話 題 『 旅 行 記 』−9 2015年9月〜2018年3月
 
          話  題  一  覧
2018. 3.25 アオスタを中心に欧州アルプス名峰を伊から眺め、ドロミテ山塊巡りの旅      投稿:清水有道
2017. 8.27 ギリシャよりもはるかにギリシャ的な歴史と文化が学べたイタリアシチリア島への旅  投稿:清水有道
2016. 5. 8 中国“仙境”への旅             投稿;清水有道
2015. 9.27 いまだに雅を伝える全島一市の佐渡島     投稿;清水有道
 
          話  題  『 旅 行 記 』  
2018. 3.25 清水 アオスタを中心に欧州アルプス名峰を伊から眺め、ドロミテ山塊巡りの旅
 
   アオスタを中心としてヨーロッパ・アルプスの
   名峰の裏側をイタリアから眺め、トレントを
中心としてドロミテの山塊を巡る旅 横浜市  清水 有道
 
1. はじめに     
 首題に秘められた試みが単なる一週間余の旅行程で実現できるなどとは毛頭信じら
れなかったために、極めてオーバーに表現するなら、実現できたことがとんでもない
奇跡か、願ってもない企ての滅多に得られぬ成果としか例えようのない喜びでした。
と言うのも、表側と言うか、普通のアプローチの側と言うか、フランス・スイス側か
らのアルプスの山容を眺めるためには、シャモニー・モンブランからのモンブラン
(4,810m)、ツェルマットからゴルナーグラード登山鉄道を利用してのマッターホル
ン(4,478m)やモンテローザ(4,634m)、クライネ・シャイデックから登山鉄道利用
のユングフラウ(4,158m)やベルナー・オーバーランドの山々、そしてグリンデルバ
ルトを基地としてのアイガー(3,970m)やヴェッタ―ホルン(3,701m)、背後のフィ
ーシャーホルン(4,049m)等々に及ぶコースのいずれかを選ぶのが普通であり、筆者
も1968年の第1回目から何回もこれらのコースをそれぞれ何回か利用して、結果とし
て全てのコースとも複数回経験しています。しかし、イタリア側からの登山の経験も
なければ、眺めるためにアプローチしたことも残念ながら一度もありませんでした。
そのため今回の山歩きの旅も筆者にとっては殊の外エキサイティングな初体験を迫ら
れる青春の一頁にも匹敵するビッグ・イベントでありました。
 ゲーテの「イタリア旅行記」を引き合いに出すまでもありませんが、17世紀から18
世紀後半にかけて北ヨーロッパからの支配階級や貴族の子弟たちの教育の最後の仕上
げとして「グランドツアー」の名のもとに体験旅行として行われていた旅の有様が、
現在でも多くの旅行記や美術書の中に参照されています。筆者にも今回の旅は今まで
の数多くの欧州旅行の総仕上げとして、恰も「グランドツアー」の心境を味わうもの
となりました。
 
2.訪ねたコース
(1)初日
 東京の羽田空港から全日空機でフランクフルトに飛び、乗り換えてルフトハンザ機
でミラノに入りました。羽田を出たのが午前11時15分、ミラノ郊外のホテルに入った
のが現地時間翌日の1時半、実に21時間を要したことになります。老いの身には聊か
応える旅の始まりでした。それから8日間以下のコースを辿ってヨーロッパ・アルプ
スの名だたる峰々をイタリア側から眺め、またヨーロッパ・アルプスの東南端に位置
するドロミテ山塊を巡って山旅を堪能しました。
 
(2)2日目
 ミラノからバスでピエモンテ州の州都トリノへ約150kmの道程を2時間半かけてドラ
イブ、トリノ市内では、カステッロ広場(Piazza Caste- 聖骸布
聖骸布
llo)で世界遺産に登録されているサヴォイア家の宮殿
だった王宮と隣接のドゥオーモでイエスの処刑後、身体
を包んだといわれる聖骸布を見学しました。この聖骸布
は1430年にサヴォイア家の所有となり、1578年にトリノ
に移送されて以来、トリノの人々の崇敬を集めている由
であります。13世紀ごろに制作されたとする調査もある
ようであるが、諸説紛々未だ決着を見ていない珍品(?)
とか。また同広場ではマダーマ宮殿にも寄りました。中世には堅牢な城で、2本の塔
を持つ基本構造は現在でも同宮殿の中心をなしています。18世紀に入ってバロック風
のファサードが追加されていますが、後方半分を占める重厚な城とはいかにも不釣り
合いです。トリノがイタリア王国の首都だった時代には上院議会が置かれていました。
モンテローザが逆さに映るゴーヴェル湖
モンテローザが逆さに映るゴーヴェル湖
現在は美術館となっています。
 そのあと、モンテローザ(Monte Rosa)が逆さに映る
ゴーヴェル湖(Lago Gover)を眺めるため、グレッソネ
イ渓谷を北上してグレッソネイ・サイント・ジェアン
(Gressoney-Saint-Jean, 標高1,385m)へ約100km、1時
間45分のドライブ。ゴーヴェル湖を一周散策してアオス
タ(Aosta)のホテルへ、80km弱、1時間半のドライブ。
アオスタでは旧ヨーロッパホテルに連泊しました。
 
(3)3日目
 アオスタのホテルからモンブラン(イタリア語ではモンテ・ビアンコ、Monte 
Bianco, 4,810m)の麓エントレヴェス(Pontal d’Entreves)へ向かい、山麓駅から
ロープウェイで標高3,466mのエルブロンネ展望台(Punta Helbronner)に登り、360
度回転するキャビンの中から迫力あるモンブラン他のアルプスの名峰を眺めました。
この展望台にはフランス側のシャモニー・モンブランからエギュイ・デ・ミディ
(Aiguille du Midi)を経由して到達できるモンブランを眺める最高地点で、筆者も
以前何回もこの展望台を訪れていました。
モンテ・ビアンコ_1
モンテ・ビアンコ_1
モンテ・ビアンコ_2
モンテ・ビアンコ_2
チェルヴィー(左側)とモンテ・ローザ(右側)
チェルヴィー(左側)とモンテ・ローザ(右側)
 
 往路と同じロープウェイで山麓駅まで下りましたが、 アカタテハ
アカタテハ
駅の外の花壇に羽化してあまり日の経っていないと思わ
れるとても色鮮やかなタテハチョウ科の蝶“アカタテハ”
が吸蜜しているところを見付け、カメラに収めました。
この蝶は英語で“アドミラル”と呼ばれて、欧州全域で
子供たちに人気の高い憧れの蝶の一頭です(筆者注:蝶
は正式には1頭、2頭と数えます)。
    
ブルー湖に映る逆さチェルヴィーノ
ブルー湖に映る逆さチェルヴィーノ
 そのあと、トゥルナンシュ谷の最奥部になるチェルヴ
ェニア部落{イタリア語ではマッターホルン(Matterho-
rn)のことをチェルヴィーノ(Cervino)と呼び、山麓
の部落にもその名が冠せられています}まで約2時間の
ドライブを楽しみました。途中で逆さチェルヴィーノが
楽しめるブルー湖(Lago Blu)にも寄り、美しい景色を
カメラに収めました。チェルヴェニアからは直行で1時
間15分ほどのドライブでアオスタに戻りました。
 アオスタの町並みは“アルプスのローマ”と呼ばれる アオスタのプレトリア門
アオスタのプレトリア門
ように初代ローマ皇帝アウグストウスが造った街で、城
門となるプレトリア門(Porta Pretoria)を始めとして
古代ローマ時代の遺跡が多くのこっており、町に滞在し
ての観光も見ごたえがあると思いました。
 宿に戻って散歩に出ましたが、珍しくこの旅行中のた
った一度の雨に会い、引き返して翌日の朝早く改めてぶ
らつきました。街中にサヴォイア家のヴィクトリオ・エ
マニュエレ2世のブロンズ像が立っており、1886年7月4日(日曜日)に鉄道がアオ
スタまで延長されたのを記念して建立されたものと記念碑の説明書きがありました。
面白い発見でした。  
 
(4)4日目
 290km離れたシルミオーネ(Sirmione)へ5時間のドライブ。午前中いっぱい車中
で睡魔と戦いながら車窓の景色を逃すまいと必死の思いでした。
 シルミオーネはイタリア最大の湖であるガルダ湖(Lago di Garda)に突き出た半
島に展開された城塞都市で、半島の突端にはローマ帝政初期の別荘の遺構「カトウル
スの遺跡」(Grotte di Catullo)があり、半島の付け根にはスカラ家の城塞(Rocca
カトウルスの遺跡
カトウルスの遺跡
スカラ家の城塞にある船溜まり
スカラ家の城塞にある船溜まり
Scaligera)があり、13世紀
にヴェローナのスカラ家に
より建てられたもので、当
時では全く珍しい船溜まり
(現在でいうドック)が背
後に造られていて、全体が
博物館となっていて5ユー
ロで楽しめました。
 この街には温泉もありましたが、時間のゆとりがないため諦め、半島を一周する遊
覧船から眺めて、何匹かのサケ科やニシン科の淡水魚で美味しい昼食を味わいました。
非常に思い出に残る食事でした。シルミオーネからは90kmの距離を1時間30分かけて
ドライブ、トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント自治県の県庁所在地トレ
ント(Trento)へ向かい、“グランドホテル”に連泊しました。
 
(5)5日目
 ドロミテを目いっぱい歩き回るために、早朝にホテル カレッツア湖
カレッツア湖
を出立し、90km離れたドロミテ山塊の中でも特に神秘的
な風景に出会えるというカレッツア湖(Carezza al Lago)
に1時間半のドライブ。エメラルド色に輝く水と糸杉に
似た針葉樹林に囲まれ、上部の針山が林立しているよう
な岩山が影を落としている景色の変わり行くさまを湖岸
一周して楽しみました。何とも比較の難しい独特の風景
でした。
コルティーナ・ダンペッツォの街並み
コルティーナ・ダンペッツォの街並み
ポルドイ峠のロープウェイ駅
ポルドイ峠のロープウェイ駅
 約1時間ほど休んでポル
ドイ峠(Passo Pordoi)を
経由しコルティーナ・ダン
ペッツォ(Cortina d’Amp-
ezzo)に向かいました。
この移動には85kmの距離を
約3時間かかりました。こ
の街の名は筆者も幼少の頃
に冬のオリンピックゲームで猪谷千春さんがアルペンの回転で日本人として初めての
銀メダル獲得と言う画期的な出来事と共に記憶に留めていました。この地はドロミテ
山塊東部の中心都市となっていて、谷底に位置していながら標高は高いということで
した。地元では“黄金の盆地”と呼んでいるそうであります。日本の軽井沢や上高地
のような別荘やこぎれいな建物が建ち並ぶ美しい街との印象でした。そのあとはドロ
ミテ街道から外れて、殆どドロミテの東端に位置するミズリーナ湖(Lago di Misur-
ina)を訪れました。この湖の周囲にはホテル、レストラン、土産物屋がにぎやかに軒
を連ねていました。文字通り観光名所と言うにふさわし トレ・チーメ・ディ・ラヴァ―ド山の岩峰
トレ・チーメ・ディ・ラヴァ―ド山の岩峰
い情景でした。湖の正面にはトレ・チーメ・ディ・ラヴ
ァ―ド山(Tre Cime di Lavaredo 2999m)の岩峰が覆い
被さるような威容を見せていて不気味でした。この湖を
土地の人は“ドロミテの真珠”と呼んでいて、何時もた
くさんの人でにぎわうところだそうです。訪ねる予定の
目的地はすべて網羅できましたので一路トレントへ戻り
ました。
 
