話 題 『 旅 行 記 』−6 2012年9月〜2013年3月
 
          話  題  一  覧
2013. 3.17 やっと実現できたチベット旅行(3/3)   投稿;清水有道
2013. 3.10 やっと実現できたチベット旅行(2/3)   投稿;清水有道
2013. 3. 3 やっと実現できたチベット旅行(1/3)   投稿;清水有道
2013. 1. 6 日本海の秘島「隠岐の島巡り旅」       投稿;古泉已喜郎
2012.10. 7 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(5/最終回)投稿:清水有道
2012. 9.23 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(4)投稿:清水有道
2012. 9.16 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(3)投稿:清水有道
2012. 9.10 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(2)投稿:清水有道
2012. 9. 2 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(1)投稿:清水有道
 
          話  題  『 旅 行 記 』
2013. 3. 17 清水 やっと実現できたチベット旅行(3/3)
 
やっと実現できたチベット旅行(3/3) 横浜市 清水 有道
 
4.チベット旅行から帰って『失われた地平線』を読み直す
文庫本の表紙
文庫本の表紙
 読者の皆様も一度は読まれたことがおありでしょう
『チップス先生さようなら』を書いた英国の作家ジェイ
ムズ・ヒルトン(James Hilton)が1933年4月に表した
『失われた地平線(英文原題 “Lost Horizon”)』の
新訳が出たのを機会に読み直してみました。
 実際にあった話ではなく、あくまでもフィクションな
のですが、扱われている話の舞台であるシャングリ・ラ
というチベットの地名が、まるでドキュメンタリーを読
むように展開されていて、チベットを旅行して戻ったばかりの筆者には、殊の外興味
を覚えて読む意欲を掻き立てられました。現在中国の雲南省の奥地にシャングリ・ラ
という地名が実在します。現地語では「香格里拉」と書き、横文字の綴りでは
“Xiang Ge Li La”となります。英文では“Shangri−La”
と綴り、日本語の意味ではお馴染みの「桃源郷」とか「理想郷」とかになるでしょう
か。この中国に現存する地名も以前は「中勹」(「勹」の字は本当は中に「田」の字
が入る漢字ですが、日本にはこの漢字がありませんので「勹」で代用します)という
名であったものを2002年になってこのように改称したものです。読み進めてゆくうち
に、筆者にはヒルトンが書いたシャングリ・ラは間違いなく現在の「ラサ(拉薩)」
がモデルとなっていると思いますし、その証拠にはダライ・ラマ法王とおぼしき「大
ラマ」と呼ばれる西欧の文明・文化に精通した高僧が登場するではありませんか。
 行き掛かり上、掻い摘んであらすじを紹介しましよう。カシミールの山岳地帯から
男3人と宣教師の女性1人が乗り込んだ小型機が乗っ取られて行方不明になります。
この男3人のうちの1人がヒュー・コンウェイと呼ばれる男で、英国から派遣されて
いる領事という設定です。この小型機が上手な操縦士の手でチベット高原の谷間に不
時着し、給油の後再び飛び立ち、いずことも見当のつかない孤絶の山岳地帯に車輪を
パンクさせ、尾橇を折って着陸しますが、航空機は二度と飛び立てない状況となり、
4名は拉致状態で収容された修道院からいかにして逃げ出すかを四六時中考えねばな
らなくなるのです。コンウェイだけが本人の希望もあって連れて行かれた先がシャン
グリ・ラの大ラマのところです。この大ラマはルクセンブルグ生まれの白人で、歳は
200歳以上という設定ですから驚きです。しかも大ラマは出来ればヨーロッパの北方人
種とラテン民族が最良の後任者として人選するに相応しいと豪語するのですから、コ
ンウェイがパンチェン・ラマの資格ありと認識させるのに役立っています。他の3人
は引き続きそこから脱出することに没頭しますが、コンウェイは大ラマとの話が弾ん
で、そこに落ち着くこともあながち悪くはないと思うようになります。やがて大ラマ
はコンウェイにいわゆるパンチェン・ラマ(Panchen Lama次のダライ・ラマ法王とし
て認められた者)として将来を託してもよいと考えたのか(?)、後継ぎができて安
堵したのか(?)、静かに息を引き取り、物語が終わるのですが、余韻としては、コ
ンウェイが次の大ラマになることが予測されているように感じられます。冒険小説と
して面白いことは当然ながら、チベットやダライ・ラマを知る上でも大きなヒントを
与える著作と言っても言い過ぎではないでしょう。
5.ラサの象徴ポタラ宮
 ご承知のようにこの宮殿は1959年ダライ・ラマ14世が 筆者の水彩画からの絵葉書
筆者の水彩画からの絵葉書
インドに亡命するまで約300年にわたってチベットの政
治・文化の中心でありました。ラサの町は標高3650mに
あり、宮殿の最上部は富士山頂よりも高い3880mくらい
の標高になります。宮殿の内部は何層にも積み重ねられ
ていて、おまけに迷宮のように入り組んだ廊下と階段が
続いていますので、高地のためゆっくり歩かなければ息
継ぎも苦しい状況です。一日の入場人員が決められてい
て、しかも一旦入ったら出てくる時間が決められていて、万一団体などでこの時間が
守られなけば、引率したガイドが免許停止になるという厳しいルールを適応していま
す。勿論持ち物検査も厳重に行われていますし、外からの水やお茶のペットボトルの
持ち込みもできないルールです。中に入れば売店でいくらでも買えますが、約倍額と
ポタラ宮の夜景
ポタラ宮の夜景
いう高さになります。外から見て宮殿の白く見える部分
はいわゆるホワイト・パレス、「白宮」と呼ばれるとこ
ろで、ダライ・ラマの住居であると同時に政治を執り行
うところになります。また、中央上部の赤く塗られた部
分(通称「紅宮」、レッド・パレス)は歴代ダライ・ラ
マの霊塔など宗教に関する博物館的なところで、観光客
が見学できるのは主としてこの部分です。上述のヒル
トンの『失われた地平線』の主人公コンウェイ英国領事
が大ラマ居住部屋には欧米の百科事典をはじめ、古今東西の名著が遍(あまね)く揃
えられているのに驚く場面が見て来たかの如く如実に描かれていますが、実際に見学
できる場所の部屋の調度品にしても、諸外国の宝物に近いものや精緻な什器が多くあ
り、チベット、いやダライ・ラマ自身が有史以来分け隔てなく世界の国々と交流し、
多くの文化人と交わっていたことが分かります。
 この紀行を閉じる前に、ラサにあって触れなくては済まされないノルブリンカ(羅
布林下)、ジョカン(大昭)寺とセラ(色拉)寺について一言書き足しておこう。
(1)ノルブリンカ(羅布林下)
 ポタラ宮から西へ約4Kmにあり、1755年から建設された歴代ダライ・ラマの夏の
離宮と庭園であります。現在は一般に開放された公園となっています。面積36万平方
キロの敷地に8世(1758〜1804年)、13世(1876〜1933年)及び14世(1935〜)の宮
殿があります。2001年にポタラ宮の歴史的建築群として、世界文化遺産に追加登録さ
れています。これらの中で、最大の見どころは、ダライ・ ダライ・ラマ14世の夏の離宮   『タクテン・ミギュ・ポタン』
ダライ・ラマ14世の夏の離宮   『タクテン・ミギュ・ポタン』
ラマ14世が実際に生活していたタクテン・ミギュ・ポタ
ン(チベット語で「永劫不変の宮殿」を意味する)です。
1957年に竣工した離宮だが、チベット様式の外見とは異
なり、かなり近代的な造りになっています。トイレ付の
シャワールーム、ロシアから贈られたラジオ、インドの
ネール首相からのレコード・プレーヤーなども飾られて
います。新しい物好きの14世の一面が見て取れます。
2008年の北京オリンピックに合わせて正門周辺を中心にきれいに整備されました。
(2)ジョカン(大昭)寺
 チベット仏教の総本山です。7世紀の創建で、吐蕃王 ジョカン寺
ジョカン寺
のソンツェンガンポの菩提寺として、ネパール出身の妃
ティツンが建てたと伝えられています。ジョカン寺は
2000年、ポタラ宮の歴史的建築群として、世界文化遺産
に追加登録されました。本尊は唐より迎え入れた妃文成
公主が持参してきた釈迦牟尼像とティツンが持参した
十一面観音像です。
 門前には、全身を地面に投げ出して祈る「五体投地」
をする巡礼者が絶えない。また、それを眺めカメラやシネマに納めようとする旅行者
が取り囲み、大変な人だかりとなっていました。
(3)セラ(色拉)寺
 ラサ中心地から北に約8Kmの色拉烏孜(セラウツェ)山麓に立ち並ぶ大伽藍で、
面積約11.5万平方キロに展開されている。ゲルク派の開祖ツォンカパの弟子ジャンチ
ェン・チョジェ・サキャ・イェシェが1419年に創建したとされています。ゲルク派六
大寺院の一つ、ガンデン寺、デブン寺と合わせてラサ三大寺院の一つでもあります。
最盛期には5,500人以上の僧侶が修行に励んでいましたが、1959年のチベット動乱の
際、寺院組織と多数の所属僧侶がチベットを脱出、南インドのカルナタカ州マイソー
ル(Mysore)で伽藍を再建し、活動を続けていると言われます。20世紀初頭には、日
本人の河口慧海や多田等観もこの寺で修行に励みました。 修行僧の問答の様子
修行僧の問答の様子
 残されたこの伽藍でも、チベットに残留した僧侶を中
心として、1980年代に僧院の組織が再建され、正式に寺
院としての活動が認められました。午後になると、僧侶
たちが中庭に集まって問答修行する様子が見られます。
問いを発する僧は立ち、独特のジェスチャーで問いを出
し、答える僧は座っているが一人とは限らず、二人の時
もあります。
                                   了
                          2012年12月記
 
