『トップページ履歴』2015年1月〜2015年12月
 
          トップページ 履 歴 一 覧
2015.12. 1 中・高年の山登り            副会長:佐藤 雅寿
2015.11. 1 OB会ホームページ開設10周年を迎えて   監査:小池 芳光
2015.10. 1 私の選んだ紅葉スポットベストテン(関東甲信越版)本部幹事:三好 陽二  
2015. 9. 1 思い出と期待            佐野支部長:辻 隆太
2015. 8. 1 私の「一生のスポーツ?」としての取組み 矢板支部長:荒井 一夫
2015. 7. 1 開創1200年の高野山へ      那須支部長:池田 知之
2015. 6. 1 台湾旅行で思ったこと           会長:八木 宏
2015. 5. 1 「災害弱者」の支援取り組みに期待    副会長:三橋 春夫     
2015. 4. 1 教えたい歴史             本部幹事:清水 国明
2015. 3. 1 リターンライダー卒業         本部幹事:木戸 雅史
2015. 2. 1 アートとしての写真          本部幹事:三浦 弘幸
2015. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
      『 ト ッ プ ペ ー ジ  履 歴 』
 
2015.12. 1 中・高年の山登り           副会長:佐藤 雅寿
 
中・高年の山登り 副会長  佐藤 雅寿
 
 朝、5時10分過ぎ、いつものようにチャーターしたマ 佐藤_副会長
佐藤_副会長
イクロバスがやってきた。ここから乗り込むのは4人で
ある。順次決められた場所からそれぞれ2〜5名ほどが
乗り込み、予定された全員(18名)が乗車し、すぐに近
くの高速道のICに入る。
 今日は月例の山行であるが、7月ということで一泊二
日の行程で「尾瀬ヶ原散策・至仏山登山」となっている。
首都高から関越に入り、途中SAで休憩・朝食を取った
り、昼食の調達をする。沼田ICで高速を降り、一路、鳩待峠へ向かう。天気も良さ
そうであり、日光キスゲも見ごろで楽しみだ。
 会社をリタイアしてから地元の山の会に入会し、毎月一回の山行を楽しんできたが、
少々物足らず、友人と別に「山と温泉と酒を楽しむ」山の会を立ち上げ10年を経過し
た。会員は30名ほどで男女の比は3:2。男性はほとんどが70歳以上。女性も60歳以
上の中というより高年者の山登りの会である。プロの運転手付のマイクロバスを使用
しているのは次の理由による。会員各位の住んでいる近くで乗車、降車ができること。
個人で行くとなると公共機関の鉄道やバスを利用するかマイカー利用となり、かなり
時間がかかり疲れる。この場合、ほとんどが山登りは往路を行ってそのまま戻るとい
うピストンとなってしまうが、バスを使用すれば反対側にも下りられるし、あちこち
寄り道(道の駅や農産物販売所など)もできる。何しろ高年齢者の山登りであるから、
安心安全で「楽な山行」を目指している。
 我々の山行は毎月一回で、通常は日帰りであるが、7 京都に富士山?(新倉山/富士吉田)
京都に富士山?(新倉山/富士吉田)
月後半から8月は天気も安定していることから、一泊も
しくは二泊でやや高度な山行を行っている。
 通常の日帰り山行は早朝出発(始発場所は5時10分)
で、全員が揃い最寄りの高速道に乗るのは5時30〜40分
くらいとなる。千葉県の習志野市からの出発であるため、
目的の山に向かうにはほとんどの場合、東名、中央、関
越などの高速道に乗る必要がある。そのため、首都高速
を早い時間に通過しなくては渋滞に巻き込まれるため、どうしても早立ちとなる。
途中、高速道のSAやPAで朝食をとり、昼食を調達し、現地(登山口)に向かう。
 登山を開始してからおおよそ2.5〜3時間ほどで頂上に立つようにし、頂上もしく
はその近くで昼食(午前11時〜12時)となる。下りも2時間くらいの歩程が目安であ
千畳敷カールから宝剱岳を望む
千畳敷カールから宝剱岳を望む
り、下山地点にはマイクロバスが待っているわけである。
今は携帯電話が発達しており、下山地点が少し変わった
り、下山時間が遅くなりそうなど運転手に連絡すること
も可能である。下山したら最寄りの立寄り温泉に向かう。  
夏場などは汗をかいた衣類を交換できるし、冬場は冷え
切った体を温めることができ、疲労回復に何よりである。
湯上り後は休憩室でビールなどを飲み少々歓談し、帰路
のバスに乗る。これで終わらず帰りのバスは持ち込んだ
アルコールを飲みながらの宴会が続けられる。帰りも各 富士山の笠雲
富士山の笠雲
人の降車場所を経由して帰るのである。本日も楽しく安
全な山行に感謝して、それぞれに別れを告げる。
 毎年一歳づつ高齢化してきており、登れる山の制約も
増えてきている。また噴火警報の出た山も多くなりつつ
あり、山行の選定に苦労している。
 日帰り登山の目安として、高度差500〜700m、歩程5時
間前後、高速道を降りてから登山口までのアプローチは
30〜40分くらいで登山開始は8時半〜9時頃を目指している。
 高齢登山者の山の事故が度々指摘されているが、山ガールが増えてきたとはいえ、
圧倒的に中・高年齢者が多いため、相対的に多いのは仕方がないとは思うが、一朝こ
とあれば「イイ年をして」と言われるのは必定であり、安全第一を心掛けている。
 「長野県山岳遭難防止対策協会」のパンフレットにある「山登り10訓」の中には
 1. 登りたい山より「登れる山」自分に見合った山選び
 2. 年齢考え「ひかえめ登山」過去の体力、過去のもの
 3. 山頂は通過点「下山道こそ」細心注意
 4. 「登山はスポーツ」観光気分が遭難まねく
 5. 山の天気は生死を分ける「天気予報」は命のお守り
 これらを心がけ今しばらくは高年の山登りを楽しみたいと思っている。 
 
2015.11. 1 OB会ホームページ開設10周年を迎えて   監査:小池 芳光
 
OB会ホームページ開設10周年を迎えて   監査 小池 芳光
 
 OB会のホームページ(以下、HPと表記)は、先月 小池_監査
小池_監査
10月1日に開設10周年を迎えました。これもひとえに皆
様方のご協力の賜物と感謝いたし、皆様と共に喜びあい
たいと思います。なお私事になりますが、先月のOB会
創立40周年記念総会において監査に就任する事になりま
した。長い間、HPを担当させていただき、皆様のご協
力に感謝いたします。なお、この記事はHP担当の立場
で筆をすすめさせていただきます。
 
HP開設以来の延べ訪問者数は10万人を越える
 HP開設以来10年間の延べ訪問者数(注1)の推移(9月30日現在)は、下のグラ
フに示すとおりになっています。月間では、一昨年2割強ほど急増し、1,200〜1,300名
HP訪問者数(平成27年9月30日現在)
HP訪問者数(平成27年9月30日現在)
位で推移。更に一昨年10月には、1,454名の月間最高記録
を更新しています。 
 累計では、奇遇にも10周年を迎える年と符合し、9月
1日に「10万人」の大台に到達しました。 
 (注1:一日単位で訪問者を積算し、それを累計する。
 同アドレスで一日に何回開いても、初回のみ1人1回
 だけが積算されていきます。)
 
 
OB会HP開発から今日までの主な歩み
1.OB会創立30周年の記念事業として企画
 OB会HPはOB会創立30周年の記念事業の一つとして企画されました。
 平成17年2月「OB会HP」準備会が発足。メンバーは、技術指導;竿田会員、
オブザーバー;潟gキメック広報・菅原氏、OB会;野村幹事です。
 竿田会員がOB会独自のプログラム開発を担当。多くの情報を並行して分担作業が
可能な書式(仕様書)にて編集を行い、これを統合編集する。更にインターネット上
にHPで表示可能なファイル(HTML)に一括変換できるプログラムを開発、契約した
サーバーへアップロードし更新する仕組みとしました。
 HPの構成には、「行事」、「同好会」、「展示会」(作品展)、「歴史」(想い出)、「近況」
(事務局)、「お便り」の各コーナーを準備したうえで、10月1日オープンに向けてプロ
グラムや各種資料の作成、記事や作品の素材集めと原稿書き、写真の加工に邁進し、
短期間に完成し、大変な苦労を掛けました。この間、栃木3支部へも説明会を実施、
万全の態勢を整えました。
 コーナーはその後括弧内の様に変更し、「トップ」、「話題」、「リンク」を追加しました。
 
2.トキメックOB会HPオープン!
 創立30周年記念総会にて黒石会長による“スイッチオン”で、「トキメックOB会」
のロゴも鮮やかなHPがスクリーン一杯に鮮明に映しだされ、感嘆の拍手のうちに
オープンしました。
「HP開設にあたり」と題し、黒石OB会長のメッセージを以下に抜粋します。
 『我がOB会は昭和51年に創立され、この度、30周年の節目を迎えましたが、会員の
幅も、お住まいの地域も当時とは格段に広がってまいりました。こうした状況のなか、
インターネットを活用し先輩後輩、男性女性、地域の枠を超えて会員同士の友好の輪
をますます拡げていただくことを期待し、このHPを立ち上げました。そこでこの趣
旨を達成するため、皆様に2つのことをお願いいたします。
 一つは「参加していただくこと」です。つまり見るだけではなく、投稿したり、趣
味の作品を掲載してください。事務局宛に手紙でお寄せいただいても結構です。
 もう一つはHPに参加する人の「輪を拡げていただくこと」です。まだ利用したこ
とのない人に、是非これを見せてあげてください。
 会員相互のコミュニケーションの一つとして、このHPが大いに役立ってくれるこ
とを期待してやみません。』
 