(6)6日目
 ホテルから1時間のドライブでドロミテ街道の起点ボルツァーノ(Bolzano)に出
て、レノン鉄道(Treno del Renon)のソプラ・ボルツァーノ駅(Stazione Sopra Bo-
lzano)から終点のコッラルボ(Collalbo)までの間約16分の登山電車の旅、車窓から
の美しいドロミテの遠景を楽しみました。迎えのバスで約1時間かけてサンタ・マッ
ダレーナ(Santa Maddalena)村を訪れ、ロンゴモソ(Longomoso)にあるトルコのカ
サンタ・マッダレーナのピラミッド岩
サンタ・マッダレーナのピラミッド岩
教会を入れてドロミテの原風景を記憶に留める
教会を入れてドロミテの原風景を記憶に留める
ッパドキアにも似た規模は
はるかに小さいながら、長
い年月をかけて雨水により
浸食されて恰もキノコが林
立しているようなカルスト
地形の変化した「ピラミッ
ド岩」(Piramidi di Terr-
adi Longomoso)を見学し、
村の中心まで往復してドロミテの原風景を楽しみました。そのあとは、2時間のドラ
イブで隣国オーストリアのチロルの中心地インスブルックに向かいました。同地に一
泊し、翌日ドイツのミユンヘンに出て東京に戻りましたが、イタリアの旅からは外れ
ますので、今回の紀行はここで終わりとしたいと思います。
                                     了
                         2018年1月20日(土)  記
 
2017. 8.27 清水 ギリシャよりもはるかにギリシャ的な歴史と文化が学べたイタリアシチリア島への旅
 
ギリシャよりもはるかにギリシャ的な歴史と文化が学べた
イタリアシチリア島への旅 横浜市  清水 有道
 
1. はじめに
 このところ数年申し込んでも不催行として訪ねられなかったシチリアへの旅が今年
の5月にようやく実現できて、幾つかの積年の宿題の答えを自らの手で掴むことが出
来て大変嬉しく思っている。当節は自分の好みと思いを実現しようとして既成のプラ
ンをそのまま受け入れるのではなく、自分の好みをできるだけ織り込んだ旅を見付け
ることが少しずつできるようになった。この度の旅のグループ総勢は動きやすい15名
で、うち男性はわずかに3名であった。ほとんど全員が筆者と同じ思いの人々だった。
ある女性は既にインドに12回も出掛けていると話しているかと思えば、アジア、中近
東に的を絞って毎月複数回旅しているという猛者もいた。旅も回数を重ねて終局のパ
ターンに入ると、大変マニアックなものになってきて、意志と好みに、よく言えば専
門の分野に、悪く言えば好き勝手な相当に偏向した対象を追い掛けての、自己主張の
強いものに変形して行くのかも知れない。筆者の判断では、これは文化の進んだ国だ
からこその反応と言うか、文明の熟度に伴う傾向として認められることではないかと
思う。
 まったく筆者の怠慢と言うべきか、注意不足と言うべ グランドホテル・ティメオ
グランドホテル・ティメオ
きか、現地に着くまで、第一日目と第二日目に連泊する
タオルミーナで26日後の5月26、27両日にG7首脳会議
が持たれることを知らなかった。会場となる現地の五つ
星最高級ホテル「グランドホテル・ティメオ(Grand
Hotel Timeo)」は訪問時丁度改装工事の真っ最中で、
近づくこともできなかった。しかし、その会場はイオニ
ア海に面し、シチリアの最高峰(3,450m)で、欧州の活
火山の中でも最高峰であるエトナ山を仰ぐ、地中海有数のリゾートに相応しいロケー
ションに思えた。また、その後の訪ね先のアグリジェントでは外国で活躍する日本人
女性を扱ったTBSテレビのシリーズ番組取材班が入っていて、我々のツアーの同市内の
ギリシャ神殿が散在する古代都市の遺跡『神殿の谷』(“Valle dei Templi”)をガ
TVの放映画面_先頭が筆者
TVの放映画面_先頭が筆者
イドしてもらうイタリア政府公認初の日本人ガイド中野
陽子さんの仕事ぶりを撮影するという場に取り込まれて
しまい、丸一日行動を共にするというハプニングにも出
会った。この場面の放映はこの紀行文を纏めようとして
いる最中の6月20日(火)午後7時からのTBS6チャンネ
ルの「地中海に浮かぶ美食の島・世界遺産の宝庫イタリ
ア・シチリア!世界の日本人妻は見たスペシャル」とし
て行われ、2時間近い全番組の終わりの方10分か15分の
ところでようやく登場し、筆者も自分の姿が何回も映っているのが確認できた。
 我々の一行の中には、職場の同僚に何も告げずに隠れてツアーに参加している女性
がいて、テレビの画面に写し込まれないように逃げ回っていたのには周囲の笑いを誘
っていた。
 筆者はギリシャにも何回も訪ねており、首都アテネのアクロポリスのみならず、ク
レタ島やエーゲ海の島々、陸続きのコリントス(Korinthos)、スパルタ(Sparta)等
の諸都市にも足跡を残しているが、この度のシチリア島のギリシャ遺跡の方が本国ギ
リシャよりも圧倒的にギリシャ的という印象を強くした。遺跡を見ての一番の違いは、
例えばギリシャ本国の神殿は豊富な白色の大理石で造られたものが多く、陽光に照り
輝いているのに対して、シチリア島のギリシャ遺跡の建材は、多くが火山から噴出し
た火山灰が海中に堆積し、海底隆起により地表に現れた凝灰岩(ギョウカイガン、英
語ではタフ“Tuff”という)から造られていて、材質ももろく、色合いも土色で、柱
や柱頭部などでは表面に白色の漆喰を厚塗りして、大理石に似せた輝きを表そうとし
ている跡に、その涙ぐましい努力が思われて嬉しかった。ただ遺跡の石が長い間に盗
まれて後代の他の建物の一部に使われていたり、原形を留めない形にまで再加工され
て利用されていて、遺跡を復元しようにも組み合わせる点数が足らなかったり、世界
遺産に登録されて以来、誰も手が出せず、結局復元作業が出来ず仕舞いで現在に至っ
ている残骸を眺めるだけで現場を去らねばならないのが何とも残念で、遣り切れない
思いだった。もう少し世界中の専門家や学者、国連の機関等がうまく絡んで、人類の
大切な、文化財の保護・管理の方法がないものか改めて考えさせられた。
2. シチリア島とはどんなところ?
 シチリア島は地中海の真ん中に位置する海域内最大の島で、総面積は、我が国の九
州の約7割(四国と岡山県を足したくらいと説明する人も多い)に相当し、25,708平
方キロメートル。三角の形状から古くから「トリナクリ(三つの岬)」と呼ばれた。
地中海性気候と火山灰による肥沃な土壌に恵まれ、現在では全イタリアの農産物の実
に6割を生産し、供給する源となっている。これらの優位性を狙って紀元前の太古か
ら東西南北の異民族が侵入し、支配し、それぞれの民族の遺産ともいうべき多数の文
化が定着し、累積して今日に至っている。
 日本からの直行航空路はなく、ローマかミラノで乗り換えて島内の州都のパレルモ
(Palermo)、カターニア(Catania)、トラーパニ(Trapani)の3空港に行くのが最
短で、因みに筆者が利用したツアーでは、成田空港を発ってからタオルミーナの宿泊
ホテルに入るまでに実に17時間半を要した。
 古代にはギリシャ、ローマ、さらにヴァンダル族{“Vandal”古代末期にゲルマニ
アから北アフリカに移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領
内に侵入して、北アフリカまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国
した。彼らが北アフリカに進出するまでに一時期定着し シチリア島の地図
シチリア島の地図
たスペインのアンダルシア(筆者注:もともとヴァンダ
ル族からVandalusiaと綴られた)や、破壊行為を意味す
るヴァンダリズム(Vandalism)の語源になっている}や
東ゴート族、ビザンツ(東ローマ帝国)の支配を経て、
中世にはアラブ、ノルマン、ドイツ、フランス、スペイ
ンが相次ぎ、近世には、北イタリアのサヴィア家、オー
ストリアのハプスブルク家、ナポリのブルボン家が続き、
1860年イタリア王国に併合された。
 第2次世界大戦後、共和国となったイタリアの特別自治州として大幅な自治が認め
られるまで島民は常に周囲の異民族の支配下に置かれていた。彼らの並々ならぬ自尊
心と郷土愛やマフィアといったような現象もこれらの歴史的な圧迫に耐えたことと無
関係ではない。長い有史を通じて人口の流動も盛んに行われ、土着民の流出、周囲の
たくさんの民族の流入もあって、まさに人種の坩堝でもあるが、現在でも人口は約500
万人、全イタリアの1割弱を占めている。現在の島民は過去の歴史のうち、先住民と
共生して島を繁栄させたとして、ギリシャおよびノルマン統治時代を懐かしみ、自ら
もシチリア島民であることを誇りとしている。ギリシャ時代の首都シラク―サ(当時
はシュラクサイと呼ばれた)、中世時代の首都パレルモ(古くはパノルムスと呼ばれ
た)の栄光を忘れずにいる。
3. シチリア島の歴史の概略
(1) 紀元前
 BC1300年頃シクリ族がシチリアに入植し、BC800年頃に古代ギリシャによる支配が始
まり、現在のシラク―サ(Siracusa,当時はシュラクサイと呼ばれていた)、カターニ
ア(Catania、当時はカタネと呼ばれていた),メッシーナ(Messina),セリヌンテ
(Selinunte、当時はセリノスと呼ばれた)およびアグリジェント(Agrigento、当時
はアクラガスと呼ばれ、ローマ占領後はアグリゲントウムと呼ばれていた)の諸都市
が建設された。また、カルタゴ人がモツィア(Mozia、当時はモティエと呼ばれた)に
入植を始めた。日本で比較するなら紀元前1000年が縄文時代の後期に当たる。
 BC575年にシラク―サにアポロン神殿が建設されたことが分かっている。BC415年に
はアテネ軍がシリア遠征を試みたが敗北している。BC300年頃に古代ローマがシチリア
を支配し始め、以後約330年間支配を続け、BC241年にローマが第一次ポエニ(筆者注:
「ポエニ」とはフェニキア人を指すラテン語である)戦争に勝利して、AD827年アラブ
人(イスラム教徒)によるシチリア支配が始まるまで、ローマの支配が続いた。
 シュラクサイは早くも前5世紀後半にはシチリア島の4分の1を支配し、農業と商
業の発展のお陰で華々しい繁栄を経験したのち、軍隊を再建し、堂々たる艦隊を配備
するまでになった。その結果、近隣の未開人の侵攻からヘレニズム文化を守り通すこ
とが出来た。勿論シチリア島内部の土着民シクリ人が活動を始めたが、彼らが国家を
建設することを妨げることに成功した。どうにかシュラクサイがギリシャの指導者に
なろうとしたとき、アテネ軍の作戦に敗北し(前423年)シュラクサイも疲弊しきって
しまった。このチャンスを逃さなかったのがカルタゴの積極的な展開であった。かく
して舞台は第1次ポエニ戦争(前264〜前241年)に移って行くのである。
 フェニキア人の植民都市カルタゴは昔の首都チュロスからの庇護が遠のき、前7世
紀の終わりから前6世紀にかけて、西地中海に海洋帝国の建設を始めた。前7世紀に
はシチリア島に、前6世紀末にはサルデーニャ島に次々に定着していった。同じころ
ギリシャ人も地中海の西の果てへ熱心に進出を企てていた。前4世紀の初め、カルタ
ゴは強大な国に成長したが、その成功にも様々な制約があった。カルタゴが制海権を
確保できたのは、当時のアフリカやスペインがほとんど未開の状況であったことと、
イタリアにもシチリア島にもしっかりした拠点を鏤めることには至れていなかったか
らである。
 シチリアの中にあってシュラクサイの王は大きな力を持ち、王との関係を如何に持
つかがギリシャやカルタゴにしてもまた、のちのローマにしてもシチリアを味方につ
けて、地中海を手中に収めるための大きな鍵を握っていたことと、このシュラクサイ
を技術的に支えたのがかの有名な科学者・数学者のアルキメデスであったことを初め
て学んだことは筆者の大きな驚きであった。残念ながら前212年ローマ軍のシュラクサ
イ攻略によりアルキメデスも惨殺されてしまった。
 カルタゴは第1次ポエニ戦争(前264〜前241年)のアグリゲントウムの決戦の場で
敗れ、第2次ポエニ戦争(前218〜前201年)(筆者注:別にハンニバル戦争とも呼ば
れる)でも惨憺たる敗北を喫したが、カルタゴの民族は文化国家の建設と経済繁栄に
傾注した結果、奇跡的に国力を回復し、第3次ポエニ戦争(前149〜前146年)をロー
マと戦った。この3回目の戦いは前の2回とは全く違った。この戦いにもカルタゴは
敗れたが、ローマはカルタゴ民族の魂のみならず民族そのものの存在を完全に地上か
ら抹殺した。以後ローマ帝国は数百年に及ぶ未曽有の世界帝国への道を歩むことにな
るのである。
(2) 紀元後
 535年東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がシチリアを支配することになり、827年に
はアラブ人(イスラム教徒)にシチリア支配が取って代わられた。このときにシチリ
アにイスラム文化が花開き、今日のシチリアの特産品となっているオレンジやレモン
等の柑橘類がアラブ人によりもたらされた。
 1061年にはノルマン人がシチリアに侵攻を開始し、1091年にはルジェーロ大伯がシ
チリア全島を制圧し、1130年にはノルマン王朝によるシチリア支配が完成し、以後約
120年間ルジェーロ2世、グリエルモ1世、2世によって維持された。
 1282年にはアラゴン家がシチリアの王位を奪取し、1412年にはスペインによる本格
的な属領として支配を受けることになった。その後1720年オーストリア・ハプスブル
ク家の傘下に移行するまで、党内には反乱と暴動が頻発した。1734年にはスペインの
ブルボン家がナポリとシチリアを侵略奪還した。1816年シチリアはナポリに併合され
るが、1860年ガルバルディが上陸に成功し、シチリアはイタリアに併合され、翌1861
年イタリア王国が統一されている。
(3) 現地を訪れてからの筆者の歴史観
 このように地中海の要衝として数えきれない戦禍に見舞われ続け、シチリアは今日
を迎えている。歴史は進歩すると考えられている。確かに自然科学の分野として技術
は日進月歩であり、それに伴って兵器や人間の生活は年と共に発展向上するが、一方
人間性は変わることがない。人間は同じことを繰り返す。成功例も失敗例も数多くの
歴史的事実が証明するが、それらを満足に消化できない。ここに人間の面白さと歴史
の複雑さがあり、教訓があっても、必ず失敗と懺悔が起こる。シチリアを舞台に百年
にわたって繰り広げられた古代ヨーロッパの二大勢力ローマとカルタゴの決戦は世界
の大戦の幕開けであり、のちの第1次、第2次世界大戦の大国を巻き込む対立を呼ぶ
雷鳴であったとしみじみ思った。
4. シチリア滞在6日間で訪ねたところ
<観光第1日目 5月1日(月)>
 午前:タオルミーナ(Taormina)
エクセルシオール・パレス・ホテル入り口
エクセルシオール・パレス・ホテル入り口
(1) 市民公園 (Villa Comunale)
 宿泊ホテルのエクセルシオール・パレス・ホテル(The
Excelsior Palace Hotel)は1904年に建てられたタオル
ミーナ地区では最古のホテルで四つ星ホテルである。ユ
ダヤ社会の本部でもあったため、宿の紋章にユダヤの星
が嵌め込まれている。建物の様式は当初はアラブのムー
ア人の様式であったが、のちにアール・ヌーボー様式に
変わり、現在に至っている。
 この公園の入り口がホテルの正面左側にあるため、観光はこの公園からのスタート
となった。後で知ったことであるが、G7のレディース・プログラムとしてもこの公
園が選ばれていて、安倍首相夫人も散歩された由報道された。この公園はもと英国人
女性フローレンス・トレヴェリアンの個人的庭園であっ 公園内のあずまや風の建物
公園内のあずまや風の建物
たので、トレヴェリアン公園(Giardino Trevelyan)と
も呼ばれている。 地中海と南国の樹木が多く植えられ
て一見植物園を思わせる。園内には第一次世界大戦の戦
没者の慰霊碑があったり、第二次世界大戦に使われたイ
タリアの魚雷のレプリカが並んで居たり、日本のあずま
やのような建物があったり、野鳥観察用の展望台があっ
たり・・・と不思議なところだった。
(2) ベルベデーレ展望台
ベルベデーレ展望台
ベルベデーレ展望台
展望台眼下の風景
展望台眼下の風景
 眼下にイソラ・ベッラ
(Isola Bella ベッラ島)、
弓状に突き出たセント・ア
ンドレア岬(Capo Saint’
Andrea)、対岸のイタリア
本土のカラブリア海岸、
「ゴッド・ファーザー」が
撮影された村フォルツァ・
ダグロやエトナ山も良く見えた。
(3) カステルモーラ(Castelmola)
 標高580m、人口500人の小さな村で、「イタリアで最も アーモンドワイン_サン・ジョルジョ
アーモンドワイン_サン・ジョルジョ
美しい村」に選ばれている由。1934年建設のサン・二コ
ラ教会の前からまだ山頂部に残雪の残るエトナ山の北側
がパノラミックに見渡せた。4ヶ所の火口から噴煙の昇
るさまは美しい山容に一段の彩を加えて見せた。アーモ
ンドワインの発祥のサンジョルジョ・カフェ(Caffe
S.Giorgio)で試飲し、美味だったのでボトルを求めてし
まった。アルコール度16%で若干口当たりが強い感じが
した。
(4) タウロ山(Monte Tauro)
岩の聖母教会の入り口
岩の聖母教会の入り口
 標高400mにある岩の聖母教会(Santuario Maddonna
Rocca)の内部を拝観し、隣の山の頂にある9世紀の要塞
を眺めた。ギリシャ時代にはアクロポリスであった。
 