2013. 3.10 清水 やっと実現できたチベット旅行(2/3)
 
やっと実現できたチベット旅行(2/3) 横浜市 清水 有道
 
(2)蔵医薬文化博物院
 西寧市城北区に2006年にオープンした博物館です。政府が生物科学技術関係産業を
招致している新興開発区にあり、1階にはチベットの歴史とチベット医学の展示があ
り、チベット医学のタンカ(布地に描かれた宗教画)が 入り口内部正面の景観
入り口内部正面の景観
多数展示されています。2階には長さ618mにもなる長大
なタンカが展示されています。このタンカは世界中で最
も長いタンカとしてギネス・ブックにも載っており、チ
ベット絵画の総決算と言われています。このタンカには
企画設計に27年、制作に5年の歳月と延べ400人を超す絵
描きが携わったと言われています。ダライ・ラマ14世を
除く歴代のダライ・ラマや亡命したカルマ・カギュ派の
カルマパ17世が描かれています。
(3)日月山峠
 西寧市から約100Km、青海湖の東部に日月山口という標高3520mの峠があり、その
南北に太陽と月に似た山があることから日月山(チベット語では“ニマダワ”)との
名が付けられた。
 この峠に連なる南北の稜線が中国と吐蕃の国境でした。東側は農耕の民、漢族の中
原(黄河中流域)の世界、西側はチベット高原が広がる当時の吐蕃、つまりチベット
文化圏の世界となります。この辺りは、中国とチベットを結ぶ唐蕃古道を通る際には
必ず通過しなければならない地点で、7世紀に唐の文成公主が吐蕃王国のソンチェン
ガンポ(チベット初の統一国家・吐蕃を建てた王。中国、 日亭内のタイル画
日亭内のタイル画
インド、ネパールの文化を取り入れて、官僚制、軍政、
法律などを制定した。また、チベット文字を作ったとさ
れる)に嫁ぐときにも、この地を経由し、ここで振り返
って唐に別れを告げたと言われます。後に、当地に文成
公主を祀った祠、日亭と月亭が建てられています。日亭
には文成公主に同行してチベットに向かった召使から詩
人、仏教僧ら500人や文物の様子を描いたタイル画が掲げ
 
られています。 白いヤク
白いヤク
 訪れる観光客にお金を取って乗せ写真を撮らせるため
に待機していた純白の牛に似たヤクが一層輝いて見えた
のが印象的でした。
 
 
 
 
(4)青海湖
 西寧から西へ向かうもう一つのシルクロード(余談ですが、中国語では「絲綢之路」
と書きます)の「青海の道」を150Kmほど進むと道は次第に高度を上げ、標高約3200
mに位置する青い水をたたえた青海湖に出ます。この湖は内陸にある中国最大の塩水
湖で、面積は琵琶湖の約6倍の大きさです。モンゴル語では「ココ・ノール」、チベ
ット語では「ツォ・ンゴンボ」と呼ばれ、いずれも「青い湖」を意味します。それら
菜の花畑とタルチョー
菜の花畑とタルチョー
の漢語訳が「青海」となったのです。この湖には30以上
の河川が流れ込んでいます。厳しい内陸の高地に位置し
ていますので、観光シーズンは6月から9月の4ヶ月に
限定されてしまいます。特に6〜7月は周辺の草原一帯
が油菜の黄色い花に敷き詰められます。筆者が訪れたの
は8月に入っていましたが、まだ十分に鑑賞に堪える状
態でした。栽培農家の人々はそばを通る車を止めて、畑
の中での写真を勧めていましたが、写真代として10元も
要求しているようです。もっともこれは交渉の仕掛け値で、実際には半額以下に落ち
着くようです。当然のことながら写真を撮る場所にはチベット仏教の習わしである
「タルチョ―」(祈祷旗)を高く掲げています。序に盛大に舞うタルチョーについて
一言説明しますと色は5色で、上から順に青(天を表現)、白(風)、赤(火)、緑
(水)に黄(地)と決められています。
 青海湖は水の少ない内陸の乾燥砂漠地帯にありますので、生物学的に貴重な存在と
なっています。春から夏の繁殖期には鵜、鴎、鴨等5万羽以上の渡り鳥がこの湖のそ
の名も「鳥島」という島で生活をしています。湖畔の船着き場近くのレストランでは
この湖で獲れる魚料理が楽しめます。船着き場から151漁場(現在では二郎剣景区と呼
ばせているようで、大きな記念碑が幾つも建てられています)まで遊覧船からの景観
を楽しめます。
青海湖
青海湖
青海湖の遊覧船
青海湖の遊覧船
二郎剣の石碑
二郎剣の石碑
(5) 茶下塩湖
 「茶下」とはモンゴル語で「塩の海」という意味です。 トロッコ列車
トロッコ列車
標高3104m、面積は約105平方キロ、東西15.8Km、南北
9.2Km、塩層の最深15m。表面から4Km以下の層から
美味しい塩が取れるという。塩分濃度90%、塩含有量4.5
億トンは中国の人口全員が毎日食しても450年、世界中の
人々が75年間食べられる由です。1903年に開発が始めら
れ、1951年国営の塩工場が設立されました。冬は摂氏零
下20度まで気温が下がるので塩採取作業は毎年5〜11月
 
の間と決められているとのこと。湖畔から突堤が湖の中 トロッコ列車を牽く小型蒸気機関車『塩湖号』
トロッコ列車を牽く小型蒸気機関車『塩湖号』
に、伸びており、その上を採塩現場見学用のトロッコ列
車が走っています。玩具のような蒸気機関車には古い漢
字で「鹽湖號」と書かれていました。
 
 
 
 
 
 トロッコ列車の発着所には大きな塩の山に彫刻をして 塩に刻んだ彫刻
塩に刻んだ彫刻
作った像が立ち並んでいました。事務所兼切符売り場の
掘っ立て小屋では採取された袋入りの塩が売られていま
した。良質の説明に釣られて結構たくさんの観光客が買
い求めているようでした。
 生憎当日は風の強い雨模様で、傘をさしてのトロッコ
列車は楽しみを味わうには程遠いものでした。
 
 
2013. 3. 3 清水 やっと実現できたチベット旅行(1/3)
 