3.HPの活性化を目指して、HP専門部会組織を編成
 平成18年2月、「HPの特徴を活かしてOB会員同士の繋がりをより一層強めよう」
との目的を再認識して、HPに携わるメンバーの危機意識の共有が必要・・・・と、
野村幹事を中心に、主に運用面の活性化を図ることを目的に「HP運用プロジェクト」
を発足させました。
 @トキメック(東京計器)OB会固有のHPのあり方について企画・立案・調整
  を行なう「専門部会」。
 AHPに掲載する記事、写真などの情報収集を中心に行う「情報収集グループ」。
 B主に、「情報収集グループ」からもたらされた情報をHP記事に加工、編集し、
  HPへ更新、アップロードするなどの運用実務を担当する「運用グループ」。
 この三つの機能を「HP専門部会組織」として設け、HPに関わる全体を統括する
OB会会長、同じく助言・調整を行い、必要に応じて情報収集も行う副会長や栃木3
支部長、及び各支部HP担当を含めた機能と役割分担を明確化しました。本HP立ち
上げの中心メンバーである竿田会員が専門部会の「アドバイザー」として参加。
役割はOB会幹事の殆どが何らかの分担をすることにしました。
 HP発足1年後の平成18年10月に、HP専門部会にはメンバーに小池会員が参加。
翌年1月に幹事就任。更に、大谷幹事と青木会計が増強され運営されました。
 発足時のメンバーは黒石会長、黒澤事務局長、小田事務局長代理、三橋広報担当、瀧川
幹事、野村幹事でスタート。月1回定例会議を開き、三つの機能を果たすべく平成18年
4月から平成23年2月まで、49回を数える会議を開催、きめ細かな活動を行ってきま
した。この間に、運用グループは「HPWG」と名称を変更し、新任の清水幹事、木戸
幹事、関根幹事を増強しました。その後HP専門部会は発展的解消し、三機能を幹事
会の中に取り込み、通常組織の中で運営することにし、現在に至っています。
 
4.メール通信の発行
 平成18年3月から「OB会メール通信」を月2回発行。HPに一人でも多く関心を
持っていただいて「全員参加のHP」を早く実現させるのが狙いでスタートしました。
発行されたときには閲覧数が顕著に急増しています。9月現在で222号の発行となり
ました。緊急を要する訃報が発生した場合には、「臨時号」を発行し、これをご覧にな
れない方への情報提供呼びかけを行っています。
 
5.HP内容の充実
 1)「トップページ」は、@「季節の写真」をスライドで飾り、桜と新緑シリーズで
  平成18年4月にスタート。続いて皆さんから投稿された作品で毎月総入替え更新
  しています。その後、季節の花も一巡したので、タイトルを「季節の風物詩」に
  変更し、投稿の範囲拡大を図り、毎月10数名の方から30数点の投稿が続いており、
  最大の投稿数となっています。掲載は投稿の受付順ですが固定にせず、一日おき
  にスライドの順番を繰り上げて、変化を持たせる工夫もしています。  
  A巻頭言として寄稿者の主張の入った「トップ記事」を会長はじめ全幹事に順次 
  執筆の寄稿協力をお願いし、毎月トップページ充実の源泉となっています。
  BHPを開くと最初に表示される「メッセージボード」の活用は、イ)国家的な慶
  弔(天皇家慶弔や自然大災害)、ロ)(株)東京計器・OB会関連(創立記念日や関係者
  叙勲、訃報など)、ハ)季節の挨拶(新年の挨拶など)、ニ)総会開催などのメッセージ、
  その他をタイミング良く掲載。表示時間も選択できるようにして運用しています。
 2)「話題」コーナーは、ジャンルを問わず掲載することにし、情報収集チャネルを
  最大限に生かし精力的に寄稿依頼に奔走した結果、エッセイのレピートをはじめ
  連載のものなど沢山集まり、毎日曜日の掲載を目標にしていますので、掲載待ち
  になる程でした。それでも波があり投稿が少なったときには、筆の立つ幹事さん
  に連載執筆の協力があり、人気一番のコーナーになりました。ジャンル分けでき
  るものは、順次サブコーナーを新設しています。
 3)「作品展」コーナーでは、色々な趣味をお持ちの方に順次お願いして作品を提供
  して頂き、絵画や写真などには額縁を付ける画像の加工を行い展示してきました。
  ジャンル別に掲載し、画像を沢山扱えるHPの特徴を大いに発揮しています。
  特に「俳句」は、色紙風に画像を加工し展示の工夫もしています。
 4)「同好会」コーナーには、趣味のサークル活動の模様が写真と共に沢山報告さ
  れ、特にゴルフが盛んで毎月その活躍ぶりはタイムリーにHPを賑わせました。
 5)「想い出」コーナーには、克明に記録された「OB会の歩み」が掲載され、毎月
  更新されています。更に、膨大なトキメック(東京計器)「100年史」、「110年史」
  も閲覧できるようになっています。
 
6.HP各コーナーへの参加者
 これまでHP上に掲載されてきた記事・報告及び写真や作品展などを、コーナー別
に投稿点数と投稿・寄稿者数をまとめたのが以下の表です。(平成27年9月30日現在。
10年間)実質200名を越える方(注3)に登場いただいております。
これは単純平均で全会員の4割の方に参加いただいていることになります。
 投稿・報告記事、お知らせや作品展示などの更新は頻繁に行っており、毎月20数件
の更新を行っています。
 (注3:コーナー単位に積算し、繰り返し投稿された方は、数えていない。)
投稿記事、写真、作品および投稿者数(平成27年9月30日現在)
投稿記事、写真、作品および投稿者数(平成27年9月30日現在)
 
7.アンケートの実施
 HP専門部会では、全会員対象にアンケートを2回実施しました。
 平成24年3月(2回目)に全会員557名の皆様にお願いし、369名の方から回答を頂き、
(回答率66%)、そのうち174名、47%、(全会員比では31%)の方が「HPを見ている」、
128名、35%の方が「見ていない」(注2) <うちパソコンなし76名(21%)> という結果
でした。(注2:メールアドレスをお持ちの方は、243名<全会員の44%>です。)
アンケート結果−1
アンケート結果−1
 回答を寄せられた方の詳細では、「見る度合い」:2回未満112名(64%)、3回以上
62名(36%)。「内容の興味度」:@たくさんあった40名(23%)A少しあった95名
(55%)B余りなかった36名(21%)。「参加意欲」:@参加したい24名(14%)
A頼まれればする 39名(22%)B参加したくない101名(58%)となっています。
アンケート結果−2
アンケート結果−2
 
      お気軽に、もっともっと多くの方のご参加を!
 大きな節目の10周年を迎え、初心に立ち返って、もっともっと多くの方に参加して
いただけるよう、きめこまかな対応と魅力あるHPつくりに取り組んでいく必要性を
痛感しております。「HPの特徴を活かしてOB会員同士の繋がりをより一層強めよ
う!」との目的を実現するため「みんなが参加でき、みんなの輪が広がるHPつくり」
には、皆様方の情報提供のご協力なしには進展しませんので、よろしくご協力のほど
お願いいたします。
 このHPは速報性と豊富な写真を掲載できるのが大きな特徴です。会員皆様相互の
コミュニケーションの一つとして、大いに役立つものになるよう、期待しています。
 何なりとご意見、ご要望などHP事務局や最寄の各幹事にお寄せいただければ幸い
と存じます(OB会メールアドレスtkob@some.jp)。
 
2015.10. 1 私の選んだ紅葉スポットベストテン(関東甲信越版)本部幹事:三好 陽二  
 
    私の選んだ紅葉スポットベストテン
(関東甲信越版) 本部幹事 三好 陽二  
 
 いよいよ10月、紅葉の便りが聞かれる季節になりまし 三好_本部幹事
三好_本部幹事
た。皆さん紅葉狩りに出掛けましょう。
 私は時間の余裕が持てるようになったこの10年近く、
東京近郊やツアーで回るような各地の紅葉の名所をあち
こち巡ってきました。その中で私の独断と偏見で選んだ
紅葉スポットベストテンをご紹介したいと思います。こ
れからどこかへ紅葉見物に出掛けてみようと言う方が居
られましたら参考にしていただけると幸いです。
 紅葉の美しさは時期、天候、時間などに大きく左右されその時の人出や同行者など
によっても楽しさは変わります。出掛ける前にその日の天候、紅葉情報などをNetで
調べるなどして最適の場所を選ぶことをお奨めします。
 
第10位 新宿御苑
 新宿御苑は新宿区と渋谷区にまたがる広大な敷地に、皇室の庭園として明治時代に
新宿御苑
新宿御苑
造られ、いろいろな樹木が植えられていて、樹齢100年近
くの大木も多くあります。春の桜が有名ですが、秋の紅
葉も素晴らしく、黄金色のイチョウの巨木や池に映る真
っ赤なかえでなどが都心のこんなところでも充分楽しめ
ます。私が好きなのは御苑の北隅にある落羽松です。夕
日に金色に輝く紅葉はとても見事です。近いので、天気
の良い午後に出かけるのをお勧めします。
 見頃は11月中旬〜
 
第9位 明治神宮外苑のイチョウ並木
 11月のシーズンになるとニュース番組や天気予報のバ 明治神宮外苑絵画館前
明治神宮外苑絵画館前
ックに必ず映されるのが、このイチョウ並木です。青山
通りから神宮外苑までの300mにわたって150本ほどのイ
チョウが植えられていて、紅葉シーズンになると素晴ら
しい黄色の並木になります。青山通り側から眺めると奥
行きのある素晴らしい光景になります。これは、遠近法
を用いて木の剪定をしているからとのことです。
 見頃は11月中旬〜
 
第8位 栂池自然苑
 栂池高原からゴンドラとロープウエーを乗り継いで行く栂池高原上部に栂池自然苑
があります。9月下旬から紅葉が始まり、ダケカンバの黄、ナナカマドの赤、オオシ
栂池自然苑
栂池自然苑
ラビソの緑、バックに白馬連山の大パノラマのメリハリ
のある紅葉風景が楽しめます。また、ここにはトレッキ
ングコースが整備されているので、散歩からちょっとし
た山登りまで楽しめます。
 私が行ったのは10月初めでしたが、景色は最高なのに、
寒くてこまった記憶があります。行かれる場合はダウン
ジャケットなどの防寒準備をされるとよいと思います。
 見頃は9月下旬〜10月中旬
 
