話 題 『 旅 行 記 』最新
 
          話  題  一  覧
2015. 8.16 初めて奄美大島を訪ねて           投稿;清水有道
2015. 8. 2 西九州の六島を駆け巡る           投稿;清水有道
2015. 7.19 九寨溝、黄龍、峨眉山、楽山大仏への旅    投稿;清水有道
2015. 5.24 八丈島を旅する               投稿;清水有道
 
          話  題  『 旅 行 記 』
2015. 8.16 清水 初めて奄美大島を訪ねて
 
初めて奄美大島を訪ねて 横浜市 清水 有道
 
1. はじめに
 学生時代に真剣に蝶を追いかけていた時に、何回か奄美群島の徳之島に行くチャン
スが有り、実際2度も3度も計画しながら結局は行けずに終わった。今回初めて奄美
大島一島だけれども訪れることが出来た。旅を終えての筆者の率直な印象は、想像以
上に自然が手付かずの島であること、かなり不便な生活を長期間強いられながら現在
までローカル色を保ち、日本の九州、四国などの本島や沖縄とも一味違った独特な生
活習慣を受け継いで来たことかと感心した。よく言えば俗化されていない魅力、少し
厳しく評価するなら、観光はこれから始まると言えようか。やっと官が主体となって
奄美を広報・宣伝する公共施設が出来て、それらを訪ねることにより、実際の姿に接
する道筋が得られるというところまで来た。また、島内を海岸に沿って一周する道も
幾つかのトンネルが出来て、直線化し、時間短縮と大型バスが擦れ違える機が熟した
と言えよう。 
 ただ一つ驚いたのは、昨今の隣国中国の海洋進出、中国漁船の赤珊瑚密漁等の対策
と沖縄の米軍基地の一部を普天間に移動させる問題のもつれ等で、既にわが国の海上
自衛隊は近未来の緊急時に備えて、航空母艦、潜水艦等を配備し、自衛隊の家族を含
め2,500人位が既に駐屯していると聞かされたことだ。場所は南隣の加計呂麻島に面す
る瀬戸内町のようだ。ただし、旅行中公式の場では一切この話は説明されなかった。
島の住民は密かに知るところで、住民が増えれば、学校の他公共の施設の拡充がもた
らされ、商店等も増えて、買い物も便利になり、消費生活にも計画性が持てると一様
に喜んでいると伝え聞いた。筆者が怠慢で聞き漏らしているのか、余計な刺激を与え
ぬように緘口令が敷かれていて報道の対象にされずに進められていることなのか、そ
の辺り筆者にはもとより良く分からないが、当然必要な処置だと思いつつも、何処か
空恐ろしい気持ちも禁じえなかった。
 
2. 奄美大島の概要
 奄美大島は、形状から見れば、琵琶湖を丁度南北に逆さまにした格好で、面積の
12.52平方キロも似ている。大きさは日本の本土を構成する四島(北海道、本州、四国、
九州)と沖縄本島および北方の島々を除いて、日本が実効支配している島の中では、
佐渡島に次いで第二の大きさを有する。年間を通して非常に雨が多く、日照時間では
日本一短い島と言われる。南部の瀬戸内町と加計呂麻島の間の大島海峡を挟んで沿岸
や最高峰の湯湾岳(694m)は奄美群島国定公園の一部に入っている。現在進められて
いる奄美群島のユネスコ世界遺産登録申請に並行して国定公園から国立公園への昇格
申請も進められていて、現地は活気づいていた。亜熱帯に属することもあり、奄美大
島には雪は降らず、過去に二度前述の湯湾岳や2番目に高い山、油井岳(484m)の山
頂付近にわずかに残雪を確認した記録があると言う。2010年には記録的な豪雨が襲来
し、3名が死亡している。
 奄美大島は鹿児島県に属し、奄美市を除いては大島郡に帰属する。現在は奄美市
{市町村合併の結果、2006年3月20日に旧名瀬(ナセ)市に笠利(カサリ)町、住用
(スミヨウ)町が合併して誕生した}、龍郷(タツゴウ)町、瀬戸内町、大和(ヤマ
ト)村、宇検(ウケン)村の1市2町2村から構成されている。
 全島の約8割が森林で、主に椎の木に熱帯の松、ヒカ ヒカゲヘゴ
ヒカゲヘゴ
ゲヘゴやソテツが生い茂り、河川の河口にはマングロー
ブの林がある。本土の松とは違う松の木も多いが、近年
松くい虫の被害が多く、立ち枯れた木が無残な姿を曝し
ている。森には日本国指定の特別天然記念物アマミノク
ロウサギやルリカケス(鹿児島県の県鳥)、オーストン
オオアカゲラ、オオトラツグミ等8種の天然記念物の動
物が住んでいる。
 旧薩摩藩に組み込まれてから、従来の米作は一切禁止され、代わりに換金効果の大
きい黒砂糖生産に注力するよう指導され、その結果、奄美黒砂糖焼酎生産も島の大事
な産業となっている。現在も減反政策の後米作はほとんど行われていない。漁業は船
団を組んで行う大掛かりのものはなく、近年は真珠と共に、マグロ、クルマエビ、タ
イの養殖に力が入れられおり、盆・暮れ時期に合わせ、本土に出荷されている由であ
る。
 民謡はいわゆるシマ唄と呼ばれ、熟達した歌手は『唄者』と呼ばれる。唄者が経営
する居酒屋や小料理屋が大受けしているようである。二日目の夕食を取った宿の近く
の『郷土料理 吟亭』の女将は唄者の第一人者で、その島唄は見事だった。客全員に
太鼓で拍子の取りかたを教え、振りを教えて、踊りまで伴わせての独演はさぞ気持ち
の良かったことだろうと思った。
 島全体を通して、仏教寺院は少なく、集落ごとに複数の神社が見られるが、江戸時
代の薩摩藩政下で土着の神信仰から移行したものが殆どで、本土の神社とは異なるも
のである。島の北部にはカトリック信者が多く、教会の建物も多く見られる。人口に
対するカトリック信者の割合は長崎県よりも多く、白い十字架の立ち並ぶ共同墓地が
見られる等筆者にはかなり異様な景色に写った。
 
3. 奄美大島最北端笠利崎、あやまる岬を訪ね、ハブのショーを見て宿へ
 一人で参加できる2泊3日のパック旅行を利用して指定の東京羽田空港から昼過ぎ
の一日一本の日本航空直行便で奄美空港に午後3時過ぎに着く。すぐ空港から3日間
使用する観光バスで島の最北端の2か所を訪ね、奄美市名瀬地区にある宿に行く途中、
民間の有限会社が見せているハブのショーを見学した。
 <笠利崎>
1) 笠利崎灯台
 青い海と空に浮かんだように見える純白の灯台は美しかった。昭和37年3月に建立
された。
2) 夢をかなえるカメ
夢をかなえるカメ
夢をかなえるカメ
 いろいろな部分に触るとご利益があると言われるカメ
の像があり、頭も甲羅、手、足すべてが撫でられて黒光
りしていた。残念ながらこの像の由来や故事来歴は聞き
出せなかった。
 
 
 
 
3) 土盛(トモリ)海岸 土盛海岸
土盛海岸
 笠利崎から眺められる海岸が、奄美大島で一番美しい
と言われる土盛海岸である。白い砂浜を太陽光線により
変わるエメラルド・グリーンの海の対比が美しかった。
 
 
 
 
 <あやまる岬>
 丸く盛り上がった地形があや織りの手毬に似ているところから名付けられた。
あやまる岬
あやまる岬
あやまる岬の海岸
あやまる岬の海岸
太平洋に突き出た岬で、珊
瑚礁の海の色が2,3色違
って見られた。
 入り口の駐車場の近くに   
「ソテツとアダンのジャン
グル」があり、砂地に群生
しているソテツもアダンも
規模としては奄美一と言わ
れる。
 <原ハブ屋奄美>
 かつて沖縄で見られたマングースとの格闘ショーは今はなく、軽妙な話術を交えた
ハブ使いのショーは楽しかった。 ハブ
ハブ
 奄美大島は喜界島、大島、加計呂麻島、徳之島、沖永
良部島、与論島、請島、与路島、江仁屋離島、枝手久島、
須子茂離、久離などから構成されているが、ハブが棲息
しているのは、大島と徳之島の2島だけだそうである。   
 ハブは珊瑚礁から出来た島には石灰岩が嫌いなので、
絶対に住めないのだそうである。従って、ハブがいるか、
いないかで、島の生い立ちが分かると言われる。
 
