| 話 題 『 旅 行 記 』−5 | 2010年1月〜2012年8月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2012. 8.19 | 御在所岳、赤目四十八滝と伊吹山駆けある記 投稿:清水有道 | ![]() |
| 2012. 2.23 | 越後路一人旅 投稿;辻 隆太 | ![]() |
| 2011.12. 4 | ☆5都市を巡る台湾大縦断の旅 4日間 投稿;長田 一臣 | ![]() |
| 2011. 2.27 | ニュージーランドの旅 投稿:藤田慎吾 | ![]() |
| 2010.12.19 | 三陸海岸大縦走の3日間ツアーに参加 投稿:野村 一信 | ![]() |
| 2010.10.31 | 板門店ツアー参加 投稿;梅原 実 | ![]() |
| 2010. 2. 7 | マウイよいとこ一度はおいで!(10/最終回) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2010. 1.24 | マウイよいとこ一度はおいで!(9-8) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2010. 1.10 | マウイよいとこ一度はおいで!(9-7) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2010. 1. 3 | ドイツ旅行−2/最終回(ベルリン一人旅) 投稿;稲垣 貢 | ![]() |
| 話 題 『 旅 行 記 』 |
| 2012. 8.19 | 清水 | 御在所岳、赤目四十八滝と伊吹山駆けある記 投稿:清水有道 | ![]() |
| 御在所岳、赤目四十八滝と伊吹山駆けある記 | 横浜市 清水 有道 | |
| 筆者は本州中央の愛知、三重、滋賀および岐阜の4県にまたがる地域で、直ぐ近く | |||
| まで訪ねていながら未だに足を踏み入れていない首題の2名山と1渓流を是非とも1 | |||
| 回の旅で巡りたいと常々思い続け、日本の旅行社各社にこのコースを提案してきた。 | |||
| ちょうどそんなとき送られて来たクラブツーリズム社の案内の中にこの企画が具体化 | |||
| されているのを見付け、早速参加することにした。往復新幹線利用の2泊3日の旅だ | |||
| った。 | |||
| コースの概要と筆者の実際に要したタイムを纏めてみよう。 | |||
| <1日目> | |||
| 新幹線名古屋駅からバスで湯の山温泉へ。そこからロープウェイと観光リフトの往 | |||
| 復で鈴鹿山脈の最高峰で、 |
ロープウエイの中から見る御在所岳頂上 |
御在所岳頂上の筆者 |
|
| 日本弐百名山と関西百名山 | |||
| に選定されている御在所岳 | |||
| (標高1,212m)を極めるこ | |||
| とができた。付近一帯は鈴 | |||
| 鹿国定公園に指定されてい | |||
| る。 | |||
関宿保存地区の景観 |
そのあと、旧東海道53次の47番目の宿場町『関宿(せき | ||
| じゅく)』を見学して、忍者と芭蕉の町伊賀上野に泊ま | |||
| った。 | |||
| 左は、『関宿(せきじゅく)保存地区の景観』福島県の | |||
| 『大内宿』同様電柱も撤去して往時の様子を建物と共に | |||
| 保存している。 | |||
| (御在所岳コースタイム) | |||
| 湯の山温泉駅13:00―(ロープウェイ)―山上公園駅―(観光リフト)―頂上駅 | |||
| ・・・御在所岳頂上(1,212m)・・・望湖台・・・頂上駅―(観光リフト)― | |||
| 山上公園駅―(ロープウェイ)―14:15湯の山温泉駅 | |||
| <2日目> | |||
| 伊賀上野からバスで赤目四十八滝の入り口に向かい、 |
千手滝 |
||
| そのうちの代表的な赤目5瀑(不動滝、千手滝、布曳滝、 | |||
| 荷担滝、琵琶滝)を往復2時間半かけて渓谷沿いに歩い | |||
| た。 | |||
| そのあと、バスで琵琶湖畔の近江八幡に向かい、日本 | |||
| の3大水郷巡りのうち一番との評価の高い、手漕ぎの和 | |||
| 船による水郷巡りをして、長浜太閤温泉に泊まった。 | |||
布曳滝 |
荷担滝(にないたき) |
琵琶滝 |
|
| 入り口駐車場ドライブイン8:45・・・不動滝(落差15m)・・・千手滝 | |||
| (落差15m)・・・布曳滝(落差30m)・・・荷担滝(にないたき、落差 | |||
| 8m)・・・琵琶滝(落差15m)10:15・・・(通常片道2,870m80分) | |||
| ・・・11:30入り口駐車場ドライブイン | |||
| <3日目> | |||
| 長浜太閤温泉から伊吹山ドライブウェイを通り伊吹山 |
伊吹山の一等三角点のある頂上で |
||
| 9合目駐車場に向かい、頂上を往復した。伊吹山は滋賀 | |||
| 県と岐阜県の県境にある伊吹山地の主峰(標高1,377m) | |||
| で、日本百名山、新花の百名山および関西百名山に選定 | |||
| されている。一等三角点が置かれている頂上は滋賀県米 | |||
| 原市に属しており、付近一帯は琵琶湖国定公園に指定さ | |||
| れている。そのあと、我が国の数ある城の中で、国宝に | |||
| 指定されている4城の一つ、白帝城とも呼ばれている犬 | |||
| 山城に寄り、豊橋から新幹線で帰京した。 | |||
| (伊吹山コースタイム) | |||
| 9合目駐車場9:10・・・(西遊歩道1,000m通常40分)・・・ | |||
| 9:55伊吹山山頂(1,377m)10:05・・・(東遊歩道1,500m、通常60分) | |||
| ・・・10:40 9合目駐車場 | |||
| 3日間とも連日雨との天気予報とは裏腹に一粒の雨にも合わず、予定通り山頂を踏 | |||
| み、名瀑をすべて眺められた。だが、どの山も川も訪れた前日まで大雨に見舞われて | |||
| いたため道は泥田のようにぬかるみ、岩も石も滑りやすく、チロリアンシューズに普 | |||
| 通のズボンといういでたちの筆者には難儀な山行となり、靴もズボンの裾も泥まみれ | |||
| になってしまった。特に帰京日の午前中の伊吹山の下山路に使った東遊歩道は田圃の | |||
| 中を歩くような有様で、汚れたままの姿で新幹線に乗るのはさすがに勇気が要った。 | |||
| 欲を言えばきりがないが、何としても残念だったのは、伊吹山が深い霧の中に2〜 | |||
| 3メートル先も見えないような具合だったので、折角楽しみにしていた同山の花が充 | |||
| 分に見られなかったことと、御在所岳とともに頂上からの眺望が一切楽しめなかった | |||
| ことである。どちらの山も単独に登ろうとすれば容易であるから、いつの日か改めて | |||
| トライすることもできるだろう。 | |||
| 最後に、上記のような悪条件の中でも、“イブキ”の3文字を名前の前に冠する三 | |||
| つの植物『イブキフウロ』、『イブキトラノオ』と『イブキシモツケ』の花と帰化植 | |||
| 物として伊吹山にしか見られない『キバナノレンリソウ』と暫くぶりに眺めた『ユウ | |||
| スゲ』および『キンバイソウ』の花をカメラに収めることができたので、ご披露して | |||
| 本稿を閉じることにしたい。 | |||
| (1)『イブキフウロ』 |
『イブキフウロ』 |
||
| 伊吹山と東北の一部にしか分布していない限定種。花 | |||
| 弁の先端が三裂することが大きな特徴であるが、他に | |||
| 『ハクサンフウロ』と『エゾフウロ』が共存しており、 | |||
| これらの間に交互に交配が進み、中間種が多く見られる | |||
| ので、この写真の花も純粋の『イブキフウロ』とは言え | |||
| ないかも知れない。 | |||
| (2)『イブキトラノオ』 |
『イブキトラノオ』 |
||
| 北海道から九州の山地から高山帯に広く分布する。 | |||
| 最初に伊吹山で見付けられたので“イブキ”の名が付い | |||
| た。 | |||
| (3)『イブキシモツケ』 |
『イブキシモツケ』 |
||
| ”シモツケ“の仲間は幾つかあるが、これも伊吹山で | |||
| 最初に見付けられたため”イブキ“の名が冠せられた。 | |||
| (4)『キバナノレンリソウ』 |
『キバナノレンリソウ』 |
||
| 1568年に織田信長がポルトガルの宣教師に欧州から薬 | |||
| 草を持ち込ませたときに紛れて植えられて以来帰化した | |||
| と考えられている。日本の他のところではまだ分布の記 | |||
| 録はないと言われている。 | |||
| (5)『ユウスゲ』 |
『ユウスゲ』 |
||
| 本州から九州に分布する多年草。午後4時ごろから咲 | |||
| き始めるのが普通であるが、当日は正午に近かったにも | |||