第7位 上高地
 北アルプスの玄関口である上高地ですが、梓川沿いに 上高地
上高地
カラマツの金色、白樺の黄色、ナナカマドの赤が美しく、
バックの雄大な穂高連峰とともに素晴らしい景色になり
ます。ここは一般乗用車の乗り入れは不可なので、バス
かタクシーで行くことになりますが、さすがに玄関口だ
けに人が多く休日はかなり混雑します。大正池から梓川
沿いに河童橋、明神池をぐるっと一回り巡る散策がお勧
めです。 見頃は10月中旬頃
 
第6位 高瀬渓谷
 槍ヶ岳を源流とする水俣川が合流する高瀬川には上流から高瀬ダム、七倉ダム、大
高瀬渓谷
高瀬渓谷
町ダムと3つのダムが続いています。その最上流の高瀬
ダム周辺の紅葉は赤が多くとてもきれいです。また、ダ
ム湖の水の色がエメラルドグリーンであるため不思議な
光景になっています。
 アクセスは2番目の七倉ダムまで車が入れますが、そ
こから先は指定のタクシー以外入れません。また、この
高瀬ダムは高さ大きさとも1,2を競う日本有数のロッ
クフィルダムで、その巨大な石積みに圧倒されます。行
きにくい所なのであまり混雑せずゆっくり見物できます。
 見頃は10月中旬〜
 
第5位 軽井沢
 別荘地の代表格である軽井沢は紅葉の名所でもありま 軽井沢
軽井沢
す。シーズンになると町中どこでもカエデやカラマツ、
カツラなどが見事に色付き町中が紅葉スポットになりま
す。私のお勧めは中軽井沢から長野原方面に向かう国道
146号線沿いの雑木林に絡むツタウルシの真っ赤な紅葉で
す。木漏れ日の中に目の覚めるような光景が出現します。
 見頃は10月下旬頃
 
第4位 川上村のカラマツ
川上村のカラマツ
川上村のカラマツ
 千曲川の水源地帯で、レタス栽培が盛んな川上村の周
囲の山々のカラマツが、シーズンになると一斉に紅葉し、全山黄金色に輝きそれはそれは見事です。カラマツの紅葉
全山黄金色に輝きそれはそれは見事です。カラマツの紅
葉は見ごろの期間が短く、ちょっと遅れるとあっという
間に落葉してしまうので、ベストの時期に晴天と重なる
のはなかなか難しく、私も何度か行きましたが、ちょう
ど見ごろに晴天だったのは1度だけです。
 見頃は10月下旬頃
 
第3位 ドラゴンドラからの眺め
 苗場スキー場と田代スキー場を結ぶロープウエーのド ドラゴンドラからの眺め
ドラゴンドラからの眺め
ラゴンドラからの紅葉は、スケールが大きく見事です。
このロープウエーは日本一長く(5km以上)30分近く
乗って上空からの紅葉が楽しめます。高度差も500m近く
あるので10月半ばから末までの間なら必ずどこかが紅葉
の最盛期にあたっています。このロープウエーは頂上で
田代高原の田代ロープウエーの頂上駅に近いため両ロー
プウエーを乗り継いでの上空散歩を楽しむことも可能で
す。 見頃は10月中旬〜下旬
 
第2位 志賀草津高原ルート
志賀草津高原ルート
志賀草津高原ルート
 志賀草津高原道路はまさに観光専用のルートで、草津
から志賀高原の間は絶景の連続です。特に紅葉シーズン
のお勧めは草津から登ってロープウエー駅を過ぎたあた
りから熊笹の緑のカーペットにナナカマドの赤が非常に
美しく、白根火山の白や褐色の荒涼とした背景に浮き立
って見えます。さらに進んでこのルートの最高点2170m
付近から芳ケ原湿原方面の遠望が、ナナカマドなどの赤、
笹やトウヒの緑色、草紅葉のオレンジ色がちりばめられ
て、この世のものとは思えないくらい素晴らしい景色が望めます。
 見頃は10月上旬〜
 
第1位 奥志賀
 志賀高原の最深部奥志賀から秋山郷方面に向かう奥志 奥志賀
奥志賀
賀スーパー林道の紅葉が最高です。起点の奥志賀高原ス
キー場から細い山道が延々と続き、行けども行けども全
山紅葉の大絶景が続きます。カーブを曲がるごとに新し
い発見があるルートです。ここは針葉樹の山がほとんど
ないので全山紅葉の素晴らしい景色を見ることができま
す。写真のようにブナの大木のある谷などもありいろい
ろな色合いの紅葉が楽しめるのもこのルートの特徴です。
ただし、自家用車以外の交通手段がないので誰でも簡単にというわけにはいきません。
 見頃は10月中旬〜
 
 以上ですが、今年は異常気象で季節の変化が例年と異なり、ちゃんと紅葉するかど
うか心配です。また、見頃も例年より早いとの情報もあり、上記の目安も当たるかど
うか不安です。お出かけの際は今年の見頃情報を収集して日程を決めることを勧めし
ます。
 
2015. 9. 1 思い出と期待            佐野支部長:辻 隆太
 
思い出と期待 佐野支部長 辻 隆太
 
  夏が来れば思い出す_1
 佐野工場敷地内で納涼大会があり、屋台に参加したり、  辻_佐野支部長
辻_佐野支部長
家族を案内したり、八木節チームの一員として舞台に上
がりみんなで楽しんだこともありました。
 佐野市の七夕祭りの「市民総踊り」にも参加したなぁ。
終業後、食堂の広場で、踊りの師匠による指導を経て、
揃いのTシャツで、佐野駅前の目抜き通りへ繰り出し、
おばちゃん軍団にはさまれて踊った。途中応援仲間から
の差入れで元気百倍。廻りを見習いながら夢中で踊った。
 今年も足利の花火大会へ出かけた。平和だから、元気だから出来た楽しみですかね。
足利の花火大会_1
足利の花火大会_1
足利の花火大会_2
足利の花火大会_2
これからも出来たらいいな。
 そう云えば6月佐野支部
会員の須貝さんが地域活動
として佐野市犬伏地区公民
館で「佐野市の魅力再発見」
と題し講演されました。
その様子は佐野ケーブルテ
レビで紹介されました。
そのなかで真田父子の「犬伏の別れ」のお話がありました。
 慶長5年7月、徳川家康が全国制覇を夢見て有力大名 犬伏の密議の図
犬伏の密議の図
を佐野の隣の小山へ呼び集め、軍議を開いた。(東軍)
真田父子も信州上田城、上野沼田城から会議へ参加の途
中、佐野の犬伏に宿泊していたところへ、西軍の石田三
成から西軍支援要請の密書が届いた。
父子は討議を重ねた結果、義によって父昌幸と次男幸村
は西軍へ、長男信幸は東軍へ、分かれて戦うことにした。
東西どちらが勝っても「真田家は残る」という判断もあ
ったとか。その頃の中小大名は騒動が起こるたびに、どちらについたら当家は生き残
れるかが切実な問題であった。ある時はA軍と共に戦い、時世が変われば義を捨て利
をとって反A軍に組して戦った。何のために戦い、勝った後どうするのか、傷ついて
戦場をのたうちまわった戦士の思いは、戦士の帰りを待つ家族の気持ちは・・。
 そんなことを考えもしないお祭り男の私が踊っていた目抜き通りは、真田昌幸(父)
幸村(次男)が上田城へ、信幸(長男)が小山へと別れ、やがて来る関が原の戦いか
ら大阪冬の陣・夏の陣へ続く、決断と運命の分かれ道であったのだとわかりました。
夏の陣を含む真田幸村の壮絶な活躍は,来年のNHK大河ドラマ[真田丸]に譲ります。
最近では義も利も捨てるか、民主主義発祥の国が奮闘していますね。頑張れ義利捨。
  夏が来れば思い出す_2
昭和13年竣工_第1生命保険建屋
昭和13年竣工_第1生命保険建屋
 壮絶な戦いと復興の物語はここ70年にも沢山ありまし
た。その一つ、東京大空襲で東京駅は戦禍にあいました
が、皇居に面する日比谷通りの建物は戦禍をまぬがれま
した。その中で日比谷交差点近くの第1生命保険の建物
は終戦処理の中心、連合軍総司令部のマッカーサー総司
令官ののオフィスとして使われました。
 この建物は建築雑誌によれば、昭和7年8月建築設計
図案を懸賞募集、10月末締め切り、翌年1月に268案のう
ち10案が優秀賞に選ばれた。(そのうちの一つは、亡父 懸賞当選図案1例
懸賞当選図案1例
辻 廉三がT定規や三角定規と鉛筆で頑張った物だと云っ
ていました。)
この10案を参考に、施工主と設計技師とで28回も検討を
繰り返して、やっと最終案に達したとのことです。
外観に就いては皇都第一の美観地域であるから、周囲に
円柱を繞(めぐ)らすギリシャ風のものも立案されたが、
工費と有効面積に無駄があるので、実用本位のものとし
唯、御濠に面する西側には10本の方柱を立てて、美観をそえると同時に夕日と騒音を
遮ることとし、其の他は壁面と窓との諧調を主とした鉄骨石造の極めて簡明なる外観
とし建築条例の許す範囲の最大容積のものとしたとのこと。便利・堅牢・愉快な建物
にし、昭和13年に竣工。その後は第1生命保険本社としてのほか警視庁仮庁舎、剣道
場、郵便局、貸しホール、女学校校舎などとしても利用されていたそうです。
   9月になれば
 昭和20年戦禍を逃れた日比谷通りの建物群は駐留する連合軍により接収された。
9月にこの建物も接収され、一部内部が改装され10月には連合軍最高司令官総司令本
部となったが、昭和26年9月平和条約が結ばれ、昭和27年GHQの占領が終わり、建物も
返還された。再び平和のための建物として内部が改装され復帰したのだそうです。
 その後、丸の内地区の復興再開発と共に、平成に入りこの建物も「NDタワー21」
として再開発されたとか。内装はマッカーサー室など一部の部屋を除き全て改装され
たそうですが、西側正面の外観は設計当初のまま維持されています。
 最近では世界的規模で募集して当選したデザインの建物が、工費の面から白紙撤回
となりましたが、9月になれば日本の建築技術者が総力を挙げて、工費や利用面積に
無駄のない実用本位の次世代まで有効な建物の発表があるものと期待しております。
 
