呼びする)は大正14年(1925年)に生まれ平成 | 
  
  
    | 23年(2011年)にお亡くなりになりました。満86歳でし | 
  
  
    | た。没後7年余りが経過いたしました。 | 
  
  
    |  褒章や叙勲を受けられた方の最初の言葉(枕詞)として“図らずも”ということを | 
  
  
    | 言われますが、廣野さんの叙勲のための資料をまとめた経験からは、かなり前から | 
  
  
    | (1年がかりで)準備しないとある時期の叙勲に間に合わないということです。要す | 
  
  
    | るに「図らねば」ならないということです。 | 
  
  
    |  高名な政治家はその職位で、お役人はその立場である程度の叙勲が約束されている | 
  
  
    | ようです。しかしながら余程の大会社ならいざ知らず、民間の企業のトップが勲章を | 
  
  
    | 貰うとなると事前準備にかなりの時間が必要となります。 | 
  
  
    |  それ以前、河野俊助元社長も「勲三等瑞宝章」を受けられましたが、その資料作り | 
  
  
    | をされた清水有道さんのお話ですと、当時の資料はB5版縦書きのタイプ印刷であり、 | 
  
  
    | 一字直すにも一枚の資料を打ち直すとのことで専用のタイピストが張り付いていたと | 
  
  
    | お聞きしております。私が担当した時にはA4版横書きでワープロも可ということで | 
  
  
    | 修正、削除、追加など簡単にできました。 | 
  
  
    |  東京計器のようなメーカーが叙勲の申請をするには、所属する工業団体の推薦が必 | 
  
  
    | 要であり(この時は油空圧工業会―当時廣野さんは会長)、被叙勲者個人に大きな瑕 | 
  
  
    | 疵がないこと、さらに廣野さんの社長在任期間中に会社の業績に赤字などがないこと | 
  
  
    | が最低条件です。何しろ叙勲を申請する業界、団体、推薦は他に航空宇宙工業会、 | 
  
  
    | 舶用工業会など貰えるところはどこでもという感じで推薦を受けました。 | 
  
  
    |  一番のネックは河野さんとは違い廣野さんが通商産業省に入省し、その後民間企業 | 
  
  
    | にあちこち異動していることでした。すなわち通商産業省から民間の曙ブレーキ株式 | 
  
  
    | 会社へ転進し、その後日本ミネチュア株式会社(以後NMBと呼ぶ)へ移りました。年配 | 
  
  
    | のOBの方々にはご記憶の方も多いと思いますが、昭和47年(1972年)から翌年にか | 
  
  
    | けてNMBグループが東京計器に対して株式の買占め、M&B(合併、買収)を仕掛けて | 
  
  
    | きました。いろいろと紆余曲折がありましたが三菱重工業株式会社殿の協力を得てNMB | 
  
  
    | の思惑は挫折いたしました。しかしNMBは当社にH氏と当時、取締役副社長であった | 
  
  
    | 廣野さんを取締役として就任させるよう要求し、飲まざるを得ませんでした。一時、 | 
  
  
    | NMBは昭和52年3月期に当社株式の30%近くを占めましたが、昭和56年3月期には3% | 
  
  
    | ほどになり、この問題は終結に向かいました。その後皆さんご承知のように廣野さん | 
  
  
    | は昭和60年(1985年)3月河野社長の逝去があり、第6代社長に就任いたしました。 | 
  
  
    |  こうした経緯があり、廣野さんの履歴を記すとき、当時の総務省賞勲局からは異動 | 
  
  
    | 時のいきさつを詳しく記すようにと言われました。すなわち通商産業省から曙ブレー | 
  
  
    | キに移った経緯、その後なぜNMBへ移ったのか、NMBでは何をしていたか。やめて東京 | 
  
  
    | 計器に移ったのは何故かなどです。 | 
  
  
    |  特にNMBと東京計器の株買い占めM&Bなどは大きく報道されており、正直に記す必 | 
  
  
    | 要がありました。いずれにしても勲章は「図らないと」もらえません。当然のことな | 
  
  
    | がらご本人は「図り事」を十分ご承知のはずですが、何か「図らずも」と言われます | 
  
  
    | ね。  | 
  
   |  |  |  | 
  
    |  この10月に高校時代の仲良しグループ5人で近江路を | 
    
     
     三好_本部幹事 | 
  
  
    | 自転車で走ってきたのでレポートします。 | 
  
  
    |  実は昨年春に、このページで紹介した「筑波路を走る」 | 
  
  
    | の二番煎じで恐縮ですが、当時と同じメンバーに前回心 | 
  
  
    | 臓病検査のため不参加だったA氏を加え5人で、今回は | 
  
  
    | ちょっと遠い琵琶湖まで足を伸ばしました。 | 
  
  
    |  メンバーは全員今年75歳の老人で、老人チャリダーと | 
  
  
    | いうよりは「後期高齢チャリダー」と言った方が良いか | 
  
  
    | も知れません。 | 
  
  
    |  出発予定の10月1日は台風24号が日本列島を縦断中で、前日に取りやめを検討しま | 
  
  
    | したが、通過スピードが早いので当日朝判断ということになりました。当日極早朝は | 
  
  
    | 猛烈な風が吹き荒れましたが、明け方になると台風は通り過ぎていたので、当初予定 | 
  
  
    | より3時間程遅らせて決行することになりました。10時過ぎに昭島のK氏宅に集合し、 | 
  
  
    | ワンボックスカーの屋根に2台、車内に折り畳み2台の自転車を積み込みいざ出発。 | 
  
  
    |  台風の後遺症で東名、新東名高速道ともに全線通行止めということが分かったため、 | 
  
  
    | 中央道経由名神高速道路で、初日の目的地である近江八幡に向かいました。途中風が | 
  
  
    | 強かったものの台風一過の良い天気で、4時前に近江八幡に到着しました。 | 
  
  
    |  近江八幡は豊臣秀吉が築いた城下町を基礎とし、商業都市として発展した町で、近 | 
  
  
    | 江商人発祥の地との事です。町には堀が縦横に張り巡らされていて水運によって発展 | 
  
  
    | した事がうかがわれました。当初計画ではここをサイクリングでの町巡りと八幡堀の | 
  
  
    | 遊覧船でしたが、出発遅れのため中止し、堀とその周辺の白壁の蔵造り見学に留めま | 
  
  
    
     
     近江八幡 | 
    
     
     琵琶湖畔夕景 | 
    した。街並み見物後1泊目 | 
  
  
    | の宿「休暇村近江八幡」へ | 
  
  
    | 向かいました。途中琵琶湖 | 
  
  
    | 畔に出た時、丁度夕日が沈 | 
  
  
    | むところで、素晴らしい湖 | 
  
  
    | 畔の夕景を鑑賞出来ました。 | 
  
  
    |  休暇村近江八幡は目の前 | 
  
  
    | に琵琶湖の絶景が広がる湖 | 
  
  
    | 畔の温泉宿で、すぐ前の砂浜では湖水浴もできるそうです。我々は近江牛と松茸のす | 
  
  
    | き焼きを堪能し、がら空きの露天風呂で琵琶湖周航の歌を大合唱して早めに就寝、翌 | 
  
  
    | 日のチャリ行に備えました。 | 
  
  
    |  2日目も天気は上々で、朝食をさっさとすませ、主目的のサイクリングに出発しま | 
  
  
    | した。駐車場で、自転車を屋根から下ろしたり、組み立てたりが大仕事でしたが、何 | 
  
  
    | とかこなし先ずは彦根城まで「いざ出発!」です。 | 
  
  
    |  休暇村から湖岸道路に出 | 
    
     
     準備も大変 | 
    
     
     湖 畔 | 
  
  
    | て、彦根城までが午前の行 | 
  
  
    | 程で、まず出てきたのが岬 | 
  
  
    | を越えるちょっとした峠道 | 
  
  
    | です。久しぶりの自転車で、 | 
  
  
    | ちょっと面喰いましたが、 | 
  
  
    | ちょうどよいウォームアッ | 
  
  
    | プと割り切り皆頑張って湖 | 
  
  
    | 岸に出ました。今回のサイクリングは、心臓に不安のあるA氏が自転車を見送ったた | 
  
  
    