4. 二日目は、油井岳展望台、黒潮の森・マングローブ・パーク、
 奄美大島 開運酒造、嶺山公園、奄美野生生物保護センター、大浜海洋公園、
 奄美海洋展示館を訪ねる。
<油井岳展望台>
 奄美大島で二番目の高さを持つ油井岳山頂(484m)は、特に瀬戸内町で直ぐ真下に
隣接する大島海峡を隔てて加計呂麻島を眺める絶好の場所として展望台となっている
が、生憎訪ねた当日は山頂付近が濃いガスの中で、視界は全く利かず、残念ながら絶
景を見損なった。
<黒潮の森・マングローブ・パーク>
 奄美大島で唯一「道の駅奄美大島住用(スミヨウ)」として登録されている。マン
カヤックの練習風景
カヤックの練習風景
ノボタン
ノボタン
グローブ館を中心に背後に
シーカヤック試乗地があり、
筆者は参加しなかったが、
希望でマングローブのジャ
ングルの中の水路でカヤッ
クを操り、探検気分に浸る
ことが出来る。筆者は代わ
りに公園の中に咲き競って
いる樹木や野草の花を愛でて歩いた。熱帯の多年性野草ノアサガオ、紫色の花の美し
いノボタン、シロノセンダングサが多く見られた。
<奄美大島開運酒造(株)>
 奄美大島の主峰湯湾岳の伏流水を使った黒糖焼酎の造り酒屋。貯蔵タンクに取り付
けたスピーカーからクラシック音楽を流し、音響熟成させることで女性にも飲みやす
いまろやかな口当たりの良い焼酎にしている。ブランドは『れんと(25度)』、『紅
さんご(40度)』。
<嶺山(ミネヤマ)公園> 嶺山公園からの海岸線
嶺山公園からの海岸線
 壇ノ浦の源平合戦で敗れた平家の敗走兵が名瀬に陣を
張ったと言われているが、源氏の追手を見張るため、当
地に見張り番所を設けた。現在も航行する船舶に光を送
る灯台が建てられている。海岸線を眺める絶好の展望所
になっている。
 
 
<野生生物保護センター>
 環境省の広報館として、奄美の野生生物の保護のPRを標本、写真、資料で行ってい
る。入園無料である。
ハブを退治するために海外からマングースを移入して沖縄、奄美に放ったが、ハブを
殺すよりも大切なアマミノクロウサギやイリオモテヤマネコを食い殺す被害の方が大
野生生物保護センター正面の   ステンドグラス
野生生物保護センター正面の   ステンドグラス
きいことが判明し、現在は環境省の指導の下に現地に奄
美マングースバスターズが平成17年に結成され、マング
ースの捕獲とマングースのために減少した在来動物の回
復状況の調査を行っている。また、奄美においては、犬
や猫も野生化して希少動物を捕食することなきよう飼い
主は犬や猫に鑑札を付けること、子供を必要としない場
合にはメスには去勢手術を受けさせることを条例により
徹底している由である。
<大浜海浜公園> 大浜海浜公園
大浜海浜公園
奄美海洋展示館
奄美海洋展示館
 さまざまな亜熱帯植物が
園内に茂っている。1500本
ほど植えられているハイビ
スカスの花が盛りで綺麗だ
った。
<奄美海洋展示館>
 大浜海浜公園内にある奄
美諸島の海洋生物を見せる水族館、資料展示館。
 
5. 最終日は約半日大島紬村公園、浜千鳥館、鶏飯ひさ倉、奄美パーク・田中
一村記念美術館を訪問し帰京した。
<大島紬村公園>
奄美大島紬村
奄美大島紬村
 染めから織りまで大島紬が出来上がるまでの全工程が
見学できた。工程の中の泥染めがユニークで、純白の絹
糸が何回もの泥染めで、次第に黒に染め上げられる工程
別の色見本が並べられていて勉強になった。織手は年々
減り、将来に繋げることがかなり難しくなっているよう
である。
 
 
<浜千鳥館{奄美大島酒造(株)}>
 大島の名水「じょうごの水」を求めて龍郷町に工場を構えた黒糖焼酎の老舗。筆者
も試飲を楽しんだ。3年連続で海外の全てのリカー・メーカーを抑えて、ベルギーの
モンド・セレクションで最高金賞を受賞した『高倉(40度)』のほか、『浜千鳥の詩
(25度)』と『じょうご』が有名ブランド。奄美諸島の世界遺産推進の応援企業とし
ても活躍し、島をリードしている。
<『鶏飯ひさ倉』> 鶏飯のセット
鶏飯のセット
 地元で評判の鶏飯の専門店である。鶏飯とはどんぶり
にご飯をよそい、鶏肉ささみと千切りにした薄焼き卵、
海苔、野菜などをご飯の上にトッピングし、その上に特
殊な温かいスープを掛けて食べる土地のお茶漬けだと言
う。今上天皇が皇太子のときに、当地で召し上がられ、
「大変美味しい」とおっしゃったとかで、本土からの観
光客は必ず食べさせられて帰るとか・・・。
<奄美パーク・田中一村記念美術館>
 黒潮の流れの中で育まれた奄美の自然、歴史、文化、産業などを分かり易く紹介し、
付属の田中一村記念美術館では、千葉県から奄美大島に移り住み、奄美の樹木や花、
鳥や蝶などを織り込んだ日本画を制作し続け、大島に没した日本画家田村一村の作品
や同画伯に関わる写真や資料を展示している。筆者は数年前に千葉市美術館での同画
伯の回顧展で殆どの作品は観賞済みであるが、奄美大島を訪ねた後で改めてゆっくり
眺めてみると、いろいろ新しい発見をしたことだった。
                                     了
                           2015年7月12日(日) 記
 
2015. 8. 2 清水 西九州の六島を駆け巡る
 
西九州の六島を駆け巡る 横浜市 清水 有道
 
1. はじめに
 島巡りの旅も何弾目になるものやら、確と数えているわけでもないので、どうでも
良いことだが、日本を中心として著名な文学作品や評論に登場し、絵画を通して目に
した島々を少しずつ順番に訪ね歩くことを始めて、早いもので10年以上が過ぎた。 
優先順序を決めて計画を立てるが、勤めの関係で主として土・日・月の3日しか続け
て自宅兼事務所を開けることが出来ないので、常に幾つも順番が入れ替わる。ある程
度の事前予習は必要だが、知らないことに突然出会い、強い印象で心に留め、自分の
至らなさを反省する場合にも、一種特有な旅の経験を一層楽しく自分のものにするこ
とが出来るように感じる。  
 さて、今回の西九州の六島は長崎県と熊本県に跨るところで、具体的には生月島
(イキツキシマ)、平戸島、大島、天草下島、天草上島に大矢野島である。今日では
これらの島々は殆ど立派な橋で結ばれているが、唯一島原半島の口之津から天草下島
の鬼池港まではフェリーで渡らなければならない。
 今回の旅行目的は大きく括れば、以下の5点になろうか。
(1) 歴史とロマンの町平戸を実体験する、
(2) 近代日本の発祥に大きな貢献をしたグラバーの影響力を再認識する、
(3) ポルトガル人が伝えたカステラの製法を今に踏襲している杉谷本舗とは何か、
(4) ユネスコ世界遺産登録候補の『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』構成資
   産の一部をなす『天草の崎津集落』をこの目で見ること、そして
(5) 平成2年(1990年)から7年(1995年)にかけての火山活動と噴火によって、
   島原半島の主峰普賢岳はどのように変わり、島原半島の山並みの景観はどのよ
   うになっているかを見定めることである。
 以下これらの目的を織り込みつつ、巡った六島を歩いた順に三つに区分して書いて
みよう。
 