 
 
 
 
 
岩の聖母教会のクロス
岩の聖母教会のクロス
岩の聖母教会の内陣のマドンナ像
岩の聖母教会の内陣のマドンナ像
アラブの要塞跡
アラブの要塞跡
(5) タオルミーナ市内のメイン通りはウンベルト通り
 イオニア海に面した丘の上にある高級リゾート地タオルミーナは標高200mの高所に
あり、道が狭いため、大型バスは入れず、ホテルに入るにも乗り換えて小型に分乗し、
荷物は別に届けてもらうな タオルミーナの街のカターニア門
タオルミーナの街のカターニア門
ウンベルト通りの混雑
ウンベルト通りの混雑
どの不便が伴う。メイン通
りのウンベルト通り(Corso 
Umberto)をカターニア門
(Porta Catania)からメッ
シーナ門(Porta Messina)
まで歩く。カターニア門に
ある城壁には14世紀のスペ
イン・アラゴン家の紋章が残されていた。ウンベルト通りは旅行者で大混雑だった。
(6) サン・二コラ大聖堂(Duomo)
ギリシャ劇場の柱の再利用
ギリシャ劇場の柱の再利用
主祭壇_最後の晩餐
主祭壇_最後の晩餐
 内部に入り、もとはギリ
シャ劇場にあったものを再
利用した柱、聖ルチア(目)、
聖アガタ(胸)の像、カル
タジローネ焼の陶板画の最
後の晩餐の主祭壇を見た。
 
 
(7) 大聖堂広場 ケンタウロッサの泉
ケンタウロッサの泉
 町のシンボルの下半身が馬の女性「ケンタウロッサ」
の泉、壁にユダヤ人街の名残りのダビデの星が残されて
いる市庁舎や前述のG7の会議場になるグランド・ホテ
ル・ティメオなどが見られた。
 
 
  
(8) ギリシャ劇場(Teatro Greco)
ギリシャ劇場
ギリシャ劇場
 BC3世紀に建てられた。収容人員5,000人。2世紀ロー
マ時代にバックステージの壁ができ、レンガ積みに改築
され、闘技場となった。夏期には現在でも劇場、コンサー
ト会場として使用されている。ただし、現在の座席数は
3,700席とか。
 
 
 
(9) オデオン(Odeon) オデオン
オデオン
 サンタ・カタリーナ(Santa Catarina)教会裏にある
ローマ時代の音楽堂オデオンを見学、ギリシャ時代には
神殿があったところで、神殿の基壇は現在でも教会内に
見られた。
 
 
 午後:ボート・クルーズで「青の洞門」見学
青の洞門
青の洞門
タオルミーナの町から4連結のロープウエイ(Funivia)
でマッツァロー湾(Baia di Mazzaro)へ降りて、ボート
に乗り、クルーズを楽しんだ。陽気な普段は漁師をして
いるという船頭の案内で、セントアンドレア岬の「青の
洞門」、イソラ・ベッラの「恋人たちの小さな愛の洞
窟」 、映画「グランブルー」に出てくるカッポ・タオ
ルミナ・ホテルの海辺のレストランやプールなどを船か
ら眺めて一周。再びロープウエイで山のホテルに戻った。
 