     
     湖岸道路 | 
    め、サポートカーの回送役を引き受けてくれました。 | 
  
  
    | (写真「湖畔」の左端ラフな格好がA氏) | 
  
  
    |  湖岸道路はアップダウンが全くない広い道で、車道と | 
  
  
    | はしっかり縁石で分かれているため老人でも安全に走れ | 
  
  
    | ました。左手に雄大な琵琶湖の景色を見ながら快適に走 | 
  
  
    | る事約2時間、彦根の街並みに入り彦根城が見えてきま | 
  
  
    | した。駐車場でサポートカーと落ち合い、彦根城をじっ | 
  
  
    | くり見学しました。 | 
  
  
    |  彦根城は関ケ原の合戦後の論功行賞で井伊家当主直正 | 
    
     
     彦根城 | 
  
  
    | が石田三成の旧領を拝領し、次代の直継が彦根に城を構 | 
  
  
    | え、次の直孝の代(1,607年頃)に天守が完成したとのこ | 
  
  
    | とです。そしてこの天守は昭和27年に国宝に指定されま | 
  
  
    | した。さすが国宝だけあって素人目にも素晴らしいお城 | 
  
  
    | でした。お城をゆっくり見学後彦根の街へ。彦根の街並 | 
  
  
    | みは古い建物が残り、旧城下町に倣って整備したことも | 
  
  
    | あり、落ち着いた風情のある観光名所になっていました。 | 
  
  
    
     
     街 並 | 
    
     
     ひこにゃん | 
     彦根といえば、数年前か | 
  
  
    | ら話題になりだしたご当地 | 
  
  
    | マスコットキャラクターで | 
  
  
    | 「ひこにゃん」が大ブレー | 
  
  
    | クしましたが、タイミング | 
  
  
    | よく街のイベント広場で本 | 
  
  
    | 物の「ひこにゃん」に会え | 
  
  
    | ました。彦根の街でゆっく | 
  
  
    | り休憩を取った後、次の目標地点20q先の長浜へ向けて出発しました。道は相変らず | 
  
  
    | 平坦な湖岸道路で天気も良く、風もなく最高のサイクリング日和で、皆快調に飛ばし、 | 
  
  
    | 道の駅に寄ったり、巨大な長浜観音を拝んだりして無事長浜に到着。 | 
  
  
    |  長浜では、鉄筋コンクリート作りの長浜城(現在は長 | 
    
     
     快調に飛ばす | 
  
  
    | 浜城歴史博物館となっている)を見学しました。 | 
  
  
    |  長浜城は浅井長政から湖北の覇権を奪った羽柴秀吉が | 
  
  
    | 造った城で、清洲会議で柴田勝家に譲られその後山之内 | 
  
  
    | 一豊が城主になったりしたそうです。その後廃城となり | 
  
  
    | 部材は彦根城などで使われたようです。 | 
  
  
    |  ここで今日の自転車走目標は達成でしたが、もう少し | 
  
  
    | 行けるところまで走ろうと、湖岸道路を更に北上しまし | 
  
  
    | た。ここで事件が発生しました。サポートカーとは姉川を渡った辺りのPで落ち合う | 
  
  
    | ことにしていましたが、我々が姉川を過ぎてもサポートカーの影も形もありません。 | 
  
  
    | さらに走る事数分、皆疲れ果ててストップ。電話確認したところ、サポートカーはP | 
  
  
    | が見つからず10数キロ先まで行ってしまったとの事でした。数十分後に落ち合い無事 | 
  
  
    | 二日目の宿琵琶湖湖北古橋の「己高庵」に投宿しました。この日の自転車での走行距 | 
  
  
    | 離は約50km、年の割にはよく走ったものです。 | 
  
  
    |  3日目は、昨日もう十分走ったということで自転車は終了、観光旅行だけとして宿 | 
  
  
    | 周辺の行基や最澄ゆかりの寺社を参拝しました。この辺りは白山を霊場とする十一面 | 
  
  
    | 観音信仰の流れを汲み、十一面観音を本尊とするお寺が多数あるとの事です。鶏足寺、 | 
  
  
    | 石動寺の立派な十一面観音を拝みました。いずれも平安時代の作とのことで重要文化 | 
  
  
    | 財に指定されているそうです。 | 
  
  
    
     
     石動寺十一面観音 | 
     長浜に戻って連絡船で琵琶湖最大の島竹生島に渡り、 | 
  
  
    | 西国三十三観音霊場第三十番札所の宝厳寺に参拝しまし | 
  
  
    | た。この島には急峻な斜面に宝厳寺の本堂、三重塔、観 | 
  
  
    | 音堂などの建物が建ち並び、国宝や重要文化財に指定の | 
  
  
    | ものが多くありました。ここで皆思い思いに祈願し船に | 
  
  
    | 戻りました。さて、M氏は何を祈願したのでしょう? | 
  
  
    |  船で長浜に戻り一路東京へ、帰路は東名高速道路が開 | 
  
  
    | 通していたので、長浜ICから名神高速、新東名高速。東 | 
  
  
    | 名高速道路、圏央道経由の6時間ほどのドライブで昭島 | 
    
     
     M氏は何を祈願? | 
  
  
    | に無事到着しました。 | 
  
  
    |  今回は皆あまり馴染みのない琵琶湖湖北へ行きました | 
  
  
    | が、よく聞いている戦国武将ゆかりの城や神社仏閣が多 | 
  
  
    | いのに驚き、奈良、平安時代の仏像もたくさん拝観出来 | 
  
  
    | ました。また、大きな船で30分も航行してやっと竹生島 | 
  
  
    | に着けるなど、琵琶湖の大きさに驚きました。 | 
  
  
    |  反省点として、往復に時間がかかり過ぎた感があるの | 
  
  
    | で、次回があるとすればもう少し近いところを走ろうということが12月の反省会の議 | 
  
  
    | 題になりそうです。 | 
  
   |  |  |  | 
  
    | 5.ヒトの目の構造と視細胞 | 
  
  
    |  ヒトの目の構造を図1に示します。目の奥にある網膜 | 
    
     
     図1 目の構造 | 
  
  
    | に、光を感じるセンサとなる視細胞と呼ばれる細胞があ | 
  
  
    | る。視細胞の前にガングリオン細胞、双極細胞、水平細 | 
  
  
    | 胞、アマクリン細胞など、色々な組織があるが光を感じ | 
  
  
    | る組織ではない。進化の中で踏襲されている構造である。 | 
  
  
    |  視細胞は、大きく分けて2種類あります。形状から棒 | 
  
  
    | のような形の桿体細胞と、キリのような錐体細胞がある。 | 
  
  
    | 図2に示します。 | 
  
  
    