| かかわらず、深い霧の中であったため花を見ることがで | |||
| きた。 | |||
| (6)『キンバイソウ』 |
『キンバイソウ』 |
||
| 本州中部・近畿の山中のやや湿った草地に生育する。 | |||
| 高山植物の『ミヤマキンバイ』によく似ている。伊吹山 | |||
| に多い種。 | |||
| 了 | |||
| 2012年7月24日(火) 記 | |||
| 2012. 2.23 | 辻 | 越後路一人旅 | ![]() |
| 越後路一人旅 | 佐野市 辻 隆太 | |
上越の雪景色 |
今年の冬はとても寒い。俺より先に逝った新潟六日町 | ||
| の友の7回忌に行ってきた。 | |||
| 立春とは云え風は冷たく、国境のトンネルの手前から | |||
| すでに雪国であった。 | |||
| あいつも転勤で新潟に住むようになった。「もとをた | |||
| だせば落花生畑育ち、会社の招きの雪見酒、いいぞ、そ | |||
| れやれともてはやされて、今じゃ、今じゃ女房子供を雪 | |||
| の中」なんて歌っているだろう。千葉育ちの朋友だった。 | |||
| 法事を済ませた彼の倅さんが手配してくれたタクシーで、同じ南魚沼市の「上の原 | |||
| 高原」の宿へ向かった。途中運転手さんが「雪祭りをやっているから寄ってみません | |||
| か」とのこと。ちょうど良さそうなので寄ってみた。雪の原にかがり火もいいもんだ。 | |||
| 侍!甲冑姿のボランティ |
雪原のかがり火 |
雪祭りの甲冑姿 |
|
| アさん。町お越しの内容や | |||
| 被災地からの人のおもてな | |||
| し、近隣の山の雪の様子を | |||
| 説明してくれた。 | |||
| タクシーの運転手さんか | |||
| らも聞いていたので、よく | |||
| わかった。 | |||
| 大きなカマクラの中では暖かそうに一家が楽しんでいた。この方たちもあの地震の | |||
| 被災者だそうな。穴の主?のおばさんに呼ばれたので皆さんのお許しを得てチョイと | |||
| 仲間に入れてもらった。俺の分もあるとのこと、熱いキノコ汁1椀、タダで御馳走に | |||
| なった。・・・と、おばさんが「ミカンが焼けるまでこの地方に伝わる昔話をお話し | |||
かまくらの語り部 |
ましょう」 | ||
| 「権現堂山のふもとの村に、息子の弥三郎と嫁と孫の | |||
| 四人で幸せに暮らしていた『弥三郎ばさ』(弥三郎のう | |||
| ちのおばあさん)がいたが、ある日突然弥三郎ばさに不 | |||
| 幸が訪れた。 | |||
| それは、腕利きの猟師だった息子の弥三郎が深い雪の | |||
| 山へ、猟に出たまま亡くなった。嫁も悲しみのあまり死 | |||
| んでしまった。 | |||
| 残された与三郎ばさは赤子を抱いて、村のはづれまで乳をもらいに歩いたが、とう | |||
| とう乳はもらえなかった。腹が減って泣きじゃくる赤子と二人きり、途方にくれる毎 | |||
| 日だった。やせ細ってしまった赤子は、与三郎ばさに抱かれたままで冷たくなってし | |||
| まった。 | |||
| それからの婆さんは、飢えと寒さと悲しみで髪はぼうぼう、頬はこけ、目玉はぎょ | |||
| ろぎょろな『鬼ばさ』となり、家を出て権現堂山のほら穴に住むようになった。赤子 | |||
| のことを思い出しては、吹雪の晩に村へ降りて、泣いている子供を探し、さらうよう | |||
| になったそうだ。 | |||
| 今でも、権現堂山には弥三郎ばさが住んでいたほら穴が残っていると。 | |||
| ばさは、どこへ行ったやら。坊やもばさにさらわれんように、いい子でな。困って | |||
| いる人を助ける立派な大人になれや」・・・ | |||
| ちょうど焼けたミカンを一つづつ配ってくれた。じい〜っと聞いていた坊やがにっ | |||
| こり笑った。みんなもほっとしてニコニコ顔に。おばさんは満足そうに笑った。ひと | |||
| 時、何かから解放されていた。今夜は降りしきる雪の宿の一人寝、「不幸と絆」を肴 | |||
| に熱燗をとった。 おわり | |||
| 2011.12. 4 | 長田 | ☆5都市を巡る台湾大縦断の旅 4日間 | ![]() |
| ☆5都市を巡る台湾大縦断の旅 4日間 | 横浜市 長田 一臣 | |
| 東京計器OB有志旅行会 2011.11.6〜9 | |||
| ♪♪歴史は古く“昭和”より・・・♪♪ 私達のグループ旅行も40年をこえました。 | |||
| 国内旅行、海外旅行と交互に行く旅は、今年は海外旅行の番です。 | |||
| 夫婦ペア7組、単身5名の19名貸切ツアーです。 | |||
| 新生なった羽田国際空港には、7時40分の集合時間前に全員揃っていました。懐か | |||
| しい顔、 顔、顔。 | |||
| 台湾建国100周年記念ということで、ペアの年齢が100歳を超えると、台湾政府から | |||
| 1人4,000円、2人で8,000円の買い物券をプレゼントしてくれました。もちろん、7 | |||
| 組のペアは余裕十分の100歳超えであり、思いもよらない嬉しい贈り物に笑顔・笑顔! | |||
| ★ 1日目 11月6日(日) | |||
| 添乗員なし、現地ガイド付のため羽田空港ではなれない手つきでコンピューター画 | |||
| 面を見ながらの搭乗券発行には、大変苦労しました。若い人ならなんでもないのに!。 | |||
| 定刻、12時48分台北に到着、現地ガイドの黄さん(女 |
台北松山空港のお迎え観光バスに乗る |
||
| 性)が迎えにきてくれました。バスで台中へ3時間の旅 | |||
| の出発です。19名に対し、1列、2列のゆったりした36 | |||
| 席の大型バスで、リラックスして旅が出来ました。 | |||
| 早速、バスの中で両替。1元2.7円でした。100元のチ | |||
| ョコレートなら、3倍して1割を引くと、300円-30円= | |||
| 270円と簡単に計算が出来、金銭感覚が実感出来ました。 | |||
| バスの中でガイドが「町の看板にたくさん汽車とあるがこれはなんでしょうか」と | |||
| いう問いに、皆が「自動車」と答え正解。すると、ガイドが「それでは、汽車は何と | |||
| 言うのか?」という問いに、皆が考えていると自動車?ウソ〜・・・「火車」でした。 | |||
| 宝覚禅寺というお寺を参拝、そこには日本人遺骨安置所があり、日本人の名前がい | |||
| ろいろありました。大きなホテイさんがあり身の一部をなでるとご利益があるという | |||
| ことでした。頭をなでるとボケ防止になるとガイドにいわれ、皆、今更手遅れだけれ | |||
| ども、だがひょっとすると、と言うことで、皆で頭をなでなでしました。 | |||
| 更に境内の奥へ行くと、ホテイさんの親玉ともいうべきか、30.1mの黄金の弥勒大 | |||
| 佛像には一同ビックリ!大仏の内部は民族文物館になっていて、臍のところが窓にな | |||
| っているとのこと。 | |||
| 夕食時、皆で健康を願って乾杯。 | |||
宝覚禅寺 |
宝覚禅寺布袋様のご利益を願って |
黄金の弥勒大仏像 |
|
日本人遺骨安置所を参拝する |
夕食のメンバーたち1 |
夕食のメンバーたち2 |
|
| ★ 2日目 11月7日(月) | |||
| 目覚まし時計を6時に設定し、6時30分からの朝食に行ったが誰もいない。腕時計 | |||
| は時差1時間を考慮し1時間遅らせたが、目覚まし時計は日本時間のままだったので | |||
| 5時30分でした。残念!。 | |||
| 文武廟という所を参拝。1999年の地震の時に日本からの寄付があり名前が石に刻ま | |||
| れていました。そんな事もあり、今回の東日本大震災には台湾は最も早く災害支援を | |||
| してくれました。 | |||
泊まったホテルの全景 |
日月譚 |
文武廟 |
|
| 新台南は、トヨタ、ホンダの工場があり大変活気に満ちていた。オートバイがたく | |||
| さん走っていて、自動車がとまどうほどでした。 | |||
| 日月譚は、台湾のほぼ中央にある天然湖であり代表的な景勝地でしたがあいにく雨 | |||
| が降り出しちょっと散策しただけで切り上げた。 | |||
| オプションツアー、台湾南部の最大の夜市、六合夜市散策と愛河クルーズは、雨だ | |||
| ったのでバスの中で皆で協議をし、ガイドに本社と交渉してもらい残念だが中止とし | |||
| ました。 | |||
| ★ 3日目 11月8日(火) | |||
| 高雄観光とショッピング、寿山公園を散策したあと、新幹線で台北へ戻りました。 | |||
| 2日かかってバスで南下しましたが、1時間半で台北へ戻りました。やはり新幹線は | |||
| 速い!。新幹線の中では、小宴会をしながら昔の仲間の近況をいろいろ話し合い懐か | |||
| しい思い出話に花が咲きました。 | |||