やっと実現できたチベット旅行(1/3) 横浜市 清水 有道
 
1.待望の青蔵鉄道に乗ってのラサ入り
 山登りや山歩きが大好きの筆者には一生の間に世界中でどうしても行っておきたい
ところが幾つかありますが、チベットもその内の一つでした。特に国連のユネスコが
世界遺産を制定して文化や自然の遺産を指定し、保護することを始めてからは、なお
のこと辺鄙なところにある歴史的な遺跡や人類の創造したものに触れ、自分の目で見
たいという欲望が大変強くなって、どうしてもチベットには行きたかったのです。特
に2006年に中国の青海省の西寧からチベットのラサ(拉薩)まで標高4000mのチベット
高原を走り抜ける青蔵鉄道(いわゆるチベット鉄道)が開通したことを知るや直ぐに
出掛けたくて、何回も旅行の申し込みをしましたが、生憎中国とチベットの関係が悪
化し、外国人のチベットへの渡航が禁止されて、その夢 今回の旅行で歩いた地図
今回の旅行で歩いた地図
は頓挫していました。
 それがとうとう2012年に実現できたのでした。長い間
の思いのたけと実現までに要した歳月を考えれば、この
チベット訪問くらい筆者の人生にエポックメーキングな
ことはないと大袈裟に言ってもいいほどです。この旅行
では多くのことを学びましたし、新しくたくさんの人々
と知己を得ることになりました。
 
西寧西から拉薩までの1等の乗車券 770元(日本円で約12000円)
西寧西から拉薩までの1等の乗車券 770元(日本円で約12000円)
乗った列車車両の外観
乗った列車車両の外観
標高4702mの安多駅のホームの   駅名表示板
標高4702mの安多駅のホームの   駅名表示板
2.欲張ってチベットの影響を受けている周辺地域をも訪ね歩いて
 青蔵鉄道に乗れるからと言って、始発の青海省の省都シーニン(西寧)から終着点
のラサ(拉薩)まで全区間を列車に乗るとすれば、車中泊を伴う24時間の列車の旅を、
少なくとも4度の食事を車中ですることになり、列車にお金を払って時間を潰すこと
にもなり兼ねず、折角中国の辺境最西端の青海省まで行くからには、世界一の大きさ
玉殊峰(6178m)の雄姿
玉殊峰(6178m)の雄姿
を誇る塩湖のチンハイ(青海)湖、良質の塩を産する茶
下塩湖(「下」の字は本当は「上」と「下」の二字を一
字にした漢字が使われますが、日本にはその字がないた
め「下」一字で代用します)広大なゴビ砂漠の南部も自
分の足で歩き、目で見てみたい思いも強くありましたし、
かつてチベットと中国の国境をなしていた日月山峠にも
是非寄り、チベット仏教の中で最大教派のゲルク派六大
寺の幾つかにも是非見学したいという強い希望もありま
したので、幾つかの旅行社のコースを吟味して、希望に沿うものを見付けたのでした。
 これらを訪ねて結局青蔵鉄道はゴルムド(格爾木)か タングラ山脈の山
タングラ山脈の山
ら標高4000mを超えるチベット高原を終点のラサ(拉薩)
まで14時間昼間だけ乗ってバインハル(巴顔喀拉)山脈、
タングラ(唐古拉)山脈、ニエンチェンタングラ(念青
唐古拉)山脈などの万年雪を頂に冠り、大きな氷河を裾
に広げた6000m〜7000mの峰々を車窓から楽しむことが
出来たのでした。
 
3.青蔵高原、チベット自治区、チベット高原、
               青海省そして西寧市について
 青蔵高原は中国の南西部に広がる高原で、その北東部に青海省があり、そこは黄河、
長江およびメコン川という三大河川の水源地帯となっています。青海省は中華民国が
出来てから、河西回廊南部と一緒になって1928年に誕生していますが、現在では、人
口は約5,400万人 、面積約72万平方キロ(日本国土の約2倍)、民族構成は漢民族が
長江の源流・トト(沱沱)河
長江の源流・トト(沱沱)河
54%、チベット族が23%、イスラム回族が16%、そしてその
他の民族が7%となっています。
 省の東北部には中国最大の内陸塩湖・青海湖がありま
す。一帯は大陸性気候で、一日の温度差が大きく、降水
量が少ないところです。北部から東部にかけては甘粛省、南東部は四川省、
南部から西部にかけてはチベット自治区、西北部は新疆
ウイグル自治区に接しています。
 その省都は西寧(シーニン、Xi Ning)です。市内には
イスラム料理店を示す「清眞」の名を掲げた店も目立ちます。西寧はシルクロードの
南ルートと言われる唐蕃古道の要衝として発展してきました。チベット語では“スラ
ン”と呼ばれています。
 青蔵高原のうちで、西南部チベット(西蔵)自治区に属する部分がチベット高原と
呼ばれ、その区都は拉薩(ラサ、Lhasa)で、その人口は約40万人です。五胡十六国時
代(304〜439年)に、遊牧騎馬民族・鮮卑(センピ)族の慕容部から分かれた部族の
吐谷渾(トヨクコン)が青海地方を支配し、青海湖畔を通るシルクロードの南ルート
と言われる唐蕃古道を使っての中継交易で繁栄していました。その後、7世紀初めに
チベットの諸民族を統一した吐蕃(トバン)が663年に吐谷渾を滅ぼし、9世紀中ごろ
までにチベット高原のほぼ全域を支配したのです。吐蕃時代にインドから導入された
仏教文化はラサを中心に栄え、17世紀から20世紀中ごろまでチベット仏教の歴代の指
導者ダライ・ラマの住居兼政治の中枢であったところがポタラ宮殿なのです。このポ
タラ宮は1994年にユネスコの世界遺産に登録され、後に2000年に仏教寺院のジョカン
寺、2001年にダライ・ラマの夏の離宮ノルブリンカが追加登録されています。
 それでは、これら周辺地域の名勝、旧跡の代表的なところを少し紹介してみましょ
う。
(1)塔爾(タール)寺
 西寧市街から25km西南に位置しています。チベット仏 タール寺の八大如来宝塔
タール寺の八大如来宝塔
教ゲルク派の創始者ツォンカバ(1357〜1419)の聖地を
記念して1560年に建立されました。寺の中国名「塔爾寺」
はツォンカバを記念して建てられた本殿の大金瓦院に納
められている高さ11mの大銀塔因んで名付けられたもの
です。写真でもお分かりのように、この寺院の屋根瓦は
金で葺かれています。タール寺はセラ(色拉)寺、デブ
ン(哲蚌)寺、ジョカン(大昭)寺などと並ぶゲルク派
 
(この派の僧は黄色の帽子を被っていますので、「黄帽 タール寺の大金瓦院
タール寺の大金瓦院
(こうぼう)派」とも呼ばれています)の6大寺院の一
つとして有名です。
 この寺はチベット仏教の学問センターとして重要な地
位を占め、清時代には400人の僧侶が修行に励んでいたと
言われています。 今でも多くの修行僧が生活していま
す。20世紀初頭には日本人の仏教学者・寺本婉雅(テラ
モト エンガ)も2年ほど滞在しています。寺の建物は、
山の斜面に並ぶように建っています。麓にある山門を潜ると八つの宝塔が一列に並ぶ
八大如来宝塔がありますが、仏の八大功徳を表していると言われています。この寺で
はバターから作る仏像やいろんな彫刻が展示されている上酥油花院(ジョウソユカイ
ン)の見学も一興でしょう。
 