2. 有田を経て平戸島と生月島へ
 6月5日(金)の正午過ぎに東京羽田空港から全日空の直行便で有田佐賀空港に入
り、パック旅行の観光バスに揺られて平戸島に向かった。最初に有田市内のテーマパ
ーク『ポーセリン・パーク』に寄った。以前にはなかっ 有田ポーセリン・パーク
有田ポーセリン・パーク
た新しい施設で、驚いたことに日本の古伊万里や有田焼
が大きな影響を与えたドイツのマイセンにあるツヴィン
ガ−宮殿を再現してテーマパークのシンボルとし、
“Arita Porcelain Display Room”と称して、初期伊万
里から古伊万里、柿右衛門窯、鍋島藩窯様式をはじめ
として、江戸から明治の最盛期までの作品を世界万博へ
の出品物も含めて展示されていて、400年に及ぶ有田焼の
名品を一堂に観賞できたのは収穫だった。
のんのこ黒(The
のんのこ黒(The SAGA)と陶都有田
 もう一つ筆者が嬉しかったのは、このパークに隣接し
ている佐賀を代表する麦と芋焼酎の名舗「宗政酒造(株)」
の製品『陶都有田(本格麦焼酎43度)』と『のんのこ黒
(The SAGA)(本格麦焼酎25度)』をこのパーク内のみ
やげ屋『蔵』にて大きなスペースを取って販売し、試飲
させてくれたことだ。勿論これら二品は土産に持ち帰っ
たばかりでなく、帰宅後改めて通販で取り寄せて毎日愛
飲している。
 次に佐世保市を通過して、九州本島内の旧田平町(市町村合併後は平戸市田平)の
『たびら昆虫自然園』と『田平天主堂』に寄り平戸大橋を渡って平戸島に入った。
上記の世界遺産候補の長崎の教会群とキリスト教関連遺 田平天主堂
田平天主堂
産の対象になるものとして平戸市内では唯一田平天主堂
のみ訪ねたが、他に平戸の聖地と集落として春日集落、
安満岳および中江ノ島がある。
 田平天主堂はレンガ造りの重厚なロマネスク様式の教
会で、信者の手によって8年の歳月を掛けて、大正7
(1918)年に平戸瀬戸を見下ろす丘の上に建てられたも
のである。教会建築の棟梁として幾つもの教会を完成さ
せた鉄川与助氏の代表作の一つである。平成15(2003)年に国の重要文化財に指定さ
れている。
塩俵柱状節理断崖
塩俵柱状節理断崖
 平戸島では『平戸城』や『ザビエル記念教会』を車窓
から眺めて、真っ直ぐに生月大橋を渡って生月島に入っ
た。生月島は新第三紀層(約200万年前)の上に松浦玄武
岩(約800万年前)が重なった溶岩台地の島で、玄武岩が
垂直に柱状に並んだものが『柱状節理』と呼ばれるもの
で、『塩俵柱状節理断崖』はその代表的なものである。
断崖は南北に500m、高さ50mの規模。玄海の荒波が刻んだ
広大な彫刻であった。
 生月島では他に、生月魚籃観音を訪ねた。この観音は国の昭和54(1979)年の予算
で生月大橋の架橋が決定した際、生月島の新しい象徴として地元の観光開発協会が建
立し、昭和55(1980)年に 生月魚籃観音
生月魚籃観音
御製の碑と生月大橋
御製の碑と生月大橋
生月町に寄贈したものであ
る。因みに、この教会の当
時の理事長は総理大臣をも
経験した鈴木善幸氏である。
 生月大橋の生月島側の袂
には平成14(2002)年佐世
保市で開催された『全国豊
かな海づくり大会』に臨席された天皇皇后両殿下が視察に見え、天皇がこの橋を渡ら
れて詠まれた御製“めぐり来て、橋に近づく、漁船、来る海人の、手を振るが見ゆ”
を彫り込んだ記念碑が建っていた。
 一日目の宿は平戸島東海岸の北部にある千里ヶ浜温泉のホテル『蘭風(ランプウ)』
であった。たくさんの海の幸を堪能した。
 
3. 九十九島、大島、長崎から雲仙・島原へ
 二日目は、平戸大橋を渡り、前日の道を佐世保市まで戻り、佐世保重工業(株)
(SSK)や米海軍の基地を車窓から眺め、西海国立公園九十九島を展望所から眺めるた
めに、『展海峰』という山の頂の展望所(標高165m)を訪ねた。快晴の中、湾を埋め
田中穂積の像
田中穂積の像
「美しき天然」の顕彰碑
「美しき天然」の顕彰碑
るように真下に点在する島
々の鳥瞰風景を楽しんだ。
この展望台には佐世保の生
んだ作曲家田中穂積の像と
彼の作品で日本初のヨナ抜
き(4番と7番即ちレ、ソ
の音階のないワルツ曲『美
しい天然』の“そらにさえ
ずるとりのこえ”の楽譜を刻んだ顕彰碑が建てられていた。
 九十九島巡りの超モダンな遊覧船がつい最近就航し、 未来号
未来号
その名も『未来号』と名付けられている。遊覧船の発着
する波止場は『九十九島パール・リゾート』と呼ばれ、
小さいながら水族館や展示場、食堂街を有する遊興施設
となっており、ちょうど今年が西海国立公園に指定され
て60周年を迎えるのを記念して正面左手芝生の斜面に大
きなベゴニアの花の植え込みで作られた60周年の文字が
飾られていた。
 続いて車窓から『ハウステンボス遊園地』を眺めながら西海橋を渡って、西海市に
入り、大島大橋を渡って大島に入った。大島に入ったところにある『大島造船所(株)』
では筆者の昔の舶用の仕事を思い出して懐かしかった。大島では『大島酒造(株)』一
箇所だけ休憩を兼ねて寄った。  
 道はその後南下して、長崎市に入り、『グラバー園』と『大浦天主堂』を見学した。
グラバー園ではちょうど長崎港に入港中の超巨大豪華客船が湾を覆い隠してしまい港
の風景も三菱重工業(株)長崎造船所も眺められなかった。 
 スコットランド人、トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover 1838〜
1911)は長崎開港と同時に来日、時に21歳、3年後にはグラバー商会を設立、73歳で
生涯を閉じるまで長崎を舞台に、造船、採炭、製茶と貿易を通して、日本の近代化に
貢献した。キリンビールの創始者の一人としても有名である。イングランド人、ロバ
ート・ネール・ウオーカー(Robert Neill Walker 1851〜1941)は蒸気船の船長とし
て来日し、わが国の海運業の振興に貢献したが、彼の兄ウイルソン・ウオーカー(Wil-
son Walker)はグラバーと共にジャパン・ブルワリ・カンパニー(Japan Brewery Comp-
any)を創設したが、その会社が麒麟麦酒(株)の前身となったのでした。
 現在のグラバー園は、外国人の居留地であった丘に建つグラバー邸の他、その当時
の洋館をそのまま生かすとともに、長崎市内に点在していた六つの洋館を移築、復元
して計9棟の建物から構成されている。この中には、旧オルト住宅(イングランド人、
ウイリアム・オルトはオルト商会を設立、日本茶を世界に広めた)、旧リンガー住宅
(イングランド人、フレデリック・リンガーはグラバー商会に勤務の後、リンガー商
会を設立して独立、貿易、ホテル業、製茶、製粉、上水道、発電など幅広い分野で活
躍した。また、彼は外国人と日本人の交流の場としての『内外倶楽部』を設立してい
グラバー邸
グラバー邸
る)が含められているが、グラバー邸と共に、国の重要
文化財の指定を受けている。この原稿を書いているとき、
偶然にも7月5日(日)ドイツ・ボンで開かれていたユ
ネスコの世界遺産委員会は日本から申請されていた「明
治日本の産業革命遺産――製鉄・製鋼、造船、石炭産業
――」を全会一致で世界文化遺産への登録を決定したが、
その中に旧グラバー住宅が入っている。誠にタイミング
の良い時に訪れたものだと思った。
 『グラバー園』も『大浦天主堂』も超大型客船の客と思われる中国人の団体でごっ
た返して、日本人はその中に2〜3人まばらに見えるような有様で、正直もう少しど
うにかならないものかと嫌気が差した。
 『大浦天主堂』はその関連施設と共に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産を世界
遺産へ」の来年のわが国の世界遺産申請の中心をなす施設である。この天主堂の正式
名称は、『日本二十六聖殉教者天主堂』と言い、慶長2 大浦天主堂
大浦天主堂
(1597)年に日本で最初に殉教した日本26聖人たちに捧
げられた教会であり、日本に現存する最古の木造教会で、
フランス人神父の指導で日本人大工が手掛けた聖堂は、
和洋折衷の空間を持っている。屋根は日本瓦、レンガ壁
の外側を漆喰で塗っている。元治元(1864)年に竣工し
た。昭和8(1933)年に国宝に指定されている。昭和20
(1945)年の原爆投下により酷い損害を受けたが、昭和
27(1952)年に修復が完了し、翌昭和28(1953)年に改めて国宝に再指定された。
 長崎訪問の後は、宿を取る雲仙に向かう途中諫早で昔ポルトガル人が日本に伝えた
カステラを今でも忠実にその通り造っているという杉谷本舗に寄って、その味の違い
を吟味した。正直どのくらい違うのか良く分からなかったが、多分原材料が昔通りで、
新しいものを足していないということなのでしょう。
 雲仙では宿に着いて一息つく間もなく付近の地獄を一巡り歩いた。しかし、別府、
那須、登別等の地獄に比べれば、規模は小さく、昔から言われているほどのものでは
ないという感じがした。むしろ、雲仙温泉の直前で雲仙山麓に広がる見事な棚田の中
に大きな火山岩の噴石が点在している景色が往時の噴火のすごさを物語っているとの
印象を強くした。島原半島の主峰普賢岳は平成2(1990)〜平成7(1995)年にかけ
ての火山活動と噴火によって新しく誕生した平成新山(1483m)の方が高くなり、普
賢岳(1359m)と並んだ山並みは、以前の姿とは確かに趣を異にしていると思った。
宿泊は雲仙湯守の宿、湯元ホテルだったが、この宿は歌人吉井 勇が逗留したところ
で、玄関前に、「雲仙の 湯守の宿に ひと夜寝て 歌など思う 旅疲れかも」の歌
碑が残されていた。
 