2015. 8. 1 私の「一生のスポーツ?」としての取組み 矢板支部長:荒井 一夫
 
私の「一生のスポーツ?」としての取り組み 矢板支部長 荒井 一夫
 
 昨年、服部さんから支部長という大役を引き継ぎ1年 矢板支部長_荒井
矢板支部長_荒井 一夫
を迎えようとしています。
これからも、矢板支部の発展のために幹事の皆さんと協
力し、コミュニケーションを取りながら、更に頑張って
いく所存です。宜しくお願いします。
 今回は、話題がなく私の趣味の話を聞いて下さい。
 私の趣味は、小さい頃から取り組んでいる球技です。
その中でも野球、ソフトボールは若いころから現在も継
続して続けています。特に野球は小学生から続けています。
 現在も還暦を迎えましたが、熟年(50歳以上)の矢板球友、シニア(60歳以上)の
矢板シニアチ−ムに所属をして汗を流しています。
矢板シニアチーム
矢板シニアチーム
 また、ソフトボ−ルについても、地域のチ−ム(創立
45年)の壮年(40歳以上)で監督兼選手で、一般の50歳
以上は選手で、シニア(60歳以上)は全国を目ざし矢板
シニアで頑張っています。家内には、いくつものチ−ム
に加入してないで「もう年なんだから」絞ったらと毎日
のように嫌味を言われている次第です。
口には出さないが年会費の件でも迷惑をかけていますし、
確かに馬鹿にならないといつも反省しているところです。
 特に自慢をしたいのが、一昨年、野球の50歳以上の矢板球友で岡山県の倉敷市で開
催された全国大会に栃木県代表で出場をしたことです。
結果は、1回戦は島根県代 全国大会入場行進前
全国大会入場行進前
新聞記事
新聞記事
表に勝利しましたが、2回
戦で大阪府代表に善戦むな
しく敗戦となってしまいま
した。
 大会に参加して感じたこ
とは、参加者の中にはノン
プロあがりの方などがいて
レベルの相違を感じたことです。しかし、もう一度全国大会に参加したいなと思う近
頃です。
 ちなみに全国大会の系列は、熟年(50歳以上)、シニア(60歳以上)、古希(65歳
以上)、傘寿(75歳以上)の年齢層別の大会があります。
参加者を見ると皆、元気ハツラツで頑張っていますし、特にシニア以上の方が口を揃
えて言うのが、若い人が加入してきても、辞めないで次のクラスでプレーすればいい
のではと言っていることです。
 確かに私ぐらいの年代になると、プレーを一度辞めたら駄目で継続することが重要
であると思います。やはり、体が続く限り好きなことは継続なりです。
 先日のシニアの関東大会では、最高年齢が90歳でしたが、我がチ−ムの最高年齢は
75歳で平均年齢は65歳です。エ−スは70歳でスピ−ドもあり年を感じさせませんし、
私は一番の若僧です。
 ルール的には、投手間は16m、塁間は23mと小学生と同じです。参考までに一般は、
投手間18.44m、塁間は27.431mです。したがって、距離は小学生と同じ、各チームは
往年の選手たちの集まりですので、スピ-ド感は一般の場合とあまり変わらない気が
がします。
荒井選手の打撃フォーム
荒井選手の打撃フォーム
 私が所属する矢板シニアの練習は、毎日休日の方が多
い為、2月1日より平日を含め週3回行っています。
練習は、人数に関係なく、集まれば行うことになってい
ます。
私は、仕事があるので週1回ですが、一番の楽しみは練
習後、試合後の一杯です。
 家内も野球がある時は、1日がかりであると思い、余
りあてにしなくなりました。
 これからの私の目標は毎試合必ず塁に出ることと、結果として、全国大会に出場す
ることです。私の守備位置はセンターで打順は1.2番を任されていますが、自慢は
脚力があるということです。これからも怪我をしないように練習を続け、精進し、一
生のスポ−ツとして取り組んでいきたいと思います。
「追記」
近頃は、母親の介護で制約があり、苦労しています。
 
2015. 7. 1 開創1200年の高野山へ      那須支部長:池田 知之
 
開創1200年の高野山へ
 
 今、「関東八十八カ所霊場」巡りの途中であり、満願 池田_那須支部長
池田_那須支部長
後に高野山奥之院に参詣する予定でいたが、今年は、
「高野山開創1200年を迎え、金堂・御本尊御開帳、金剛
峯寺御開帳」のパンフレットを目にして、この際高野山
へ行って、ご本尊を拝顔しようと意を決めました。
 4月中旬、那須塩原駅始発の東北新幹線で東京駅へ、
東海道新幹線で名古屋へ向かいました。車窓から、晴れ
渡った青空の中、雪の残った綺麗な富士山を久しぶりに
眺めることができ、晴ればれとした気分になりました。その後、近鉄特急で大和八木
駅へ行きバスに乗り換え高野山へ向かいました。山頂へ近づくに従い、道は細く、大
型バスがすれ違うことができないカーブが多く、高野山の駐車場に到着したのが午後
3時過ぎで、家を出てから約10時間かかりました。
 高野山は、海抜900メートルにある33万坪の一大盆地に117寺院があるとパンフレッ
トに書かれていたが、実感がわきませんでした。ただ、バスを降りると、右も左も前
も後ろも寺院だらけで、迷子になりそうなほど広かった。ガイドマップに従い何とか
檀上伽藍金堂についたら、タイミング良く、当日の法会が終わり、きらびやかな袈裟
をつけた僧侶たちが一列に出てきたところに出会い、厳粛な一面を見ることができま
僧侶たちの列
僧侶たちの列
壇上伽藍金堂
壇上伽藍金堂
した。
この金堂は、昭和元年、本
尊を含む七体の仏像と共に
火災で全焼し、昭和9年金
堂の再建とともに本尊が新
造され、以来80年余り厨子
内に安置され秘仏とされて
いたが、今年特別に御開帳
されました。
撮影禁止のため写真が撮れなかったが、本尊の薬師如来は天井に届きそうなほど大き
く、穏やかな顔を拝顔することができた時は、体が震えそうなほど感銘した。ただ、
人が多く、立ち止まれず、ゆっくり見られなかったのが残念でした。また、伽藍の前
にある中門も焼失後礎石を残すのみであったのを今年の大法会を期して再建され、脇
に安置された四天王が左右から睨みを利かせているようで見事なものでした。
また、伽藍の右奥には、高さ50メートルはあろうかと思われる朱色に光る、ひときわ
目立つ建物があり、これが根本大堂でした。 根本大堂
根本大堂
 内部は、中央には本尊の大日如来、四方に金剛界四仏
を配し、周囲の柱には鮮やかな曼荼羅を顕し、きらびや
かな世界が広がっており、圧倒されました。 
 その日の宿は金剛三昧院の宿坊。このお寺は世界遺産
に登録されていると聞かされびっくりしました。
 高野山においては街全体が世界遺産登録されたわけで
はなく、主に歴史的建立物としての価値が高い6ヶ所が
登録されており、そのうちの1つでありました。以前は、僧侶が寝泊まりしていた場
所で、宿坊の内部は、建物も古く迷路のように入り組んでおり、部屋も狭く廊下を歩
くとミシミシ音がして夜中トイレに行くのにも神経を使いました。夕食には、事前に
アルコール類の注文を取り、精進料理で一杯飲めたのでホッとしました。
 翌朝は、6:30から本堂で朝の勤行に参加し、その後、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝
公の菩提を弔うために、その妻の北条政子が創建しましたという寺の歴史や世界遺産
に登録までの経緯や国宝・重要文化財の維持の苦労話などを住職さんから聞きました。
 朝の勤行には、外国人が多数参加していました。後で知ったことだが、この住職さ
んは今年の2月に法印職に昇進されたそうです。(法印とは弘法大師空海の名代とな
り、高野山で行われる法要を司る、高野山真言宗の僧侶の中でも最高の位に立つ僧侶
の事を表わすと説明を受けました。)
金剛蜂寺
金剛蜂寺
 朝食後、早出をし、豊臣秀吉が亡母菩薩のために建て
た金剛峰寺を開門と同時に訪れました。
本尊は弘法大師坐像で16年ぶりの御開帳ということで期
待していたが、大広間を隔てた奥の持仏に安置されてお
りよく見えませんでした。ただ、寺の内部は四季の花や
絵・弘法大師入唐の模様が描かれた襖絵、とくに印象的
だったのは、壁は総金箔押し、格子天井は花の彫刻、欄
間の透かし彫の上壇の間で当時の絵師や彫刻師のレベル
の高さに魅了させられました。重要な儀式や法会が行われる大広間で、僧侶たちから
お茶の接待を頂き、一休みできました。また、台所には、2000人分のご飯が炊けると
いう巨大な「二石釜」があり、秀吉の権勢が偲ばれました。
 次に、一の橋から約2km先にある弘法大師御廟に向かい石畳の参道を歩き始めまし
た。数百年も超えるような杉木立が続き、両脇には墓石や供養塔,祈念碑慰霊碑など
数多くの石塔が立ち並び、それも現代の多くに会社・企業の供養塔があるのはなぜか?
歴代の経営者や社員を供養しているのだろうかと考えさせられました。また、織田信
長はじめ戦国時代の武将たちの墓が次々と目に飛び込んできて、敵味方の区別なく祀
られているのだと考えているうちに「御廟の橋」へ着きました。ここから先は、弘法
大師の御廟の領域なので写真撮影、飲食、携帯電話、大きな声で話すことは禁止でし
た。この橋の前で合掌していると「御大師様」に食事を運ぶ僧侶たちに出会いました。
僧侶たちは橋の手前で深々と頭を下げ、渡っていきました。1200年続いている光景
(?)を目にすることができチョッと得した気分になりました。私たちも頭を下げ、僧
侶たちに続き橋を渡り、燈 燈龍堂
燈龍堂
しだれ桜
しだれ桜
籠堂(写真の中央に移って
いる)でお参りをして、こ
の裏にある弘法大師の霊を
祀る御廟に向かいお参りを
しました。帰り道にある無
縁塚をお参りして奥之院の
参詣終了でした。麓では桜
の花は散ったが、山の上は枝垂桜が満開で、十分楽しむことができました。
 高野山は広く、一泊二日ではほんの一部しか見学できなかったので機会があればま
た訪れたいと思いました。
 帰りの新幹線の中で、ビールを飲みながら、山の上に多くの寺院をどの様にして建
てたのか考えているうちに眠り、気がついたら東京駅だった。まだ、これから那須ま
で帰らなくては・・・の一泊二日の忙しい旅でした。
 