     
     図2 桿体細胞(左)と錐体細胞(右) | 
     視細胞である桿体、錐体共に複雑な膜構造がある。桿 | 
  
  
    | 体細胞は円盤状の膜構造体がぎっしり詰まっている。 | 
  
  
    |  錐体細胞の場合は細胞膜そのものが入り組んでいる。 | 
  
  
    | ここの部分の膜に光のセンサの分子が埋まっている。入 | 
  
  
    | り組んでいるのは、情報を多くするために表面積を稼ぎ、 | 
  
  
    | よりたくさんの光のセンサを埋め込める構造です。 | 
  
  
    |  桿体細胞は大変な高感度である。薄明視といい、光子 | 
  
  
    | 1個でも反応する究極の素晴らしい高感度センサである。 | 
  
  
    |  錐体細胞は桿体ほどの感度はなく、明るいところで働く、主に色に関する視覚の働 | 
  
  
    | きをする。桿体と錐体細胞からの情報を合せ、薄暗がりから真昼までの、広いダイナ | 
  
  
    | ミックレンジを持つことが出来る素晴らしいコンビネーションセンサである。 | 
  
  
    |  光が少ないところでは色はわかりにくい。それは桿体と錐体の役割分担からである。 | 
  
  
    | ヒトの錐体細胞は赤、緑、青に反応する3種類がある。 | 
  
  
    |  桿体細胞及び錐体細胞の中に特に光に反応する視物質がある。視物質はオプシンと | 
  
  
    | 呼ばれるタンパク質とレチナールと呼ばれる色素の組み合わせで、出来ている。 | 
  
  
    |  光及び色を認識する要素を下記に示す。 | 
  
  
    |  ・(タンパク質)オプシンの中に(色素)レチナールが組み込まれている。 | 
  
  
    |  ・レチナール(色素)は光を受けると素早く構造が変化し、 | 
  
  
    |  ・オプシン(タンパク質)がそれを刺激として受け、構造変化を起こす。 | 
  
  
    |  ・それを引き金として情報伝達系が活性化される。 | 
  
  
    |  ・最終的に視細胞全体が「過分極」すなわち視細胞が興奮した状態になり、 | 
  
  
    |  ・それが電気信号発生となる。 | 
  
  
    |  ・脳にその電気信号が伝わり、明るさと色と認識する。 | 
  
  
    |  これまでの説明をまとめると、この素晴らしいセンサは下記のようなプロセスで光 | 
  
  
    | と色を認識します。 | 
  
  
    |  網膜 → 視細胞 → 桿体・錐体細胞 | 
  
  
    |     → 視物質 → オプシン(タンパク質)・レチナール(色素) → 電気信号 | 
  
  
    |     → 脳での光と色の認識 | 
  
  
    |  色素レチナールはビタミンAから合成される。ビタミンAの僅かな種類の違いはあ | 
  
  
    | るが、脊椎動物ではだいたい同じである。 | 
  
  
    |  タンパク質オプシンは様々なバリエーションがある。ヒトの錐体細胞に赤、緑、青 | 
  
  
    | に対する3種類があるのは、タンパク質オプシンのバリエーションによる。 | 
  
   |  |  |  | 
  
    | 6.視 覚 | 
  
  
    |  ヒトの場合、3種類の錐体細胞L、M、Sがある。光の波長がロング(L)、ミド | 
  
  
    | ル(M)、ショート(S)で赤、緑、青を認識する3種類の錐体細胞がある。すなわ | 
  
  
    | ち3種類のオプシンがある。更に素晴らしいのは、この3種類のアウトプットの比率 | 
  
  
    | も脳で処理され、中間の色も認識できる。 | 
  
  
    |  ヒトの場合は3種類だが、多くの哺乳類ではM(ミドル)がなくて、L(ロング) | 
  
  
    | とS(ショート)の2色形である。霊長類以外の哺乳類のイヌやネコ、ウシも2色形 | 
  
  
    | である。 | 
  
  
    |  イヌは白黒で世界を見ていると言われることがあるが、それは間違いで白黒ではな | 
  
  
    | く、青と黄の世界といった方がまだ近い。すなわち2種類と言えども、色は識別され | 
  
  
    | ている。2種類のため3種類に比べると、色の種類はぐっと落ちる。2種類のセンサ | 
  
  
    | でも、それで光の波長を識別できるので、それに応じた色の世界があるわけです。 | 
  
  
    | 白黒というのは単に明るいか暗いか明暗の階調であり、根本的に異なる。 | 
  
  
    |  同じ3色形でも色々ある、ミツバチも3色形であるが、図3のように感じる波長の | 
  
  
    | ピーク値がヒトと異なる。 | 
  
  
    
     
     図3 錐体(オプシン)のレパートリーの多様性 | 
     図3のようにミツバチはL(赤)、M(緑)、S(青) | 
  
  
    | の感度のピークがヒトに比べて離れて独立している。 | 
  
  
    | ヒトはL(赤)とM(緑)が近づいていて、L(赤)と | 
  
  
    | M(緑)の片側だけが刺激を受け興奮しても、近いため | 
  
  
    | もう一方も興奮してしまう。ミツバチの場合は3種類の | 
  
  
    | センサがかなり独立し、全体の可視範囲幅も広いので、 | 
  
  
    | 識別できる色が増える。ミツバチはヒトよりもっと色彩 | 
  
  
    | あふれる世界に住んでいると言えるかもしれない。 | 
  
  
    |  そして更に鳥類は4色形である。L(赤)、M(緑)、S(青)にVS(ベリーシ | 
  
  
    | ョト;紫外線)がある。鳥類は紫外線も見えるため、ヒトや昆虫に比べ、鳥類が一番 | 
  
  
    | 識別できる色の種類が多いと言える。紫外線が識別できると、たとえばヒトには1色 | 
  
  
    | にしか見えない花びらに実は模様があるのが、鳥類は分かったりする。 | 
  
  
    |  昆虫、ヒトを含む脊椎動物、鳥類等々いるが、各々生きていく上で変化・進化して | 
  
  
    | きたと思われます。 | 
  
  
    |  細かいバリエーションがあるが、L(赤)、M(緑)、S(青)、VS(紫外線) | 
  
  
    | の錐体センサ及び桿体センサの5種類がある。脊椎動物がこれまで使ってきたセンサ | 
  
  
    | がこの5種類だと言われる。脊椎動物の共通先祖の段階で、既に5種類が出揃ってい | 
  
  
    | たと考えられている。 | 
  
  
    |  約5億年前に起きた、「生命のカンブリア爆発」では,生物の進化の歴史の中で多 | 
  
  
    | 様性が花開き、進化の過程で縮小や、無くなる機能もある。 | 
  
  
    |  光のセンサすなわち視覚で言えば、魚類のバリエーションが一番豊富であり、哺乳 | 
  
  
    | 類以外の脊椎動物はだいたい4種の色覚を持っている。 | 
  
  
    |  哺乳類については、いったん緑形と青形を無くして、赤と紫外線形の2色形になっ | 
  
  
    | てしまった。その後、いったん無くした緑形を赤形のサブタイプとして、新たに作り | 
  
  
    | 出したことや、紫外線形だったものを青方面に寄せて、青形のように使っていること | 
  
  
    | が分かっている。このように頻繁に変化しているのです。 | 
  
  
    |  魚類のバリエーションが多様なのは、水中の光環境が陸上に比べ、非常に多様なた | 
  
  
    | め(すなわち不安定な光の信号)に対応する魚類のバリエ−ションが多様になってき | 
  
  
    | たと考えられている。水深によっても届く光の波長が大変変わってくる。更に浅い海 | 
  
  
    | と深い海、海と湖と河川で違ってきます。たとえば、海は約400ナノメータ(約400× | 
  
  
    | 10−9メートル)くらいの光が最も透過性がよく、他は吸収され易い。そのためにヒト | 
  
  
    | の目には青っぽく見える。湖や川の水がなんとなく緑っぽく見えるのは、主に植物プ | 
  
  
    | ランクトン等の様々ものが混ざっているため、より長波長にシフトして緑っぽく見え | 
  
  
    | る。海と川を行ったり来たりするウナギとかサケは、海にいるときは短波長のセット、 | 
  
  
    | 川にいるときは長波長のセットとセットを切り替えている。魚類の色覚については複 | 
  
  
    | 雑で大変興味深く、研究も多く進められている。 | 
  
   |  |  |  | 
  
    |  きっかけは、墓を購入したお寺から2014年に高野山開 | 
    
     
     太田_監査 | 
  
  
    | 創1,200年に合わせ住職が先導する参詣旅行の勧誘があ | 
  
  
    | り、良い機会なので参加を決意した。その際、日本3霊 | 
  
  
    | 場の1つであると聞き、他の2つは何処かと調べると、 | 
  
  
    | 比叡山、恐山であった。恐山は、青森下北半島と高野山、 | 
  
  
    | 比叡山に比べると遥かに僻地と呼ばざるを得ない処で、 | 
  
  
    | 車利用が不可欠と思われ、早い時期に実行しないと行け | 
  
  
    | なくなると思い、気ままな一人旅を計画した。友人に話 | 
  
  
    | したところそれならば、是非「三内丸山遺跡」を見てこいと強く勧められ、丁度通り | 
  
  
    | 道に当たっていたので立ち寄ることにした。この遺跡は、本来、新しい県営野球場を | 
  
  
    | 建設する為に1992年事前調査をしてこの遺跡が大規模な集落跡とみられることが分か | 
  
  
    | り発掘調査を進めて、2000年に国特別史跡に指定された。実際に見学すると、球場用 | 
  
  
    | 地の候補だけあって、広大で、脇の方では、まだ発掘調査を続けているとのこと。 | 
  
  
    