4.天草下島、天草上島に大矢野島
 3日目は天草下島、天草上島に大矢野島を訪ねた後、熊本城で新装成った本丸御殿
と数寄屋丸にも立ち寄ってから帰京した。  
 フェリー乗船ということもあり、ホテルを少し早めに出立し、口之津港に向かう。
途中車窓から旧原城址が眺められた。口之津は島原半島の最南端に近く、向かい合う
熊本県天草市の鬼池港の間の早崎瀬戸を渡った。この辺りはイルカが多く出没するた
め、漁船がイルカ・ウオッチングのために駆り出されており、旅行社が多く利用して
いるようである。船の出入りする港には鯉のぼりならぬイルカの風船を高い棒の上に
泳がせた“イルカのぼり”があちこちに見られた。鬼池港からは真っ直ぐに崎津天主
堂に向かった。
崎津天主堂
崎津天主堂
 『崎津天主堂』も田平天主堂のところで述べたように、
長崎の建築家鉄川与助の作品である。ゴシック様式の教
会で昭和9(1934)年に建てられた。教会内部は国内で
も珍しい畳敷きになっている。また、建てられた土地が、
キリシタン取締りの「踏絵」が行われた庄屋屋敷跡が選
ばれていること、そして踏絵が行われた場所に祭壇が配
置されていると言う。崎津の集落は天草灘に面した小さ
な入り江に開けた漁港に開けたところで、今でも当時の
網元の旧家が残されている。
 この土地には約220年前に当時の琉球王から伝授されて今日に伝わる“幻のようか
ん”とも呼ばれる『杉ようかん』があり、教会近くの店で商われている。名前にはよ
うかんと名付けられているが、実際には現在「大福」と呼ばれる菓子である。餅を延
ばして餡を包み、保存と香りを付けるために杉の葉を添えて包んであり、全くプリミ
ティヴな食べ物である。遠路はるばる同教会を訪ねる人のそれは楽しみとなったと言
われている。
 次に天草上島に入り、天草パールラインと呼ばれる風光明媚な景色を楽しみ、天草
松島と呼ばれる東北の松島を思わせる小さな島々の中を「日本の道百選」にも選ばれ
ている天草五橋を渡って、六島の内の最後の島大矢野島を訪ねた。 天草の島々には
土地の救世主天草四郎の像が全部で5基建てられているようだが、車窓から眺めるも
のも含めて全てを眺めた。その内の一つが立っている天草パール・センターに立ち寄
った。像と同じ場所に、以下の与謝野寛・晶子夫妻が天草で詠んだ句碑があった。
 “天草の 島のあひだの 夕焼けに 
             船もその身も 染みて人釣る”(与謝野 寛)
 “天草の 松原ここに 浮かぶなり
             西海のいろ むらさきにして“(与謝野晶子)
                     昭和8(1933)年8月 『天草詠草』
 六島を巡る旅はパール・センターで打上となったが、阿蘇熊本空港から帰京する前
に、最近復元建造された熊本城の二つの建物を訪ねた。
 一つは『本丸御殿』であり、これは平成15(2003)年に着工し、平成20(2008)年
に完成したものである。この御殿の見どころは格式の高い『昭君(ショウクン)之間』
で、漆塗りの折上げ格天井、一つの格間が約90cm四方に天井画として金箔の上にいろ
いろな植物の絵が描かれているのが見事である。第二に幾つもの大広間で、60畳の
『鶴之間』、35畳の『梅之間』、28畳の『櫻之間』、24畳の『桐之間』が連なる大広
間で、圧倒される荘厳な雰囲気が味わえる。第三に、他の城に類例を見ない『闇(ク
ラガ)り通路』である。本丸御殿が二つの石垣を跨ぐように建てられたので、地下通
路を持つ構造になったものである。この通路が熊本城の正式な入口となっている。訪
問客はさぞ気味悪かったことだろうと思った。
 もう一つの建物は、『数寄屋丸』で、特に2階の書院造りの座敷『御広間(オンヒ
ロマ)』が珍しい。数寄屋丸は秀吉の大阪城の『山里丸』の流れを引くものと言われ、
熊本城における文化的遊興の空間であったらしい。茶会、能、連歌などの宴が催され、
来客の接待に使われた。平成元(1989)年に復元されたもの。
 
 梅雨明け前にも拘わらず、出入り3日間一度も雨傘の世話になることもなく、全行
程を予定通り訪ね歩くことが出来たのは何より幸せなことであった。今回の島巡りは
膨大な時空に広がる文化・文明に浸ることの出来た旅であった。数少ない実りの多い
旅として一生の記憶に残ることであろう。                  了
                           2015年7月7日(土) 記
 
2015. 7.19 清水 九寨溝、黄龍、峨眉山、楽山大仏への旅
 
九寨溝、黄龍、峨眉山、楽山大仏への旅 横浜市 清水 有道
 
1. はじめに
 2年ほど前に全日空が成田空港から成都への直行便を開設したが、往復この便を利
用した「九寨溝、黄龍、楽山への8日間の旅」に参加した。過去に2,3回これらの
地を訪ねる旅を計画したが、当時日本からの航空路は北京か上海を経由して乗り換え
る便しかなく、日数が嵩むので躊躇していて、挙句の果てに2008年5月12日に成都か
ら九寨溝に向かう途中の?川県(注1:ブンセンケン)を震源として四川省を襲った
マグ二チュード8.0の直下型大地震で、成都から九寨溝に向かう長江の支流の一つで
ある岷江(ミンコウ)の両側の切り立った山肌からの地すべりや落石で埋まったり、
川がせき止められて湖と化したところに水没したりで、川沿いの集落は壊滅状態とな
り、九寨溝への道も完膚(カンプ)なきまでにずたずたに破壊され、2009年丸一年か
けて修復工事が行われ、その間は観光どころではなく、実現は今日に至ってしまった。
この大地震では約8万7千人の死者・行方不明者を出した。
 
 (HP担当 注1:「ブン」は、「さんずい」に「文」。 HPで表示不可能な文字です。
  Unicode:6C76)
 