<観光第2日目 5月2日(火)>
 タオルミーナからカターニアを経由してシラクーサへ。午前中はシラクーサ市を見
学、午後はノートの町を見て、シラクーサのホテルに泊まる。
 午前:シラクーサ(Siracusa)
 BC734年にギリシャの植民都市としてシチリア島に二番目に築かれて、シチリア最大
の都市として繁栄した。人口12万人。前述のように有名な数学者であり科学者のアル
キメデスの生地である。
I. 考古学地区(Parco Archeologico della Neapolis)
 古代にネアポリス(新市街)と呼ばれた市北一帯は石 ヒエロン2世の祭壇
ヒエロン2世の祭壇
灰質の岩盤でできているために建築材料の石切り場とな
った。
(1) ヒエロン2世の祭壇 (Aradi Ierone II)
 BC3世紀に造られたゼウス神に捧げる牛を一度に450頭
も焼ける大きな犠牲祭壇(198mx23m)を見た。
 
 
(2) 天国の石切り場(Latomia del Paradiso)  
 古代からの石切り場。天井部が崩壊している。巨大な穴となり、植物園のように果
樹や香草が茂っている。オレンジ、レモン、びわ、竹、マグノリア、夾竹桃、トベラ、
カタバニなどたくさんあった。
(3) ディオニッソスの耳 (Orecchio di Dionisio)
ディオニッソスの耳_1
ディオニッソスの耳_1
ディオニッソスの耳_2
ディオニッソスの耳_2
 ロバの耳のような縦長の
洞窟で、高さ23m、奥行き
65m、内部の壁に石工のノ
ミの跡が鮮やかに残ってい
る。音響がよいので全員で
サンタルチアを歌った。
 
 
(4) ギリシャ劇場 ギリシャ劇場
ギリシャ劇場
 BC5世紀に借景まで考えて、天然の岩盤を削って造ら
れた野外劇場である。1万5,000人を収容できた。ローマ
時代に半円形のオーケストラ席と舞台を建設、天井桟敷
はビザンチン時代に墓となり、のちその穴に人が住むよ
うになった。泉ニンフェウムから今も水が流れ出ている。
スペイン時代には、港が近いため見張り塔が造られた。
 
(5) ローマ円形闘技場
 3世紀に造られたもので、ローマのコロッセオ、ヴェローナに次ぐ規模の闘技場。
2万人を収容した。剣闘試合や海戦ショウが行われていた。同じところに、石棺や碾
臼も展示されていた。近くの野原には日本の山岳高原によく見られるマツムシソウに
よく似た花が群れを成して咲いていた。
円形闘技場
円形闘技場
石棺
石棺
日本のマツムシソウに似た花
日本のマツムシソウに似た花
II. オルティージャ島(Isola Ortigia)
 サンタルチア橋を渡り、オルティージャ島に入るとそこは旧市街である。島に右側
はグランド港(Porto Grande)、左側はピッコロ港(Porto Piccolo)、真っ直ぐ進む
と、ギリシャ時代の城壁が現れる。
アレトウーザの泉
アレトウーザの泉
(1) アレトウーザの泉(Fonte Aretusa)
 女神アルテミスに仕える妖精アレトウーザが河の神ア
ルフェイオスの求愛に困り、水になって逃げ込んだ泉だ
と言われている。海水の近くに真水が湧き出ている。パ
ピルスが茂り、ボラ、鯉、白鳥が仲良く泳いでいた。
(2) サンタルチア教会 
 カラヴァッジョの名画「聖女ルチアの埋葬」を鑑賞し
た。たくさんの人々がこの名画のために訪れていた。
(3) 大聖堂 (Duomo)
 正面入り口は1693年震災後のバロック様式だが、内部はBC5世紀アテナ神殿のドー
リア式円柱が残るビザンチン時代にキリスト教のバジリカに改築された。ノルマン時
代に上部に窓を造った。聖女ルチア礼拝堂に1,200kg銀製ルチア像があり、5月第1日
曜日、12月31日のみ拝観が出来ると言う。
(4) アポロ神殿 アポロ神殿
アポロ神殿
アポロ神殿の一枚岩の柱
アポロ神殿の一枚岩の柱
  (Tiempio di Apollo)
 BC568年シチリア最古の
ドーリア式神殿。一枚岩の
柱が並んでいる。
 
 
 
 午後:ノート(Noto)
 昔のノートの町は、1693年1月11日の地震で壊滅し、10km離れた場所に町を移転、
バロック様式で新しい都市を築いた。
キエーサ・マードレ母教会
キエーサ・マードレ母教会
(1) キエーサ・マードレ母教会(Chiesa Madre)
 サン・ニコロ教会(Chiesa di San Nicolo)とも言わ
れる。1776年に建造された。
 
 
 
 
 
(2) 二コラ―チ館 二コラ―チ館のバルコニーのもち送りの装飾
二コラ―チ館のバルコニーのもち送りの装飾
 バルコニーのもち送りの着想が奇抜な凝った彫刻の飾
りが面白く鑑賞できた。
 
 
 
 
 
サン・ドメニコ教会
サン・ドメニコ教会
(3) サン・ドメニコ教会(San Domenico)
 1693年の震災後、ノート新都市の計画は当時の有名な
建築家たちの手で進められたが、中でもロザリオ・ガリ
アルディが設計した凸状に湾曲した正面を持つサン・ド
メニコ教会が大評判を博した。 
 
 
 
 
<観光第3日目 5月3日(水)>
 午前:カルタジローネ(Caltagirone)  
 午前中は3つの丘の斜面を覆うように民家が立つ山上都市であり、シチリアの心、
陶器の町カルタジローネを見学した。標高608m。陶器はアラブ人がマジョルカ焼の技
術を持ち込んで始められた。肉厚の陶器で、塗色は黄、青、緑が基本色で、幾何学模
様が多い。
(1) サンタ・マリア・デル・モンテの大階段(Scala di Santa Maria del Monte)
 1606年に上部の旧市街と下部の新市街を結ぶ階段として建造された。階段の数142
段、落差50mである。1954年に溶岩石で改築され、各階段 階段の蹴り上げ部分の装飾の美しい大階段
階段の蹴り上げ部分の装飾の美しい大階段
の蹴り上げ部分にいろいろ違った模様のマジョルカ焼絵
タイルの装飾が施されている。2段は幾何学模様、1段
は動物、鳥、人物などが描かれている。
 階段の上にはサンタ・マリア・デル・モンテ教会があ
る。教会前広場からの眺めは素晴らしかった。
 因みにこの町の現在の観光用謳い文句は「色彩の貴婦
人、大空の支配者」“Signora dei colori,”Padrona
del cielo“である。   
 午後:ピアツァ・アルメリーナ(Piazza Armerina)近郊の森「カザーレのローマ
離宮」(Villa Romana del Casale)のモザイク画をゆっくり鑑賞した。
導水路風景
導水路風景
ボイラー室跡
ボイラー室跡
(1) カザーレ荘
 4世紀にローマ帝国の西
側(イタリアおよび北アフ
リカ)を支配していた皇帝
マクシミリアンの別荘3,500
平方メートル(25メートル・
プール9つ分と同じ大きさ)
の床前面に美しいモザイク
 
宮殿の入り口
宮殿の入り口
愛の交歓シーンのある寝室のモザイク画
愛の交歓シーンのある寝室のモザイク画
ユリシーズとポリュペモスの控えの間のモザイク画
ユリシーズとポリュペモスの控えの間のモザイク画
画が施され十分に鑑賞に堪えうる見事さで保持されていた。
 
<観光第4日目 5月4日(木)>
 午前:アグリジェント市の「神殿の谷」(Valle dei Templi)を前述のようにTBSの
テレビ取材班と共に、イタリア政府公認の初めての日本人ガイド中野陽子さんのガイ
ドで巡った。
<神殿の谷>
 丘の上にドーリア式のギリシャ神殿が建ち並んでいる遺跡を巡り歩いた。
(1) ユノ(ラキニアのヘラ)神殿(Templo di Era Lacinia or di Giunone)
 「神殿の谷」の東南端標高120mに位置し、BC5世紀の建設で、基壇と円柱、柱
の上の建材(アーキトレー ヘラの神殿とウチワサボテン
ヘラの神殿とウチワサボテン
アーモンドの木 
アーモンドの木 
ヴと呼ぶらしい)の一部を
残しているのみ。谷風景全
体を見渡すのに好都合の場
所だった。歩いた参道の両
側は、かつての住宅街で、
オリーヴの木とアーモンド
の木に果実を食すウチワサ
ボテンが一面に植え込まれていた。
(2) 城 壁
 古代アクラガス(アグリジェントの古代の名)の都市は、外周13kmの城壁で囲まれ、
9つの門があったという。ビザンチン時代にはお墓として利用された。
(3) コンコルディア神殿(Templo della Concordia)
コンコルディア神殿とイカロス像
コンコルディア神殿とイカロス像
 BC440年に建立された。パルテノン神殿に非常によく
似ている。597〜1743年にわたってキリスト教会に転用
されていたために現在でも完璧に近い保存状態が保たれ
ている。入り口にイカロス像がいかにも無造作に転がさ
れているように横たわっている。記念写真の題材として
はこの上ない掘り出し物といった感じがした。     
 
 
(4) ネクロポリス(Necropoli Paleocristiana)
 ローマ帝政以来の共同地下墓地で、のちカタコンベとして使われた。
(5) アウレア邸
 1921〜1933年英国人アレクサンドル・ハードカッスル卿が住んでいた邸宅がそのま
ま残されている。
(6) ヘラクレス神殿(Templo di Ercole)
 BC510年に建立されたが、現在はアウレア邸の横から同卿が1924年に修復復元した
8本の円柱が残されているのみ。自然の災厄や怪物に雄々しく立ち向かったヘラクレ
スへの信仰は根強かったことが偲ばれる。
(7) ゼウス神殿(Templo di Giove Olimpico)
 西側の聖域一帯に瓦解したオリュンピアのゼウス神殿(BC510年建立のギリシャでは
最大級の神殿、総面積6,340平方メートル)の山をなす石材が散らばっていて、他に各
円柱間に置かれていた男性全長8mの巨大テラモン(Telamone)像の複製一体が横たわ
っている。本物一体も近くの州立考古学博物館に展示されているらしい。
 午後:セリヌンテ(Selinunte)
 シチリアで最も西のギリシャ植民都市であった。アフリカの海に最も近い距離に臨
む神殿群がまさに歴史の夢の跡を思わせる。都市名セリヌンテは野生のパセリの名
「セリノン」に由来する由。海を臨む南の高台にアクロポリスがあり、その北に人口
2万5,000人の都市が広がっている。東の高台に神殿群がある。それぞれどの神に捧げ
るために造られた神殿か、はっきり識別できないため、当地の神殿遺跡にはアルファ
ベットのA,B,C,・・・と名が付せられていて、多分それぞれの神に捧げられたのであ
ろうと現在までに学者の意見によって、(  )として推定される神の名を併記して
いた。
 当日は時間の関係で、要塞建造物(Fortificazioni)のあるアクロポリ(Acropoli)
の訪問は割愛し、東神殿群(Templi Orientali)の中にあるE,F,Gの3つの神殿を見学
した。東の神域へは、草花が一面に広がる野原を周柱部が復元されたE神殿の壮麗な姿
が目に飛び込んでくる。
(1) E神殿(ヘラ神殿)(Templo E or di Era) E神殿(ヘラ神殿)
E神殿(ヘラ神殿)
 列柱の本数6本x15列の周柱部38本の列柱と部屋の仕
切りが、1950年半ばまでに復元されている。典型的な
ドーリア式の神殿。神殿像を安置する前室(ナオスと呼
ぶ)と後室を備えている。
 