2015. 6. 1 台湾旅行で思ったこと           会長:八木 宏
 
台湾旅行で思ったこと  会長  八木 宏
 
 年初に今年は妻と海外旅行をしてみようと思った。 八木_会長  
八木_会長  
 あれこれ考えたが比較的近い台湾とし、バスで全島を
ぐるりと回る4月下旬のツアーに申し込んだ。
 台湾は現役時代に代理店の深刻な売掛金問題の実態調
査で行ったことがあるが観光目的は初めてだ。2011年11
月に東京計器OB有志旅行会19名による台湾訪問の様子
をHPに旅行記として投稿されたのが参考になった。
 飛行機は東京羽田と台北松山空港発着なので、どちら
もアクセスがよくて楽だった。
 4泊5日で台北、台中から日月潭、文武廟、台南市内で赤嵌楼、延平郡王祠、高雄
で蓮池潭、三鳳宮、台東から三仙台、八仙鳳、花蓮で阿美文化村、太魯湖、台北に戻
り忠烈祠、九ふん、故宮博物院と盛りだくさんに回った。
 台湾島は九州とほぼ同じ面積で、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートの衝
突により隆起してできたので中央部は高い山脈が連なっている。東西を結ぶ道路は少
ないので今回は海岸に近いところをぐるっと回り、山間部には2回入った。
日月潭
日月潭
太魯閣峡谷
太魯閣峡谷
九ふん
九ふん
 日月潭は南投県の海抜727mにある高山湖で、日本統治時代に水力発電所が建設され
ダム湖となった。今も台湾の水力発電量の半分以上を発電しているそうだ。
 ダム湖になるときに沈んだ二つの寺院が合併して文武廟が建立された。孔子や関羽
など仏教、道教、儒教の神々が一堂に集められ訪れる人が非常に多かった。
 太魯閣は西海岸の花蓮の近くから入る峡谷で、1960年に東西横貫道路が開通して
内外の観光客を多く集めるようになった。峡谷の両側は大理石の1枚岩が連なって
壮観だった。花蓮は大理石の生産地であって道路に大理石の破片が敷かれていた。
 
 台湾の人たちは親日     
 さて同じ隣国でも中国や韓国でなく台湾を訪れたいと思ったのは、台湾の親日性を
好ましく思っていたからだ。そもそも自分自身が子供のころから多くの台湾出身有名
人に親しみを持っていた。野球では王 貞治のずっと前に呉 昌征が阪神や毎日で活
躍した。その後も多数の台湾選手が来日し活躍している。ゴルフでは1980年代に活躍
したト 阿玉を覚えている。芸能人ではジュディ・オング、欧陽菲菲、テレサ・テン
など枚挙にいとまがない。
 2014年の訪日外客数は台湾が約283万人でトップだ。東日本大震災に対する義捐金は
最終的に200億円を越し世界一だと聞く。ボランティアなど人的支援も大きかった。
 台湾は1895年から50年にわたり日本により統治された過去がある。また日本は1972
年中華人民共和国との国交樹立に伴い、それまでの中華民国(台湾)との国交を断絶
した。それにも拘わらず台湾の人たちが親日であることに驚く。
 
 台湾に尽くした日本人たち
 今回のツアーの現地ガイドは日本でも働いたことがあり中学生の子供を持つ男性で
あったが、彼は台湾人の親日について日本統治時代に建設や教育をはじめ様々な分野
で台湾に尽くした多くの日本人の存在によるものだと言った。その代表例として
彼は3人の名を挙げた。岡本要八郎と磯 永吉と八田與一だ。
岡本要八郎は台湾総督府国語学校の教諭として台湾人 北投石
北投石
の教育に当たっていた。少年時代から鉱物に興味を持っ
ていた岡本は1905年に北投温泉付近で北投石を発見した。 
 北投石は放射性ラジウムを含み、健康に良いとのこと
でブレスレットなどに珍重されている。今回のツアーで
も女性を中心に購入する人が多かった。
 磯 永吉は1912年に台湾へ渡り総督府農事試験場など
を経て台北帝国大学教授に就任し台湾米の品種改良に取
り組んだ。従来の台湾米は日本人の口に合わず、日本米は台湾の気候に合わなかった。
 10年の歳月をかけて1000種以上の交配で育成した200以上の品種の中から1935年に
「台中65号」が開発された。台湾の気候に合い美味で優れた品質の「台中65号」は
1940年に「蓬莱米」と命名され、戦後に至るまで外貨獲得に寄与した。
米を安定して収穫するには良い水田が必要で、それに貢献したのが八田與一だ。
台湾総督府土木課の技師であった八田は1918年に台湾西南部の嘉南平野の調査を行っ
た。嘉南平野は広い面積に農地や甘藷農園があったが灌漑設備がなく日照りや豪雨
による冠水などに悩まされていた。そこで八田は嘉南大シュウ(土へんに川)と呼ば
れる台湾最大規模の農水施設の建設を総督府に提案し1920年に工事が開始された。
 八田は公務員の身分を捨て嘉南大シュウ組合付き技師 八田與一
八田與一
となり工事の陣頭指揮を行った。当初は八田に敵意を抱
いた農民や労働者も次第に八田を信頼するようになる。
 工事は台南・曾文渓上流に当時東南アジア最大となる
烏山頭ダムを建設するとともに、嘉南平野の濁水渓から
曾文渓の間の広大な土地に16000kmにわたって水路を開削
した。
 烏山頭で取水された水は北幹線と南幹線に分岐し濁水
渓での取水とともに嘉南平野一帯を潤した。
 1930年に完成したこの嘉南大シュウにより耕地面積が拡大し多くの畑が水田に転換
し農作物の生産が飛躍的に増大することとなった。
 「KANO 1931海の向こうの甲子園」という台湾映画が今年1月に日本でも公開され
た。嘉義農林学校の日本人、漢人、高砂族(今は原住民と呼ぶ)からなるバランスの
良い野球チームが1931年夏の甲子園に台湾代表として出場し準優勝を遂げた。
 嘉義へ凱旋した選手たちはパレードの後、嘉南大シュウに向かい用水路で八田に出
会い祝福と激励をされたという。
 嘉南大シュウ完成時に住民の熱意で製作されダムの傍に設置された八田の銅像は、
戦時中の金属類回収令や蒋介石時代に行われた日本建築物、顕彰碑の破壊の際には地
元の有志により隠された。そして1981年になって再び設置された。
 八田の業績は今も中学の歴史教科書や小学生の社会教科書で紹介されている。
 
 さまざまな分野で    
 今回のツアーでは現地ガイドが挙げた3人以外にもさまざまな分野で台湾に尽くし
た日本人が少なくないことを知った。
 台南は台湾の最初の首府だ。17世紀前半に台湾に侵攻したオランダが台南を統治拠
点としたのが始まりで、清 赤嵌楼
赤嵌楼
鄭成功議和
鄭成功議和
による統治時代も行政の中
心であった。
 その台南にある赤嵌楼
(カンは甘の部分が土へん
の字も使われる)はオラン
ダが築城し、1662年にオラ
ンダを駆逐した鄭成功も行
政最高機関である承天府を赤嵌楼に置いた。
 ここの資料館に羽鳥又男の銅像が置かれ彼の功績を讃える銘文が付されていた。
 羽鳥は三代の台湾総督の側近を務めたのち1942年に台南市長となった。戦時下の困
難な時期に市政を掌握し業績をあげ、特に台湾最古の孔子廟の修復や赤嵌楼の改修を
行ったほか多数の重要文化財の疎開や修理など保全に努 羽鳥又男
羽鳥又男
めた。
 台湾で最初に鋳造された開元寺の鐘が金属類回収令に
よって供出されたのを知るや、溶解の寸前に回収し保管
するよう指示を出した。
 内地人、台湾人の区別なく共生する融和政策をとった
ことなどから今も台湾の人から感謝されているそうだ。
 5月9日の朝日新聞夕刊に「106歳〜拝啓 台湾の君へ」という記事が掲載された。
 記事の内容は台中の現存しない住所あてに届いた日本からの手紙に関するもので、
手紙の差出人は熊本に住む106歳の高木波恵さん。
 高木さんは戦前に台湾で公学校(小学校)の先生をしていた。
 上述の映画「KANO」が公開され、当時嘉義農林を熱心に応援していた高木さんは教
え子たちを懐かしく思い出した。ついに教え子の一人に手紙を出したが、住所表記が
何度も変わっていて宛先は不明になった。分厚い封筒を見て重要なものだと感じた若
い郵便局員が訪ねまわった結果ようやく宛先を探し当てた。
 その後、20人以上の教え子の住所が突き止められ師弟の交流が復活したという。
 
 日本統治は社会基盤の整備、農業振興、教育の拡充、治安の確立など様々な進歩と
安定を台湾にもたらした。それは要人や著名人のみの功績ではなく、多くの教師や巡
査など無名の人たちが日常的に誠実な行動をしていたために、台湾の人たちが日本人
というものを尊敬し信頼したからだと思われる。
 
次回は自分で歩いて
 今回はバスツアーに参加して台湾を楽しんだ上に思い 高雄市街・早朝
高雄市街・早朝
がけない考察をしてしまうことになった。
 バスツアーは効率よくあちこち回るのに便利ではある
が、団体行動なので街の中を自由に歩いたり植物や生き
物をゆっくり観察するというわけにはいかない。
 次回に訪れるときはフリープランにして自分の足で
台湾を満喫したい。
 