寿山公園 |
新幹線車中の歓談 |
台北駅前 |
|
| 台北では、故宮博物院を見学、世界四大美術館の一つで珍しい物が沢山ありました。 | |||
| 忠烈嗣にて毎時行われる衛兵交代式を見学。正門に義忠と大きく彫刻されていた。 | |||
| Sさんが、“あれ俺の名前がある!”。 | |||
| 夕食は、オプションツアーで点心料理と台北101展望台に行きました。 | |||
| 台北101展望台(101階)は508mのタワーで世界最速のエレベーターがある。37秒で | |||
| あっというまに頂上に到着しました。東芝製のエレベーターでした。展望台の中には、 | |||
| 直径5.5mの地球儀型の錘がある制震装置がついていて、見学出来るようになっていま | |||
| した。 | |||
| 現役時代に、鹿島建設殿と共同開発し数箇所納入した担当者として、東京計器の油 | |||
| 圧式制震装置は東日本大震災の時はどうだったろうかと思いをめぐらしました。 | |||
| 夕食は、個室が準備されていて、2年間の幹事にご苦労のお礼と新幹事を選出して | |||
| 再び“乾杯!”。 | |||
忠烈嗣の衛兵交代式 |
梅子レストラン前の景色 |
台北101展望台からの夜景 |
|
| ★ 4日目 11月9日(水) | |||
| 早いもので今日はもう帰国日、例のごとくバスがホテルを出発すると、ガイドが | |||
| 「皆様、忘れ物はありませんか?、パスポートは有りますか?、貴重品は大丈夫です | |||
| か?、ホテルの鍵は返しましたんか?」とわめきたてる。 | |||
| 皆それぞれ、問題なし、大丈夫等と答えていたとき、ガイドの携帯電話が鳴りホテ | |||
| ルに“入れ歯”の忘れ物があったと、連絡が入ってきた。 | |||
| 私もふくめ入れ歯のある人は一斉に口の中に指を入れ確かめた。その時、Tさんが | |||
| 「俺のだ!」と言った。バスを路肩に停車させ、待つこと10分タクシーが“入れ歯” | |||
| を運んできました。“入れ歯”は無事Tさんの口の中に納まり、めでたし!めでたし! | |||
| 今日は、九フンのオプションツアー。ガイドが言うには、9回来て7回雨に降られ | |||
| たということであった。嫌〜な予感!九フンに近づくと雨が強くなり土砂降りのなか | |||
| 散策しました。と、いってもひたすら雨をよけながら歩いているだけである。でも、 | |||
| チョッとお茶屋に立ち寄り、ゆっくりとお菓子付のお茶をしたが、食事ごとの飲んで | |||
| いたビール、紹興酒の2倍の値段だったと幹事さんの陰の声。 | |||
| ここは、ベネチュア映画祭でグランプリに輝いた名作映画「悲情城市」の舞台であ | |||
| った。 | |||
土砂降りの九フン商店街 |
九フン喫茶店前の急な階段 (名作の景色) |
土砂降りの九フン喫茶店でお茶を楽しむ |
|
| 往きの飛行機は4時間かかったが、帰りは、2時間30分でした。食事をしながらお | |||
| 酒を飲んだ忙しい時間でした。 | |||
| 以上で短い旅を終え、来年又会おうということで皆と羽田空港で別れました。 | |||
| 再 見 | |||
| 文/長田 写真/滝川・野村 | |||
| <お断り>写真を除く12行上からの「九フン」の「フン」について、投稿者様の原 | |||
| 稿では、「にんべん」に「分」の字体で表記(Unicode:4EFD)されておりました。 | |||
| OB会HP表示では、この文字は表示されませんので、「カタカナ」で表記させて | |||
| 頂きました。 ご了承下さい。 東京計器OB会HP担当 | |||
| 2011. 2.27 | 藤田 | ニュージーランドの旅 那須町 藤田慎吾 | ![]() |
| ニュージーランドの旅 | 那須町 藤田 慎吾 | |
| ニュージーランドの旅を書いて見ます。 | |||
| 旅1日目 | |||
| まだ梅雨は明けなかったが暑い日でした。成田空港を |
ニュージーランド |
||
| 夕方17時05分発でニュージーランド北島のオークランド | |||
| (クライストチャーチ経由)え向かう。日本は夏ですが | |||
| 南半球は真冬、途中機内で冬仕度に着替える(機内泊) | |||
| 旅2日目 | |||
| クライストチャーチに翌朝6時ごろ着き約1時間くら | |||
| い休んでオークランドに向かう。 | |||
| オークランド空港に9時半ごろ着き(時差3時間)姪 | |||
| (学生)と落合う。それから市内のインフォメーションセンターに行き明日からの日 | |||
| 程に沿って長距離バス・船・列車のチケットなど手配したのち市内観光を軽くし、明 | |||
| 日からの旅に備えて早めにホテルに入る。 (オークランド泊) | |||
| 旅3日目 | |||
| オークランド〜ワイトモ〜ロトルアを目指し出発(約 |
マオリショー |
||
| 400km7時間)途中ワイトモ洞窟を観光・北島の観光 | |||
| スポットで珍しい土ホタルの棲息する鍾乳洞、洞窟内を | |||
| 流れる川をボートで土ホタルの蒼く夜空の星のように輝 | |||
| いているのを見学し、ロトルアに着くまでドライブ観光 | |||
| しバスがホテルまで送り届けてくれた。夜はホテルのス | |||
| タッフからロトルア名物マオリ村のコンサートと昔から | |||
| 伝わるハンギ料理の誘いがありバスが迎えに来てショー | |||
| を見に行く。 (ロトルア泊) | |||
| 旅4日目 | |||
| ロトルアの街を散策、レインボー・スプリングスで珍しいシダの木立ちなどがある | |||
| 植物園、また園内ではキー |
キーウィ |
羊の毛刈り |
|
| ウィやウエカなど珍しい鳥 | |||
| を見た。隣接するレイン・ | |||
| ボーファームでは羊の毛刈 | |||
| りや、牛乳搾りの実演を見 | |||
| たりバター作り体験をした。 | |||
| ファカレワレワの大地熱帯 | |||
| を見学してからマオリ美術 | |||
| 工芸学校でマオリ伝統の工芸品などを見る。ダウンタウンの東に広がる庭園で博物館 | |||
| など見学し、夜は温泉の貸し切り風呂に行く。(大きな樽桶) | |||
| (ロトルア泊) | |||
| 旅5日目 | |||
| ロトルア〜タウポ〜ウエリントンに向かう。(470kmバス7時間)途中峠・湖・海 | |||
| ありで、車中から沿道の景色を見ながらドライブ観光でウエリントンのホテルに夕方 | |||
| 着く。夜は街に出て散策。眠りを知らないと云うように、通りの広場に若者達が集ま | |||
| って歌ったり踊ったりで、とても賑やかだった。ただ街の灯りが日本より暗かった。 | |||
| (ウエリントン泊) | |||
| 旅6日目 | |||
| ウエリントンはニュージーランドの首都、丘と坂の多 |
国会議事堂 |
||
| い街でケーブルカーで丘の上の植物園・また国会議事堂 | |||
| や、国会の南側にある1876年に建てられた世界で2番目 | |||
| に大きい木造の政府館などを見学、クィーンズ埠頭など | |||
| 一日中街をぶらぶら観光する。 | |||
| (ウエリントン泊) | |||
| 旅7日目 | |||
| ウエリントン〜ピクトン〜カイコウラ(180km船・列車)北島から南島に船・列車 | |||
| を乗り継いでカイコウラ駅に着く。駅にホテルの車が迎えに来てくれた。ホテルに着 | |||
| くと横浜から来たという女子大生に会った。我々と同じくホエールウオッチングする | |||
| ためにカイコウラに来たそうです。夜は街に出て散策し、食事をする。 | |||
| (カイコウラ泊) | |||
| 旅8日目 | |||
| 朝6時半カイコウラの港から出航し約3時間ホエール |
ホエールウオッチング |
||
| ウオッチングする。姪が出港して間もなく船酔いになっ | |||
| たがよく3時間も我慢が出来たと思う。終わってからホ | |||
| テルに戻り次の目的地に出発するまで休む、15時ごろの | |||
| バスでクライストチャーチに向かう。 | |||
| (190km約3時間)ホテルに18時半ごろ着く。 | |||
| (クライストチャーチ泊) | |||
| 旅9日目 | |||
| 南島最大の都市、クライストチャーチは街のシンボル |
大聖堂 |
||
| とされるゴシック様式のイギリス国教大聖堂を見学、午 | |||
| 後旅も9日目疲れが出たのか皆んな風邪気味なのでホテ | |||
| ルに帰って明日に備えて昼寝をした。 | |||
| (クライストチャーチ泊) | |||
| 旅10日目 | |||
| クライストチャーチ〜ダニーデン〜テ・アナウに向かう。(650kmバス約11時間) | |||
| 途中、湖・牧場・峠ありで峠越えの時など雪になり一寸心配になった。昼食時間と休 | |||