     
     北の谷(低湿地) | 
     竪穴住居が点在する中に6本足の櫓、50人位が会議で | 
  
  
    | きそうな大型竪穴住居、大型掘立柱建物・掘立柱建物等 | 
  
  
    | が復元展示されており、ガイドの説明を聞きながら見学 | 
  
  
    | した。竪穴住居は30cm位地面を掘り下げているため中に | 
  
  
    | 入って見ると思いのほか広く、真ん中で囲炉裏を作って | 
  
  
    | も10人位は、寝られそうである。圧巻は、ゴミ捨て場の | 
  
  
    | 断面で3〜4mの深さに垂直に掘ってあり、その断面に貝 | 
  
  
    | 殻・土器の破片が顔を覗かせていた。1.500年間継続的に | 
  
  
    | 使用されていた痕跡だそうである。 | 
  
  
    |  ガイドの説明によるとこの三内丸山遺跡の発掘調査により、日本の古代史が大幅に | 
  
  
    | 見直されているそうで、帰宅後、縄文時代を含めた古代史に興味を覚え、勉強を始め | 
  
  
    | て見ると今まで教わって事が次々に覆ってきた。NHK等の特集番組でも頻繁に取り組 | 
  
  
    | まれているので、それについて述べたい。 | 
  
  
    |  「三内丸山遺跡」は、青森駅から約7km、八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に | 
  
  
    | 位置し、標高は約20mで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。今から | 
  
  
    | 約5,500年前〜4,000年前の長期間にわたって定住生活が営まれていた縄文時代の集落 | 
  
  
    | 跡である。 | 
  
  
    |  概略での解説では遺跡には竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、 | 
  
  
    | 盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡など | 
  
  
    | が見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的に理解されるようになっ | 
  
  
    | た。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状 | 
  
  
    | 編み物、編布、漆器など)、骨角器なども出土している。遺跡から出土した栗をDNA鑑 | 
  
  
    | 定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、多数の堅果類 | 
  
  
    | (クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、 | 
  
  
    | マメなどといった栽培植物も出土した。 | 
  
  
    |  三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅 | 
  
  
    | 果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このこ | 
  
  
    | とを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができるとある。 | 
  
  
    |  勉強をし始めて改めて理解した事は、縄文時代は | 
    
     
     櫓&岩木山 | 
  
  
    | 15,000年前〜2,300年前と云うのが現在の説で、定義は、 | 
  
  
    | 農耕稲作以前の縄文土器を利用し、定住していた時代と | 
  
  
    | 云う事であろう。1962年発行の百科事典には、弥生文化 | 
  
  
    | の前に6,000?7,000年間栄えたとあり、7,000年以上長く | 
  
  
    | なっている。放射性炭素年代測定方法が確立されたのが | 
  
  
    | 1960年代であるから致し方無いと云えるが全く間違った | 
  
  
    | 事を教わっていたことになる。因みに弥生文化も現在は | 
  
  
    | 開始時期が2,000年ほど遡っているようである。 | 
  
  
    |  見方を変えて地球物理学的に見ると20,000〜18,000年前は、ウルム氷期と呼び最盛 | 
  
  
    | 期には気温は現在より8℃低く海水面は現在より140〜150mも低下し、北海道・樺太は | 
  
  
    | 本州と地続きになり、中国北部からオオツノジカ・野牛など、シベリアからヘラジカ・ | 
  
  
    | マンモスなどが渡って来て、これらの生物と一緒に人(新人)も渡来した。縄文時代 | 
  
  
    | の始まりの15,000年前と云うのは、温暖化により海峡が出来、大陸との往来を遮断さ | 
  
  
    | れ取り残された獲物だけでは、狩猟生活が成り立たなくなって定住集団生活を始めた | 
  
  
    | と思われる。その後も温暖化が進み「縄文海進」と呼ばれる海面上昇を続け5,000年前 | 
  
  
    | に頂点に達した。すなわち、縄文時代とは、海面が100m以上上昇し、温暖化による異 | 
  
  
    | 常気象・地震・植物相の変化等環境的には、非常に厳しかったと考えられる。 | 
  
  
    |  話を「三内丸山遺跡」に戻すと先ず驚くのが高さ25m位ある6本脚の櫓の復元展示物 | 
  
  
    
     
     六本脚の櫓 | 
    である。発掘跡には、直径2m位の穴が3個×2列綺麗に | 
  
  
    | 並んでおり、復元したものは遥かに見上げる構造物にな | 
  
  
    | っている。柱の材料は、ほぼ栗が使用されているそうで、 | 
  
  
    | 樹齢100年以上の大木をクレーンなしで運搬・設置するか | 
  
  
    | を想像すると、諏訪大社の御柱祭のように統率が取れた | 
  
  
    | 数十人の曳手による作業であろう。この事からもこの集 | 
  
  
    | 落が数百人規模であったと想像できる。 | 
  
  
    |  更に全く認識していなかったが、土器が水瓶・穀物容 | 
  
  
    | 器として用いられただけでなく、煮炊き用の鍋として利用されていたことである。栗・ | 
  
  
    | クルミと共に栃の実の殻が見つかっていることから栃の実・ドングリの渋抜き術を持 | 
  
  
    | っていたとすれば採取活動のみに頼っていたとしてもそれ程貧しくはない。 | 
  
  
    |  一番間違えて認識していたのは、生活基盤は、狩猟・漁労で鹿・猪を狩り、槍で魚 | 
  
  
    | を突くと思っていたのが土器の底の残渣をDNA鑑定した結果、鹿・猪の大型動物ではな | 
  
  
    | く、兎・鼬・獺等の小動物を、魚・貝類は海・川問わず広範囲に食べており、食料確 | 
  
  
    | 保にそれ程苦労しなかったと思われる。栃餅を入れた兎鍋、石狩鍋など美味しそうで | 
  
  
    | ある。石器時代の終わりには、磨製石斧、釣針、丸木舟、弓矢は存在していた。更に | 
  
  
    | 遺跡から 袋状編み物、編布等も見つかっており、縄を編んだ小動物用の罠、川に仕 | 
  
  
    | 掛ける網等も使っていたとすれば、三内丸山の人達の日常は、仕掛けた罠を見廻り、 | 
  
  
    | 丸木舟で釣りをし、海岸で貝を拾う、と云った悠々自適の生活を送っていたと思われ | 
  
  
    | る。更に、今回の遺跡訪問で一番感心した事は植樹を行っていた事である。集落の周 | 
  
  
    | 辺に堅果類(栗、クルミ、トチなど)の樹木を多数植栽 | 
    
     
     掘立柱倉庫 | 
  
  
    | しており、自然の恵みのみに依存している訳でなく、森 | 
  
  
    | を育てていた事である。堅果類は、食用、建材、燃料と | 
  
  
    | して利用されただけではなく森の育成は、地盤を強化し、 | 
  
  
    | 腐葉相は、水を貯え、浄化する。 | 
  
  
    |  現在でも、カキの養殖業者や漁師が海の環境を守るた | 
  
  
    | め団体で山に入り植林をすると聞く。 | 
  
  
    |  防災上も非常に有効で、地震・台風・火事への耐性が | 
  
  
    | 高くなり1,500年間も住み続ける事が出来た。出土品に黒曜石、メノウ・翡翠があるこ | 
  
  
    | とから北海道や糸魚川等と頻繁に往来していた事実があり、6本足櫓も旅行者の為の | 
  
  
    