2015. 5. 1 「災害弱者」の支援取り組みに期待    副会長:三橋 春夫 
 
「災害弱者」の支援取り組みに期待 副会長  三橋 春夫
      =「共助」/近隣住人が主役=
 
 私は今年で18年間、地元茅ヶ崎市や神奈川県内で視覚 三橋_副会長
三橋_副会長
障害者の外出援助や、視覚障害者のゴルフにかかわるボ
ランティア活動を行ってきた関係で、将来、起こる可能
性がある災害について、今、各自治体で進められている
「災害弱者」と言われる人々への支援取り組みに大きな
関心を持っている。
 「災害弱者」の一般的な定義は、独り暮らしの高齢者、
重度の障害者(肢体不自由、視覚障害、聴覚・言語障害、
内臓機能障害、知的障害、発達障害、精神障害)、重度の傷病者、乳幼児、妊婦など
の他、日本語が不自由な外国人のように、災害時に自力で避難することが困難な人た
ちのことである。そして、「支援の取り組み」は、日ごろの声掛け以外に、災害時、
地域の中での「災害弱者」に対する安否確認、災害情報の伝達や避難の手助けなどの
支援を受けられるようにする仕組みであり、また「災害弱者」を支援する「地域支援
団体/支援者」は、一般的には自治会、民生委員児童委員、自主防災組織、地区社会福
祉協議会、関係NPOなどの他、「近隣住人」が中心に、「共助」による地域での支
え合いの輪に、より積極的に加わる仕組みであろうか。
地震・震災
地震・震災
 今年に入り、1月17日は阪神・淡路大震災から20年、
3月11日は東日本大震災から4年が経過したが、東日本
大震災の復興は国民が願うほどに捗っていないのが現実
である。このような状況の中で、昨年12月に発表された
政府の地震調査委員会報告では、今後30年以内に発生が
予想される震度6以上の巨大地震とされる首都圏直下地
震や、東海、東南海地震など同時発生を予想した南海ト
ラフ巨大地震などの発生確率は前回の調査より上がって
いる。
東日本大震災の恐ろしさが、まだ記憶として鮮明に残っている中で、甚大な被害が予
想される地域住民の方々は不安を抱えての生活を強いられそうだ。
特に、その中でも視覚障害をはじめとする体の不自由な方々、独り暮らしの高齢者の
方々などの災害時の不安は計り知れないものがある。
 一方、阪神・淡路大震災を契機に「災害弱者支援体制 災害弱者
災害弱者
マニュアル」の類が策定され、さらに、東日本大震災以
降、国と自治体は“耐震化と火災対策”、“木造住宅密
集地域対策”、“物資輸送・物流対策”、“避難所対策”
“帰宅困難者対策”、“公共施設・企業等の食糧備蓄対
策”、“各種インフラ対策”などの諸課題の他、“給水、
救援を主とする自衛隊等の出動要請”など、「公助」に
関する様々な対策が進められている。
その中で、「災害弱者」支援取り組みは私たち近隣住人が主役となる。
 最近、私が所属するボランティア組織でも予想される災害に対して、阪神・淡路大
震災発生以降に作られた視覚障害者を対象とした「緊急時の支援マップ」の見直し作
業が再開された。災害時にサポートが必要な障害者に対して、手助けをしたいという
目的であるが、市内の関連するボランティア組織の会員数には限度があり、実際には
不可能に近いことがたくさんある。
車椅子で避難
車椅子で避難
 ボランティアの立場からすると、災害が収まった時点
での支援とは言え、“災害はいつ発生するか予測がつか
ない非日常的な事態であり、会員が支援に備えて在宅し
ているとは限らない”、“災害時では自分も被害者にな
りうるし、自分(含む家族)を守る「自助」行動が優先
する”、“災害時では住居地の近隣住民との「共助」行
動が優先する”、“出来る範囲での支援となり、精神的
な支援になりかねない”などであろうか。
 ところで、よく年配の方から、昔に比べて最近は近所付き合いが少なくなったと聞
かされる。自分たちの生活に余裕がないのか・・、トラブルに巻き込まれたくないた
めか・・、人間関係が不得手なのか・・、個々の理由は分からないが、昔の「とんと
ん とんからりと隣組」とか、「向う三軒両隣」という関係を知っている者には、い
ささか淋しい気持ちがする。「向う三軒両隣」は、ふだ 助け合い
助け合い
んから、お互いに顔見知りで、目が届く距離にあること
から、日ごろの「声掛け」ができ、もっとも身近で行動
しやすい、付き合い仲間である。このよい関係が災害時
に最も頼りになるのが近隣住人である。
 災害時はもとより、最後はだれでも、家族以外のいろ
いろな人のお世話にならざるを得ない。いざというとき
に「頼りになれる/頼りになる」協力関係をふだんから心
掛けておくことが大切である。災害が起こらないことを願いながら、小さなボランテ
ィア組織がまとめている有意義な情報を集めた「緊急時の支援マップ」が、地域の自
治会などの情報と連携され、少しでも「災害弱者」が住み慣れた所で、安心・安全で
暮らせる支援取り組みに役立つことを願っている。そして、このような取り組みが、
災害時以外にも買い物難民支援や独り暮らしの高齢者などの孤独死防止などの一助
になればと願っている。
 
2015. 4. 1 教えたい歴史             本部幹事:清水 国明
 
   教えたい歴史 本部幹事 清水国明  
 
 4月は旅立ちの季節であり、新たな目標に向かって踏 清水_本部幹事
清水_本部幹事
み出す時です。今年は戦後70年、私も古希を迎えました。
 天皇陛下は新年の所感で「満州事変に始まるこの戦争
の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていく
ことが、今、極めて大切」とつづられたそうです。
 この夏には安倍談話も出されるようですが、かっての
村山談話とは異なるような気がします。隣国では、この
機会にまた反日感情を煽るような国家行事を行うことで
しょう。歴史認識を共有化することは重要ですが、それを政治、特に政権の支持率維
持に利用するのはやめてもらいたいものです。 
 現在の歴史に関する教育は、日本史は小学校、中学校と学ぶことから高等学校では
地理歴史科の科目となっています。ここでは世界史が必修で、日本史は地理との選択
履修という扱いになっています。私の高校時代とは随分変わったものです。
日本学術会議の提言
日本学術会議の提言
 この弊害からか、近隣諸国の留学生と日本人の学生の
間で近代史の知識の程度に差があり(日本人の方が知ら
ない)、一方的な非難にさらされることが多いそうです。
こうしたことを反省し、日本史必修化の動きがあります
が当然のことと思います。
 さらには、グローバル化に対応するために世界史が必
須であるならば日本史と統合して「歴史基礎」という新
科目を設けてはという意見も出てきています。
 私が受けた高校教育では日本史では、時間の不足から肝心の近代史(明治維新以降)
がかなり薄められてしまっていたと、残念に思います。 愛読書
愛読書
 世界史は、受験科目に選ばなかったため授業は聞いて
いましたが、日本史ほど勉強はしませんでした。
今でも世界史は、「世界の歴史:J.M.ロバーツ著(創
元社)」を愛読して学習中です。特に、中央ヨーロッパ
の歴史に疎く、旅行した時にもガイドの説明が良く理解
できませんでした。その反省もあり、戦後史というより
今の若者に知っていて欲しい歴史、現代の情勢を理解す
る上でも必要な歴史を学習し直してみました。
(1)日本史:征韓論から日韓併合
 明治初期(1871〜1873年)、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された岩倉使
征韓議論図
征韓議論図
節団と称される明治政府首脳が留守の間に、武力をもっ
て朝鮮を開国しようとする主張が留守政府でなされてい
ました。帰国した岩倉使節団は、これに反対し政府は2
分化します。その結果、西郷隆盛が首魁とされる1874年
の西南戦争に至るのですが、何故隣国に対して、そのよ
うな主張がなされたのでしょうか。
当時の韓半島は、「李氏朝鮮」の時代で清朝中国と冊封
体制にあり、鎖国状態にありました。これに対し日本が
開国をせまった訳です。明治維新前の米国と日本の関係 神功皇后の朝鮮遠征
神功皇后の朝鮮遠征
とそっくりです。いずれも余計なお世話だったはずです。
日本には戦前の教科書には載っていた神功皇后(在位:
201〜269年)の「三韓征伐」にみられる朝鮮半島を下に
見る国学思想があったそうです。日本書紀の記述ですの
で史実かどうかは今も議論されています。このような思
想が征韓論に結び付いたこともしっかり教育すべきでし
ょう。征韓論は一端おさまりますが朝鮮内部の混乱から
清国が依頼を受けて派兵、日本も邦人保護の名目で出兵し1894年に日清戦争が勃発し
ます。その後三国干渉があり朝鮮王室は帝政ロシアに接近、1897年に高宗が即位し国
号を大韓帝国と改め、冊封体制から離脱し独立を目指しますが、日露戦争後のポーツ
マス条約によって英米露が大韓帝国に対する日本の支配権を認めた結果となり、1910
年(明治43年)に日韓併合がなされます。この後、日本による統治は1945年まで35年間
続くことになります。こうした歴史を踏まえると両国の歴史認識が同じレベルになる
ことは不可能でしょう。政治的にではなく文化・科学など民間交流を推進することで、
未来志向の関係を築くべきだと思います。
(2)世界史:オスマン帝国とヨーロッパ
 ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えたのがオスマン帝国です。ヨーロッパの東部
と西部を分ける原因ともなりました。
 現在の各国に関係ある侵攻の歴史を見ると、1459年セルビア、1461年ギリシア、14
63年ボスニア・ヘルツエゴヴィナ、1526年ハンガリーなどです。つまり、バルカン半
島、黒海西岸までに及ぶ範囲が非キリスト教国となります。現在でも民族紛争が報じ
られるヨーロッパの複雑さの原因は、実に15世紀に遡るということです。
これにより西部のヨーロッパ諸国はアジアとの交流が遮断され、海路での新ルート開
発をせざるを得なくなります。やがて喜望峰をめぐるインド航路が発見されます。
ロシア正教教会
ロシア正教教会
 一方、オスマン帝国の支配下にあった東部では、キリ
スト教は寛容に扱われ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)
の遺産はスラヴ人によって受け継がれ正教会の伝統はロ
シアが継承していき現在に至っています。
正教会の教会は、他のキリスト教教会とは外観から異な
り、内部も信者が座る椅子はなく皇帝といえども立った
ままお祈りしたそうです。飾られるものも像ではなくイ
コンと呼ばれる聖画です。
 当然のことですが、オスマン帝国の衰退が始まると各地でナショナリズムが強まり
ます。1817年にセルビア公国が独立します。さらにベッサラビア(後のルーマニア)
をロシアに割譲しギリシア、アルバニアの支配権も失います。1832年にはギリシア王
国が誕生します。そして、ついにロシアが南下政策をとり1853年、オスマン帝国・
フランス・イギリスの連合軍との間で「クリミア戦争」 クリミア半島
クリミア半島
が勃発します。
 この戦争は「看護婦」の登場で知られていますが、大
国どうしが戦った近代的な戦争でした。1856年に連合軍
の勝利で終わりますが、各国の関係に変化が生じます。
ロシアは黒海から追い払われ、オスマン帝国は一息つき
ますが、帝国領内で1862年に新たなキリスト教国家、
ルーマニアが誕生します。また、オーストリア(ハプス
ブルク朝)はロシアとの友好関係が悪化し、ハンガリーの独立運動を抑えることがで
きず、要求に応じてオーストリア・ハンガリー二重帝国となります。
 このようにオスマン帝国の広大な領土を誰が引き継ぐのか、1世紀以上の歳月と第
1次世界大戦を必要としました。しかし、未だ西アジアの旧オスマン帝国領では領土
争いが続いています。クリミア半島は、ロシア内戦後の1921年にクリミア自治区ソビ
エト社会主義共和国となります。今頃また、自分の領土にしようとは横暴すぎます。
 