| 憩時間以外はドライブ観光で、テ・アナウのホテルにバスが送ってくれた、19時半ご | |||
| ろに到着。テ・アナウは南部湖水地帯の中心的な町。 | |||
| (テ・アナウ泊) | |||
| 旅11日目 | |||
| テ・アナウはミルフォード・サウンドやマナボウリ湖 |
ボーエンの滝 |
||
| などの出発地点で、ミルフォード・サウンドは14ある入 | |||
| り江の内で最も有名な景勝地、波静かな深い入り江の両 | |||
| 側は氷河によって削り取られた高さ1000m以上の垂直に | |||
| 近い断崖、150m以上の落差を持つボーエン滝などを観 | |||
| 光、バスのガイドさんが日本人で船の案内もその方が日 | |||
| 本語で説明してくれたので楽しい船の観光が出来ました。 | |||
| 終わってからまたテ・アナウに戻る。 | |||
| (テ・アナウ泊) | |||
| 旅12日目 | |||
| テ・アナウ〜クィーズタウンに向かう。(180kmバス約2時間)昼ごろにホテルに | |||
| 着く、午後市内観光、ホテルが湖の近くだったので湖畔を歩いて街まで散歩、湖の畔 | |||
| りの地下から湖水の中を泳ぐ物凄く大きな「ウナギ」に餌を自由に上げることができ | |||
| 楽しませてくれた。 | |||
| (クィーズタウン泊) | |||
| 旅13日目 | |||
| クィーズタウン〜マウン |
善き羊飼いの教会 |
マウント・クック |
|
| ト・クック〜クライストチ | |||
| ャーチに向かう。 | |||
| (480kmバス約10時間) | |||
| ニュージーランドに来たら | |||
| マウント・クックを見なけ | |||
| れば意味がないと云われて | |||
| いる。南島を従走する「サ | |||
| ザン・アルプスの」最高峰で3754mある。着いた時、雨が上がって雲の切れ目から霞 | |||
| んで見えた。車中からの素晴らしい景色を眺めながらクライストチャーチのホテルに | |||
| 行く。 | |||
| (クライストチャーチ泊) | |||
| 旅14日目 | |||
| 今日はオークランドに飛行機で戻り(約1時間半)、午後のクィーンストリートは | |||
| 市内随一の繁華街でビジネスの中心地、銀行やホテル、デパート、スーパーなど建ち | |||
| 並ぶ商店街を散策した。 | |||
| (オークランド泊) | |||
| 旅15日目 | |||
| 朝から市内観光と土産などショッピング、OKストアー(大橋巨泉の店)など見て | |||
| 明日帰るので航空会社にチケットの確認に行く。 | |||
| (オークランド泊) | |||
| 旅16日目最終日 | |||
| 今日は姪を寮まで送ってからオークランド空港発11時10分で成田に向かう。行く時 | |||
| は夜だったので見えなかったが太平洋に浮かぶ島々の景色がとても素晴らしかった。 | |||
| 成田着19時10分、成田エクスプレスで東京駅・新幹線の最終便で那須塩原駅に着き家 | |||
| 路に。ニュージーランドの冬は那須と違って暖かく、16日間の旅行はとても楽しくで | |||
| きた。機会があればもう一度行ってみたいと思っています。 | |||
| 完 | |||
| 追伸:今回のNZ地震被害に際して、ニュージーランド・クライストチャーチの被災 | |||
| 者の皆様に心からお見舞い申し上げます。 | |||
| 2010.12.19 | 野村 | 三陸海岸大縦走の3日間ツアーに参加 横浜市 野村 一信 | ![]() |
| 三陸海岸大縦走の3日間ツアーに参加 | 横浜市 野村 一信 | |
| 東京計器OB有志の旅行会で三陸海岸縦走ツアーに参加した。 | |||
| 11月18日(木)待ちに待った旅行会出発日。天候が心配でしたが天の恵みか今回の | |||
| 旅行日程では天気の心配はなさそうだ。しかし、やはり傘は用意して寒さ対策に充分 | |||
| な対策をして東京駅に向かった。今回のツアーは総勢82名バス2台に分乗とのこと。 | |||
| 我々は18名(女房族6名)何時もより若干少ない参加者でしたが、全員が定刻前に | |||
| 集合し、8時34分“はやて7号”で八戸に向かった。暫く振りの再会を祝って早速車 | |||
| 内で乾杯から始まり近況報告しているうちに約3時間で11時31分八戸駅に定刻どおり | |||
| に到着。 | |||
| 八戸駅がかなりの人でし |
八戸駅到着 |
新装の八戸駅舎 |
|
| たが、我々は何も違和感な | |||
| く駅前の駐車場より迎えの | |||
| 観光バスに乗った。迎えの | |||
| バスガイドさんが早速、今 | |||
| 日は八戸駅が凄い人波で大 | |||
| 変でしたでしょう?と言う | |||
| のだが誰も人ごみで大変と | |||
| は思っていなかった。人混みの原因は12月4日の青森駅まで新幹線開通を祝って今日 | |||
| は地元の方々の新幹線試乗会があってたくさんの人が集まっていたようだ。 | |||
| バスは、早速八戸の八食センター(パンフレットによると八戸港または地元の取れ | |||
| たて海産物・農産物を中心にした大きな市場)に向かい自由昼食となった。 | |||
炭火焼コーナー |
お持ち帰りすしコーナー |
名物の新鮮な魚を自分た | |
| ちで買ってきて炭火焼コー | |||
| ナーで食べるんです。列車 | |||
| 内から名物の“ほや”イカ・ | |||
| ホタテを食べたい!との意 | |||
| 見があったが、やはり無難 | |||
| な鮭・イカ・ホタテを焼き | |||
| 生ビールで乾杯、最高でし | |||
| た。それに場内のすし屋から握りずしを買ってきてとどめを刺した。1時間の中での | |||
| 炭火焼は大忙しでした。 | |||
| 満腹でバスに乗り目を閉じているうちに種差海岸(国 |
国指定名勝種差海岸 |
||
| 指定名勝地)まで到着し、広大な芝生を整備していた公 | |||
| 園管理の方々と夏場の賑わいを聞き景色のよさに納得。 | |||
| 45号線という青森から仙台まで続く街道をバスはひた走 | |||
| り、三陸鉄道の久慈駅から普代駅間をローカル電車に乗 | |||
| 車した。赤字路線とのことで観光客むけに地元学生さん | |||
| のアイデアで“赤字せんべい”とクッキーのセットが300 | |||
| 円で売っていたので買ってみた。 | |||
三陸鉄道久慈駅 |
赤字せんべいと乗車記念切符 |
鉄路写真 |
海岸景色 |
沿線の養殖場 |
普代駅 |
|
| 電車は単線ですが駅には信号機のコントロールで上下線がすれ違うことができるん | |||
| だそうだ。線路を小さな川が横切って流れていると、必ず防潮堤があり扉も付いて昔 | |||
| の災害を教訓に天災に備えていた。いつ来るか分からない天災に備えることの大変さ | |||
| を痛感しながら景色のよい三陸鉄道を楽しんでいるうちに普代駅到着した。 | |||
| 回送されたバスに乗り三陸の海岸を走り、机浜番屋群を車窓より見学し今夜の宿泊 | |||
| 地、田野畑のホテル羅賀荘に定刻到着。 | |||
| バスはツアーの仲間ですが、宴会は我々単独の宴会場を用意し、大宴会の始まりと | |||
| なった。料理はあわびをはじめとする新鮮なさかな、先ずは生ビールで乾杯。3時間 | |||
| の宴会時間は全員のカラオケで盛り上がりあっと言う間の3時間。最後は皆でライン | |||
| ダンス?(隣に人と肩を組んでないと倒れてしまう)で〆た。 | |||
宴会1 |
宴会2 |
宴会3 |
|
宴会4 |
宴会5 |
宴会6 |
宴会7 |
宴会8 |
宴会9 |
宴会10 |
宴会11 |
宴会12 |
|
| 二日目 | |||
羅賀荘前の日の出 |
翌朝、日の出6時18分とエレベーターに貼ってあった | ||
| ので、二日酔いを押して目の前の海岸防波堤へ出かけた。 | |||
| 日の出前なのに波が荒く防波堤を越える波が時々来てい | |||
| た。波をよけて日の出の写真を撮ってみた。定刻バスに | |||
| 乗車し、北山崎(海のアルプスと称される断崖絶壁)を | |||
| 上から鑑賞したが、鑑賞する場所がかなり歩かないとい | |||
| けなかったが、天気もよくそれほど苦にならずに景色が | |||
| 良く見える場所まで歩いた。 | |||
| 天気が良いのに波は荒く絶壁に砕ける見事な波の景色を堪能した。次は鵜の巣断崖 | |||
| を見物する。ここはバスから5〜6分松林の中を歩いて断崖の上に出る。いや〜見事 | |||
| な景観。今までだらだらと歩いてきたのがうそのように皆さん元気になって鑑賞ポイ | |||
| ントを独り占めししばし感歎の雄たけびを上げた。 | |||
羅賀荘前の海岸 |
日本一の海岸美北山崎1 |
日本一の海岸美北山崎2 |
|
鵜の巣断崖に向かうメンバー |