2013. 1. 6 古泉 日本海の秘島「隠岐の島巡り旅」 
 
日本海の秘島「隠岐の島巡り旅」 野田市 古泉 已喜郎
 
<はじめに>
 東京計器OB有志旅行会は、昨年秋に島根県の離島「隠岐の島」へ出掛けました。
募集人員28名(大型バスでは探訪できないところがあり)私たちのグループは17名
(当初18名だったが最終的には、男性10名、女性7名、)他に6名の女性グループ、
夫婦連れ2組、添乗員を含め総勢28名で好天に恵まれた2泊3日の旅でした。
 ★ 第1日目:10月25日(木)  羽田空港から伊丹空港へは、1時間
 羽田空港から伊丹空港へは、1時間の飛行で富士山も良く見えました。伊丹空港〜隠
岐空港までは小型プロペラ 伊丹空港のお二人
伊丹空港のお二人
プロペラ機に乗り込むメンバー
プロペラ機に乗り込むメンバー
機74名乗りで1日2便しか
ありません。約1時間の待
ち時間を利用して、チョッ
ト遅い昼食。幹事さんの
「好きな飲物と弁当を選び
なさい!」まだお昼ですが
“伊丹の酒、今朝、呑みた
い”うしろから読んでも“イタミノサケケサノミタイ”とばかり、まず“缶ビール”
を確保!弁当はいろいろな種類がありましたが、名物の“柿の葉すし”にしました。
美味しい!
 50年前の若い頃を思い出しながら昼食をとってると思われる光景が目に入りました。
ゲゲノ鬼太郎
ゲゲノ鬼太郎
 1時間弱の飛行で『隠岐空港』到着。隠岐諸島は180余
りの島々で、島根半島から65kmの所に位置する。空港で
は妖怪漫画家の水木しげる氏のオブジェがお出迎え、本
名:武良(ムラ)氏のルーツは隠岐島ということで、そ
の後、各所に大小の妖怪のオブジェが見られました。
 一番初め訪れたのは、隠岐の総社として信仰されてい
る、玉若酢命神社(タマワカスミコトジンジャ)で、境
内には樹齢2,000年の杉の巨木“八百杉”聳え立ってお
ります。 「隠岐の島」始めの観光地「八百杉」
「隠岐の島」始めの観光地「八百杉」
幻に終わった「ロウソク島」
幻に終わった「ロウソク島」
 当初予定していた、隠岐
の自然が創り出した巨大な
オブジェ「ローソク島」に
夕日が灯る瞬間を楽しみに
していたが、外海が荒れて
いて遊覧船が欠航となって
しまったことです。雲ひと
つない青空、港の内海は波ひとつ立っていないのに!“幻のローソク島”観光となっ
てしまい、誠に残念!ご参考に観光案内の写真からとったものをご紹介いたします。
 宿は後島(ドウゴ:隠岐の島町)、幹事さんから、連絡メールで「ホテルの方は、
旧上宮田保養所と同等あまり期待しない方が良い」というメールを貰っていたが、ホ
テル到着すると、なるほど旧上宮田保養所に毛が生えた程度だが、それでも部屋から
宿の部屋から見た隠岐の夕景
宿の部屋から見た隠岐の夕景
の日本海の眺めは最高、私たちの海に面した部屋は畳で、
隠岐の島の各島の名前が付いており、隣の部屋のFさん
の奥様が丁度顔を出しましたところです、「年増」(トシ
マ)?「いや〜大変失礼しました。戸島(トジマ・・・
無人島)でした。
(廊下を隔てた向かい側の部屋はベッドで部屋番号)
 また、宴会場が和室のため、幹事さんが『宴会時、椅
子が欲しい方!』と聞いたら実に8名の方が挙手、ホテ
ルの方で全部かき集めても5つしかありませんでした。膝・腰の弱っている順に割当!
 私は日頃、家庭菜園で足腰鍛えているが、弱っている仲間の多いのにチョット、ビ
ックリ!しましたが、よく考えればアチラコチラに痛みが出ても可笑しくない歳です。
 
 ★ 第2日目:10月26日(金)  大型フエリーで中ノ島(海士町)へ
 大型フエリー(2,350トン級:旅客定員820名)で中ノ島(アマチョウ:海士町)へ、
出航後、早々と車座で持参のアルコールの試飲会!デッキへ行っていた仲間も降りて
きて、大きな輪となる。ふと、現役の時の北海道出張時、青函連絡船三等室で横たわ
って酒で夜を過ごしたこと思い出し懐かしく思いました。談笑に花を咲かせている内
に早くも中ノ島へ到着。
“半潜水艇で「海中遊覧」” 海底に群れなす魚たち
海底に群れなす魚たち
三郎岩
三郎岩
 スリランカ出身の若者が
ガイドを務めましたが、日
本の学校を出たとの事で流
暢な日本語でガイドしてい
ました。目的地に到着して、
デッキから船底へ移動、大
きなガラス越えの海中には
魚影は見えないが海水は綺麗である。やがて船長が甲板から撒き餌を開始しました。
 来ました!、来ました!、黒ダイ、真ダイ、イシダイ、スズメダイ、小魚、熱帯魚
も混ざり、いやいや賑やかなこと。船内も歓声で賑やかでした。
 船で西ノ島(ニシノシマチョウ:西ノ島町)へ、今晩泊まるホテル直営のホテル前
の食堂で、ビールも出て、隠岐生まれ“潮凪牛”のすき焼きで美味しい昼食でした。
手荷物を預けて、午後の最後の観光は、また、船で知夫里島(チブリジマ)、(チブ
ムラ:知夫村)へ渡りました。、小型バスでドライバーがガイドを兼ねており、普段
は漁業の仕事をしているとか。
知夫赤壁
知夫赤壁
知夫赤壁の夕日
知夫赤壁の夕日
 赤ハゲ山での牛馬の放牧、
赤壁(セキヘキ)では、展
望所からは夕日を浴びた岩
肌が赤・黄・黒などの色鮮や
かに模様を描く自然の芸術
に目を奪われ、夢中で大岩
壁、夕日へ向けて8ミリカ
メラを回しておりました。
 夕日が沈むと周りはアット言う間に真っ暗闇、放牧場の下り道をバスのところまで
たどり着くまで、足元が良く見えないので一苦労しました。
 ドライバーさんの説明では、知夫里島は人口600名、タヌキ3,000匹、隠岐群島で唯
一タヌキが生息しおり、もともとは飼育していたのが逃げ出し自然繁殖し、今では農
作物に与える被害甚大。「夜行性だから沢山見られますよ!」と間もなく「ほら。前
方に!」幸い私の席は前の方だったので、親子連れなど暗闇に目を赤くしたタヌキが
バスのヘッドライトで確認できました。港から西ノ島へ逆戻りし、ホテルへ直行。
 大宴会が始まる、ただ、予約していた『カラオケ』が調子悪く使用できないという
ことでチョット寂しいですね。でも、賑やかな仲居さん、何処かで見た顔だと思った
ら、昼食の時、面倒を見てくれた仲居さんでした。豪華な新鮮な海の幸が盛り沢山、
“生がき”は、看板の一つだったのに時期が遅くチョット期待はずれでした。
 幹事さんから、「今日は古泉さんの76歳の誕生日という」紹介があり、乾杯、Mさ
んの指揮で、皆さんに♪♪ Happy Birthday to You ・・・♪♪唄って頂き、
お祝いの記念品をまで頂き、さらに嬉しい!?ことに半世紀前のお嬢様の皆さんに囲
まれての誕生日記念撮影となりました。
「隠岐の島」海の幸で祝福!
「隠岐の島」海の幸で祝福!
誕生日おめでとう!記念品贈呈
誕生日おめでとう!記念品贈呈
女性と記念撮影
女性と記念撮影
 何時もなら家族からの祝福ですが、今回は旅先で多くの仲間からの祝福に感謝・感
激・幸せ一杯です。最後に、「生オケ」で一曲ということで、持ち歌の「紅舟歌」を
歌ってしまいました。これからも、元気で長生きし旅を続けたいとの思いです。
 
 ★ 第3日目:10月27日(土) 早くも最終日、今日も朝から快晴!
 ホテルから港まで、ホテルの社長さん直々運転のマイクロバスで送ってもらいまし
た。それにしても、島の人たちは二束の草鞋じゃないが、よく働くな〜と感心!
 ホテルの社長さんに見送られて、「超高速船」(304トン:旅客定員317名)で、空
港のある後島へ向けて出港いたしました。
 今日のバスガイドさんは3人目ですが、漫画サザエさ 花沢さん
花沢さん
んのカツオ君の同級生、不動産屋さんの娘、花沢花子さ
んによく似ていて、大変話し上手。普段は“隠岐モーモ
ードーム”で民謡芸能の司会を務めており、今日はバス
ガイドの仕事が入ったので、他の人に代わってもらった
そうだ。どうりで話しが上手だと思いました。
 歌も民謡を聞かせてくれましたが、上手であり、ガイ
ドも話題豊富でした。私は現在、老人会関係の役員をや
っている関係で、バス旅行には結構出掛ける機会がありますが、久々にバスガイドさ
んらしいガイドさんに巡りあったと感激しました。
 隠岐モーモードーム”へ、闘牛を隠岐では“牛突き”というが、負けた牛はお肉に
牛突き!(この辺で引き分け)
牛突き!(この辺で引き分け)
牛突き後の牛と記念写真!
牛突き後の牛と記念写真!
されてしまう運命となるの
で“引き分け”で終わるよ
うにしますが、実際に見て
いると牛の方が段々興奮し、
いざ引き離しにかかると大
変で、6人の勢子さんが必死
に引き離しに掛ってヤット、
無事終了となりました。
 空港へ向かう途中、海岸を走っていたら、釣り人が「赤いイカ」を釣り上げたとこ
ろに偶然出会いました。ドライバーさんが徐行してくれ、目算で体長50センチを上回
る大物(島では珍しくないが)でした。そういえばイカの刺身も沢山食べました。
 バスは一路、隠岐空港へ、幹事さん、同行の皆さん、有難うございました。
 <追記>私は8ミリカメラでしたので、写真は野村さんはじめ有志の方にご協力い
     ただきました。有難うございました。
 