 こうしてみると歴史=戦争であり、力による横暴さはなくならないことがわかりま
す。歴史を学んで未来に生かす。これは変わらぬ真理だと思います。
 
2015. 3. 1 リターンライダー卒業         本部幹事:木戸 雅史
 
リターンライダー卒業  本部幹事 木戸 雅史
 
 若い頃にバイクに親しんだ中高年層が、定年を契機に 木戸_本部幹事
木戸_本部幹事
再び乗り始めるリターンライダーが増えているらしい。
風を切って走る爽快感と、カーブ時のバンクによる人車
一体感の運転、独特の振動と排気音などの魅力を思い出
して、時間と経済的ゆとりを得たことにより回帰するよ
うだ。そう云う私もそうであった。
 初めてバイクに乗ったのは大学2年生の時で、親に借
金して買った排気量200ccのスズキT-200であり、購入代
金16万円は学生にとっては極めて高額で、約1年のアルバイトで借金を返したと思っ
ている。このバイクによるロングツーリングは能登半島一周と北海道一周の2回だけ
であり、あとは往復100km程度の近場を足として走るだけであった。その理由は学生で
初めて乗ったT-200
初めて乗ったT-200
スズキのT-200
スズキのT-200
あるために、宿泊を伴う長
距離ツーリングをするだけ
の資金がなかっただけであ
ったと記憶している。能登
一周時は途中で親戚宅に寄
り借金し、北海道一周はテ
ント暮らしであり、稚内の
日本最北端の碑の下の砂浜
や、釧路原生湿原などでテントを張る等の貧乏旅であった。
 このバイクは東京計器入社と同時に処分し、定年が近くなった2000年まで約30年間
バイクのことは封印されることになった。リターンライダーの経緯については、本会
ホームページの話題コーナーに、「大型バイクとツーリング」として2006年12月に投
稿している。リターンした始めのバイクはホンダのレブル220cc、2台目もホンダのシ
ャドー750cc、3台目はヤマハのロードスター1700ccと、1台目以外は学生時代には全
く手の届かない車種にグレードアップされた。1台、2台目のバイクによる長距離ツ
ーリングは殆どないが、3台目のロードスターからはリタイアしたことにより、その
機会が増えることになった。
ホンダのREBLE220
ホンダのREBLE220
ホンダのSHADOW750
ホンダのSHADOW750
ヤマハのROARDSTAR1700
ヤマハのROARDSTAR1700
 最初のロングツーリングは2007年8月の能登半島一周で、自宅→飛騨高山→珠洲→
羽咋→彦根→浜松→自宅の 能登北海岸の堂が崎付近
能登北海岸の堂が崎付近
浜松の手筒花火
浜松の手筒花火
5泊6日の1635km。その日
の宿は成り行き任せで、地
元の人に聞いたり、役場で
教えてもらったりの気まま
旅であった。彦根と浜松で
は学生時代の空手部同期の
友人宅に泊まり、特に浜松
では運よく手筒花火祭りに遭遇し、深夜まで飲み明かすこととなった。
 同年9月には突然思い立ち、東北へ行くこととした。どこに行くかの当てはなく、
取り敢えず東北自動車道を走ることとし、那須SSで休憩した際に走行ルートを決定し
米沢に向かう白布峠
米沢に向かう白布峠
北上川のほとり
北上川のほとり
た。まずは猪苗代湖まで行
き、月山、湯殿山、羽黒山
を巡り栗駒山経由で鳴子温
泉で泊まる。それから先は
どこに行くかは気分次第と
した。
結局鳴子温泉から気仙沼に
抜けて帰路に就くことにな
り、自宅→猪苗代湖→月山→鳴子温泉→気仙沼→二本松→自宅の5泊6日の1484kmの
走行であった。 那須高原寮前にて
那須高原寮前にて
 その後は奥飛騨・新穂高、西伊豆、草津・日光、尾瀬、
竜飛岬・恐山周遊、紀州一周、江差・小樽・富良野周遊、
八ヶ岳・中央構造線縦貫、那須・会津など各地のロング
ツーリングをこなすこととなった。北海道は意外に単調
で記憶が薄く、また、那須高原寮の閉鎖間際の宿泊では、
現役時代を思い起こしながらのビールであった。
 これらの中で特に印象に残っている所は、2008年8月
の竜飛岬から八郎潟に抜ける竜飛・小泊ラインと呼ばれる日本海沿岸ルートである。
石川さゆりの「ごらんあれが竜飛岬・・・・」で始まる津軽海峡冬景色の碑を後に、仲間
のバイクと共に2台で九十九折の海岸沿いを下り始める。右手には荒々しい日本海に
浸食された崖が迫り、左手 竜飛岬
竜飛岬
竜飛岬からの小泊ライン
竜飛岬からの小泊ライン
には小高い山に生える草木
が続く。蒼く広がる日本海
に映える陽の光が眩しい。
きついカーブのバンクで、
時折バイクのステップが地
面と擦れて「ガガッー」と
いう音が聞こえる。カーブ
の手前で減速し、カーブの途中からスロットルを開けると強烈に加速していく。行き
交う車は殆どなく、寂しさを思わせる東北の路にバイクの音だけが残る。バイクのハ
ンドル部に搭載したビデオカメラの電源をオンにして、走行ルートが海岸線から離れ
るまで撮影を続けていた。この日は十三湖のほとりに面した宿で泊まることになった。
 2012年6月に八ヶ岳山麓の富士見高原へ2泊3日で家内と二人乗りで久しぶりに出
かけることとしたが、この頃にはツーリングに行く機会もめっきり少なくなっていた。
八ヶ岳富士見高原
八ヶ岳富士見高原
宿を起点に諏訪湖や白樺湖方面へ行くこともなく、宿の
近くの野山をハイキングするだけであり、これがラスト
ランになるとは思いもしなかった。明けて2013年の春先
に、そろそろバイクの車検が切れる頃と思い、車検証の
有効期限を確認してビックリ。車検は昨年の初夏にすで
に切れているではないか。八ヶ岳に行って以来約半年間
走っていないのが、せめてもの救いであった。さっそく
バイクショップに電話して、バイクをトラックに載せて
持ち帰ってもらい、車検を取得することして、晴れて公道を走れることになった。
しかし、折角車検を取ったにも拘わらず、ツーリングに出かけることもなく、自宅で
眠ることが続くことになった。
 3台目のロードスターは2006年に購入以来、毎年3千から7千kmを走っていたが、
車検が切れることも忘れる程に、バイクへの愛着が失せていることを思い知り、12年
間続いたリターンライダーの卒業を感じ取った。早速いくつかの中古バイクショップ
に見積を依頼したが、結局は購入したバイクショップに引き取られていった。これま
で7年の長きにわたり、車両重量が400kg弱の車体を取り回し、転倒、ケガ、事故も
なく卒業できたことにホッとしたことを、良く覚えている。
 今では125ccの小さなバイクを足代わりとして、近所のスーパーやホームセンターに
出かける程度で、それとは別に運動のために電動アシスト自転車に乗ることが多くな
った。街中で時折通り過ぎ 現在の足Cygnus125
現在の足Cygnus125
電動アシスト自転車
電動アシスト自転車
る大型バイクを見るに付け、
黒い革ジャンバーと革ズボ
ン、革手袋、ロングブーツ
とヘルメットに身を固め、
小型車の排気量にも勝る大
型バイクを乗りこなしてい
た時は、遠い昔の出来事の
ようである。今となってはバイクの爽快感と引き換えに、高いリスクを背負っていた
ことを実感する。細心の注意を払いつつの運転であっても、若い時と比較すれば体力、
筋力、反射神経は確実に衰えているので、過信することなく年齢に応じた走りを、リ
ターンライダーに望むところである。
 
2015. 2. 1 アートとしての写真          本部幹事:三浦 弘幸
 
アートとしての写真 本部幹事 三浦 弘幸
 
 今まで写真の話ばかり書いていますが、今回もまた写 三浦_本部幹事
三浦_本部幹事
真の話です。今私が加入している「日本写真会」につい
て紹介させていただき、入会二年で各種の賞を受賞でき
るまでになった経過などについて、私の撮った写真を紹
介しながら、話を進めさせていただきます。
 写真に興味をお持ちでない方もたくさんいらっしゃる
と思いますが、是非ご一読いただき、趣味の写真の世界
について若干でもご理解いただければありがたいと思い
ます。
1、日本写真会の紹介
 インターネットで「日本写真会」で検索していただくと、「日本写真会」の紹介や
毎月の例会の成績結果、優秀作品の写真を見ることが出来ます。ホームページの内容
を抜粋して「日本写真会」を紹介させていただきます。
<会のあゆみ・活動>(ホームページから抜粋)
 「日本写真会」は、会員数約150名の写真愛好家の団体です。現存するグループ
では、日本で最も古い歴史と伝統を持っています。ほぼ90年前の1924年(大正13
年)、資生堂の初代社長の福原信三(1883〜1948)が志を同じくする数名の先進
的な写真家らとともに、この会を設立しました。
 現在、会は東京に本部を置き、全国各地に支部があり、それぞれ会活動にいそ
しんでいます。日本写真会は純粋に写真を愛好する団体です。写真の持つ幅と奥
行きには限りないものがありますが、私たちは“アートとしての写真”の魅力を
大切に考えています。創設者の唱えた“光と其諧調”のエスプリ(精神)が、脈
々とながれているといっていいでしょう。
 写真を通じて今日を生きる喜びを感じながら、私たちと同じ時間を共有しませ
んか。写真は楽しい自己表現です。
 ホームページにはざっと上記のようなことが書いてあり、そのあとに資生堂の初代
社長の福原信三について紹介しています。
 この紹介でお分かりのように「日本写真会」は資生堂と強いつながりがあり、事務
局は資生堂の本社ビルの中にあります。また毎月の例会も新橋にある資生堂の関連会
社のビルの会議室を借りて毎月行われています。
 