鵜の巣断崖 |
鵜の巣断崖展望所の眺め |
|
| でもそんなにゆっくりと景観に浸っていることはできない、バスは次の目的地に向か | |||
| って走った。感動している続きで次は龍泉洞(日本三大鍾乳洞の一つでエメラルドブ | |||
| ルーの地底湖)に向かった。朝も早めの到着となって観光客がまだ来ていないうちに | |||
| 地底湖を見学する。よく洞窟内は整備されているが、下りと上りが次々に現れ手すり | |||
| につかまって体制を整えているうちに仲間の最後尾になったしまった。皆さん元気が | |||
| いいな〜と一人で洞窟内を見学することになった。鍾乳洞も人の気配がしないところ | |||
| を一人で見学するのは結構緊張するものだ。何とか急いでみていたら曲がって少し見 | |||
| 通しよいところに出たら、昔の鍾乳洞を生活場所にしていたと考えられる人型のモデ | |||
| ルが置いてあった。あまりのリアルさに一瞬“ドキ”として!急いで出口に向かった。 | |||
| 足元は轟々と音をなして水が流れていた。売店で龍泉洞水を買って飲んでみた。水は | |||
| 美味かった!(さっきのドキドキをこれで鎮めた) | |||
龍泉洞入り口 |
龍のオブジェ |
石碑 |
|
| もう昼食会場に向かう。うにの炊き込みご飯と海鮮ラーメンの選択です。私は海鮮 | |||
| ラーメンを食べた。地元の食材らしい海藻が一杯入った大盛りのラーメンを食べて、 | |||
| 浄土ヶ浜を見学する。名前のとおりに白い岩石が海から立ち上がり異様な景観を見せ | |||
| ている。誰が浄土ヶ浜と名づけたんだろうか?(ガイドの説明を聞いていなかった) | |||
| 三陸海岸は波が荒いが、ここは入り江になっているので夏場は格好の海水浴場になり | |||
| 大いに賑わうところだそうだ。思い思いに写真を撮り景色を堪能して今回のツアーで | |||
| 始めての船からの景色を楽しんだ。運よく波も少なく船が出て三陸海岸の一部を見る | |||
| ことができた。この後の便は波が高くなり欠航となった模様。ついているな〜 | |||
浄土ヶ浜1 |
浄土ヶ浜2 |
浄土ヶ浜3 |
|
浄土ヶ浜遊覧船より1 |
浄土ヶ浜遊覧船より2 |
浄土ヶ浜遊覧船より3 |
|
| バスは鉄の街釜石に夕日を見ながら入った。山の中に煙が見えてきてこれが釜石か! | |||
| 街並みの雰囲気が凄いところです。夕暮れの街を走ってホテルに到着。今夜の夕食は | |||
| バスツアーの皆さんたちと一緒の会場になったので大宴会は遠慮して小宴会?となっ | |||
| た。蟹が一杯付いたので皆さん格闘して暫くは無言で静かな宴会でしたがこの征伐が | |||
| 終わると一気に賑やかにな |
陸中海岸グランドホテル夕食会場 |
豪華な夕食の品々 |
|
| り、写真のように大変豪華 | |||
| な料理を食べた。夕食後は、 | |||
| 幹事部屋に全員集合して飲 | |||
| みなおし、しかし比較的早 | |||
| めに切り上げ明日に備えた。 | |||
| ホテルは釜石港の横にある | |||
| ので翌日の日の出を楽しみ | |||
| に早めに寝た。 | |||
| 三日目 | |||
ホテル前の釜石港の朝1 |
ホテル前の釜石港の朝2 |
翌朝、部屋の窓から日の | |
| 出を観察すると今の季節は | |||
| 釜石港の右手に見える山か | |||
| ら昇りそうです。海に映る | |||
| 日の出は無理ですが、なに | |||
| やら岸壁に人があちこちに | |||
| いるので散歩をしてみた。 | |||
| 皆さん防寒具に身を包み釣 | |||
| 竿をもって今朝のおかずを求めていました。まだ大物には出会っていないようですが、 | |||
| 親子連れ、母娘ペアーなどなど。日が昇って山の上には大きな観音様が見えていた。 | |||
| 今日はまず、釜石の歴史 |
釜石鉄の博物館 |
世界の鉄文字 |
|
| を「鉄の博物館」で学び戦 | |||
| 後の重厚長大で経済発展し | |||
| てきた歴史を顧みた。これ | |||
| からは何で国力を高めて発 | |||
| 展できるんだろう、などと | |||
| 考えているうちにバスは碁 | |||
| 石海岸に向かった。 | |||
碁石海岸近くの雷岩 |
碁石海岸近くの雷岩付近で |
ここは名前のとおりに碁 | |
| 石状になった石が海岸にご | |||
| ろごろしていたところのよ | |||
| うですが、今は観光客の皆 | |||
| さんが少しずつお土産に持 | |||
| ち帰ってしまい海岸には石 | |||
| がなくなってしまったそう | |||
| です。我々は少し離れた駐 | |||
| 車場から松林の中を散策してきた。松林の先にある断崖に近づくとごろごろと大きな | |||
| 雷様のような音が絶え間なく聞こえる。これは波が岩に当たって鳴り響いているとの | |||
| こと、その岩は“雷岩”と呼ばれている。早速、岩の近くでその音を確かめてみた。 | |||
| なるほど!絶え間なく雷様が“ごろごろ”と働いていた。元気な人はそこから碁石海 | |||
| 岸まで散策したようだ。 | |||
| ここからは三陸海岸を離れて気仙沼に向かう。目的は気仙沼のフカヒレ丼です。ひ | |||
| たすら目的地に向かって走った。 | |||
昼食のフカヒレ丼とビール |
気仙沼海鮮市場1 |
気仙沼海鮮市場2 |
|
| フカヒレ丼は料亭風の建屋二階での食事になった。ちょっと温めの丼で食べるのが | |||
| 早い人は10分ぐらいで平らげて目的の気仙沼海産物市場に向かった。海産物市場は地 | |||
| 元の方も買っていますが、観光客を呼び込むのに一生懸命に見えました。美味しそう | |||
| な海産物が値段も安くいろいろとあったが、私は何も買うものなしで市場の中を二回 | |||
| りもして楽しんだ。 | |||
| ここからあとは、仙台駅 |
休憩の道の駅 |
仙台七夕館の様子 |
|
| を目指して途中、道の駅で | |||
| 休憩して仙台七夕館でお土 | |||
| 産タイム。無事に仙台駅に | |||
| ついた。 | |||
| 3日間の現地ガイド嬢は、北海道からの出稼ぎの若いガイドさんでした。東北弁を | |||
| 交えての熱心で丁寧なガイド振りに感服。よく勉強して素晴らしいガイドに成長する | |||
| ように願っている。我々も思い出に、また、1ページ加えることができ感謝!感謝! | |||
| 天気が3日間とも良くてラッキーでした。 | |||
| 次回は、どこにしようか早速検討することで散会となった。 | |||
| 2010.10.31 | 梅原 | 板門店ツアー参加 | ![]() |
| 板門店ツアー参加 | 矢板市 梅原 実 | |
| 猛暑の夏が終わり急に涼しくなってきました。東京計器OB会の皆様、いかがお過 | |||
| ごしですか。OB会のホームページに3回目の投稿をさせていただきます。今回は、 | |||
| 今年の夏休みに韓国を旅行した際に、「板門店共同警備区域(統合警備地区)」をツア | |||
| ーで訪れたときの様子を紹介させていただきます。 | |||
| 【板門店ツアー参加】 | |||
| 7月25〜29日の5日間、会社の夏休みを利用して女房と私とで初めての韓国旅行に | |||
| 出かけました。ツアー旅行は面白くないからということで、往復の航空機と宿泊以外 | |||
1)7月27日_朝鮮戦争休戦記念の日の写真展示 (ソウル市街) |
はすべて自由行動というプランを選択しました。現地に | ||
| 着いてから「せっかく韓国に来たのだから、最も韓国ら | |||
| しいところを見よう」と、『板門店ツアー』を申し込み | |||
| ました。7月27日はなぜかこのツアーが無く、7月28日 | |||
| のツアーになりました。後で7月27日にソウル市内を観 | |||
| 光していて分かったのですが、この日は、1953年に朝鮮 | |||
| 戦争の休戦協定が締結された記念の日でした。ソウル市 | |||
| 街の要所々々には、警察官が警備のために配置されてい | |||
| ました。しかし、実際の街の中の雰囲気は活気にあふれ、人々が自由に楽しんでいる | |||
| 様子で、警察の装甲車の前の噴水では、子供たちが水遊びをして楽しんでいました | |||
| (写真1〜3)。 | |||
| 大韓旅行社が企画する『板門店ツアー』は、日・祝祭日を除くほぼ毎日催行されて | |||
| います。ツアー申込み時に受けた注意事項は、次のようなものでした。 | |||
| 1)必ずパスポート持参、 |
2)7月27日_休戦記念の日のソウル市街の警備 (警察の装甲車) |
3)装甲車が警備する道路の噴水で水遊びを 楽しむ子供たち |
|
| 2)服装は、襟のないTシ | |||
| ャツのようなもの、ノース | |||
| リーブ、ジーンズ、サンダ | |||