 
 
F神殿(アテナ神殿)
F神殿(アテナ神殿)
(2) F神殿(アテナ神殿)
 3つの神殿の中で、最も小さく、石材も殆どが略奪さ
れ、残されたものも少なく、復元できないままである。
1本の柱が立っているのみだった。
 
 
 
 
(3) G神殿(ゼウス神殿)
 列柱の本数8本x17列。セリヌンテの遺跡で最大規模の神殿。現在の遺跡は1832年
に修復されたもの。円柱が瓦礫の中に立ち並んでいて、いかにも廃墟を思わせる。未
完成のため、溝のない柱が G神殿(ゼウス神殿)
G神殿(ゼウス神殿)
黄色いアザミ
黄色いアザミ
ほとんど。少し乗っている
柱頭の大きさから神殿全体
の大きさが想像できる。辺
り一面に珍しい黄色いアザ
ミが咲き乱れていた。
 
 午後:2番目に訪ねたモンレアーレ(Monreale)
 パレルモ市郊外8kmのカプート山中腹にある町で、標高310m、ノルマン王朝の狩猟
の場であった。この地の大聖堂はパレルモの大聖堂よりも美しく、文化的にもはるか
に価値のある傑作なのだそうで、観光の目玉になっている。
(1) 大聖堂
 1174年ノルマン王朝グリエルモ2世がパレルモ大司教に対抗して建立した。イスラ
ムとビザンチン様式を見事に融合したノルマン建築の傑作とされている。
大聖堂内陣全景
大聖堂内陣全景
 堂内の床と壁下部はアラブ装飾の大理石の象嵌細工、
壁上部は6,340平方メートルを埋め尽くすビザンチン式
ガラスモザイク画、旧約・新約聖書の物語、全長7m、
肩幅14m、右手2mの巨大「パントクラトール(Pantocra-
tor)全能のキリスト」や「キリストから王冠を授かるグ
リエルモ2世」など見るべき作品がたくさんあった。グ
リエルモ1世(父)とグリエルモ2世(子)の石棺や西
正面入口にボナンノ・ピサーノ(Bonanno Pisano)が制
作した青銅の門扉(1186年制作)など興味は尽きないものだった。 
(2) 回 廊
 旧ベネディクト会修道院の中庭を囲む列柱回廊や尖塔アーチを支える211本の柱は2
本組で、1組おきに幾何学模様の象嵌、各円柱の上を飾る柱頭彫刻も様々で面白い。
グリエルモ2世が聖母子に大聖堂を献上する像、角に棕櫚の木をかたどった泉の石柱
など見るものが多かった。
回廊天井の装飾
回廊天井の装飾
グリエルモ2世像
グリエルモ2世像
2本組の柱
2本組の柱
 
<観光第5日目 5月5日(金)>
 午前:チェファルー(Cefalu) 町名の由来となった「帽子岩」
町名の由来となった「帽子岩」
 シチリア島北岸のはぼ中間の地に頭のような岩山の麓
にティレニア海に突き出す急斜面の岬にある町。眺めの
良い、可憐なリゾート地。人口15,000人。チェファルー
の名前の由来は頭のような岩山の形が帽子に似ているた
め、ギリシャ語の帽子の単語がそのまま町の名になって
しまったものらしい。
 
(1) 旧漁港
 この町の見どころは、旧港。かつての漁港で、現在は海水浴場。それよりも映画
「ニューシネマ・パラダイス」のロケ現場として有名なのだとか。筆者にはこの映画
そのものを知らないので、何の感慨も湧かなかったが・・・。
石の洗濯場
石の洗濯場
(2) 石の洗濯場
 旧港の近くに、山の湧水が海に流れ込むところがあり、
そこが中世の洗濯場(Lavatoio Medievale)であった。
今も当時の石の洗濯台が並んでいた。ガイドの説明では、
1970年まで使われていたものらしい。
(3) 大聖堂
 もう一つのこの町の見どころは大聖堂で、1131年ルジ
ェーロ2世により建設が始められたが、1154年に亡くな
ってしまったため、未完成のままである。王家の菩提寺にとの計画であったため、大
きく立派なシチリア、ノルマン様式の教会である。後陣の金地ガラスモザイクが有名
なものらしいが、筆者たちの訪問時には修復中で見られなかった。
 午後:パレルモ(Parelmo)
 旧名をギリシャ語で“パノルモス”(すべてが港)と呼ばれた。シチリア自治州の
州都。人口74万人。
(1) プレトリア広場(Piazza Pretoria)
 市庁舎前広場となっており、中央に神々の像で飾られた大理石の円形噴水。
別名「辱め噴水」。
(2) パラティーナ礼拝堂(Cappella Palatina)
 ノルマン王宮の二階にあり、初代ノルマン王ルジェーロ2世が建てた王宮付属礼拝
堂。内部はすべて12世紀中頃そのままに保存されている。天井はイスラム建築特有の
技法でレバノン杉の鍾乳石飾りがされたり、彩色が施されている。床と壁は幾何学模
様の大理石象嵌細工。柱頭より上の壁面はビザンチン金地ガラスモザイク画で身廊の
内側は旧約聖書、左右の側廊は聖ペテロと聖パウロの物語。内陣の上には全能のキリ
スト「パントクラトール」が描かれている。
 序に、3階のシチリア州議会の「ヘラクレスの間」や、王の居室の「ルジェーロ2
世の間」も見学した。建物内部の階段に使われている大理石にはたくさんの三葉虫の
化石が見られた。
パラティーナ礼拝堂の祭壇
パラティーナ礼拝堂の祭壇
壁の幾何学模様
壁の幾何学模様
階段の石の「三葉虫の化石」
階段の石の「三葉虫の化石」
(3) パレルモ大聖堂(Cattedrale di Palermo)
 ビザンチン教会跡にアラブ人はモスクに転用、1184年に大司教はノルマン王と競う
ように教会に再改築。18世紀に新古典様式で改築されたもの。
(4) マッシモ劇場(Teatro Massimo)
 建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・フィリッポ・バジーレによって1875年に着工
され、1891年彼の死後は息子が受け継ぎ、1897年に完成した。イタリア最大の歌劇場。
ヨーロッパではパリ、ウイーンのオペラ座に次いで第3位の規模を誇る。
柿落し(HP担当者注)はヴェルディの喜劇「ノアルスタッフ」だった。
1974年より23年間を掛けて修復され、1997年「アイーダ」で再開した。
5層のボックス席と天井桟敷がある。客席数1500席、照明にはヴェネチアのムラーノ
ガラスが使われているとか。訪ねたときにはコンサートのリハーサル中だった。
ロイアルボックス27席も見学し、座ってみた。
音響効果の良い丸い屋根構 5層の客席と桟敷席
5層の客席と桟敷席
コンサートのリハーサル風景
コンサートのリハーサル風景
造の部屋であった。ゆっく
り音を楽しみたいと思った。
男性の休憩室にはポンペイ
風のフレスコ画も用意され
ていた。開かない扉がだま
し扉として造られており、
装飾として見事に収まって
いる様にびっくりした。
(5) マルトラーナ教会(Chiesa della Martolana)
 正式名称は海軍提督の聖母マリア教会(Chiesa di Santa Maria dell’ Ammiraglio)
と言う。1143年海軍提督(アンミラリオ)と宰相としてルジェーロ2世に仕えたジョ
ルジョ・ダンティオキアの要請で建てられたので、そのように呼ばれている。内壁に
モザイク画「聖母マリアとダンティオキア」
モザイク画「聖母マリアとダンティオキア」
モザイク画「キリストとルジャーロ2世」
モザイク画「キリストとルジャーロ2世」
は、最も純粋なビザンチン
様式の伝統を受け継ぐ、シ
チリア最古のモザイク画
「聖母マリアの足下に平伏
すダンティオキア」と「キ
リストの手から直接に王冠
を授けられるルジャーロ2
世」が対になって描かれて
いた。
 この教会の隣には、アラブ風の三つのクーポラを持つサン・カタルド教会(Chiesa
di San Cataldo)(1160年建立)が見られた。
(6) 州立考古学博物館(Museo Archeologico regionale di Palermo)
 花の金曜日のためか(?)当日のこの博物館の入場は無料とのことで、旅程には入
っていなかったが、各自勝手に摂ることになっていた夕食の時間を遅らせてでも閉館
時間の迫っている中を前日のセリヌンでの東神殿群の神殿遺跡からの発掘品が展示さ
C神殿のメトープ
C神殿のメトープ
れていると聞いて訪れた。もう門は大混雑だった。
 C神殿のメトープの浮き彫り「アポロンの4頭立て二
輪馬車」、「メドゥーサを退治するペルセウス」、「ケ
ルコプス兄弟を懲らしめて逆さ吊りにするヘラクレス」
とE神殿のメトープ浮き彫り「ヘラクレスとアマゾン族
の戦い」、「ゼウスとヘラの結婚」、「ティアナとアク
タイオン」、「アテナとエンチラドス」などが見られ大
満足した。
 
E神殿のメトープ
E神殿のメトープ
E神殿の模型
E神殿の模型
州立考古学博物館正面
州立考古学博物館正面
                                     了
                          2017年7月2日(日) 記
 
HP担当者注:「こけら落し」の「こけら」に「かき」の字を代字として挿入しました。
 「こけら」の旁は鍋蓋に「巾」ですが、「かき」は、旁の縦棒が一本で貫かれ、鍋蓋でない。
 