     
     大型竪穴住居跡 | 
    ランドマークとして建築されたとすると、この場所は、 | 
  
  
    | 他に広く知られた交流の盛んな集落であった。しかし、 | 
  
  
    | 他の文明が辿った、木の盗伐、備蓄食料の簒奪等、土地 | 
  
  
    | を巡っての部族間での争いに明け暮れ、城壁による囲い | 
  
  
    | 込み、都市国家の誕生という過程を踏んでいない。 | 
  
  
    |  これからは、あくまで、私の夢想であるが、私達の先 | 
  
  
    | 祖である縄文人は、自然を慈しみ、奉仕する事によって | 
  
  
    | その豊穣たる恵みを感受しながら泰然と暮らすことを選 | 
  
  
    | 択した。2,300年前まで縄文時代が続いたのは、大陸の農耕国家に対し魅力を感じなか | 
  
  
    | ったのではないか。この遺跡は5,500年前からと説明された時から中国4千年よりも前 | 
  
  
    | ではないかと思い、調べて見ようとする意欲が湧いて来た。 | 
  
  
    |  全く別な話であるが、日本人のDNAは、中国人、韓国人と全く違っており、系列から | 
  
  
    | は、アフリカからユーラシア大陸に渡った早い時期に分 | 
    
     
     竪穴式住居 | 
  
  
    | 化した形跡があるそうで、縄文時代誕生時から生活して | 
  
  
    | いた人が我々の祖先であり、他から移住して来た痕跡は | 
  
  
    | ない。我々が受けた自虐史観に満ちた教育では、我が国 | 
  
  
    | は、弥生時代に中国・朝鮮を介して文化が流入し、原始 | 
  
  
    | 生活から文化生活に変わったと教わった。しかし、世界 | 
  
  
    | の四大文明が始まる時期に我々の祖先である縄文人達が | 
  
  
    | 豊かな生活していたことは確かである。そして、エジプ | 
  
  
    | ト・シリア・イラン等、かっての文明が栄えた処が今は荒涼たる砂漠になっているの | 
  
  
    | に比べ緑生い茂る森に囲まれた青森の丘に立つとどちらが賢いかと思う。 | 
  
  
    |  最近、芸能人が田舎に引っ越して畑を耕し、自給自足の生活を始めるとか、スロー | 
  
  
    | ライフの生き方が話題になっているが、この縄文人の生き様そのものではないかと考 | 
  
  
    | えると、これは文明と云ってもいい文化だと嬉しくなった。 | 
  
  
    |  私達は、この遠い祖先に対し尊敬と畏怖を抱きながら誇りを持って良いのではない | 
  
  
    | かと強く訴えたい。 | 
  
  
    |  最後に、年代測定法・DNA解析等の科学の進歩により、新しい発見、定説の否定・見 | 
  
  
    | 直しが次々に発表されている。更に人類誕生、日本人のルーツ、日本列島の出来方等 | 
  
  
    | 興味ある内容の本も次々に出ているので今後も捉われる事なく、広く勉強して夢想し | 
  
  
    | ていきたいと思う。 | 
  
   |  |  |  | 
  
    | 3.脳を見れば犯罪者が分かる? | 
  
  
    |  2011年10月、中国の仏山市で痛ましい事故が起こりました。2歳の少女が車にひか | 
  
  
    | れ、その車はそのまま走り去りました。さらに恐ろしいことが続きました。動かない | 
  
  
    | その少女を通行人は見て見ぬふりして、誰ひとり助けようとしませんでした。監視カ | 
  
  
    | メラの映像が、世界中を駆け巡り、衝撃映像として伝えらえました。この事実は、単 | 
  
  
    | に中国人の道徳心の欠如では片づけられなくて、道徳を脳科学によって説明する学者 | 
  
  
    | が現れました。他人を援助する道徳的な人と援助しない非道徳的な人の脳で、どのよ | 
  
  
    | うな生化学的な相違があるのか明らかになったというのです。これは20世紀の末に、 | 
  
  
    | 脳科学(神経科学)が飛躍的に進展し、MRIなどの脳画像法によって脳の働きが視覚 | 
  
  
    | 化されたことにもとづいているとのことです。 | 
  
  
    |  哲学者でもある脳科学者のジョシュア・グリーンは、有名な「トロッコ問題」を使 | 
  
  
    | って知的な活動と道徳的な活動が、脳の異なる領域で行われていることを証明しまし | 
  
  
    | た。トロッコ問題というのは、ブレーキの利かない暴走電車の進路の先に、5人の作 | 
  
  
    | 業員がいるとき、ポイントを切り替えると進路が変わる | 
    
     
     Aの状況 | 
  
  
    | が、その先には1人の作業員がいる。という状況(A) | 
  
  
    | と、同じく暴走電車の先には5人の作業員がいるが、線 | 
  
  
    | 路の上の陸橋にいる1人の太った男を突き落すと5人が | 
  
  
    | 助かる。という状況(B)です。 | 
  
  
    |  Aの状況では、「5人を救うために、1人を犠牲にす | 
  
  
    | る」のですが、Bの場合には「5人を救うために1人を | 
  
  
    | 犠牲にしない」のです。この違いが生じるのは何故なの | 
  
  
    
     
     Bの状況 | 
    か、グリーンは脳画像法を使って、一つの解答を与えま | 
  
  
    | した。 | 
  
  
    |  Aの状況で判断しているには、前頭前野背外側部であ | 
  
  
    | り、この部分は冷静に知的な推論を行う部位だそうです。 | 
  
  
    | これに対して、Bの状況で判断するのは、前頭前野腹内 | 
  
  
    | 側部であり、ここでは情動や感情が大きく作用する部位 | 
  
  
    | なので、太った男を落とすかどうかは情動に作用し、選 | 
  
  
    | 択されないとしています。この部分に損傷を受けた人間 | 
  
  
    | は、太った男を突き落すのに躊躇しなくなるそうです。こうして、道徳的な態度と脳 | 
  
  
    | の活動が関連づけられるようになりました。 | 
  
  
    |  脳科学者は、犯罪を引き起こすのは脳の回路に原因があるのではないかと考えてい | 
  
  
    | ます。近い将来、「犯罪の原因は、その人の脳にある」と言われ、刑務所に収容して | 
  
  
    | 矯正する刑罰制度が変わってくるかもしれません。 | 
  
   |  |  |  | 
  
    |  今年度も子会社である東京計器テクノポートにシニア | 
    
     
     荒井矢板支部長 | 
  
  
    | 職として契約を頂き、頑張っています。いつも、この時 | 
  
  
    | 期になるとトップページに何を書こうか悩んでいます。 | 
  
  
    | 何もない私ですので今回も趣味の球技、家庭菜園につい | 
  
  
    | て書きます。 | 
  
  
    |  今年も1月、2月に野球(矢板シニア)、ソフトボー | 
  
  
    | ル(中西ソフト)の総会が行なわれました。懇親を深め | 
  
  
    | ながら、今年の活動方針及び昨年の反省等などが議論さ | 
  
  
    | れました。 | 
  
  
    |  昨年は夏(8月)に、股関節及び肩を痛め(通称60肩)余儀なく運動が出来なく、 | 
  
  
    | 後半は休部状態になってしまいました。原因は医者曰く、年齢を考慮しないで頑張り | 
  
  
    | 過ぎたということでした。私としても、今までこのような怪我をしたことも無く、自 | 
  
  
    | 信過剰の処があったような気がします。今年は、矢板シニア60歳以上の野球と地域の | 
  
  
    | ソフトのチームのみに登録を絞り頑張っています。 | 
  
  
    