| ル等はダメ、という内容で、 | |||
| 物見遊山的なツアーでない | |||
| ことが予感できました。 | |||
| ツアーはバス2台編成で、 | |||
| 1台が日本語ガイド、もう1台は英語を話すガイドが添乗しました。我々が乗り込ん | |||
| だ日本語バスは、27名のツアー客でしたが、小学校の5、6年生(10歳以下はダメ)を | |||
| 含む比較的若い人が多く参加していました。小学生の女の子の母親に聞いたところ、 | |||
| 「夏休みの自由研究にしたい」とのことで、自分から参加を希望したとのことでした。 | |||
| 出発すると車内で、第2次大戦後の朝鮮半島をめぐる動きや板門店の歴史的意味、 | |||
| 韓国人から見た現在の南北朝鮮の関係などの説明とともに、繰り返しツアーの注意事 | |||
| 項(このツアーが必ずしも安全なものでないこと)の説明を受けました。 | |||
| 【ソウルからイムジン閣[ガク]へ】 | |||
| ソウルから漢江[ハンガン]沿いに北へ向かう「自由路」と呼ばれる高速道路は、片 | |||
| 側4〜5車線の広いもので、有事には軍用機の滑走路として使用される、とのことで | |||
4)韓国側軍事施設 (高圧電流が流れる鉄条網) |
した。漢江の対岸に北朝鮮の山々が見える付近まで来る | ||
| と、川の中にはセンサーが設置されて北からの侵入を監 | |||
| 視し、道路の北朝鮮側には鉄条網が張りめぐらされ、高 | |||
| 圧電流が流れている、との説明でした。ソウルから南北 | |||
| の境界線(軍事境界線)まではわずか40kmで、北からの | |||
| 侵入に備えて道路周辺には軍事施設がいたるところに設 | |||
| 置されていました。多数の監視小屋が設置されて銃を持 | |||
| った監視兵が常時見張っており、何の変哲もない看板の | |||
| 後ろにも軍事施設が隠されていました(写真4〜7)。 | |||
5)韓国側軍事施設 (銃を持った兵士が常時監視にあたる監視小屋) |
6)韓国側軍事施設 (看板も軍事施設) |
7)韓国側軍事施設 (看板の後ろに隠されている) |
|
| 昼食の後、一般人が自由に来られる最後の施設イムジン閣で休憩をとりました。こ | |||
| のイムジン閣からは、漢江の上流であるイムジン河の対岸に間近に北朝鮮が見え、イ | |||
| ムジン河の上に1本の鉄道橋がかかっているのが見えます。この橋は、1953年休戦協 | |||
8)イムジン閣の展望台 (一般の人が行くことができる限界) |
9)自由の橋と周辺施設 (イムジン閣展望台からの北方の眺望) |
10)自由の橋遠景 (イムジン河に隔てられた北の地が望見できる) |
|
| 定が締結された後、戦争捕虜12,733人がこの橋を通って帰ってきながら、「自由万歳」 | |||
| を叫んだので、『自由の橋』と呼ばれています。この自由の橋は、戦後離散家族が多 | |||
11)自由の橋への通路 _ |
12)自由の橋への通路の終点 (通路の端は柵で閉鎖されている) |
13)自由の橋そばの広場の一角 (離散家族との再会を願って無数のリボンが) |
|
| 数訪れ、北に残された家族との再会を願って無数のリボンのようなものが結び付けら | |||
| れていました(写真8〜13)。 |
14)自由の橋そばの広場に展示された機関車 (朝鮮戦争の傷跡、日本製蒸気機関車) |
||
| 自由の橋のそばにある広場には、「登録文化財第78号 | |||
| 」として朝鮮戦争中に被弾、破壊された蒸気機関車が展 | |||
| 示されています。説明書きによると「軍事物資を積んで | |||
| 平壌に向かっていたところ、朝鮮戦争に介入した中国軍 | |||
| から攻撃を受け、1,000発以上の弾丸を浴びて破壊されま | |||
| した」。ちなみに、諸元表には、「製作:日本川崎社」 | |||
| と記されていました(写真14)。 | |||
| 【いよいよ板門店へ】 | |||
| イムジン閣を出発するといよいよ軍事境界線を挟んで南北各2kmの間隔で設けられ | |||
| た非武装地帯に入ります。ここから先は、もちろん写真撮影は禁止され、ガイドから | |||
| は「私がいいというところ以外は、絶対に写真を撮らないでください」と念を押され | |||
15)統合警備地区-1 (正面は北朝鮮が管理する板門閣、青い建物は国連軍が管理する施設) |
ました。非武装地帯の入口では、警備にあたっている韓 | ||
| 国軍の兵士がバスに乗り込み、念入りにパスポート、服 | |||
| 装等をチェックされ、OKがでるとその兵士が乗り込ん | |||
| だまま非武装地帯内の国連軍の施設に向かいました。こ | |||
| こでパスポートと貴重品だけを身に付け、手には裸のカ | |||
| メラ以外は何も持ってはいけないと、注意され、そのよ | |||
| うにしていることをチェックされてバスを降りました。 | |||
| 国連軍施設の中で公式の画像による説明を受け、最後 | |||
| に「訪問者(見学者)宣言書」にサインをさせられて、いよいよ統合警備地区に向かい | |||
| ます。この「宣言書」は、ツアーを無事終えた後記念にと各人に戻されましたが、こ | |||
| の冒頭には下記のように記されています。 |
16)統合警備地区-1(拡大)(軍事境界線。グレーの砂利敷きの区域は南側、ベージュの砂敷きの区域が北側) |
||
| 「敵の行動(活動)によっては危害を受ける又は死亡する | |||
| 可能性があります。統合警備地区は中立地域ですが、一 | |||
| 方(南)は国連軍の軍人により、他方(北)は北朝鮮の陸軍 | |||
| 軍人によって、それぞれ分割警備されています。 | |||
| 国連軍のゲストの皆様は、軍事境界線を越えて北朝鮮 | |||
| 軍の管理する統合警備地区へ立ち入ることは許されてい | |||
| ません。また、事変、事件を予期することはできません | |||
| ので国連軍、アメリカ合衆国及び大韓民国は訪問者の安全を保障することはできませ | |||
| んし、敵の行う行動に対し責任を負うことはできません。」 | |||
| ここからは、国連軍のバスに乗り換え、国連軍の軍用車による警備を受けて統合警 | |||
| 備地区に向かいました。統合警備地区の南側の建物の前でバスを降りると、2列縦隊 | |||
| に整列、警備の軍人さんの後について共同で警備している施設が見えるところまで案 | |||
17)統合警備地区-2 (青い国連管理施設と白い南側管理施設) |
18)統合警備地区-3 (北側施設の一部) |
19)統合警備地区-4 (我々のバスに乗り込んだ韓国軍兵士) |
|
| 内されました。ここで「左向け左」をして2列横隊になり、「今から2分間だけ写真 | |||
| を撮ってもいいです」ということで、一斉にカメラのシャッタを切ったのが写真15〜 | |||
20)南北会談場-1(テーブル中央に並ぶマイクが軍事境界線上、左が南、右が北) |
21)南北会談場-2 (遠慮勝ちに並んで記念撮影) |
19です。 | |
| ここからさらに、南北が | |||
| 協議をする「会談場」に案 | |||
| 内されました。ここでも「 | |||
| 3分間」ということで、写 | |||
| 真撮影が許されました。た | |||
| だし、「警備の兵士にはあ | |||
| まり近づくな」とのことで、 | |||
22)会談場-3 (北側入口) |
23)会談場-4 (南側入口「そろそろ時間だ。…」) |
若干遠慮勝ちに記念写真を | |
| とらせてもらいました。 | |||
| (写真20〜23参照) | |||
| 統合警備地区からツアーのバスが待つところまで帰る非武装地帯の中で、2度ほど | |||
| 写真撮影が許されましたが、その中のひとつが写真24の『帰らざる橋』です。1953年 | |||
| 休戦協定が締結されたとき、この橋で捕虜交換が行われました。このとき、南北のそ | |||
| れぞれの捕虜に対して、南 |
24)板門店-帰らざる橋 (この橋を渡ると二度と南には帰れない) |
25)板門店-非武装地帯(半世紀以上立ち入りが禁止された自然の宝庫) |
|
| を選ぶか北に行くかの選択 | |||
| が許され、このとき北を選 | |||
| んでこの橋を渡った人は、 | |||
| 2度と帰ってこられなかっ | |||
| た、ということで『帰らざ | |||
| る橋』と呼ばれました。ま | |||
| た、非武装地帯は、57年間 | |||
| も人々が立ち入ることができない地帯なので、貴重な動植物の宝庫になっています。 | |||
| 確かにうっそうと茂った森にはめずらしい鳥がたくさん巣を作って生息していました | |||
| (写真25)。 | |||
| 【緊張から解放されて再びソウルに】 |
26)バスから見るソウル遠景 (緊張から解放された気がした) |
||