2016. 5. 8 清水 中国“仙境”への旅
 
中国“仙境”への旅       
-------世界複合遺産「黄山」に遊ぶ 横浜市 清水 有道
 
1. プロローグ
 世界遺産や名勝をアプローチの難しいものからできるだけ早めに訪ねたいと考えて、
今年の海外旅行計画の中に中国の黄山を選んだのは3年前、そして昨年秋には参加す
るツアーまで決め準備に入って数日後の10月22日、偶然NHK/BS3のテレビ番組案内に俳
優で画家の片岡鶴太郎さんが、現代中国の水墨画の達人傅 益瑶(フ エキヨウ)さ
ん(女性)の案内で黄山に登り、独特の山水風景を描いている姿が“黄山に遊ぶ”と
いうタイトルで放映されることを知った。その内容が素晴らしかったので、今回の筆
者の探訪記の題名にも同じ言葉を使わせてもらうことにした。
2. 黄山というところ
 惜しむらくは、この黄山には昔から伝わる伝説や故事の有名なものはなく、黄山の
地名も昔からあったものではないため、比較的新しい景勝地ということが出来よう。
それでも中国では最上級のA星5つの5Aクラスの観光地で、1990年12月にユネスコの
世界複合遺産の「黄山」と世界文化遺産の「安徽南部の古村落――西逓・宏村」の二
つの景勝地を有するのが黄山市である。同市には3区(屯渓区、黄山区、徽州区)と
4県(祁門県、?県(注1)、休寧県、歙県)があり、人口は1520万人、面積は9800
余平方キロである。中心の屯渓区は1983年に新しく設定され、現在はそこに中央駅も
国内線用の黄山屯渓空港がある。当地は山間に位置するため、中国の長い歴史の中で
一度も戦禍に見舞われることなく安全なため、金持ちが密かに隠れ住んでいたところ
として有名で、農業がほとんどできず、他に産業もないため子供は14歳になると一念
発起して杭州や上海に働きに出て、成功して一旗揚げて郷里に戻るという美談が聞か
れたところである。中国を代表する政治家、宗教家、大商人が当地から誕生している。
代表的なところでは、春秋時代に桓公に仕えた管仲、宋の道家荘子、魏王の曹操、朱
子学の元祖朱熹、明朝の初代皇帝朱元璋、清末の政治家李鴻章、1957年のノーベル物
理学賞受賞者楊振寧、胡錦濤元国家主席、李克強国務院総理などがいる。
 近年は日本人も数多く訪れており、黄山市内には道教の四大聖地のひとつで修行の
本山である齊雲寺、隣の浙江省には紹興酒で有名な紹興、陶磁器の窯として有名な景
徳鎮があり、日本からの遣隋使・遣唐使が持ち帰って、鎌倉の3将軍や信長、秀吉、
徳川歴代将軍から珍重された天目茶碗の窯元が山麓にある天目山も杭州の空港から黄
山に向かう途中に位置している。日本人には親しい地名が多く存在する中心地で、近
くの国際空港杭州肅山国際空港へは全日空が成田から週4便、関空から週3便の直行
便を飛ばしている。日本とは1時間の時差があるが、飛行時間は約4時間。それにプ
ラスして杭州空港から黄山市の屯渓区中心まで高速を使って約3時間余のバスの旅が
必要である。
 
(HP担当 注1:「?県」の「?」は、「黒」に「多」。 HPで表示不可能な文字
  です。 Unicode:9EDF 読み:イ、こくたん)
 
3. 黄山を謳った詩
 中国には風光明媚な名山として五岳、すなわち東岳(泰山)、西岳(崋山)、南岳
(衡山)、北岳(恒山)、中岳(嵩山)があり、中でも標高では第3位ながら、品格
としては泰山が最も崇められている。理由の一つには歴代皇帝が禅宗に倣った儀式を
行った山だからである。これら五岳に次ぐ山々が黄山、廬山(古くから東京六本木の
交差点近くに「廬山」の屋号を持った中華料理屋がある)および峨眉山で、多くの詩
人に謳われている。李白以前には黄山を謳った詩はほとんど知られていないが、地元
の人で、日本にはあまり紹介されていない鄭玉という詩人に「游黄山」と題する七言
絶句がある。
 
 江左諸峰罕出群  江左の諸峰 軍を出でて罕(まれ)なり、
 誰云華岳与平分  誰か云う 華岳 与に平分。
 幾千百阯ャ蒼玉  幾千百閨@蒼玉を流し、
 三十六峰生白雲  三十六峰 白雲を生ず。
 幽谷高人抱眞独  幽谷の高人 眞独を抱き、  
 荒崖野草剰芳芬  荒崖の野草 芳芬(ほうふん)を剰(あま)す。
 幾回独向風前立  幾回か独り向かって 風前に立ち、
 夜半吹蕭天上聞  夜半の吹蕭 天上に聞く。
 
(口語訳) 幾千もの谷には碧玉のような水が流れ、三十六峰には白雲が沸く。
 長江の東(江左)に峰々が群を抜いて突き出ている。
 崋山と並ぶなんて、いったい誰が云ったのだ。
 幾千もの谷には碧玉のような水が流れ、三十六峰には白雲が沸く。
 この深山幽谷には徳の高い隠者が住んで、世俗からは超越しており、荒々しい崖に
 は野草が香りを溢れさせている。
 何度となく独りで風に向かって立ち、夜半に蕭の笛の声を聞いているし、まるで天
 上にいるようである。
 
 李白は黄山で幾つかの詩をものしているが、中でも最も人口に膾炙している詩は
「夜泊黄山聞殷十四呉吟(ある夜、黄山に泊まって殷兄弟順の十四番目の呉歌を吟じ
たのを聞いた)」であろう。
 
 昨夜誰為具會吟、  夕べ呉の地方の歌曲を歌っていたのは誰だったのか。
 風生萬壑振空林。  風が谷という谷に吹き荒れ、葉を落としきった林に吹いたの
           だ。 
 龍驚不敢水中臥、  隠れ、寝ていた龍はびっくりして目を覚まし、じっと寝てい
           ることができなかった。
 猿粛時間巌下音。  猿の寂しいけど鋭い鳴き声が、時をおいて何度も岩の下から
           聞こえてきた。
 我宿黄山碧渓月、  わたしはここ黄山に泊まった緑静かな渓谷の中で月を見て、
 聴之却罷松間琴。  この鳴き声を聞いていると、今まで松の木の間で引いていた
           琴を止めてしまうほどだった。
 朝来果是滄州逸、  今朝になってから、果たしてそれは滄州に住む隠者が起こし
           ていた仕業であると分かった。
 ?酒提盤飯霜栗。   隠者には酒である。そこで酒を買い、肴を入れた皿を下げ持
           ち、栗飯を用意して訪れたのだ。(注2)
 半酣更発江海聲、  黄山に宿をとったわたしは碧の谷川の月を見ていたが、酒が
           半ば回ってくると、彼は更にまた、自由歌声を響かせ、唸ら
           せ始めた。
 客愁頓向杯中失。  その歌を耳にすると、旅の愁いがいっぺんに、琴の手を頓挫
           して、盃の中に向かって消え失せてくれた。
 
(HP担当 注2:「?酒」の「?」は、「酉」に「古」。 HPで表示不可能な文字
  です。 Unicode:9164 読み:かう、うる)
 
4. 黄山の具体的行動日程
(1)第1日目 “屯渓老街”散策
 初日は午後1時過ぎに杭州に着き、バスで黄山市の屯渓区の中心に午後4時過ぎに
入り、当日唯一の観光である屯渓老街を1時間ほど散策した。
ここは旧市街に残る宋、明、清時代の街並みがそのまま残された歴史に刻まれた趣き
の彷彿とする約1キロにわたる石畳の商店街を土地の産品、特に中国の文房四宝と呼
ばれる硯、墨、すき紙、筆を扱う文房具屋、地元の銘茶「黄山毛峰茶」や「祁門(キ
ーマン)紅茶」を扱う茶屋、骨董品屋に特産の農産物(乾燥させた天然の岩ノリ、固
有種である黄山松にできる天然の松茸の乾燥したもの、ガンの薬「冬虫夏草」、名産
品の一つ天然クルミの加工食品や菓子類、薬味・香辛料などを商う物産店を見て歩い
昔のまま残る“老街”の門
昔のまま残る“老街”の門
“老街”の街並み
“老街”の街並み
た。その後ホテル内で夕食
をとり、初日の日程は恙な
く終えた。ホテルは屯渓地
区の中心に近い四つ星ホテ
ルに3連泊であったため、
滞在にゆとりがあり、旅に
特有の気忙しさがなく、大
助かりだった。
 
(2)第2日目 “黄山”登山 
 2日目はこの旅一番の目玉の黄山登山の日である。観光バスで公園の入り口まで行
き、公園内専用の乗り合い公共バスに乗り換え、ロープウエイ(雲谷索道)の雲谷寺
駅(標高約750m)から約20分乗って標高1550mの白鵞山頂駅に降り立つ。ここから約
2時間石段ばかりの道を上り、下り、本来ならば見えたであろう奇岩の峰々や変わっ
た形をした黄山の固有種である黄山松が険しい岩肌から伸び育っている姿をほんの一
部を見、大半は想像して巡り歩き、山上ホテルの一つである北海賓館(Beiihai Hot-
el)で黄山料理の昼食をとった。このホテルは中国政府がよく外国の要人を泊めると
ころでもあるらしい。たくさんの海外のVIPの姿が写真に収められていた。泊まって翌
朝の雲海の上に昇る朝日に照り染めた奇岩峰、それは見 画家毛暁林さんの制作風景
画家毛暁林さんの制作風景
事なものだろうと容易に想像できた。前述の片岡鶴太郎
さんもここに投宿したそうである。ホテルの1階の片隅
には山東省生まれの創作画家毛暁林さんのコーナーがあ
って、丁度訪ねたとき同画伯が制作を披露していた。日
本のみならず広く欧米、アジアで所蔵されている由であ
った。日中芸術研究交流協会のメンバーでもあり、北京
大学と北京建設大学の書画社所属の画家でもある由。指
画の第一人者でもあるらしい。
猴子観海
猴子観海
 昼食後また約2時間山頂巡りを続けた。相変わらず終
始深い霧の中の行進で、小雨の中、雨具をまとって、た
だ黙々と自分の足元だけを見て歩き続けるだけで、絶景
を味わうことは全くできなかった。
(筆者注)
 猴子観海:日本語で言えば“猿の見晴台”となるでし
      ょう。
 満たされない悶々とした気持ちを抱いてホテルへの帰 第3幕「痴夢徽州」のステージ
第3幕「痴夢徽州」のステージ
路夕食をとった徽州料理屋での地元ビールと紹興酒で憂
さを晴らしたのだった。夜は市内の徽州文化芸術座で中
国の“京劇”の原型になった歌舞を含む5幕を鑑賞した。
男女大勢の歌手と踊り手が舞う豪華なステージだった。
観覧料は260元(約5,000円)だった。
 