2.四川省、成都市とはどういうところ?
 日本からの旅行者に向けて四川省の特徴を説明する時には、以下の5項目が挙げら
れるようである。
(1)中国の中でも一番の美人の産地だが、女性は強く、“かかあ天下”の郷として
   有名である。
(2)『三国志』の舞台。(後述の『武候祠』を参照)。
(3)パンダの故郷。中国では四川省にのみパンダが棲息している。今でも100頭以
   上は自然に生存していると思われているが、2008年の四川大地震の後大分個体
   数が減ったと考えられている。
(4)北京の『京劇』、上海の『雑戯(劇)』と共に中国の三大伝統芸能に数えられ
   る成都の『川劇』と言われる変面劇が有名。
(5)四川料理の代表と言われる痲婆豆腐の発祥の地である。発明した痲婆さんの始
   めた店が今も続いている。筆者もその店で痲婆豆腐を賞味したが相当に辛い。
   但し、トウガラシが辛いのではなく、四川省の名産品の一つである山椒の実を
   挽いた粉が、口の周りや唇や舌を痺れさせてしまうことから感じる辛さのよう
   だ。痲婆豆腐を発明した痲婆さんの「婆」の字の現在の中国簡略文字では「浦」
   の字の下に「女」を書いている。筆者には日本語の発音により近くなったよう
   に感じた。
 四川省には自然の竹が多く、筍も名物の一つであるし、河川には鯰がたくさんおり、
豆腐との料理が名物で、専門店が街道両側の看板を賑わしていた。
 中国を代表する重工業都市「重慶」は外国人でも皆よく知っている。近年では、広
州、武漢、上海等と並んで四川省の西部開発地区は海外の自動車メーカーとの合弁企
業が多い。ドイツのベンツ、BMW、日本のトヨタ、日産、マツダや韓国の現代の工
場が軒を連ねている。
 また、四川省はチベットに向かう入り口に当たり、約10万人のチベット族が住んで
おり、九寨溝の名前の起こりともなった九つの村落も全てチベット族の村であった。
 成都はチョンドウ、英語ではChangdu、四川省の省都で、人口は東京より2百万人多
く、北京、上海、広州に次いで中国第4番の大都市である。古くから「天府の国」と
か、唐の時代には蜀錦を産出するため「錦官城」、「錦城」とか、芙蓉の花を市花と
するところから「芙蓉城」、「蓉城」の別称を持つて呼ばれたりした。「成都」の命
名の起源は秦の始皇帝が「将来中国の首都になれる、あるいはなってもらわねばなら
ない都市だと言ったとか、言わなかったとか、伝説的な話が伝わっている。中国西南
部の要衝で、西部には5000メートルを超す龍門山脈が屹立し、長江の支流岷江の支流
錦江(キンコウ)に沿っている。
 四川省は面積では日本全体より大きく、中国全体の中央に位置し、中国の農業生産
の中心地でもあり、成都から九寨溝に向かう街道の両側には、現在農業改良区として、
国を挙げて農業改革を目指すスローガンを掲げた看板が目立ち、ワイン製造用の葡萄
畑がビニール・ハウスとして連なっていた。米専用の田圃が続くところでは生え揃っ
た苗代と田植えの終ったばかりの水田が続いていた。これら農業の繁栄は後述する
2000年に世界遺産に登録された2300年前の戦国時代、秦の蜀都大守により建造された
巨大な水利灌漑用の施設「都江堰(トコウエン)」が現役で活躍し、岷江の洪水を防
ぎ、広大な成都平原の田畑を潤おす水路により齎(もたら)されたものである。
 
3.新緑と水の色が輝く九寨溝と黄龍
 3−1 九寨溝(Jiuzhaigou)
 中国語で「溝」とは日本の「峡谷」を意味する言葉で、新しい中国の簡略文字では
「?」(注2:「さんずい」に「勾」。)と表している。九寨溝は四川省の州都、成
都から450km離れた北部に位置している。「寨」は日本で言う「村」で、峡谷に沿って
チベット族の九つの村落があったために九寨溝の名前が付けられた。
 九寨溝は全世界の世界遺産の中から世界中でのベスト3に選ばれている。因みに、
ベストワンはペルーのマチュピチュ、2番はフランスのモンサンミッシェルだそうで
ある。
 峡谷の一番下流の九寨溝口から川上に向かって二股に分かれるまでの樹正群海溝と
二股の右側の日則溝と左側の則査窪溝の三つに分かれる 九寨溝マップ
九寨溝マップ
渓谷に沿って、100以上の湖沼が散らばり、一帯のカルス
ト地形が湖沼の水に微妙な色彩を与え、鮮やかな景勝地
となっている。1992年に後述する黄龍と共に世界遺産に
登録された。現在は九寨溝入口までしか一般の車は入れ
ず、三つの渓谷に沿った道には、内部だけを走る公共の
低公害型バスを利用して観光するが、団体は貸し切りで、
好きなコースで巡ることが許されている。貸し切りのた
め余計な荷物を持つことなく、手軽に観光が楽しめる仕組みになっているのが良い。
遊歩道も整備され、ゴミが全くないほど清掃が行き届いていた。
長 海
長 海
五彩池
五彩池
 左側の峡谷、則査窪溝の
一番奥にある九寨溝最大の
湖、長海は海抜3150m。
水量が年間を通じて殆ど変
らない湖面はさざ波が立た
ないためガラスのように滑
らかに周囲の山肌や木々の
緑を写して美しい。その直
ぐ下の五彩池は湖面がコバルト・ブルーに輝いている。
 九寨溝のハイライトは、日則溝にある五花海である。 五花海
五花海
際だって透明な水のため、湖底に沈んだ堆積物や枯れ木
が石灰化し、それらに藻や水草が育って、移り行く太陽
光に緑・紫・青・藍などいろいろの彩を写し込み、反射
して何とも言えぬ絶景を見せてくれる。晴れていればこ
そ味わえる醍醐味で、誠にこの時ばかりは、天に感謝の
気持ちでいっぱいだった。九寨溝に来ることが出来て、
五彩池と五花海を見られただけで、この旅行の半分以上
の目的は果たした思いで、本当に満足した気持ちだった。
 次に九寨溝の代表的な滝を二つ紹介しよう。二つとも右側の日則溝の二股の別れた
ところにある。一つは諾日朗瀑布で300mを超す幅を持つ中国最大の滝。落差は26mで
諾日朗瀑布
諾日朗瀑布
珍珠灘瀑布
珍珠灘瀑布
幾重にも筋が分かれて流れ
落ちる様は大いに迫力を感
じさせる。シーズン最中の
新緑とよく合う景色であっ
た。  
 二つ目は珍珠灘瀑布。幅
は180mと諾日朗瀑布に比べ
狭いが、落差が30mあって
壮大である。水量も多く、流れ落ちる音も周囲にこだまして勇壮である。針葉樹林の
深い緑と黒々とした岩に注ぎ込む白い蕾のような流れの対比は写真にしても迫力があ
った。
 以前は九寨溝周辺にもパンダ(熊猫)が棲息していてよく湖に水を求めて訪れてい
たという。良く集まっていた湖の一つに『熊猫海』の名が冠せられている。四川大震
災の後、特に、世界遺産登録後多くの人が訪れるようになり、パンダのみならず、他
の野生動物も更に森林の奥深くに潜んでしまい、今では一年中ほとんど野獣の姿は見
られないとのことでした。
 
 (HP担当 注2:HPで表示不可能な文字です。Unicode:6C9F)
 