國賀海岸
國賀海岸
左のあか屏風が丘(穴の開いた岩)
左のあか屏風が丘(穴の開いた岩)
国賀海岸の感動
国賀海岸の感動
 
壇鏡の滝(少し水が少ない)
壇鏡の滝(少し水が少ない)
隠岐騒動勃発の地
隠岐騒動勃発の地
隠岐空港
隠岐空港
 
2012.10. 7 清水 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(5/最終回)
 
仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(5/最終回) 横浜市 清水 有道
 
6)ダンブッラの石窟寺院と黄金寺院
 では最後に1991年に世界 ダンブッラ石窟寺院全景
ダンブッラ石窟寺院全景
第3石窟寺院の天井壁画
第3石窟寺院の天井壁画
 遺産に1件だけ登録され
 たダンブッラ(Dambulla
 )の石窟寺院(Cave Tem
 ples)と黄金寺院(Gold
 en Temple)に移ろう。
*ダンブッラ石窟寺院
 この石窟寺院は五つの石
 窟から成り立っており、それぞれが寺院であるため Cave Temples とか、黄金に塗
 られたり、極彩色の仏像や壁画のために、The Golden Rock Temple とも呼ばれて
 いる。紀元前1世紀に当時の国王ヴァラガム・バーフ(King Valagamu Bahu)が敵
石窟の仏陀座像
石窟の仏陀座像
仏教の旗
仏教の旗
石窟寺院境内の熱帯の睡蓮
石窟寺院境内の熱帯の睡蓮
 から逃れてアヌラーダプラからこの石窟に身を隠し、寺院を開設、12世紀に入って
 後の王ニサンカ・マッラ(Nissanka Malla)が内部を金箔で装飾し、『黄金の岩
 (Ran Giri)』と名付けた。五つの寺にはそれぞれ名前が付けられており、『神々の
ダンブッラ黄金寺院
ダンブッラ黄金寺院
 王の寺』とか、『偉大な新しい寺』とか呼ばれている。
*ダンブッラ黄金寺院
 石窟寺院の入り口に日本の仏教徒のお布施で建てられ
 たモダンなデザインの寺院。インターネット・カフェ
 や仏教に関する博物館が併設されている。
 以上で代表的な仏教遺跡と世界文化遺産について触れ
 ることができたと思うが、ついでに、今回の旅で訪れ
 たスリランカを代表するところをもう少し紹介してお
 きたい。
*紅茶の産地でイギリス人の避暑地として発展したヌワラエリヤ(Nuwara Eliya)
 土地の人はヌワラエリヤをリトル・イングランドと呼 ティー・テラス
ティー・テラス
 んでいる。標高が1800メートルあり、一年中涼しいが
 雨が多く、山の斜面はいつも霧に覆われている。イギ
 リス人は当初コーヒーの栽培を試みたが、病気でコー
 ヒーの木が全滅し、インドのアッサム地方での紅茶栽
 培が成功していたため、その苗木を移入して栽培した
 のが始まりで、以来セイロン紅茶として英国の有名ブ
 ランドを産する大農園プランテーションが山肌の段々
 畑を、緑のきれいな斜面にしている。ティー・テラス(Tea Terrace)である。
 当地にある一番大きなテラスを持つ有名ブランドのマックウッズ(Mackwoods)と
大ジャワビンローの木
大ジャワビンローの木
 セント・クレーアズ(St. Clairs)の工場と売店に寄
 ってみた。
*ペーラーデニア植物園(Paradeniya Botanic Garden)
 キャンディ王朝期に王室の庭園として開園され、イギ
 リスの統治以降規模を60ヘクタールにまで拡大したス
 リランカ最大の植物園である。この園内には日立製作
 所の“この木何の木、気になる木、・・・”のメロデ
 ィとともに流れるテレビ・コマーシャルの撮影された
 原木『大ジャワビンローの木』があることで、日本人にはよく知られたところらし
 い。また、蘭の愛好家には豊富な種類の蘭の花が眺められる温室も素晴らしい。
*ピンナワラ子象孤児園 子象の集団水浴び
子象の集団水浴び
 (Pinnewala Elephant Orphanage)
 ペーラーデニアにあるスリランカ第一の名門大学であ
 るペーラーデニア大学の付属動物園に隣接して設けら
 れている施設で、原生林の中で親に逸れた子象を見付
 けて育て、自然に戻している。一日二回そばを流れて
 いるマハグェリ川で水浴びさせる様子と同じく一日二
 回の授乳を観光客に見せている。
 
仮面
仮面
仮面
仮面
シーマ・マラカヤ寺院
シーマ・マラカヤ寺院
*仮面の町アンバランゴダ(Ambalangoda)の仮面博物館
 スリランカの伝統的な仮面劇で使われる王様、王妃、兵士、コブラ、ドラゴンなど
 の仮面のほか、厄払いに使う仮面も作られている。現在では観光客が壁飾り用に求
 めるものが大半という。
*バイラ湖上に浮かぶ仏教寺院シーマ・マラカヤ寺院(Seema Malakaya Temple)
 スリランカの著名な建築家ジェフリー・バワ(Geoffrey Bawa, 1919〜2003)がベイ
 ラ湖の埋め立てで広がった新市街に造ったもの。寺院の仏像の中には日本の寺院か
 ら贈られたものもあった。
*スリランカの観光産業をリードする旅行社ジェットウイング(Jetwing)
ゴールのLighthouse
ゴールのLighthouse Hotel & Spa
 スリランカの三大旅行社の一つで、日本からの旅行会
 社のパッケージ旅行の ほとんどを現地で受け持って
 いるほか、バード、バタフライ、ホエール・ウオッチ
 ングなどのいろいろな個別のツアーを企画・運用して
 いる。また、同社の強みは国内で11のハイクラス・ホ
 テルを経営していることである。 筆者もその一つ五
 つ星の“Lighthouse Hotel & Spa”にゴールで泊まっ
 た。そのホテルは、上記の建築家ジェフリー・バワの
 デザインになるリゾート・ホテルで、インド洋に面した断崖絶壁に位置した眺めの
 良いホテルだった。
 
 参考までにスリランカは米国でニューヨーク・タイムス紙が2010年の観光旅行先を
31選んだ時の第1位であった。ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルが纏めた
2010年の観光旅行先上位20位でも第2位を占めている。ナショナル・ジオグラフィッ
ク・トラベラー・マガジンが最近発表したところでは、2012年の旅行先として上位6
位以内に入るだろうとしている。英国のサンデータイムズ・トラベル・マガジンも
2012年に訪れるべき観光地として世界の上位5位以内に入るだろうと予測している。
米国や英国の調査では、スリランカが英語の通じる国ということが大きな決め手の一
つにはなっているだろうが、目下脚光を浴びている観光地の一つであることには間違
いないようである。本稿を脱稿した同じ日にこの事実を新聞紙上に見付け、またもタ
イミングの良い旅をしたものだと、流行の先端を走っているような気になりかなり納
得だった。
                             2012年7月12日 記
 
2012. 9.23 清水 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(4)
 
仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(4) 横浜市 清水 有道
 
4)聖地キャンディ(Kandy)
 1988年にシンハラジャ森林保護区の自然遺産、ゴール旧市街とその要塞群の文化遺
 産認定ともに世界遺産に登録された。1474年キャンディに王都が遷都され、キャン
 ディ王国が誕生した。1505年にポルトガルの沿岸支配が始まってもキャンディ王朝
 は認められて残り、その後オランダと共闘してポルトガルを追放すことに成功する
 が、そのオランダとも貿易商権をめぐって対立し、イギリスにスリランカ全土侵略
 されるに及んで、1815年シンハラ王朝最後の都キャンディは陥落した。1831年には
 コロンボとの陸路も開通し、海抜500メートルの清涼な丘陵地帯のキャンディは、イ
 ギリス人の避暑地として栄えることになる。
*仏歯寺(Sri Dalada Maligawa, The Temple of the Tooth)
 キャンディを代表する有名景勝地。寺院内に仏陀の犬歯が祀られている。仏陀がイ
 ンドで紀元前543年に火葬に付されたときに祀られていた犬歯が前述のように4世
 紀になってインドの王様の命でスリランカに持ち込まれ、歴代のスリランカ王が仏
法隆寺から仏歯寺に贈られた鍵と鐘楼
法隆寺から仏歯寺に贈られた鍵と鐘楼
歯寺を建立して子の仏陀の犬歯を祀ったが、度重なる遷
都で仏歯寺も転々とした。スリランカ王朝は統治キャン
ディで終わりを告げたため、仏歯寺も当地が永久所在地
となった。現在も残る八角の御堂は1687年に建設が始め
られ1707年に完成したが、1747〜1782年の間はキャンデ
ィ王朝の王宮として使用された。仏歯が祀られた部屋に
は通常は入れないが、前述のウェサックのポヤ・デーの
祭りに訪れたため日本で言うご開帳の栄に浴し、恭しく
 拝むことができた。 寺の建物はどれも見るべきものが多くゆっくり眺めていたら
 とてもでは見切れない。本堂の内陣に日本の室生寺から贈られた釈迦如来坐像や、
 新寺院の2、3階は博物館になっていて歴史的な貴重品が数多く展示されている。
 他に見るべきものは屋根と柱だけの王の謁見場、日本の法隆寺が贈った鐘とそれを
 吊るした鐘楼、仏歯寺の後方にある英国植民地時代に最高裁判所として使われた英
 国風の建物が、新しく博物館としてオープンする予定らしいが遅れている。
*クイーンズ・ホテル(Queen's Hotel)
 キャンディの町にはイギリス植民地時代に英国の避暑地になっていただけに多くの
 コロニアル風の建物が多く残っている。その代表がこ キャンディアン・ダンスの踊り子たち
キャンディアン・ダンスの踊り子たち
 のクイーンズ・ホテルで、これらの建物も世界遺産の
 対象物となっている。
*キャンディアン・ダンス(Kandian Dance)
 キャンディ地方には伝わる伝統舞踊があり、市内何か
 所かで見ることができる。情熱的な激しい舞、女性の
 しなやかな踊り、戦場に赴く戦士のアクロバティック
 な踊り、日本の皿回しそっくりの舞、ポリネシアの踊
 りに見られるような火を舐めたり、吐き出したりするファイヤー・ダンスや火渡り
 の儀式などを約1時間で鑑賞できる。
ゴール要塞
ゴール要塞
5)ゴール旧市街とその要塞群
 セイロン島の最南端に近いゴール市のポルトガル、オ
 ランダおよびイギリスの植民地時代の遺産である。
 17世紀中頃、ポルトガルを追放してスパイスの交易権
 を得たオランダは、ご承知の東インド会社(VOC)の事
 務所をゴールに置いたが、その際現地の国名もゼイラン
 (Zeilan)と改めた。海岸沿いに300年にわたって聳え
 る砦、城壁内に今も昔のまま残る旧オランダ総督の官
 
ムーンの保塁の上に立つ時計塔
ムーンの保塁の上に立つ時計塔
ゴール国立博物館
ゴール国立博物館
オランダ革新派教会
オランダ革新派教会
 邸、VOCの事務所であった郵便局、図書館、女子大学、考古学事務所、海事博物館に
 オランダ改革派教会など興味を引く建物がいっぱい残っている。
 
2012. 9.16 清水 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(3)
 
仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(3) 横浜市 清水 有道
 
1982年には最初の3ヶ所が登録されている。
1)アヌラーダプラの仏教文化の聖地
 紀元前に花開いた仏教文化の聖地アヌラーダプラ(Anuradhapura)である。
 千年以上の長期にわたり、シンハラ王朝の都が置かれたところで、スリランカ歴史
 上大変重要な地である。
*スリー・マハー菩提樹(Sri Maha Bodhi)
 詳細はすでに<仏陀とスリランカとの関わり>のとこ スリー・マハー菩提樹
スリー・マハー菩提樹
 ろで書いているので、ここでは説明は割愛するが、以
 前はここを起点にして後で説明するルフンヴェリ・セ
 ヤ大塔のところまで、大々的にマハー・ヴィハーラ(
 Maha Vihara)という大きな寺院になっていたという。
 訪ねた時がちょうど上述のポヤ・デー(Poya Day)に
 重なったため、全国から集まった敬虔な多くの信者が
 真剣な祈りを捧げていた。
*トゥーパーラーマ・ダーガバ(Thuparama Dagaba)
 デーヴァ―ナンピヤ・ティッサ王(King Devanampiya Tissa)治下(紀元前250〜210
 年)に最初に建てられたストゥーパ。何回も破壊され、現在の建物は1840年に再建
 されたもの。仏陀の鎖骨が祀られていると信じられている仏教史上重要な史跡である。
*ルワンウェリ・サーヤ大塔(Ruvanweli Saya Dagoba) ルワンウェリ・サーヤ大塔
ルワンウェリ・サーヤ大塔
 アヌラダープラを象徴する大塔(ダゴバ)で、白く輝
 くダゴバが、数百の象のレリーフで覆われている。紀
 元前161年に王位に就いたダットハガマーニ(Dutthaga
 mani)が時の建築家にミルクの泡に似せたドーム型に
 デザインさせ 、紀元前140年に完成された最高傑作と
 いわれる。現在では55mの高さがあるが、オリジナル
 はもっと高かったと言われる。
 