2.日本写真会入会の頃
 同じ町内会に、大学の先輩で、日本写真会の会員の方がおられ、町内会の写真サー
クルの活動を指導されていました。私とその方は面識がありませんでしたが、妻がそ
のサークルに入っていた関係で、私に声がかかり、大学出身者の有志の方が主宰して
いる展覧会への出展を依頼されました。
 私の写真歴は長いのですが、まったくの自己流で、記念写真に毛の生えたような写
真しか撮っていませんでしたので、展覧会への出展は固辞しましたが、「今まで撮っ
た写真を何枚か見せてください」といわれ、パソコンの中から選んでお見せしたとこ
ろ「なかなか筋が良いですね」と、褒め言葉を言われ、ついに出展することになって
しまった訳です。そしてそれがきっかけで「日本写真会」への入会も勧められ、2012
年11月に入会しました。
 “アートとしての写真”がどんなものかもわからず、例会に参加しました。例会に
は二枚まで出展できます。そして出展された写真を見ながら、例会参加者が自分で良
いと思った写真を8枚選んでそれを投票します。もちろん誰の写真かはわかりません。
そして自分の写真を選んではいけないことになっています。
 会の中には実力者である「同人」、その次のランクの「同友」、そして一般会員の
三つのランクがあります。当然私は一般会員です。毎月の例会では、全てのランクの
会員の投票数の合計が一番多い写真が「一席」になります。またすべての作品につい
て「同人」から投票された票は別途、記録され、一年間で最も「同人票」を獲得した
人に年間最優秀賞が送られることになっています。そういう意味で「同人票」には重
みがあります。
初めての作品(あそこで休みたかったのに)
初めての作品(あそこで休みたかったのに)
 さて説明が長くなりましたが、「初めての作品」と説
明のついてるいる写真は私が最初に出展した2枚の写真
の内の一枚です。もちろん私は良い写真と思って出展し
ましたが、今考えると光も影もなく、写真としては全く
評価できないものだということが分かります。
 例会に参加し、一席、二席、三席に選ばれた写真に対
する素晴らしさ、評価などを聞いている内に少しずつど
んな写真を撮ればいいかが頭に入ってきます。それでも
いざ写真を撮ろうとするとそんなことは全く忘れて、どんどんシャッターを切ってし
まい、なかなか良い写真は撮れません。
 
3.初めて評価された写真
 そんな中初めて佳作になったのが右の写真です。光と ビクトリア・アマゾニカ(佳作)
ビクトリア・アマゾニカ(佳作)
影、構図が評価され、7人の人から票を頂きました。そ
してその内4人が同人の方でした。この時の例会は、入
会後4ヶ月目の2013年2月の例会でした。
 やはり初めて出した写真とはだいぶ感じが違ってきた
のではないかと自己評価しています。しかし、写真撮影
はそんなに甘いものではなく、その後入賞(一席〜三席)
はおろか、佳作もとれない日々が約一年近く続きました。
 同じ人が毎月入賞作品を連発し、沢山の同人票を貰うのを見ていて、何が違うのだ
ろうと漠然と考えていました。
 私を「日本写真会」に入会を勧めてくれた方は「日本写真会」の親しい会員の方々
と勉強会をしていて、私もその勉強会に入っていましたが、毎月入賞作品を連発して
いる人はこの勉強会の方でした。私はその方と大変気が合い、私の社会人経歴にも興
味を持たれ、色々アドバイスを求められ、個人的にも大変親しくなりました。そして
素晴らしい写真を撮る(作る)には、それなりの理由があることが分かってきました。
ただカメラを持って「光と影」とか「シャッターチャンス」とか考えて写真を撮って
いるだけでは全く分からない、それなりのノウハウがあったのです。
 
4.きっかけ
瀬戸の夕暮れ(佳作)
瀬戸の夕暮れ(佳作)
 そのノウハウは「写真はjpegではなくrawで撮る」と
いうことと、「現像ソフト」を使うということなのです。
そういう話は初耳ではなく、その勉強会で「rawで撮っ
ていますか?」とか、「現像ソフトは何を使っています
か?」という質問を受けていましたが、それまでは、そ
の意味を全く理解していませんでした。
 そしてやっと「rawで撮ろう」と決断した訳です。raw
と言うのは簡単に言うと「カメラのCCDがとらえた信号
のデータ其のまま」と言う意味です。従って、それを最終的に写真にするにはraw-
データを加工して、jpegのような印刷可能な形式に変換 散歩のひととき(佳作)
散歩のひととき(佳作)
しなければなりません。その過程を「現像」と称してい
て、その為のソフトが必要になります。「現像ソフトは
何を使っていますか?」の意味が分かってきたのです。
 「逆光」、「シャッターチャンス」を頭に叩き込み
rawで写真を撮り、「現像ソフト」を使って写真を作り上
げていくことを開始しました。写真は撮るだけではなく、
作り上げるものなのです。
 
5.快進撃
 それから『日本写真会』での私の快進撃が始まりました。2014年6月、全国大会:
おにごっこ(全国大会会長賞)
おにごっこ(全国大会会長賞)
会長賞、7月例会:一席、(8月例会は休会)9月例会:
佳作、10月例会:三席と佳作、11月例会:一席と佳作、
毎月高評価を受け、沢山の同人票を獲得することが出来
ました。
 日本写真会の各賞の表彰年度は12月〜11月の一年間で
8月を除き、11回の例会があり、この例会での成績が表
彰対象になり、12月の忘年会で表彰されます。昨年は3
月にたまたま二席に初入賞しましたので、それを含める
と、なんと2014年一年間で一席(会長賞を含めて)三回、二席一回、三席一回、佳作
六回を受賞してしまいました。
 そして12月の忘年会では以下の三つの賞で表彰されました。
@福原信義賞:当該年度の最優秀賞(最も多くの同人票を獲得した人に送られる賞)
A全国大会会長賞:毎年行われる全員参加の撮影会の最優秀賞、昨年は山梨県でした。
B東京地区撮影会三位:東京地区は毎月決められた場所での撮影会が設定されており、
           一年間の成績が三位でした。
 冒頭の写真はこれらの賞を受賞してご満悦の写真です。佳作の写真は途中で何枚か
を紹介してありますが、本項で紹介しているのが、昨年6月以降の快進撃の時の写真
です。
影のモチーフ(一席)
影のモチーフ(一席)
悠久の刻(佳作)
悠久の刻(佳作)
仁王立ち(佳作)
仁王立ち(佳作)
 
ミルキーウェイ(三席)
ミルキーウェイ(三席)
都会の夕照(一席)
都会の夕照(一席)
母子(佳作)
母子(佳作)
 今年受賞した『全国大会会長賞』と「福原信義賞」はこれから毎年受賞可能な賞で
すが、「日本写真会」には三つのクラスがあって、そのクラスでなければ貰えない賞
があります。同友、同人になる前に取りたい賞は6月頃に行われる「年度展」での
「会長推薦」賞です。これは一般会員の最優秀賞です。今年はそれを目指してこれか
ら頑張っていきます。
 OB会会員の皆様には写真の趣味をお持ちの方もたくさんいらっしゃいます。私と
一緒に日本写真会で写真を撮ってみたいと思われる方はいらっしゃいませんか。どな
たでも入会できる会ですので、一緒に写真を撮りましょう。
 
2015. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
   新年のご挨拶 OB会 会長 八木 宏  

          “あけましておめでとうございます”
会員の皆様には、お元気で新年をお迎えになられたこととお慶び申し上げます。
 

 昨年は例年以上に大きな出来事があったように思いま
す。快挙とされたSTAP細胞発見は研究不正が指摘され未
だに存在を証明されていません。広島の土砂災害はじめ
台風や大雨により各地に被害が出ました。
 海外ではマレーシア航空機が行方不明になったり、撃
墜されたりしました。また、韓国のフェリーが沈没し多
くの犠牲者を出しました。しかし、世界的に最大の懸念
はエボラ出血熱とイスラム国だと思われます。どちらも
厄介な問題ですが今年はなんとか解決の目途をつけたいものです。
 サッカーのワールドカップが行われ日本は期待はずれでしたが実力どおりの結果か
もしれません。しかしテニスで錦織選手が大活躍して日本中を沸かせました。
 OB会の春の旅行で立ち寄った富岡製糸場が世界遺産登録されたのも喜ばしいこと
でした。
 さて、気になる景気についは日銀が想定外の追加金融緩和に踏み切ったものの、実
体経済は 低迷し消費税再引き上げの延期と衆議院解散につながりました。
 今年こそは景気回復を確かなものにする経済政策を強力に進めてもらいたいものです
す。
 このような厳しい状況の中で東京計器鰍ヘ第二四半期で計画を大きく上回る決算を
されました。通期予想は据え置きされたものの全社一丸となって尽力されたことが結
果に表われているものと敬意を表します。
 3年目を迎える中期事業計画も順調に進められること
を大いに期待しております。
 OB会はいよいよ40周年が近づいてまいりました。幹
事一同は記念事業の準備を進めるとともにHPや会報な
ど定例の活動も怠りなく行ってまいります。皆様の積極
的な参画も期待いたしますのでよろくお願いします。
 会員の皆様およびご家族のご健勝ならびに東京計器
のますますのご発展を祈念して新年のごあいさつといた
します。