     
     野球打撃フォーム | 
     昨年を振り返ってみますと野球チームの成績は5割と | 
  
  
    | 今一であったが、個人の成績は夏までではあるが打率2 | 
  
  
    | 割8分の成績を残せたことで合格点でしたが、後半は怪 | 
  
  
    | 我をして休部状態になったことが残念でありました。 | 
  
  
    |  ソフトについては勝率も良く、優勝2回あり、素晴ら | 
  
  
    | しい成績であった。個人としては、監督兼選手であり選 | 
  
  
    | 手としての機会が少なかったです。今年はチームの代表 | 
  
  
    | になり出場機会が少なくなりますが、大いに更なる飛躍 | 
  
  
    | のために貢献できるよう取り組んでいます。 | 
  
  
    |  今年の矢板シニアの野球部は、1月31日から練習を開始しています。私としては、 | 
  
  
    | 体調が万全ではないのですが、誤魔化しながら無理をせず試合に出場させて貰ってい | 
  
  
    | ます。昨年から若い人も加入しており、層が厚くなりレギュラーの確保も大変です。 | 
  
  
    |  今年の初めての大会は栃木県シニア大会が4月7日に宇都宮の会場にて開催されま | 
  
  
    | した。成績は1回戦が接戦で勝ち進み、2回戦で惜しくも抽選で敗退しました。個人 | 
  
  
    | の成績は練習不足で代打要員で出場しましたが今一でした。 | 
  
  
    |  5月には3日からの関東選抜足利市長杯争奪還暦野球大会に参加しました。参加は | 
  
  
    | 関東地区の1都6県から32チームの参加があり、盛大に開催されました。結果は、1回 | 
  
  
    | 戦で群馬県の館林チームに1対0で善戦虚しく敗退しました。このチームのピッチャー | 
  
  
    | は77歳で元プロ野球東映の選手でした。また、ソフトボール(中西ソフト)については、 | 
  
  
    | 4月8日に矢板市長杯が開催され、成績は2回戦で敗退をしてしまいました。矢板の | 
  
  
    | 5月以降の大会は全てナイターで開催されます。既に一般、壮年、50歳以上の大会が | 
  
  
    | 行われました。一般については、決勝で善戦虚しく敗退して幸先良く準優勝でした。 | 
  
  
    |  現在は、壮年のリ−グ戦で優勝を目指して頑張っています。これからも野球・ソフ | 
  
  
    | トボールの大会が目白押しにあります。まずは、故障箇所を早く治して、怪我をしな | 
  
  
    | い体力を作ることが大事です。 | 
  
  
    |  近頃、引退しようか悩んでいますが、辞めるのは簡単ですが、体力・健康の維持を | 
  
  
    | するためには好きなことを継続してやることが大事であると考えます。家内も、もう | 
  
  
    | 少し頑張ったらと後押しをしてくれています。此処にきて暖かくなったせいか、痛み | 
  
  
    | も消えて体調が回復してきたことで、再度ヤル気が起こり、モチベーションアップに | 
  
  
    | つながっています。やるからには、体力が続く限り頑張ります。更にチームとしては、 | 
  
  
    | 優勝(???)を目指して戦っていきます。期待してください。 | 
  
  
    |  次に今年も、趣味として続けている家庭菜園に取り組んでいます。昨年は春先にジ | 
  
  
    | ャガイモ、トマト、キュウリを植えました。ジャガイモの収穫後、枝豆、手無南京を | 
  
  
    | 植え、トマト、キュウリの後には、三浦ダイコン、ホウ | 
    
     
     家庭菜園_1 | 
  
  
    | レンソウを植えました。出来栄えとしては、一番はトマ | 
  
  
    | ト、キュウリでした。 | 
  
  
    |  去年の反省として、美味しい野菜を作るには、土壌作 | 
  
  
    | りが一番大切です。そのために今年は、色々な教材等で | 
  
  
    | 知識を深め、狭い自宅の庭の隅の畑に石灰、肥料、堆肥 | 
  
  
    | を混ぜて耕して土壌を作り、じゃがいも、トマト、キュ | 
  
  
    | ウリ等を植えました。 | 
  
  
    
     
     家庭菜園_2 | 
     毎年のように、反省を踏まえて色々な野菜を作ってい | 
  
  
    | るのですが、土壌が悪いせいか、思った通りの野菜がで | 
  
  
    | きません。その中でトマトだけは毎年、10月頃まで収穫 | 
  
  
    | が出来て家族に喜ばれています。トマトは水をあまりや | 
  
  
    | らない方が甘いものが出来るそうです。 | 
  
  
    |  トマト以外でも美味しくて、沢山収穫出来るようにす | 
  
  
    | るには、失敗しながら経験を積むことが重要であると思 | 
  
  
    | います。 | 
  
  
    |  家族には買った方が「安くて美味しいとか」????と嫌味を言われないように頑 | 
  
  
    | 張ります。忍耐ですね。これからも家族に喜ばれる野菜作りに専念していきたいと思います。
 | 
  
  
    | います。 | 
  
   |  |  |  | 
  
    |  昨年10月、「ブナばやしをはじめとする広葉樹の木々 | 
    
     
     池田那須支部長 | 
  
  
    | が、赤や黄など思い思いに色づき、湖の周りを色鮮やか | 
  
  
    | に染め上げる秘境・奥只見の紅葉!」というパンフレッ | 
  
  
    | トの文句に誘われ、1日目は奥只見湖とロープウェーで | 
  
  
    | 八海山の紅葉を、2日目は田代高原(ロープウェイ)と | 
  
  
    | 苗場高原(ドラゴンドラ)の紅葉を、3日目は三国峠の | 
  
  
    | 紅葉を楽しむ2泊3日の旅を計画した。 | 
  
  
    |  我家から奥只見湖へのルートは3つ考えられ、1つは | 
  
  
    | 塩原温泉から尾頭トンネルを通り桧枝岐を経由し奥只見湖へ入るコース、2つ目はい | 
  
  
    | ろは坂を抜け日光中禅寺湖から金精道路を経由し、日光白根山の紅葉を見て、沼田IC | 
  
  
    | から関越自動車道で小出ICから行くルート、3つ目は東北自動車から関東自動車道を | 
  
  
    | 経由して関越自動車道へ入るコースを考え、出発日の天候が晴れていれば第1ルート、 | 
  
  
    | 曇りなら第2ルート、雨なら第3ルートと決めた。 | 
  
  
    |  出発当日は残念ながら朝から雨で、しかも台風が近づいており今回の旅は、天候に | 
  
  
    | 恵まれず紅葉も期待できそうもなく、温泉での“のんびり旅”と決め第3ルートで出 | 
  
  
    | 発した。関越自動車道の小出ICで降り、国道352号から「奥只見シルバーライン」に入 | 
  
  
    