*イスルムニア精舎(IsurumuniyaVihara Rock Temple) イスルムニアの愛人
イスルムニアの愛人
 上述のデーヴァ―ナンピヤ・ティッサ王朝期に建てら
 れたといわれる。岩の上に御堂があり、岩肌には「水
 浴びをする象」や「人物と馬の顔」が彫り込まれ、「
 イスルムニアの愛人」と呼ばれる美しい彫刻や極彩色
 に塗られた釈迦の涅槃像、精舎の入り口の左右のガー
 ド・ストーン彫刻等々芸術的にも優れた作品が多く見
 られた。
2)古代都市ポロンナルワ(Polonnaruwa)
 10世紀にアヌラーダプラは侵略を受け、ポロンナルワ(Polonnnaruwa)が新たな首
 都として建設された。11世紀の後半になってパラクラマ・バーフ王(King Parakra
 ma Bahu)の統治下にポロンナルワは壮大な城郭都市へと発展した。 現在でも乾季
 に農業用水として大変な利用価値が多い広大な貯水池パラクラマ・サムドラ(Parak 
 rama Samudra、「パラクラマ王の海」の意)を建造し、たくさんの僧院、寺院、宮殿
 や沐浴場を造った。もちろんそれらの建物の中にいろいろ貴重な仏像があり、豊か
 な遺跡の宝庫と言われる所以である。中の幾つかを紹介しよう。
*旧王宮跡を囲む方形庭園とその中にある建物遺跡
 (Royal Palace and it’s Quard rangle)
 パラクラマ・バーフ一世の宮殿跡。当時は36本の柱で支えられた7階建て、全50室
 の当時としては大変に技術水準の高い建築物だったようだ。 現在は3階部分まで
 しか残されていない。3階から上は多分木造であったろうと推察されている。この
 城壁内には合計11の建物がある。ポロンナルワの仏歯寺が置かれるなど中世シンハ
 ラ王朝の宗教センターとして機能したところ。
*ラトナギリ・ワタダーゲーとハタダーゲー (Ratnagiri Vatadage & Hatadage)
 ポロンナルワの一番大きな遺跡である。 円形をした方がラトナキリ・ワタダーゲ
 ーで、四方に入り口がある。長方形をした方がハタダーゲー。
*アタダーゲー(Atadage)
 シンハラ王朝最初の仏歯寺と言われている。合計54本の石柱に囲まれ、高さ3メー
 トルの立像が聳えている。仏教を国教とする歴代シンハラ王は仏歯の管理人として
 政治を行った。その意味で、仏歯寺としてのアタダーゲーは王権の後ろ盾となる最
 も重要な寺院である。
*ガル・ヴィハーラ(Gal Vihara)
 天然石に彫刻された14メートルの涅槃像、すぐ傍の7メートルの腕を交差させる珍
 しい立像、深く瞑想する座像、また、岩肌に直接彫刻された4体目の仏像。
 これら4体の像はスリランカ芸術の傑作として知られるものである。
ラトナギリ・ワタダーゲ
ラトナギリ・ワタダーゲ
アタダーゲー
アタダーゲー
ガル・ヴィハーラの14メートルの涅槃像
ガル・ヴィハーラの14メートルの涅槃像
3)古代都市シーギリヤ(Sigiriya)
 1982年にユネスコから認定された3ヶ所の内、第3番目はシーギリヤである。5世
 紀に建造されたシーギリヤ、俗にライオン・ロックと呼ばれる。ジャングルの上200
シーギリヤ全景
シーギリヤ全景
シーギリヤを背景に
シーギリヤを背景に
メートルに聳え立つ岩山の
平らな山頂に作られた宮殿
跡と中腹に描かれた優美で
神秘に満ちた半裸の美女達
のフレスコ画で知られる古
代都市遺跡である。紀元前
3世紀までは古代仏教の僧
院であったとする説が有力。
 王位を得たカッサパ(Kassapa 477〜495)が宮殿とした。山頂までは鉄の梯子階段
 を実に1,200段、自分の足で登らねばならない。
*岩山にある女性の洞窟壁画
 『シーギリヤ・レディー(Sigiriya Lady)』の愛称で知られるフレスコ壁画は断崖
 絶壁の中腹、頂上寄りにあり、二つの洞窟に19人の女性を描いている。カッサパ王
 が命じて描かせたものであるといわれ、トップレスの女性が王に関連のある上流階
 級の女性、服を着ているのが侍女とも言われるが真偽は明らかではない。1875年に
 イギリス人の手で発掘され、発見当時は500人くらいの美女が描かれていたらしいが、
 1967年のバンダル人の爆破でほとんどが失われた。現在は保存に細心の注意が払われ
 ており、フラッシュを使っての写真撮影は禁止されている。筆者も写真は遠慮した。
*ミラー・ウォール(Mirror Wall)
 フレスコ画の少し先にある3メートルの高さの壁で、漆喰を塗り、その上に白色塗
 料を置いて造ったもののようだ。これは6世紀から14世紀にかけて当地を訪れた人
 々がその印象を詩にしてこの壁に残したものらしい。無数の絵やシンハラ文字が刻
 まれている。しかし、古代シンハラ文字のためその真意が読めないものも多いとい
 う。
*ライオン・テラス(Lion Terrace)
 現在はライオンの2本の足の間にある石段を登り、頂上に向かっている道が、昔は
 ライオンも胴体も頭もあって、胎内からライオンの口を出て、頂上に出ることにな
 っていたらしい。因みに、シーギリヤの語源は、シンハラ語で『シンハ(ライオン)
 』と『ギリヤ(喉)』の合成語として生まれ、この登 岩頂上で万歳
岩頂上で万歳
 り口が地名の起こりとのことだ。
*宮殿跡(Old Palace Ruin)
 現在は頂上には宮殿の建物は一切なく、土台と王の沐
 浴に使われた池が残されているのみである。山頂に立
 った訪問者は日本の万歳の格好をして記念写真に納ま
 るのが当地の習わしとか、早速筆者も近くの人に頼ん
 で負けじと挑戦した。
 
2012. 9.10 清水 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(2)
 
仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(2) 横浜市 清水 有道
 
<日本でいう花祭りの真最中の訪問になった>
 太陰暦で行われるスリランカ独特のウェサック(Vesak)のポヤ・デー(PoyaDay)と
呼ばれる国民の祝日がそれであるが、仏陀の生誕・悟りと涅槃を同時に祝う祭りであ
る。ちょうど筆者が訪ねた5月3日から10日までの間はこの祭りの真っ最中でした。
町には祝いの提灯や灯篭(以前は木と紙で作られたであろうクードウ(Koodu)と呼ば
クードウ
クードウ
れる明りの入る灯篭が今はプラスティックで作られてい
るのであろう)が家の周り、道路の両側の木々の枝に列
をなして飾られている。また、この時期にはアームス・
ギビング(Alms-giving)と呼ばれる食事や飲み物の無償
の施しが道端の至る所で行われ、例え一時のツーリスト
であっても、同じ様にその施しを与られるのである。根
底に流れる彼らの敬虔な仏教徒としての精神が深く根付
いていて行われているのである。ウェサックでは、これ
らクードウの飾りが幻想的な雰囲気を醸し出しているだけではなく、無償の施しのほ
かに仏陀の生涯を美しい絵画で物語として数枚の枠の付いた飾り絵パンダル(Pandal)
に作り、街頭や寺院の境内を飾っている。民衆の喜びに溢れ、一年のほとんどは遥か
に静かであろう街々に色彩と平和な音色をもたらし、日本と同じ仏教の国にこれほど
神聖さ、敬虔さ、仏の教えをこの時期だけでも忠実に守りたいとする率直な心を民に
与えられる力のすごさに正直大変驚いた。聞けばまだまだ一年の間には幾つもの祭り
や、仏教伝来そのものを祭り、今の世のあることに感謝する場面が巡ってくるという
のであるから、生温い日本人の信仰心ではとても考え及ばない、崇高な世界がスリラ
ンカには実在していることを思い知らされた。ただ、筆者には困ったことがあった。
それは、驚いたことにこの期間中には外国人の宿泊するホテルにあっても、アルコー
ル飲料は一切提供されないことだった。もちろん街のレストラン、食堂でも一切求め
ることは出来ません。この厳かなルールを筆者は残念ながら守れず、ホテルの部屋の
ミニバーに密かに蓄えを要求して忍ばせて、人目に付かないように、ナイトキャップ
として絶望を味わう事なきを得た。もとより自慢して書くことではありませんね。
<仏陀とセイロンの関わり>
 釈尊、仏陀、釈迦などいろいろな呼び方があるが、本名ゴーダマ・シッダッタはイ
ンドの皇族の家に生まれた。宮殿の外で人々の苦しみを見るにつけ、人間が苦から解
放される生き方とは何かを求めて、自ら豊かな王宮での暮らしを捨てて放浪の旅に出、
長年の瞑想修行の後、菩提樹の下でついに悟りを開き、悟りを得た者を指す仏陀とな
った。そしてインド各地を巡り、悟りを教義として仏道を布教したことは皆様のご承
知のところである。
 ところが今回の旅行で、仏陀がスリランカに3度も訪れていることが分かった。そ
の結果、多くのスリランカの人々が世界三大宗教の一つに数えられる仏教の教義を信
奉することになったのである。仏陀が初めてスリランカを訪れたのは紀元前528年、実
に当時の部族闘争の芽を摘み取るためであったと言われているから更に驚きである。
そのときに既に人々は仏陀の髪をいただき、仏陀の存命中にその髪を祀るためのダー
ガバ(ドーム型のストゥーパ)を建てたといわれる。あとで触れる旧首都キャンディ
の近くにマヒヤンガナ(Mahiyangana)という地名があるが、そこに実に2500年以上の
時を経て今もそのダーガバは人々の信仰を集めている。 スリー・マハー菩提樹
スリー・マハー菩提樹
 紀元前247年には、当時のインドのアショーカ王は息子
のマヒンダ(Mahinda)をスリランカに遣わし、仏陀がそ
の下で悟りを開いたとされる菩提樹の分け木を金の鉢に
植えて託した。この分け木はこれも後に述べる古都アヌ
ラーダブラ(Anuradhapura)に植えられ、今もスリー・
マハー菩提樹(SriMaha Bodhi)として大切に保護され、
多くの参拝者を集めている。なお、インドではこの分け
木を取った親菩提樹はすでに枯れて無く、スリランカの分け木が唯一仏陀に結び付く
神聖な木としての重きを置いて扱われている。
 最も大きな関係は、仏陀の犬歯を祀った仏歯寺である。現在の仏歯寺はキャンディ
(Kandy)にあるが、最初南インドにあったカリンガのバーギメイ王の娘ヘーマ・マー
ラが王の遺言により、バーギメイ王が建てた仏歯を祀る寺から仏歯を自分の巻き上げ
た長髪の中に隠して持ち、スリランカに逃亡したことに始まる。時に301年または302
年のことと言われる。この仏歯を当時のスリランカ王キッ・スリー・メヴァンナ(296
〜324)が王の権威を象徴するものとして受け入れ、古代シンハラ王朝の古都アヌラー
ダプラ、次に中世シンハラ王朝の都ポロンナルワに仏歯を祀る寺院が置かれた。シン
仏歯寺の八角の御堂
仏歯寺の八角の御堂
ハラ王朝がポロンナルワを放棄したときに都は転々とし
、仏歯も遷都とともに移動し、キャンディ王朝のヴィス
ーラ・ダルマ・スリヤ一世が1590年に現在のキャンディ
の地に仏歯寺を創建し、後に四代後のキャンディ王スリ
ー・ヴィーラ・パラークラマ・ナーランドゥラ・シンハ
王(1687〜1707)が現在の建物に建て替えている。1815
年にキャンディ王朝が崩壊して全島がイギリス植民地と
なった時代に、仏歯も一時期イギリス植民地政府の管理
下に置かれたが、1847年に仏歯寺に返還され、現在に至っている。
<訪れた仏教遺産はどんなところ?>
 現在スリランカには8ヶ所がユネスコの世界遺産に登録されていて、その内6ヶ所
が主に仏教に関係する文化遺産であり、残る2ヶ所は自然遺産となっている。筆者は
今回の旅行で、6ヶ所の文化遺産の全てに訪問することができた。スリランカの6ヶ
所の文化遺産の内4ヶ所がスリランカ島のほぼ中央部に当たる貴重な遺跡が集中する
『文化三角地帯(Cultural Triangle)』に位置しているため、全てを訪問するにも便
利である。ユネスコから認定された順にこれら文化遺産6ヶ所について、掻い摘んで
要点を説明することにしよう。
 