 3−2 黄龍(Huanglong)
 黄龍のある四川省成都の北方、岷山(ミンザン)山脈のカルスト台地一帯は、特異
な景勝地で、同じく1992年に世界遺産に登録された九寨溝渓谷の南100キロに位置して
いる。伝説と古刹、山々と渓谷といういかにも中国的な要素を備えた美観で名高い。
 黄龍彩池群を特徴付けるのは、山地の傾斜に沿って出来た石灰質の段丘がそれぞれ
エメラルドグリーンの水を湛え、棚田状に連鎖する景観である。湖沼群は低い方から、
迎賓池と呼ばれる第一群、盆景池の名を持つ第二群、第 黄龍マップ
黄龍マップ
三群の五彩池と大きく山群に分けられている。もっとも
高所にある五彩池の水面には、唯一現存する黄龍後寺の
屋根が影を落としている。
 黄色味を帯びた石灰質の沈殿物堆積の連鎖を下から見
上げると、ちょうど黄色い龍が天翔するように映ること
から『黄龍』と名付けられたと言う。
 黄龍にも麓の標高3198mの入り口までしか車は入れず、
入り口で入山観光券を求め、公共のバスに約3分乗り、次いでロープウェイに10分乗
り、降りたところからきれいに木道で造られた遊歩道を一番奥の五彩池まで1時間あ
まり歩いて登り、帰路は約2時間を歩いて入り口まで戻るコースで、全て自分の徒歩
による観光になる。五彩池は標高3553mの高地になるため、高山病への注意を繰り返し
聞いた上で歩いた。ロープウェイを降りてからの山道の両側にはシャクナゲの林が続
いていた。シーズンにはさぞかしきれいなことだろうと思った。帰路下る道で幾つか
の株に花が咲いているのを見掛けた。
 今回のパーティのメンバーは総勢27名で、ほとんどの人が60歳台で70〜72歳の方が
2名おられたが、筆者が断然の最高齢であったため、添乗員や現地ガイドをはじめ周
囲の人々が筆者の高地登山を気遣ってくれた。ところが、下山してみれば、入り口に
一番で戻ることになってしまい、大変びっくりされた。長年の山歩きと今でも続けて
いることがどのくらい体力として役に立っていることかが証明され、筆者自身も改め
て自信を深めたことだった。
 黄龍一帯は紀元前1万年ころに地上に現れたと推測されている。長い歳月を通して
五彩池全景
五彩池全景
お皿のような個々の池
お皿のような個々の池
石灰分を溶かし込んだ水が
流れ続けて、次第に水の中
の石灰分が水中の堆積物に
付着し、石灰華となって水
を堰き止めていった結果出
来上がった。これらの石灰
華に覆われた底を持つ湖沼
が連なって、現在の風景が
造られている。筆者も既に訪れている同じような生い立ちでできた石灰華がもたらし
た大きな奇景の地が世界に三か所あると言われる。一つはトルコのパムッカレ(Pam-
ukkale)であり、二つ目はクロアチアのプリトヴィッツェ湖群(Plitvicka jezera)、
そして三つ目が黄龍である。規模としてはクロアチアのプリトヴィッツェが最大と思
うが、今回黄龍を訪ねてみて、景観特に五彩池の色合いに勝るものはないと確信した。
 
4.峨眉山
 四川省西南部に位置する峨眉山市の峨眉山(3099m)は山西省五台県の五台山(文
殊菩薩の霊場)、安徽省青陽県の九華山(地蔵菩薩の霊場)、浙江省舟山市の普陀山
(観音菩薩の霊場)と合わせて中国仏教四大聖地に数え 報国寺と参内中のチベット僧
報国寺と参内中のチベット僧
られる名山で、普賢菩薩の霊場である。四山の内、峨眉
山は五台山と共に世界遺産に登録されている。山内には
後漢時代から唐、宋、明、清代まで衰えることなく数多
くの仏教寺院が建立された。ピーク時には100を超す寺
院が存在したが、現在は数を減らし、登山口の山麓にあ
る最大の仏教寺院である報国寺、万年寺、伏虎寺、雷音
寺などの名刹が残っている。筆者が報国寺を訪れた時に
は、チベットの数人の僧侶が参内していた。
 頂上を極めるには、入り口のゲートからグリーンバスを利用し、終点からロープウ
ェイの駅まで600段の石段を登り、含めて3時間くらい必要である。筆者は3月に心臓
霧の晴れ間の普賢菩薩像
霧の晴れ間の普賢菩薩像
を患い、600段の石段の踏破が大変だった。  
 頂上には金頂、千仏頂、万仏頂(最高峰3099m)の3峰
が連なるが、金頂(3078m)を見学し、金頂最上部に建つ
永明華蔵寺の周囲を一回りして内陣を見学、霧に包まれ
てなかなか全景を見ることが出来ない金ピカの普賢菩薩
像をガスの切れ間を待って、映像をカメラに収めた。
この像は比較的新しいもののようで、ガイドの説明では、
台湾の篤志家の寄付によって建立されたものであるらし
い。境内には建立時のいわれ書きに類するものは一切見当たらなかった。
 
5.楽山大仏
 成都から南西に約150km、峨眉山に向かう途中の楽山市の凌雲山の岷江に面した西
岸壁に彫られた高さ71mの楽山大仏は、世界最大の石刻大仏である。頭部の幅だけで
も10mあるという。鋳造大仏では勿論日本の奈良東大寺の廬舎那仏であるが、高さは
台座から測っても18mであるから、約4倍の大きさである。
 岷江の氾濫を鎮めるために、唐代713年から約90年の 船上から眺める楽山大仏
船上から眺める楽山大仏
歳月を掛けて造られた。隣接する凌雲寺の本尊として彫
られた弥勒菩薩である。あまり大きいために近くでは眺
められないので、観光客は岷江の対岸からの観光船に乗
り、正面に回って、船上から拝むことになる。大仏が出
来た時には全身金色に塗られていたが、岩が砂岩のため
風雨に晒されて袈裟の襞など細部が崩れ、大分痛みがひ
どくなっている感じがした。この大仏も世界遺産に登録
されている。大仏が彫られている凌雲山を対岸から眺めるとちょうど釈迦が寝ている
姿に似ているため『寝釈迦』と呼ばれている。
 
6.その他成都市内および郊外の見どころ
 6−1 成都大熊猫(ジャイアントパンダ)繁育研究基地
 四川省にしか生息していないパンダ(熊猫)は国宝扱いされて繁殖・育成されてい
る。パンダ保護事業を重視する中国政府は、パンダの保護の環境作りに取り組んでい
大熊猫繁育研究基地
大熊猫繁育研究基地
食事中
食事中
る。1987年四川省民政庁の
許可を得て設立された成都
ジャイアントパンダ繁殖基
金会を通じ、国内外の知名
企業や個人篤志家からの公
募基金を得て、野性保護と
繁殖育成に力を入れている。
その繁殖センターが成都市
内にある。
 
 6-2 武候詞(ブコウシ)と錦里
 成都は2300年の歴史を持つ蜀の古都であったので、数多くの史跡が残っているが、
中でも一番有名なのは三国史に名高い劉備に仕えた名軍 武候詞入口
武候詞入口
師・諸葛孔明を「武候」と呼んだので「武候詞」となっ
ている蜀の英雄諸葛孔明(181〜234年)と劉備玄徳
(161〜223年)を祀る武候詞であろう。今の武候詞はも
との劉備の墓と彼を祀る先主廟であった。孔明を祀る武
候詞はもう少し西方にあった。明代に入って君臣は合祭
するものだということになり、劉備の廟に孔明も祀られ
ることになり現在に至っている。全ての建物は清代に建
て直されたもの。現在は総面積14万平方メートルの広大な博物館公園となっている。
錦里入口
錦里入口
 また、東側に隣接する「錦里」は成都のお土産と手軽
な料理を集めているところで、三国文化を引き続いて紹
介するとともに、伝統的な四川省西部の風習と風俗を取
り入れ、お客がしばし帰ることを忘れるところとなって
いる。実際に大変な人ごみで、身体のどこかをぶつける
ことなく歩みを進めることが難しい状況で、ふと、昨今
の浅草の仲見世通りや江の島の坂道に溢れる中国人の観
光客のことを思い出したのだった。 
 
 6-3 都江堰(トコウエン)
 都江堰は、岷江が龍門山脈を抜けて成都平原(四川盆地の西部)に出るところに紀
元前3世紀、戦国時代の秦国の蜀郡の太守李冰(リヒョウ)が、洪水に悩む人々を救
うために紀元前256年から251年にかけて原形となる堰を築造したことから始められた。
 都江堰は現在でも5,300 都江堰全景
都江堰全景
江沢民の献辞刻版
江沢民の献辞刻版
平方キロメートルに及ぶ農
地の灌漑に活用され、2300
年後の現在もなお機能して
いる古代水利施設である。
現地には李冰の偉業を讃え、
石像が建てられ、工事を見
ることなく没し、息子の李
二郎が工事を引き継ぎ完成させたので、親子を二王として崇め、二王廟などの寺院を
建立し、長く顕彰している。1982年には国務院の指定する全国重点文物保護単位の一
つとなり、2000年には青城山とともにユネスコの世界遺産に登録されている。2008年
5月12日の四川大震災では都江堰の先端の「魚嘴」部分にひび割れが入り、二王廟な
どの寺院群が倒壊したが、堰そのものの機能に大きな被害はなかった。
 1993年9月22日には当時の総書記・国家主席の江沢民は「創科学 治水之 先例建
華 夏文昭 之魂宝」という献辞を刻んで正面入り口に掲げている。
 
 6-4 雪山梁子峠(The Snow Ridge Pass)
雪山梁子峠からの雪宝鼎
雪山梁子峠からの雪宝鼎
 成都から黄龍へ向かう途中に必ず越えねばならない高
い峠がある。それが雪山梁子峠(4007m)である。この
峠から眺められる雪宝鼎(Xuebaoding)は5,588mの岷山
山脈の主峰である。
 