     
     雨の奥只見湖 | 
    ったが驚いた。「シルバーライン」という名前とは裏腹 | 
  
  
    | で、湧き水が随所に流れ、ごつごつした岩肌がむき出し | 
  
  
    | になったトンネルが続き、初めのうちはインディ・ジョー | 
  
  
    | ンズの冒険気分を味わいながら運転していたが、薄暗い | 
  
  
    | トンネルはどこまでも続き、しかも前後に車は見当たら | 
  
  
    | ず対向車も無く、女房は気味悪がりだんだん心細くなり、 | 
  
  
    | こんな状況が30分ほど続きトンネルを抜け出て駐車場に | 
  
  
    | 着いた時はホットした。このトンネルは昭和32年に完成 | 
  
  
    | した、奥只見ダム建設の資材運搬道路で、ダム完成後も | 
    
     
     奥只見湖遊覧船 | 
  
  
    | 管理のみに利用されていたのを、奥只見湖が観光資源と | 
  
  
    | なり、又尾瀬への最短ルートとして一般に開放され、 | 
  
  
    | “奥只見シルバーライン”となったと後で知った。 | 
  
  
    |  奥只見湖遊覧船内のアナウスでは“晴れていれば燧ヶ | 
  
  
    | 岳・越後三山等2,000m級の山々が見え、湖の周りが色鮮 | 
  
  
    | やかに染まる景色が見える”と説明していたが、ところ | 
  
  
    | どころ色づいてはいたが、雨は本降りで見通しは悪く、 | 
  
  
    | 景色は霞んでおり、これも趣があるか?と自分に言い聞かせていた。また寒く、レス | 
  
  
    | トハウスで食べた熱々の“きつねうどん”が美味しかった。 | 
  
  
    |  八海山ロープウェー山麓駅の駐車場に着いたときは午後3時を過ぎており、雨は小 | 
  
  
    | 降りになっていたが、広い駐車場に数台の車しかなく、ロープウェーに乗るか迷って | 
  
  
    | いたが、降りてきた人に様子を聞いたら、山頂駅では雨は止み、“雲海”が見えたと | 
  
  
    | 教えてくれ、慌てて切符を購入し発車間際のロープウェーに駆け足で乗り込んだ。 | 
  
  
    |  車内のスタッフの方の話では滅多にないそうで、山頂駅の展望台からの眺めは、360 | 
  
  
    
     
     八海山からの雲海_1 | 
    
     
     八海山からの雲海_2 | 
    度雲海に囲まれ、遠く日本 | 
  
  
    | 海、佐渡島まで見渡せ素晴 | 
  
  
    | らしいパノラマだった。こ | 
  
  
    | れほどの規模の雲海を見た | 
  
  
    | のは初めての経験で興奮し | 
  
  
    | て写真を撮りまくった。 | 
  
  
    | また、今回は八海山の紅葉 | 
  
  
    | を楽しむことは出来なかっ | 
  
  
    | たが、数年に一度しか現れない雲海を運良く見られラッキーだった。その夜、温泉に | 
  
  
    | ゆっくりつかった後に飲んだ“大吟醸 八海山”の美味しかったことこの上なく、つ | 
  
  
    | いつい飲みすぎてしまった。 | 
  
  
    |  翌日は、前日に寄れなかった鬱蒼とスギ林に囲まれた“八海神社”でお参りしてか | 
  
  
    | ら苗場へ向かう予定で八海神社を参拝した時、神殿の横に張られた“10月20日大火渡 | 
  
  
    | り祭り”のポスターが目に入った。当日にもかかわらずその気配がないので、近くに | 
  
  
    | 居た人に聞いたとこら、神社違いでお祭りはひと山越えた“八海山尊神社”で12時か | 
  
  
    | ら始まるから早く行かないと駐車場に入れないと教えられ、急遽予定を変更した。 | 
  
  
    |  すでに神社の駐車場は満車で登れず、途中で止められた臨時駐車場になんとか入れ、 | 
  
  
    | タイミングよく来たシャトルバスに乗り神社へ行った。会場には、すでに全国各地の | 
  
  
    | 「○○講中」の幟が立てられ、白装束の信者や見物客が大勢集まり、見物席を確保す | 
  
  
    | るのに苦労した。12時に「大火渡式の御祈祷」が始まり、祭壇の前に積み上げた護摩 | 
  
  
    | 木に火がつけられ、炎が高 | 
    
     
     大火渡り式_1 | 
    
     
     大火渡り式_2 | 
  
  
    | く燃え上がる光景は迫力が | 
  
  
    | あった。護摩木が燃え尽き、 | 
  
  
    | 真赤な炭になったところに | 
  
  
    | つくった通路を、家内安全・ | 
  
  
    | 無病息災を念じながら信者 | 
  
  
    | や講の方たちが素足で渡る | 
  
  
    | 姿が続いた。そのあと、一 | 
  
  
    | 般の人も火渡りができるので、大勢の人が何列も列を組み待機していたが、帰りの渋 | 
  
  
    | 滞に巻き込まれるのを避けるため早めに会場を出苗場へ向かった。 | 
  
  
    |  苗場高原・田代高原の周遊コースはいくつかあり、田代ロープウェーで山頂駅に上 | 
  
  
    