(3)第3日 安徽古民家村落“唐模(トウモ)”と“呈坎(テイカン)”訪問後
   再度黄山登山
 (ア)当日になっての突然のスケジュール・チェンジ
 さあ3日目が問題の日になった。予定では当日の観光手順は“唐模(トウモ)”と
“呈坎(テイカン)”という二つの安徽古民家村を訪ね、そのあとは土産物屋や土地
の名産品店に寄ることになっていた。ところが前日とは打って変わった快晴の日とな
り、黄山も見事に晴れて、見晴らしも抜群との現地からの情報が採れたため、我々の
ツアーのメンバーは全員で14名だったが、もし、14名全員が賛同し、必要経費も各自
負担するのであれば、土産品店やお茶その他の土地の産物店を訪ねることをキャンセ
ルしてもう一度前日の黄山の登山コースを歩くことも時間的には可能という現地ガイ
ドの配慮で、折角来たのだから少しでも景色を見て帰りたいという全員の希望が一致
し、古民家を訪ね、昼食を済ませたら早速再度黄山に向かうこととなった。黄山公園
内の公営バスの往復とロープウエイの往復の実費日本円にして7,500円を追加払いして
参加メンバー全員参加の黄山再訪問が実現した。
 (イ)呈坎(テイカン、Chengkan Village)見学
 黄山市には幾つかの古村落が保護されている。それらを黄山市では“百村千憧”古
村落(Conservation Project Villages in Huangshan City)と称しており、呈坎も徽
州区呈坎村(Chengkan Village in Huizhou District)と名付けている。宋代から明・
清代のものまで180あまりの古建築が残されている国宝の村である。八卦や風水の理論
によって造り上げられた八卦村としても有名な村である。呈坎村の自然環境は八卦配
置に似て、周りに八つの山を相当し、自然の八卦によって名前付け、濠川河はS字の
ように北から南へ村中を貫いて流れ、八卦の陰陽魚の境界線になっている。この村に
呈坎村の入口の標識
呈坎村の入口の標識
入口広場の風景
入口広場の風景
は歴代の村長を収めた羅親
族一統の祠があるが、1539
年から1630年まで建て続け
られた。江南地方に現存す
る祠としては規模最大で、
規格最高の、石彫、木彫に
あらゆる絵画を取り混ぜて
豪華絢爛たる家族祠となっ
ている。
 (ウ)唐模〈トウモ、Tangmo Village〉見学
 唐摸は唐の時代から建てられ始め、宋と元の時代を経て、一番繁栄した時期は明と
清の時代であった。ここは俗に“水口庭”とよばれる。「水口」とは風水でいう熟語
で、水を取り入れるか、逆に送り出すことを狙った庭園を指すようであるが、筆者の
勉強不足で良く分かりません。建物は徽派建築と呼ばれるものだそうで、それらの建
物と田園風景が独特の景観を醸し出しており、中国の国宝的存在の古民家を代表して
いる。入り口近くには安徽省の銘木に指定されている樹齢400年以上の大香樟樹(学名  
Cinnamomum camphora, いわゆる楠)があり、中国の有名な物語「天仙記」の映画撮影
に使われて有名になり、“天下一の媒酌”と別名されているそうである。唐摸村も御
多分に漏れず、古徽州文化旅游区の5A国家級旅游景区(National Tourist Atruction)
に指定されている。
 唐摸村の特徴は水辺を中心にした庭園にあり、その中心は檀干園である。庭園その
ものは杭州の西湖を真似て造られており、水辺部分はそのため“小西湖”と呼ばれて
いる。この庭園を命じた主は巨万の富を得た許氏で、同氏は実母に休養してもらいた
くてこの小西湖に似た庭園の造営を命じ、岸辺に母親のための居住館を建てた。
 筆者が日本人として特に面白く観察したことは、村を収めた長の許一族が先祖を祀
るために祖廟を作っていることで、明の時代に造られた継善堂(Jishan Hall)には生
前表した言葉を軸に仕立て 唐摸村の入口の標識
唐摸村の入口の標識
“小西湖”に造られた許氏の    母親用の館
“小西湖”に造られた許氏の    母親用の館
たものと許氏代々の主の肖
像画が掲げられ、堂の天井
や壁には美しい彫刻や絵画
で飾られていた。村の中に
はしっかりした料理店があ
り、その一つで昼食をとっ
たが徽式に則った料理が提
供された。店の名前は「大天井」とあった。恐れ入った。
 (エ)再度の黄山登山
黄山風景(1)
黄山風景(1)
黄山風景(2)
黄山風景(2)
 結果は添付の写真に見ら
れるように、素晴らしい景
観を眺めることができて、
全員大満足で再訪問を楽し
んだのでした。お陰で前日
と2日間で往復合計4,000段
の石段を上り下りすること
になってしまい、宿に戻っ
 
てからマッサージを希望す 黄山風景(3)
黄山風景(3)
黄山風景(4)
黄山風景(4)
る者の世話で現地ガイドは
大忙しだった。因みに同行
の最年長は83歳の男性2名
で、3番目が不肖筆者であ
った。翌日の成田への航空
機の中では足の痛みを訴え
るメンバーが女性を入れて
6名いたようである。
 (オ)毛峰茶の名店に寄り、安徽料理に舌つづみ
 黄山から市内に戻るのに殊の外手間取らなかったため、一軒だけ現地の最高品質の
銘茶「毛峰茶」の本店兼ショールームに寄った。原産地特供の謝裕大茶叶股?有限公
司で、社名の謝裕大は黄山市出身の成功商人の第一人者に挙げられている黄山毛峰茶
(Huangshan Mao Feng Tea)の創始者謝正安(1838〜1910年)の末裔である。参考ま
でに価格は1等から3等までの3種類があって、1等品は100gが日本円で6,000円ほ
ど、3等品は一番出がよく、万人向きで同じ100gが日本円で500円、筆者はこの3等
品で毎日楽しんでいる。香りと渋みが程よく調和していると感じている。因みに、日
本の京都を始めとして、各地で行われている茶会のプログラムの中にも、毛峰茶の名
前が見受けられて、名品であることを再認識した。
 この茶屋の本店ショールームは黄山市の中央を流れる新安江に面した地域にあり、
イルミネーションに輝く     モニュメント
イルミネーションに輝く     モニュメント
モニュメントと橋の       イルミネーション
モニュメントと橋の       イルミネーション
河岸に造られた公園の散策
路には同市が輩出した有名
人多数の像が巨石に直接彫
り込まれたものが衝立のよ
うに並べて飾られ、誇らし
く見せている。そのモニュ
メントが夜間はイルミネー
ションに映えて遠くの橋の
イルミネーションとともに美しく輝いていた。
 夕食は市内の名店で安徽料理を楽しんだ。黄山市の地ビールはアルコール度5%と
軽く、楽しめず、紹興酒の陳年物をもらったが、中華料理にはやはり一番の取り合わ
せだと思った。
5. エピローグ
 昨年9月に心臓のステント挿入カテーテル治療を受け、もう一つの心臓の病心房細
動という不整脈については完治できていないままで、思い切って参加した旅であった
ため相当無謀な旅だったが、幸い無事に目的を達することができて、上機嫌で帰国の
便に搭乗できて大満足の旅だった。                     了
                         2016年4月3日(日)  記
 
2015. 9.27 清水 いまだに雅を伝える全島一市の佐渡島
 
いまだに雅を伝える全島一市の佐渡島 横浜市 清水 有道
 
1. はじめに
 例年になく酷暑の続く今夏に、寄りにも寄って休む暇なく島巡りの旅を続けた。
屋久島の宮之浦岳に次いで亜熱帯から寒帯までの縦の山容植物相が鮮やかに見られる
日本屈指の列島北限になる金北山(1,172m)をゆっくり観察するために出来れば自分
でコースを決め、ドンデン山(934m)から金北山への大佐渡自然歩道の縦走登山を組
み込むつもりであった。ところが、どうしても仕事の関係から日数を掛けられず、止
む無く旅行会社のパックツアーに参加して、通常の観光コースのみを体験して帰京す
る平凡な旅になってしまった。非常に残念であると同時に、このホームページに紹介
するまでもない、ごく当たり前の旅物語、さほど代わりばえのしない紀行になってし
まったかもしれないと悔やんでいる。
 今回の3日間の旅も、梅雨明け前であったにも拘らず、持参した雨具を一度も使わ
ずに済むと言う幸運に恵まれ、いつもの事ながら晴れ男の強運を目いっぱい楽しんだ
旅ではあった。そのため連日昼夜にわたり細かに探訪することが出来た。入手できた
情報をベースに、出来るだけガイドブックに表されていない事柄を多く拾い、ダイジ
ェストしてみたい。
 
2. 大きく変わった両津港周辺
 JR上越新幹線を始発の東京駅から終着の新潟まで乗り、新潟港から新造なった佐
渡汽船カーフェリー“ときわ丸”で両津港に入り、佐渡島の旅をスタートさせた。
以前の佐渡島唯一の市であった両津市は、全島が佐渡市になったいま、新しい市庁舎
は両津から河原田に抜ける国道350号線が真野湾に出る手前の千種(ちぐさ)という
町にある。両津には支所が置かれている。
 両津港湾ビルを出ると、次の『両津甚句』の歌詞と波打つ5線の上に音符代わりに
貝殻で数小節のメロディーを表した歌碑が建っている。
 <両津甚句> 甚句の歌碑
甚句の歌碑
 1.両津欄干橋や  まん中から折れようと
   船で通うても  やめりゃせぬ
 2.烏賊場漁師は  心からかわい
   命帆にかけ   波まくら
 3.松になりたや  御番所の松に
   枯れて落ちても 二葉づれ
 1番の歌詞に謳われている『欄干橋』や3番の歌詞に謳われている『御番所の松』
など両津港に纏わる歴史的なところをホテルにチェックインするまでの約1時間ほど
を訪ね歩いた。佐渡観光協会とタイアップして土地の年配者がボランティヤー・ガイ
ドを務めていた。
 
1) 両津欄干橋
欄干橋の彫刻像
欄干橋の彫刻像
 江戸時代初期に夷、湊の両町を分けて流れる境川に架
かる御普請橋として佐渡奉行所によって架けられ、以来
『境橋』とも呼ばれていた。橋の長さ17間、横幅1丈は
変わることなく昭和4年の架け替えでも木橋だったが、
昭和56年6月に現在の長さ34.4m、幅13mの鉄骨・コンク
リート橋が竣工した。欄干には地元の彫刻家の手になる
鳥と魚に躍動する裸婦を配した春夏秋冬の四季を表す像
が輝かしく並んでいる。
 現在改修された橋は両津橋と呼ばれ、国道350号が通っている。また、新しく海側に
両津大橋が架けられ、港に伸びて埋め立てられた新開地を結んでいる。これら2本の
橋のために陸側に続く淡水湖の加茂湖に海水が入り、加茂湖で海の魚介類が獲れるこ
ととなり、釣り愛好家や潮干狩りの好きな人々には新たな楽しみの場を提供すること
になった。
 甚句の文句からも類推できるように、この橋は港町に付き物の花街への大事な通い
路であった。前述の『境橋』の名の由来の一つでもあろう。花街地区の戦災を受けて
いない建物の中には、往時の花柳界を偲ぶことが出来る建物が当時の姿そのままに眺
められる。
 
2) 御番所の松・村雨(むらさめ)の松
 両津港は江戸時代には夷湊と呼ばれていたが、港の『御番所』と呼ばれた税関があ
ったところに大きな松の木があった。そこで土地の人々 村雨のマツ
村雨のマツ
は、その松をランドマークの一つとして、『御番所の松』
と呼んでいた。現在の実測では、最大部の幹回り約6m、
樹高約19m、枝張りは東西に約14mに広がっている。明治
に入って、当地を訪れた尾崎紅葉がこの松を見て、『村
雨のマツ』と命名したため、以来人々は『御番所の松』
から『村雨のマツ』と呼ぶようになった。
 一日目の日程はこれら両津港周辺の散策で終わった。
宿は元の花街にあったものが少し小高い丘の上に移った比較的新しい「ホテルニュー
桂」というところだった。夕食にはシーズンのトビウオの刺身を特別に頼み、地ビー
ルと地酒を堪能した。
 