 
 
             2015年6月13日(土) 記
 
2015. 5.24 清水 八丈島を旅する
 
       八丈島を旅する 横浜市 清水 有道
 
1.八丈島を選んだ経緯
 過去に幾度となく実行を阻まれた八丈島旅行だったから、ようやく今年に入って多
少とも天候が安定したと思えた3月8日(日)から、お一人様参加が条件の2泊3日
の旅行者の旅に参加することで実現できた。筆者の八丈 八丈島の地図
八丈島の地図
島行きの究極の目的は1606年1月に噴火して以来休眠中
のC級活火山西山(別名“八丈富士”854m)と東山(別
名“三原山”700.9m)に登ることであったが、旅行者の
旅に登山を含むものは見当たらず、今回参加したような
一人参加を条件とする旅となった。しかし、対象が後期
高齢者とまでは限定されないまでも、現役を辞した高齢
者であってみれば、歩行時間も少なく、日程もゆとりの
あるもので、正直筆者には少々物足りない感じを禁じ得なかった。
 
2.八丈島の概略と旅の難しさの理由
 八丈島は北緯33度06分34秒、四国の足摺岬沖や九州の熊本市とほぼ同じ緯度、東経
139度47分29秒の太平洋フィリピン海にある島で、東京都に属し、八丈町を構成して
いる。町は三根、末吉、中之郷、樫立および大賀郷の5地区集落に分かれており、樫
立、中之郷と末吉の3地区を併せて坂上地区と呼ぶが、この坂上地区に全人口9千人
の内の7千人が居住し、大賀郷と三根地区は東山と西山の中間平野部にあり、この2
地区を併せて坂下地区と呼んでいる。約2千人の人口を擁する。近年人口は減る一方
で、1970年には1万人以上の人口があったが、2010年には8,222人となり、2015年2
月現在では約7,700人にまで減っているものと推測されている。八丈島は1964年に富士
箱根伊豆国立公園の指定を受けている。上記の東山と西山の二つの火山が接合して出
来た北西―南東方向では14km、北東―南西方向では7.5kmのひょうたん型の島で、周
囲は58.91km、面積は69.52平方km、東京の山手線の内側とほぼ等しいそうである。
年間の平均気温は摂氏18度、年間降水量は3,202ミリ、平均降水日数は180日と1年の
約半分は雨が降っている勘定になる。年間の日照時間は1,398.5時間と東京の30%くら
いにしかならない計算である。平均湿度は80%、すべて島の周囲を囲んで流れる暖流
黒潮の恵みである。けだし『常春の島』と言われる所以であろう。ただし、海洋性気
候のため強風と驟雨が突然襲い、狭い八丈島空港への着陸が難しく、航空便のキャン
セル率は平均10%以上という。筆者の東京羽田の出発の日も強風雨のため1日3便の
内、第1便と第3便は着陸できず羽田に引き返して、結局飛べたのは筆者が乗った第
2便のみであった。しかも1時間くらい遅れての出発で、着陸できぬ場合には羽田に
引き返すという条件付きであった。八丈島空港への着陸の時は機体が激しく左右に揺
れ、あわや主翼の先端が滑走路に触れそうで、気が付けば手をしっかり拳骨状に結び、
冷や汗をいっぱいにかいていた。
 このような塩梅だから、終日晴天を楽しめる八丈富士や三原山への登山は、7月下
旬から8月上旬の梅雨明けの約1週間から10日間くらいしか望めないそうである。着
いた日も翌日も三根地区にある宿の「八丈シーパークリゾート」の窓から目の前に雄
大に眺められるはずの八丈富士の山容はすっぽり白い霧の中であった。3日目の島を
離れる日になってやっと山の輪郭が眺められたが、厳しい気象条件にはさしたる変化
は見られず、1日3便の羽田への便はこの日も第1便と第3便が同じくキャンセルに
なり、筆者の予定した第2便のみ飛べたのだった。まことに強運というべきか。しか
し、出発の1時間前に空港に着いても、その時点では飛ぶか飛ばないかはっきりせず、
添乗員は声を枯らして、「万一飛ばなかった場合には、ホテルに戻ってもう1泊する
ことになりますが、夕食の用意はありませんので、また近所にお店もありませんので、
無駄になるかもしれませんが、今のうちに、空港内の売店で腹の足しになるものを各
人調達しておいてください」。と叫んでいた。
 人口が少ないのでやむを得ないこととは思われるが、八丈島にはスーパーマーケッ
トは2,3軒あるが、コンビニは1軒もない。また、民間のタクシー会社はあっても、
民間のバス会社、旅行社などの交通運輸関係の会社はなく、バスは町営で、保有台数
9台、内6両は路線バスとして、残り3両が観光バスとして島を訪れる旅行者の足と
なっている。筆者が3日間利用した観光バスの若いガイド嬢はしかし、土地の人では
なく、秋田県から迎えたと言っていた。なかなか複雑な事情があるようである。
 
3.八丈島で思い出すことはなに
 八丈島と聞かれて読者の皆様には何が思い出されるでしょうか。流人の島であった
ことでしょうか。それとも近年滋養豊富で身体に良いと評判の食材植物“あしたば
(明日葉)”でしょうか。あるいは、青ヶ島とともに伊豆7島(伊豆大島、利島、新
島、式根島、神津島、三宅島に御蔵島)よりさらに南に位置する島というロケーショ
ンでしょうか。ある程度予備知識をお持ちでしたら、島の花“アトレッチア(別名
「極楽鳥花」)”とか伝統的な草木染の絹布“黄八丈”や東京で言う“漬け”という
魚の切り身を醤油タレに漬けた寿司ネタを握った島特有の伝統寿司「島寿司」であっ
たりすることでしょう。
 しかし、筆者には全く違う思いがある。それは、結婚して横浜に移り住むようにな
るまで疎開先から東京に戻って住んでいた東京の大田区がたまたま八丈島を含めた伊
豆諸島と同じ衆議院議員選挙区であって、八丈島出身の当時の自由民主党代議士菊池
義郎氏の名前を記憶していたことである。筆者の記憶が正しければ、同氏は確か当時
の自由民主党の中でも要職を歴任され、ほかに日本大学の評議員か理事を務めておら
れたと思う。八丈島を今回訪ねてみて、島には菊池姓が一番多く、菊池義郎も何人も
いることが分かった。因みに後述する東山中腹の「ヘゴの森」の散策時のガイドがま
さしく同姓同名の菊池義郎氏であった。
 
4.八丈島美景8選
 島には美景8選という観光名所がある。今回の旅ではこれらを網羅するというのが
狙いであった。以下順番に紹介してみよう。
1)裏見ケ滝 裏見ケ滝
裏見ケ滝
 中之郷集落から少し三原山の方向に入ったところにあ
る。雨の中の山道を往復20分くらいの散策だった。落下
する滝を裏側の歩道から眺めることができるのが文字通
り滝の名前の由来だが、光に透けたしぶきがシャワーの
ように降り注ぐ光景は爽快そのものだった。短い距離な
がら、さすがに亜熱帯であると思ったのは、密林を思わ
せる景観が味わえたからである。
2)ヘゴの森
 東山(三原山)の中腹にあるヘゴの森を専門のガイドについて“木生シダいっぱい
コース”と名付けられた道を約2km、2時間かけて遊歩したが、雨の中、傘をさして
の山歩きは正直疲れた。 
ヘゴは漢字では杪ゴ(*1)と書くようだ。
シダ植物門、シダ綱、ヘゴ目、ヘゴ科、ヘゴ属の大型木生シダである。
地球上では恐竜全盛を極めていた時代から、繁茂していて、現在でも見られる数少な
い生き残り植物である。わが国では紀伊半島南部と八丈島を北限として、四国や九州
南部、屋久島から南の島々で見られるが、湿度の高い林の中を好み、茎は高さ4mを
超えるものもある。茎の基部の径は50cmにも達し、まれに枝分かれまでするという。
茎の上部に付く葉は長さが2mを超す。葉柄は短く、紫褐色で刺が密生していて、素手
では触れない。わが国でも以前には新芽を山菜として食用にしたようであり、ニュー
ジーランドでは原住民が茎からデンプンを作るというが、現在はワシントン条約の希
少絶滅危惧種に指定されているため、輸出入取引は原則として禁じられている。
ヘゴ
ヘゴ
ハチジョウキブシ
ハチジョウキブシ
 ヘゴの森には八丈島特有
の地域変種ハチジョウキブ
シ(八丈木五倍子)という
キブシ科キブシ属の高さ3
〜5mになる樹木が混在して
いた。ハチジョウキブシは
雌雄異株で、ちょうど訪れ
た時に花の最盛期を迎えて
いた。本土のキブシに比べ、花の房が倍くらい長く、また径も大きく立派だった。学
名のStachyurus praecox var. matsuzakiiの中の種小名の“Praecox”は「早咲きの」
という意味だそうである。
3)名古展望台 名古展望台からの洞輪沢港
名古展望台からの洞輪沢港
 八丈島の最南端に位置し、名月鑑賞の最適地として知
られているが、当日は生憎の強い雨のため、全く遠方の
眺望は利かず、真下の洞輪沢港がどうにか眺められる程
度で、絶景のムードは全く味わえず残念な思いをした。
 