     
     二居胡 | 
    り、なえばドラゴンドラ山頂駅まで歩き、苗場高原(ド | 
  
  
    | ラゴンドラ山麓駅)に下り、バスで田代ロープウェー山 | 
  
  
    | 麓駅に戻る一周約2時間のコースにした。 | 
  
  
    |  時期が早すぎたようで、紅葉は一部しか見られなかっ | 
  
  
    | たのは残念であったが、田代ロープウェーとドラゴンド | 
  
  
    | ラからは違った姿の二居湖が望め、周りの眺めも素晴ら | 
  
  
    | しいものだった。また、ドラゴンドラはアップダウンの | 
  
  
    | 連続で、谷底へ吸い込まれるような箇所が続き「お尻が | 
  
  
    | ムズムズ」し、迫力満点のスケールで大満足であった。 | 
    
     
     なえばドラゴンドラ | 
  
  
    | 高いと思われた乗車料金も、スリルを連続で味わい安く | 
  
  
    | 感じ、孫を連れてもう一度来たいと思った。この晩も、 | 
  
  
    | 温泉上がりで美味しい地酒を味わうことが出来た。 | 
  
  
    |  翌日は、三国峠越えの予定であったが、関東地方への | 
  
  
    | 台風の接近のニュースを聞き、宿を10時に出て高速道路 | 
  
  
    | に乗り関越トンネルを出たら、バケツをひっくり返した | 
  
  
    | ようなドシャ降りの雨の中を家路につき無事帰宅した。 | 
  
  
    |  今回は、天候に恵まれず、かつ紅葉には時期も早すぎ残念であったが、予期せぬ | 
  
  
    | “雲海”に出会い、また“大火渡り祭り”を見学できたのも、スケジュールに余裕が
 | 
  
  
    | あったからこそできた旅であった。これからも楽しめる旅を続けていきたい。 | 
  
   |  |  |  | 
  
    | 2.長ーい下積み | 
  
  
    |  昭和47年入社し、始めに舶用技術部に配属されました。 大学では、電気工学電子 | 
  
  
    | 専攻でしたが、アナログ電子回路の設計が得意と言う訳でなく、どちらかと言えば古典 | 
  
  
    | (現代というより)制御理論の道しかなく、「コンピュータ」と言う一括りの世界で生き | 
  
  
    | 延びてきた感じです。 | 
  
  
    |  大学在学中は、大型コンピュータの世界で、穴あけパンチしたカードの塊を、コンピュータセンターの | 
  
  
    | 受付窓口に提出し、翌日結果が新聞紙片面の大きさの紙に印刷される代物でした。 | 
  
  
    |  挙句の果て新聞紙片面の大きさの紙に、英文で1〜2行、「compiler error」とか | 
  
  
    | 「fatal error」で、間違いを探しては、穴あけパンチをやり直し、塊を提出し、翌日結 | 
  
  
    | 果を待つ繰り返しでした。 | 
  
  
    |  入社後、航法関連や海洋測量関連、船舶機関関連などのコンピュータ関連機器に関わり、 | 
  
  
    | 最後は、ビル空調システムの計装プログラム作成で終わりました。 | 
  
  
    |  ミニコンピュータが普及し始め、穴あけパンチカードから、穴あけパンチ紙テープに移行しました。 | 
  
  
    |  それでも作業開始には、掃除機で周辺を綺麗に吸い取り、塵芥の掃除も大事ですが、 | 
  
  
    | 紙テープの穿孔した残り滓を吸い取ることが重要でした。 | 
  
  
    |  紙テープの穿孔した残り滓が、穿孔した紙テープの穴に、きれいに嵌り込んで、紙テープ | 
  
  
    | リーダーに掛けると、エラーを見つけ、少し進んだ所でピタッと停止するのです。 | 
  
  
    |  嵌り込んだ滓を見つけるのが、これまた厄介で、再度新しい紙テープを作り直すこと | 
  
  
    | も、良くありました。 | 
  
  
    |  この他、穿孔した紙テープの巻取りや、compiler や library、linker 、等の紙テープ | 
  
  
    | を順番に紙テープリーダーで読み取らせ、丁寧さが必要な取り扱いで、結構神経を使いま | 
  
  
    | した。穿孔した紙テープを読ませる前に、もっと重要な儀式がありました。Bootstrap | 
  
  
    | です。ミニコンピュータの前面パネルに16個(機種によっては、12個や8個もありました)の | 
  
  
    | ピアノの鍵盤の様なスイッチがあって、初期プログラム(bootstrap)を手入力しなければなら | 
  
  
    | ないのです。昔ですから、メモリが貧弱な時代で、今ではもっと進んでいますが、ROM | 
  
  
    | (Read On Memory)もなかったんですねぇ。bootstrap  は、16個の鍵盤の on/off  | 
  
  
    | パターンが1ステップとして、20〜30ステップ程度ありました。取説や紙に書かれた bootstrap  | 
  
  
    | の各ステップを全て諳んじて、軽快なタッチで入力する営業マンの方がおられました。 | 
  
  
    |  また、Sharp のポケットコンピュータで浮動小数点の固定値のデータ算出のため、真数部と仮 | 
  
  
    | 数部の算出プログラムを作成したり、HPのプログラマブルカリュキュレータでロラン-Cのデータから逆 | 
  
  
    | ポーランド記法でオイラー法近似計算プログラムを作成して、自船位置を割り出すなど、楽しん | 
  
  
    | でいた経験もあります。 | 
  
  
    |  Intel や DEC(Digital Equipment Coop. ?) の代理店、東洋エレクトロンで取り扱って | 
  
  
    | いた MDS(Microcomputer Devilopment System ?)で PL-I 言語の方言である PLM 言 | 
  
  
    | 語でIntel 8086や80386 を中心とした色々な製品、アッセブラ言語で開発したPDP-11を組 | 
  
  
    | み込んだ機器などにも関係しました。 | 
  
  
    |  超音波診断装置の開発は、やはりソフトウェア開発で、機器内部の電子デバイスのコントロールを | 
  
  
    | 行ったり、胎児の成長計測プログラムを組み込んだり、YMS(横河メディカルシステムズ)のOEMで | 
  
  
    | したが、その展示会でVプローブ(生体探触子)のデモビデオの放映を見て、未婚の青年と | 
  
  
    | して、ど肝を抜かれました。 | 
  
  
    |  前置きが長くなりましたが、技術の発展は急速に進んで、8インチ、5インチ、3インチフロッ | 
  
  
    | ピディスクと進んで、パーソナルコンピュータ全盛の時代がやってきました。 | 
  
  
    |  当初は、NECのPC9801パソコンが一色で、マルチメディアが謳い文句になり、やがて東芝が推 | 
  
  
    | 進してきたAX(PC/AT互換機から日本語対応)パソコンが defact standard となりました。 | 
  
  
    |  私の好きな余談ですが、1÷9801= 0.00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 | 
  
  
    | 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 … 70 71 72 73 74 75 76 77 | 
  
  
    | 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 … となるそ | 
  
  
    | うですが、私自身この無限小数を良く確認していません。 | 
  
  
    |  上記、最後の少数部分「98」が、欠落している情報もあります。これ、PC9801 の | 
  
  
    | 命名由来でしょうか? 数学の面白雑学の一つです。 | 
  
 
    
     
     図1 「パソコンソフト・周辺ドライバ」フォルダ | 
 
   |  |  |  | 
  
    | 中心としたシステムエンジニア(その他家電も含めた技術担当営繕係)になって疲弊する毎日 | 
  
  
    | です。 | 
  
  
    |  国民健康保険の介護報酬のみならず、東京都や大田区からの補助金、利用者様から | 
  
  
    | の利用料で会社を運営してますので、それなりにパソコン業務は多大です。 | 
  
  
    |  介護報酬の請求業務や補助金の申請、年度途中での変更交付申請(年3回)、前年 | 
  
  
    | 度の実績報告、利用者様からの請求で引落手続きや振込手続、職員退職時の異動届、 | 
  
  
    | 源泉税や住民税の納付業務、給料計算など、資金係、庶務係、渉外係、人事係、営繕 | 
  
  
    | 係など、日夜こき使われ、パソコンを利用して、新たな要求や問題解決に励んでいます。 | 
  
  
    |  それでも、パソコンでプログラミング言語を使ってアプリケーションを作ったり、ホワイトハッカーの様に | 
  
  
    | なんでもこなせる頭の良いレベルではなく、そこまでするのは無理ですし、その必要も | 
  
  
    | ありません。 | 
  
  
    |  出来合いの介護請求(Apprication Service Provider)ソフトや、役所関連で様式の決 | 
  
  
    | められたエクセル、PDFファイル形式、メールソフト、ゆうちょ銀行インターネット伝送、種々のファイル変換ソフト | 
  
  
    | など色々な効率化、簡便化要求に対して解決方法を模索しています。 | 
  
  
    |  OB会HPも担当していますが、この業務でも会社のパソコン業務に役立つ解法を見出 | 
  
  
    | すことが有りますし、その逆も有ります。 | 
  
  
    |  それでも、解決方法が見つからない場合、先ず各種アプリの「ヘルプ」、Yahoo 知恵袋、 | 
  
  
    | 窓の杜、Microsoft Community、各種検索エンジンなどを駆使して探索しますが、細かい | 
  
  
    | 要求(解決方法)なので、なかなか見つからないのが現状です。 | 
  
  
    |  ここで、冒頭「1.とっかかり」に記述した「時間のかかるパソコン操作取扱の備忘 | 
  
  
    | 録」について記述します。 | 
  
  
    |  一つは、「ダウンロード」フォルダに、もう一つは「ドキュメント」フォルダの「パソコンソフト・周辺ド | 
  
  
    | ライバ」フォルダに集約しています。 | 
  
  
    |  「ダウンロード」は、プロバイダーやサーバーからの通知、ハードやソフトの取扱説明書、気になる | 
  
  
    | 宣伝やニュース情報、通信費、光熱水費の利用明細、領収書、注文書、契約書、複合機トナー | 
  
  
    | など消耗品の製品一覧、役所の委任状、諸届書式、ドイツ語、フランス語キーボードのキー配置な | 
  
  
    | ど。 全部で、5.17GB、2,739ファイル、460フォルダに及びます。 | 
  
  
    |  「パソコンソフト・周辺ドライバ」フォルダは、CANON や DELL 製品のセットアップやソフトウェア更新、 | 
  
  
    | ソフトウェア製品の更新、無線LANの設定内容、パソコン機種による半角カタカナ入力の取扱、興味 | 
  
  
    | ある情報や忘れそうな各機器のポート名やIPアドレス、各種OSの一寸した情報(パスワード省 | 
  
  
    | 略やスタートアップアプリの無効化など)、問題を解決実現した特筆エクセルフォーム、数学面白雑学 | 
  
  
    | など、多岐に亘ります。こちらは、少なくて 393MB、398ファイル、71フォルダです。 | 
  
  
    |  単独に格納しているファイルもありますが、フォルダごとに関連ファイルを格納しています。 | 
  
  
    |  先ず、大事なのは当該サイトのショートカット、説明、操作を記述した .xls、.txt ファイル、web | 
  
  
    | 表示、図、写真を記録した .xps、.pdf ファイル、また面白情報などは動画などの.mp4、 | 
  
  
    | flv、wmv、webm ファイルを格納しています。 |