| 板門店を後にして、夕方ツアーのバスは無事ソウルに | |||
| 帰ってきました。イムジン河の対岸に見える北朝鮮では、 | |||
| 山々の木々が燃料として伐採されてはげ山になっている、 | |||
| とのことで、北朝鮮では人々の生活は厳しい様子がうか | |||
| がわれましたが、ソウル市内の漢江の対岸には高層ビル | |||
| が立ち並び、日本をもしのぐ工業立国に成長した韓国の | |||
| 繁栄をうかがうことができました(写真26)。今回の板 | |||
| 門店への旅行は、日常生活では味わうことができない貴重な経験でした。 | |||
| 2010. 2. 7 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで!その10 <最終回> | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 10話(マウイ島雑感)<最終回> | |||
| 今まで、マウイ島の歴史から始まり、マウイ島全島の概略についてリポートさせて | |||
| いただきましたが、マウイ島紹介記も今回で終らせていただくことになりました。 | |||
| よく友人から、「マウイ島は、いつがベスト・シーズンなのか?」と聞かれる。常 | |||
| 夏の島とは言え、季節により、観光の目的により異なることは事実である。私の答え | |||
| は、「日本の寒いシーズン」、「日本の梅雨のシーズン」、「観光シーズンで航空運 | |||
| 賃等の高いシーズンを除く」などに、常夏のハワイ、爽やかなハワイを気軽に過ごす | |||
| のがベストだと思っている。大体12月20日前後から翌年の4月中旬が当地のハイ | |||
| ・シーズンであるが、国内同様、ホテルやコンドミニアムの宿泊料金、ビジターのゴ | |||
| ルフ・プレー費が高くなるのが問題であるが、特に子育て中のクジラがあちこちで見 | |||
| られる2月〜4月初めの時期はまさにベスト・シーズンだろう。 | |||
| このシーズン、日本の2月は例年最も寒い季節である。このような時期にハワイを | |||
| 訪れ、飛行機から降りると、30度前後の気温ではあるが、湿度のせいか、気持ちよい、 | |||
| 爽やかな気候で心が和み、更に軽快なハワイアン・ミュージックを聴くと、故郷に戻 | |||
| ったという感じがする。 | |||
| 3週間ほどの滞在となると、以前は、日本から米をはじめ嗜好品を持参していたが、 | |||
| 10年前から、近くのスーパー・マーケットで日本人用の食品は何でも調達できること | |||
| が分かった。特に昔の外米の味も知っているが、現在のカリフォルニア米の美味しさ! | |||
| わざわざ、日本から米を持参する時代ではなくなった。日本人の食卓に欠かせない豆 | |||
| 腐、納豆、漬物、海苔、梅干し、マグロ刺身(赤身)など何でも揃っている。 | |||
| ゴルフで少々遅くなれば、スーパー・マーケットの寿司コーナーでお好みの寿司が | |||
| 購入できるし、回転寿司から普通の寿司店もある。和食が飽きたら、中華、韓国、ベ | |||
| トナム、タイ、そして、ヒスニック料理店もある。 | |||
近くのスーパー・マーケット「フードランド」の前景 |
アメリカ人にも好評な「弁当」 |
同「ココ一番屋」にて |
|
| こんな居心地のよいマウイ島であるが、私たちが会員であるリゾート・ホテルにも | |||
| 時代の変化が到来している。もともと、日本人を対象に、定年後の余暇をマウイ島で | |||
| 長期滞在して楽しく過ごす・・という趣旨でスタートしたメンバー制のリゾート・ク | |||
| ラブであったが、会員の高齢化が進み、利用率が低下し、更に会員がハワイ州に払う | |||
| 固定資産税や管理費の滞納が増加し、建物・設備のメンテナンスにも支障をきたす状 | |||
| 況となり、2009年に入り、会社は会員の反対を無視して、このリゾート・クラブの経 | |||
| 営権をアメリカ企業に譲渡してしまった。このためか、昨年訪れたときは、日本人を | |||
| 数名見た程度で、宿泊客のほとんどがアメリカ人であった。 | |||
| かつて、鉄板焼きから寿司バーを備えた豪華なレストランも朝食のサービスのみと | |||
| なり、夕食はサンセットを見ながらディナーが楽しめることで人気があるイタリア料 | |||
| 理のレストランだけとなった。 | |||
| 2〜3年前までは、朝晩、日本人宿泊客で賑わっていたリゾート・ホテルも今まで | |||
| とまるで違ったホテルのように感じた。 | |||
| 話は変わるが、世界中の観光旅行者の中で、ホテル側から見て一番好まれているの | |||
| は日本人観光客と言われている。その理由は、団体で利用すること、金に綺麗なこと、 | |||
| ホテルに対する苦情を言わないこと、ルールを守り、ホテルの部屋など綺麗に使用す | |||
| るなどが評価されていると聞いている。 | |||
| 私自身、日本人観光客のマナーは決してよいとは思わないが、身近なところで見聞 | |||
| きしたことでは、「ホテル内で行きかう人へ挨拶をしない」、「日本人同士でも知ら | |||
| ない人から挨拶をされても返事をしない」、「知らない人から挨拶されると驚いた表 | |||
| 情をする」、「人数が少ないときは借りてきた猫のように静かであるが、団体になる | |||
| と、周りに配慮せず大声での会話となる」・・などが指摘されている。 | |||
| しかし、私たちのリゾート・クラブは生活文化の違いとはいえ、注意書きが掲示さ | |||
| れているのにルールを守らない日本人以外の宿泊客らによってすっかり変わってしま | |||
| った。 | |||
| アメリカ人に合わせたスパの湯温 | |||
| 今度、行ってみて驚いたことは、広いスパから海が見渡せるマウイ島でも自慢のス | |||
| パの湯温が低いのに気がついたので支配人に聞いたところ、「日本人の観光客が減少 | |||
| したため、欧米人観光客を増やしたが、彼らは日本人のように45度前後の湯温では熱 | |||
| くて入浴できず、仕方なく、湯温を下げている」とのことであった。どうも、日本人 | |||
| にはピリリとしないスパとなってしまった。彼らは、ぬるま湯を利用して長時間、読 | |||
| 書を楽しんでいるのである。 |
自慢のスパ風景(右前方は海が一望できる) |
スパの下はプールとショーの舞台(左前方) |
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| こんなぬるい湯では入っ | |||
| た気分にならないので、ス | |||
| パから部屋に戻ると、アメ | |||
| リカ人サイズの大きいバス | |||
| タブに熱い湯を満杯にして | |||
| 入り直している始末である。 | |||
| スパ脱衣所のルール違反 | |||
| 数年前から、スパの脱衣所内には、英語と日本語で「利用にあたって」の注意書が | |||
| 掲示されているが、年々違反者が多くなっている。 | |||
| 家内の話では、サンダルのまま、スパの脱衣所に上がり、「脱衣かご」にサンダル | |||
| を直接入れているのを目撃したと驚いていた。以後、家内は「脱衣かご」に直接衣類 | |||
| を置かず、タオルに包んで置くようにしているという。男性の方では、そこまでひど | |||
こんな車で乗りつける人がルール違反者? |
いのは見たことがないが、欧米人は、他人の前で裸にな | ||
| り、入浴する習慣がない。このため、脱衣所からスパや | |||
| シャワー室にくるときは、手ぬぐいではなく、バス・タ | |||
| オルで身を包んで来るが、スパに入って、いざ出るとき、 | |||
| 入るところで脱いだタオルを、そのままにして新しいタ | |||
| オルを巻いて来る人がほとんどである。このため、彼ら | |||
| の入浴後は、先ずタオルの後片付けから始まるのである。 | |||
| ボーイやメンテナンス・スタッフに困惑! | |||
| 部屋の「セーフティ・ボックスの調子が悪い」、「部屋の風呂場のドア開閉がス | |||
| ムーズに開かない」・・など、フロントへ電話をすると、ボーイやメンテナンス・ス | |||
| タッフが、すぐ来てくれるのは嬉しいが、困ることに、彼らは、そのまま、土足で部 | |||
| 屋のジュータンにあがってくる。文化、生活環境の違いとは言え、我々日本人からす | |||
| れば大変嫌なことである。 | |||
| 「今朝、メイドさんに部屋を綺麗にしてもらったのに・・」と、カリカリしながら、 | |||
| 「支配人以下、日本人スタッフがいるのに従業員に何を教育しているのか」と、毎回 | |||
| アンケートに書いているが、むなしい気持ちである。 | |||
| 不況の影響か?ゴルフ場のサービスに変化! | |||