 
 
4)登竜(のぼりょう)峠展望台
眺望案内のパネル
眺望案内のパネル
 八丈島周回道路の内、末吉と三根の集落間が恰も竜が
天に登るような曲がりくねった急坂になっているために
付けられた名前で、その最高地点が展望台になっている。
雨天のため眺望は全く利かなかったが、晴れた日には眼
前に八丈富士、八丈小島が眺められ、眼下には底土港、
神湊港、八丈島空港、坂下部落の市街が眺められる島内
随一の展望所として旅行者が必ず訪ねる場所になってい
るところである。
5)八丈植物公園
 八丈富士の中腹にある植物公園で、八丈と熱帯の植物を見せている。
 この公園の中には、熱帯植物の温室のほかに、八丈島 ストレッチア
ストレッチア
の自然を紹介し、産物等も展示して見せている展示館が
ある。ここ一か所で八丈島の全貌が分かるようになって
いて便利である。
 温室の中には前述した八丈島の花ストレッチア・レギ
ネ(別名極楽鳥花)の華やかな色が満ちていた。ストレ
ッチアはショウガ目ゴクラクチョウカ科ゴクラクチョウ
カ属の南アフリカ原産の大型多年草で、観葉植物として
八丈植物公園
八丈植物公園
鉢植えにして室内で鑑賞する人も増えている。生け花用
の花としても最近よく用いられるようである。
 温室の中には、いろんな色のブーゲンビリアやカカオ
の大きな実をつけたカカオの木や紅色の紐をぶら下げた
ような花を付けるベニヒモノキ等の珍しい植物も見られ
る。
 展示館には島の昆虫標本や近海の熱帯魚を入れた大き
な水槽や、黄八丈の応用製品も各種展示されている。
6)ふるさと村
 昔の面影を伝える八丈島の母屋、高倉、マヤ(牛小屋)、閑処(便所)等の典型的
な民家を集め、展示している。それぞれの建物の屋根は日本伝統の茅葺である。
 ふるさと村の庭に植えられている植物の中からオオオニワタリ(Asplenium anti-
quum Makino)を紹介したい。この植物はシダ植物のチャ オオオニワタリ
オオオニワタリ
センシ科に属する日本南部から台湾の森林内の樹林や岩
などに着生するシダ植物である。日本南部紀伊半島以南
から南西諸島にかけて分布する。環境庁のレッドリスト
絶滅危惧種1B類(EN)に指定された植物で、東京都、
三重県、和歌山県、宮崎県、熊本県、宮崎県、福岡県、
鹿児島県および沖縄県の各県によりそれぞれ特殊の保護
対象にされている。
7)南原千畳敷(岩)海岸
 大賀郷の集落の八丈小島を目前にする海岸で、西山(八丈富士)の慶応10(1565)
年の噴火で吐き出された莫大な溶岩が一面に海にせり出して作り出された海岸である。
この海岸には八丈富士を背にして宇喜多秀家と豪姫の像が建っている。
千畳岩海岸
千畳岩海岸
宇喜多秀家・豪姫_像
宇喜多秀家・豪姫_像
宇喜多秀家は八丈島の公式
な流人第1号とされており、
ご承知の通り、慶長5年の
関ヶ原の戦いに西軍石田三
成に与したかどで家康から
流罪にされた。秀家の子孫
は秀家の正室であった豪姫
の実家である加賀藩前田氏
の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新以後の1865年に至ってようやく
赦免されている。赦免と同時に直系の者は島を離れて、板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土
地を与えられて移住したが、数年後にはまた八丈島に戻り、子孫の家族は今も秀家墓
を守っているという。
8)ふれあい牧場
 八丈富士の中腹にある牧場で、柵の中にたくさんの黒牛が放牧されていて、自由に
触れ合うことができていたが、最近は来客が減り、我々が訪ねた時には管理人すら不
在であった。以前には新鮮な牛乳も飲めたようであるが、 ふれあい牧場
ふれあい牧場
今は自販機すらない有様だった。牧場の周囲にはスミレ
やアザミなど八丈島特産亜種がいろいろ見られた。山の
中腹のため見晴らしがよく、八丈島空港が真下に見え、
三原山との間の平野部分がよく分かる。三根の集落や本
土からの船の着く底土港や反対側の大賀郷の集落や漁港
の八重根港が見られ、島の地形を頭に入れるのにはまこ
とに良い場所に思えた。
 
 このほかに今回の八丈島旅行で訪ねたところで、特に一言触れておきたい場所とし
て服部屋敷と大坂トンネル展望台に昼食をとった“いそざきえん”と“あそこ寿司”
についても言及しておきたい。
a)服部屋敷
樫立手踊り
樫立手踊り
 樫立地区にある郷土芸能を紹介する屋敷である。全国
12ケ所から集めた民謡にそれぞれ特有の振り付けをした
樫立手踊りと島のショメ節に八丈太鼓をツーリスト向け
に披露している。樫立手踊り用の民謡は流人や漂着者お
よび江戸と八丈島を往復していた船頭がもたらしたもの
と言い伝えられている。ショメ節は流人や漂着者が島で
作り出した歌詞に手踊り風の振り付けをしたもので、歌
い手の歌に合わせてグループで踊るものである。
b)八丈割烹料理“いそざきえん”
 樫立集落にある入口に大きなガジュマルの木のある民家風の食堂。島ではガジュマ
ルのことを“ガジマル”と呼び、漢字では「榕樹」としていた。昼食は近海魚の刺身、
あしたばの天ぷら、くさや、海藻のスープに麦とろ飯という献立だった。
c)大坂トンネル展望台  
 天気が良ければ樫立の集落から八重根港や遠く八丈富士や八丈小島等全景を見渡せ
る絶好の展望所らしいが、雨天のため眺望も利かず、見せられるような写真もない。
この樫立から中之郷に向かう一周道路は曲がりくねった細い道が、国の補助による道
路改修工事の結果立派なコンクリートの橋になり、かなり高いところを鮮やかに真っ
白な橋状道路が通っていた。若干 雰囲気的には自然にそぐわない感じもした。
d)“あそこ寿司”
 最初にちょっと触れさせてもらった三根集落にある島寿司の名店、60年の老舗であ
る。店内には知名人の色紙がこれ以上飾るところもないくらいたくさん並んでいた。
政財界の人は言うに及ばず、映画人、歌手、芝居役者とまことに幅広い客層であった。
店の名前が面白いと思ったが、人生一回限りの食事に立ち寄ったくらいでは店の名前
など覚えてもらえないので、“ほら!あそこ!”という感じで覚えてもらえたらとの
発想から生まれたという。それにしても寿司ネタを“漬け”にして握り、ワサビが天
然にはないので代わりに辛子を使う変わった握り寿司である。多くの人が辛子の辛さ
に辟易していた。食べつけないと異様な感じは拭われないかもしれない。座敷に上が
っての昼食だったが、部屋の出書院の障子の桟の模様が小野道風と柳に蛙をあしらっ
たもので、初めて見る細工の細かさに殊の外珍しさを覚えた。
                                     了
                             2015年3月21日 記
(*1)HP担当お断り:投稿では「ヘゴ」の漢字「ゴ」が外字で、HPに表示でき
ませんでした。 「ゴ」の漢字は、「きへん」に「強羅温泉」の「羅」です。
 23画、Unicode:6B0F の外字です。