2012. 9. 2 清水 仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(1)
 
仏教遺跡を訪ねて”奇跡の島“スリランカへ(1) 横浜市 清水 有道
 
 このところ海外旅行記には、“念願の”とか“待望の”とかの書き出しで始まる文
が多くなった。それだけ行きたいのになかなか日程他の条件が噛み合わなかったとい
う積年の思いが感じられる。今年はとうとう釈迦牟尼誕生の地、現在のパキスタン他
を含む当時のインドを除いて、いわゆる仏教の聖地、仏教の遺跡として筆者に残され
ていた最後の地、スリランカを訪ねることが出来たので、仏教遺跡のほとんどに足を
踏み入れたことになるのだろう。なんとない安堵感を感じているというのが偽らざる
現在の心境である。今回のスリランカで世界の105ヶ国を訪ねたことになった。
 カンボジアのアンコールワットを中心とした遺跡群、インドネシア・ジャワ島のボ
ルブドールやバリ島の遺跡、タイほかインドシナ半島各国の寺院、中国各地の寺院、
韓国の慶州の仏国寺を中心とした遺跡、そして日本の比叡山、高野山の小乗仏教聖地、
その後の京都・奈良や鎌倉五山の禅宗と鎌倉時代以降の大乗仏教の中心地等、きわめ
て深くはないにしても一通り訪ね歩いて、仏教伝搬の全体像を見渡せた思いがしてい
る。
 ところで、今回のテーマからは外れる余談になるが、インドから伝来した仏教の伝
搬した中継地には、いずれの地にも大規模な仏塔が多くみられる。上記のインドネシ
アのボロブドールにしても、カンボジアのアンコール・トムの寺院にも大きなストゥ
ーバを何基も有する大仏塔が見られる。これに対して、仏教伝搬の最終地日本には三
重塔、五重塔あるいは多宝塔は多く見られるが、大規模な仏塔はないものと思ってい
た。ところが近年、大阪の堺市にある頭塔(ずとう)、奈良市の新薬師寺の近くにあ
る土塔が上記の東南アジアの大規模仏塔に極めて近似のものとして研究者の注目する
ところとなっていることが分かった。筆者も是非近々訪ねたいものと訪問のアポを準
備中である。
<スリランカという国>
 さて、本題に戻って先ず始めにスリランカという国について少し説明しておこう。
スリランカは面積65,610kuで、我が国の北海道より少し小さいインド洋のインドの東
側南方寄りに位置する島国。過去1505〜1658年までの154年間はポルトガルに、1658〜
1796年までの139年間はオランダに、そして1796〜1948年までの153年間は英国の植民
地になった経験を有する国。民族的には仏教徒のシンハラ族74%、ヒンドゥー教徒のタ
ミール族18%、イスラム教徒のモスリム(ムーア)人7%、その他主として旧宗主国の
人々の子孫バーガーと呼ばれるキリスト教徒が約1%という複数民族構成である。
 スリランカはつい近年まで我が国でも渡航禁止区域に スリランカ地図
スリランカ地図
していた。それはインドに近い北方地域で主にシンハラ
族とタミール族との対立から1983年中ごろから時の政府
に抵抗する『タミールの虎(Tamil Tigers)』と呼ばれ
るタミール族急進派がタミール国家の独立を要求して民
族紛争が勃発し、やがて内戦化し、2009年5月18日に陸軍
によるタミールの虎の掃討が成立して現在の平和が復元
されるまで26年以上にわたり戦乱状態が続いていたため
である。同国の戦後の復興には殊の外日本の支援に負うところが多く、特に成田山・
新勝寺、川崎市・川崎大師、東京浅草・浅草寺、長野・善光寺、斑鳩・法隆寺、京都・
東西両本願寺、清水寺、宇治・平等院、奈良の室生寺や長谷寺等の宗教関係機関、我が
国のODAの援助やJAICAの活動を通じて道路整備、寺院の復興、農業指導等々日本との結
び付きは深い。1952年に当時のセイロンと国交が樹立されてから今年2012年は60周年
の記念の年に当たる。
 2004年のスマトラ沖地震による津波では、南部海岸に大きな被害が及び、3万8千人
の犠牲者を出したが、西側の南部ゴール(Galle)市の近くパラーリアにはその時の記
念として「津波記念碑」が建立されている。その近くには日本の浄土真宗大谷派総本
山東本願寺が建立した「ツナミ・ホンガンジ・ヴィハーラ(Tsunami Honganji Viha
ra)」という寺院があり、大きな金色に光り輝く釈迦如来立像が街道から眺められる。
いずれもゴールに向かうバスの車窓から眺められた。そのほか気を付けて観光バスか
ら通りに面した建物を眺めていると、ところどころに数多く、上記の日本の寺院が丸
ごと寄進した幼稚園、学校、スーパーマーケットなどが目立っていた。
 1972年のそれまでのセイロンから名称変更を行って、現在の正式国名はスリランカ
民主社会主義共和国(Democratic Socialist Republic of SriLanka)と呼ばれる。
スリランカ国旗
スリランカ国旗
なお、旧名のセイロンはアラブ語ではセレンディブ(Se
rendib),英語ではセレンディップ(Serendip)と呼ばれ
『偶然の発見』の意味を有しているとのことである。現
在のスリランカはスリ(Sri、『光り輝く』の意)と、ラ
ンカ(Lanka,『島』の意)即ち、『光り輝く島』を意味
している。俗にスリランカは、『インド洋の真珠』と呼
ばれている。シンハラ王朝時代から続く象徴の象をデザ
イン化し、仏教のシンボルである菩提樹の葉を四隅に配
し、サフラン色でヒンドゥー教およびタミール人を表し、緑色でイスラム教またはム
ーア人を表した国旗となっている。長くコロンボ(Colombo)が首都であったが、1984
年スリー・ジャヤワルダナプラ(Srijayawardenepura)に遷都された。しかし、依然
として多くの中央官庁はコロンボに残されたままで、首都としての機能は未だ十分に
発揮されていない由である。あまりに長い名前のため、現地では略称のコーッテ(Ko
tte)が良く使われるそうだ。現在の大統領はマヒンダ・ラージャバクサ(Mahinda Ra
japaksa)である。
 スリランカは世界中で一番早く女性の大統領バンダラナイケ女史をいただいた国で
インドのガンジー首相、英国のマーガレット・サッチャーよりも前の話である。娘の
バンダラナイケ女史も後に同じく大統領になっている。 アランダ・ヴィオラセラ
アランダ・ヴィオラセラ
 島には原生林がそのまま残されているところが何か所
もあり、自然保護の国立公園として野生の象、虎、彪、
鰐、熊、馬、牛、山羊等の多くの野獣、孔雀をはじめと
するたくさんの野鳥、蘭などの多くの原種植物、昆虫な
ど生物の宝庫でもある。
 同国は我が国からは約7,700q離れており、時差3時
間30分、飛行時間10時間余である。成田とコロンボの間
には週5便のスリランカ航空の直行便が就航している。