3. 佐渡の上半分(大佐渡)を巡る旅
 2日目は『大佐渡』と呼ばれる佐渡島の上(北方)半分を観光した。下(南方)半
分は因みに『小佐渡』と呼ばれ、これら両方を繋ぐ真ん中の平野部分が『国仲平野』
と呼ばれる土地の上米の獲れる穀倉地帯である。佐渡には良いコメと良い水があるた
め、美味い日本酒ができる。左利きにはまたとない旅先である。 
 
1) 最北端の二つ亀、大野亀
 大佐渡の右手本土側の海は内海府と呼ばれ、反対の左側日本海側を外海府と呼んで
いる。2日目は両津から真っ直ぐに内海府に沿って県道45号を限りなく北上し、海水
浴場で有名な二つ亀からトビシマカンゾウの自生地として5,6月のシーズンには黄
色一色に群生する大野亀に向かった。
大野亀
大野亀
 大野亀は独立した小島で、波打ち際から頂上(海抜167
m)まで一枚岩から出来ている日本中の三大巨岩の一つ
(地元のうたい文句では“one of Japan's three
largest rocks”)と言われる。地名の亀はアイヌ語の
『カムイ(神)』に通じる神聖な島を意味している。頂
上には石塔があり、航海の安全を守る竜神として信仰さ
れて来たため、訪れる人も頂上に向かったものだったが、
近年登山道が崩れて危険なため、立ち入りが禁止されて
しまった。因みに佐渡島は佐渡弥彦米山国定公園に属し、二つ亀と大野亀はミッシュ
ラン・グリーンガイド・ジャポンで二つ星として掲載され、海外にも名所として聞こ
えるようになった由である。
 
2) トキの森公園(公式の英語では“Toki-forrest Park”と呼ばれる)
 トキの資料展示とトキに触れ合えるプラザとして市営 サドッキー
サドッキー
の公園となっている。いま流行のマスコット縫い包み人
形としてサドッキー(“Sadocky”)が出迎えてくれた。
トキは日本の固有種であり、学名でも”Nipponia
Nippon”と呼ばれ、英語では“Japanese Crested Ibis”
と呼んでいる。因みに漢字では「鴇」もしくは「朱鷺」
と書く。かなりの数のトキが大きな金網の檻の中にいた
が、通路からは一番遠い奥の方に固まって羽を休めてお 
り、とても触れ合える雰囲気ではなかった。
 
3) 七浦海岸・夫婦(めおと)岩
 大佐渡の最南端にほど近く、相川の町より少し南下した辺りに岩礁の続く海岸があ
り、海中公園となっている七浦海岸がある。佐渡でも夕陽の景色の抜群の地であるそ
うだ。筆者はここで昼食を取るような時間を過ごしたので、その体験はできなかった。
七浦海岸・夫婦岩
七浦海岸・夫婦岩
この海岸には伊勢市二見が浦の夫婦岩の倍以上の大きさ
のあるという夫婦岩がある。ここには日本の神話に結び
付く話が伝えられている。イザナギ(夫)とイザナミ
(妻)が国生みのとき、7番目に佐渡を生んだとなって
いる。その一連の産後の疲れを癒すため、自分たちの分
身である夫婦岩を当地に作り、休暇の後他の島々を作っ
たとされている。また、この周辺の地を「高瀬(たこせ)」
と呼んでいるが、それはこの地が「高天原」と結ぶ瀬で
あったからとも言われている。
 昼食を取った『めおとドライブイン』はホテルも兼ねており、自分たちで塩を作り、
豆腐を作り、油揚げ、厚揚げ等まで自家製で賄い、商品として商っている。各種の塩
辛、干物、海藻の製造も勿論こなしている。
 
4) 尖閣湾、揚島遊園
 隆起した昔の海岸平野、いわゆる海岸段丘が日本海の 尖閣湾
尖閣湾
荒波に削られて生まれた断崖。岩肌が荒々しいのは流紋
岩という硬い火山岩のためである。筆者には当地の観光
では次の3つの事項が印象に残った。一つは海中透視船
(グラスボート)で揚島の海中公園の海の中を覗いて見
たこと。
二つ目は小さいながら日本には珍しいスルメイカの泳ぐ
水槽がある揚島水族館である。スルメイカは寿命が短く、
狭い水槽で飼うことは非常に難しいらしい。だから逆に他に例のない水族館の呼び物
として長く続けて行こうとして地元の漁師の絶大な協力の下毎日のように新鮮なイカ
「君の名は」の歌詞が刻まれた石碑
「君の名は」の歌詞が刻まれた石碑
を絶やさぬよう努力されている。
三つ目は当地が映画『君の名は』のロケ地であるため、
記念資料館で懐かしいその作品のスチール写真が見られ
たこと。撮影時と現在の例えば当時の吊り橋が恒久橋に
架け替えられているなどが分かったことである。原作者
の菊田一夫氏の有名な言葉や俳句や揮毫が石碑として眺
められたことであった。
 
 
5) 史跡佐渡金山の宗太夫坑コース見学
 相川町内の金山の宗太夫坑コースが主要な場所で当時行われていた作業を人形の動
きで展示している坑道をぐるっと一回り見学できた。なかなか臨場感があってジオラ
マ的な感激を味わった。ただ一つびっくりしたのは、この見世物が市営でも町営でも
なく、(株)ゴールデン佐渡という一般企業の運営であるということで、例えば後楽園
遊園地と違わないことだが、果たしてそれで良いものか、筆者には疑問だった。
 
6) 大佐渡スカイラインのドライブ
 全島の景観が一望でき、加茂湖や広大な国仲平野が眺 白雲台から眺める国仲平野
白雲台から眺める国仲平野
められて、佐渡島の規模が理解できてよかった。下り口
近くの白雲台交流センターから、自衛隊の最新のレーダ
ーが頂上に設置された妙見岳(1,042m)と佐渡島の最高
峰である金北山(1,172m)を眺めることが出来、本来な
ら登っていたであろうドンデン山(934m)から金北山へ
の稜線を恨めしく眺めたことだった。
 
 
4. 佐渡の下半分(小佐渡)を巡る旅
 3日目は午後3時のフェリーで佐渡を離れるまでのほぼ半日で下(南方)半分の小
佐渡の名勝地を訪ねた。
 
1) 真言宗 長谷(ちょうこく)寺
 807年に弘法大師により創肇された寺で、国指定の有形文化財や天然記念物の多い
名古刹だった。なかなか弁舌さわやかな住職の案内は面白かったが、檀家を持たない
寺で、老夫婦二人で広大な伽藍の維持はご苦労だと感じたし、建物や施設が相当に老
朽化して将来の存続を確立するためには、早期に補修管理に手を打つ必要があると思
った。
 
2) 日蓮宗 妙宣寺
五重塔
五重塔
 日光東照宮の五重塔を模した佐渡島で唯一五重塔(国
の重要文化財)を有する寺。旧竹田本間氏の居城跡に建
てられている。開基は順徳上皇に供奉した遠藤為盛と伝
えられ、配流された日蓮聖人に厚く仕えたと言われてい
る。日蓮聖人が自筆した法華経や直筆の書簡(共に国の
重要文化財に指定されている)等が見られる。
 
 
 
3) 小木の名物“たらい舟” たらい舟
たらい舟
 たらい舟は小木海岸で見られる独特の景観で、小木地
区のシンボルである主に岸辺の海藻やサザエなどの貝類
の漁に使われている。使う人は主に女性で、暇な時には
観光用に利用されている。操船もさせてもらえるが、意
外と難しいらしい。筆者はトライしようとも思わなかっ
た。
 
 
4) 佐渡歴史伝説館と佐々木象堂記念館見学
 佐渡ゆかりの人物と彼らに纏わる事象をコンピュータで動くロボット人形の演じる
場面と音楽による見世物を味わうことが出来る面白いミュージアムの佐渡歴史伝説館
はさすがに大金を投じただけののことはある大人も楽しめる質の高い出し物と見た。
配流された順徳上皇、日蓮聖人、世阿弥の物語は歴史の事実をはっきり再認識するも
のであった。中でも世阿弥が農民を救おうとして雨乞いの舞を舞う場面は能楽師がす
能を舞う世阿弥の人形
能を舞う世阿弥の人形
り足で舞う姿そっくりにコンピュータで動く人形の足の
進み方は見ていて胸がすく思いである。けだし秀逸では
あるまいか。因みに佐渡にはたくさんの能舞台が残され
ている。中でも本間家の能舞台は重要文化財に値するよ
うな雅なものである。世阿弥の影響力の大きさと土地の
人の教養レベルが推し量られる。筆者の想像は詮無(せ
んな)い事かも知れないが、配流された教養人と共に土
地の人々がレベルを合わせた生活を組み上げることに一
縷の光明を見出していたのかもしれない。 「瑞鳥」の棟飾り
「瑞鳥」の棟飾り
 また、この伝説館に併設されている佐渡出身の人間国
宝、日本一の鋳金家佐々木象堂記念館も素晴らしい。ま
さか佐渡島で皇居新宮殿に作家が制作した棟飾りの『瑞
鳥』を見られるとは予想だにしていなかったので思わぬ
拾い物をしたような大満足を憶えた。
 
 
 
5. 佐渡島の現状あれこれ
 見学箇所についての記述はこの辺りにして、少し佐渡についてのよろず話をしまし
ょうか。
 
1) 佐渡島に多い姓名
 日本には圧倒的に鈴木、田中、中村、山田、小林、中山等の姓名が上位を占めてい
る。しかし、佐渡島では配流の歴史も手伝ってか、これらの姓名はいずれも少なく、
多いのは1位に本間、2位は人偏の付いた仲川、3位が渡邊だそうである。
 
2) 佐渡への交通
 過去に一時期新潟から空路小型機で加茂湖の奥に位置する佐渡空港への道が開かれ
たが、現在は臨時便以外使われていない。その代り、高速のジェット・ホイル船が新
潟港から両津港のラインを55分で結ぶほか、寺泊港から赤泊港へ高速船が65分、直江
津港から小木港への船路に今春から高速フェリーが運航されて1時間40分で結んでい
る。北陸新幹線の開通以来直江津や寺泊からの北陸や京阪神の旅人の増加を当て込ん
でいたらしいが、あまり伸びず、今のところ期待外れの模様である。ただ、石川県と
金沢からの客は大分増えているようである。
 今回訪ねてみて、島内の交通事情は大分改善されて大型バスが行き交うことの出来
る路線が増えてはいるが、大佐渡の外海府の沿岸道路や小佐渡の前浜海岸(右側本土
寄り)に沿う道路は大型バスが入れないため、島を一周して大型バスが走れる状態に
はなっていない。奄美大島のように、一周道路が完走できるようになれば、もっとも
っと変化に富んだ観光コースが組めるのではないかと思った。    
                                     了
                          2015年8月30日(日) 記