| 今回は6箇所のゴルフ場でプレーしたが、不況の影響 |
同コース、サウス10番ホール(パー5)の素晴らしい景色 |
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| であろうか?変わったと言えば、毎回訪れるマケナ地区 | |||
| のマケナ・ゴルフ・コース(旧マケナ・プリンス・GC) | |||
| では、サービスとして、一人$10の昼食券がついていた。 | |||
| こんなことは、同ゴルフ・コースが1992年にオープンし | |||
| て以来初めてである。プレー終了後、家内と同ゴルフ・ | |||
| コースのレストランに立ち寄って昼食を取ったが、その | |||
| ボリュームの多さにビックリ!一人前を二人で楽しみ、 | |||
| 残りは、ドギー・バッグに入れてもらい夕食用に持ち帰ることになった。 | |||
右の池が気になるアウト1番(パー4)の景色 |
また、キヘイ地区のハイ・ウエイ沿いにある日本企業 | ||
| が経営するエル・エアー・マウイ・ゴルフ・クラブは、 | |||
| さすが日本流?経費節減としてアイス・ボックスに入っ | |||
| ていた無料の水(ペットボトル)が無くなっていた。 | |||
| さらに、ハレアカラの麓、日系人が多いプカラニ・カ | |||
| ントリー・クラブのクラブ・ハウスは仮設のまま、今年 | |||
| も工事が着工されていなかった。 | |||
| 一方、先に紹介したが、キヘイ、ワイレア、マケナ地区では豪華な別荘、コンドミ | |||
| ニアムの建設がまだ進んでいる。そして、人口も年々増加している。 | |||
| ワイレア地区のグランド・ワイレア・リゾートホテルのオーシャンビューが、一泊 | |||
| 420ドル以上である。以前は200〜300ドル程度であったと記憶している。これでは一部 | |||
| の金持ちしか利用できないのでは・・?と、「渓谷の島」「母なる島」と呼ばれるマ | |||
| ウイ島に足を運ぶ者としてくだらない心配をしている次第である。 | |||
| 最後に、ビーチから見た美しいサンセットをお楽しみいただき終りとしたい。 | |||
美しいマウイ島のサンセット風景T |
美しいマウイ島のサンセット風景U |
美しいマウイ島のサンセット風景V |
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| 長い間、お付き合いいただきありがとうございました。 | |||
| 三橋さん、マウイ島が目の前に浮かび、自分がそこに居るような気持ちにしてくれ | |||
| るお話しも、これでお終いとなると寂しいですね。一休みしたら、又、楽しい原稿を | |||
| 書いていただけると助かります。期待しております。ありがとうございました。 | |||
| 事務局 | |||
| 2010. 1.24 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで!(9-8) | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 9話(マウイ島の観光スポット) 茅ヶ崎市 三橋 春夫 | |||
| 9話 マウイ島の観光スポット | |||
| その8・ラナイ島 | |||
| マウイ島は、モロカイ島、ラナイ島、カホオラウエ島の3つの島を含めてマウイ郡 | |||
| とし、その中心の島である。郡政府は中央マウイ(北部)のワイルクにあり、現在の | |||
| マウイ郡議会は公選による9名の議員で構成されているという。上記、ラナイ、モロ | |||
| カイ、カホオラウエと、マウイも西部、東部の住居者から1名ずつ、郡政府のある中 | |||
| 部マウイの住居者から3名、残り2名は全島区で住居区に関係なく選ばれる仕組みで | |||
| あると聞く。 | |||
| その中で、マウイ島の西15kmの沖にあるラナイ島は10数年前から注目されている | |||
| 島である。ホノルルに向かうとき、カフルイ空港から離陸し、カフルイ湾の北側から | |||
| 女性の頭の部分を左に旋回し、ラナイ島の右端の上空を通過するが、緑が少なく険し | |||
| い断崖の島である。 | |||
| ラナイ島は、かつてハワイ有数のパイナップルの生産地であったが、18年前に、台 | |||
| 湾、東南アジア産に価格面で太刀打ちできなくなり生産を中止した。現在は、フロポ | |||
| エ・ベイの近くに高級リゾート・ホテルが建てられ、二つのゴルフ・コースを建設し、 | |||
| 本格的なリゾート地を目指している。ラハイナから高速船が就航しており、ゴルフバ | |||
| ックを担いだ観光客で一杯である。将来、ハナ同様にお金持ちが楽しむリゾート地に | |||
| なることは間違いない。 | |||
ワイレア地区から見たラナイ島 |
エクスペリエンス・アット・コエレ・ゴルフ・コース |
これで、マウイ島の観光 | |
| スポット・シリーズは終了 | |||
| した。マウイ島はアメリカ | |||
| 有数のリゾート地である。 | |||
| 冬場の寒い東海岸の人々は | |||
| 避寒地として最高の場所で | |||
| あり、本土からの直行便が | |||
| あるので大変便利である。 | |||
| 20年近く通ったマウイ島であるが、私たち年金者には年々宿泊費が上がり、気安く行 | |||
| けなくなった。 | |||
| 次回は、締めくくりとして、「マウイ島雑感」で終らせていただくことにした。 | |||
| 2010. 1.10 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで!(9−7) | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 9話 マウイ島の観光スポット | |||
| その7・外界と遮断できる町「ハナ」 | |||
| カフルイ空港を出て、ハレアカラの麓を上りながらハナ・ハイウエーを東南の方向 | |||
| へどこまでも海岸沿いに車を進める。そのドライブは長く、カフルイからハナまでの | |||
| 距離約80km、そして、600箇所以上のカーブと狭い道を通らなければ行けない町である。 | |||
| 地図上ではハイウエーとなっているが、ハイウエーのイメージとはおよそかけ離れ | |||
| た道路であり、カーブが多く見通しが利かない、道路は片側一車線で道幅は狭く、す | |||
| れ違うにはゆっくり運転することが求められる。 | |||
| 途中、56箇所ある石橋は車一台しか通行できないので、橋の前後でスピードを落と | |||
| して対向車があるかどうかを確認する。なければそのまま通過すればよいが、あれば、 | |||
| 先に橋に着いた車に渡る優先権があり、それまでは橋の手前の停車線で待つことにな | |||
| る。路肩も狭く、車窓から見下ろす断崖を見ると恐ろしさを覚えるハイウエーである。 | |||
ハナへの道、下は断崖 |
マウイ島で運転免許証を取得してドライブしているが、 | ||
| 狭いところはお互いに譲り合い、にこやかに合図をして | |||
| すれ違うところが日本と違う。車とは別に、人通りの少 | |||
| ないところで人とすれ違うと、アメリカ人は必ず笑顔で | |||
| 「ハロー!」「ハーイ!」と声を出す。お互いに相手に | |||
| 対して敵意がないということを示すマナーであり、習慣 | |||
| でもあろう。 | |||
| 少し脱線するが、同じことを日本人に「おはようござ | |||
| います」「こんにちは」と言うと、ほとんどの人に不思議な顔をされる。「知らない | |||
| 人になぜ声をかけられるのか?」という感じである。これはどちらかというと女性に | |||
| 多いのはどうしたことだろう。 | |||
| 鬱蒼と茂る原生林、その合間に姿を現す美しい渓谷や |
途中、滝の前で小休止 |
||
| リアス式の海岸線、カウマヒナ州立公園、ワイルア渓谷 | |||
| 展望台、プアア・カア州立公園、そして30箇所くらいあ | |||
| る小さな滝のいくつかで小休止しながら、4時間近くか | |||
| けてたどり着くのが、「天国のような・・・」と呼ばれ | |||
| るハナである。 | |||
| 疲れた体を休めるためハナ湾で車を止める。溶岩流が | |||
| 海に流れ込んでできた美しい湾である。ビーチ・パーク | |||
ハナ・ビーチ |
の砂は火山でできた茶黒色である。 | ||
| ビーチの一角にスナック・ショップがあるが夕方4時 | |||
| には閉店となる。その理由は「ここはハナ!、日が沈め | |||
| ばだれも出歩かない。観光客は帰りの運転を心配して | |||
| 3時には帰路につくようにと案内書に書いてある。 | |||
| 煩わしい日常のことを忘れ、すべての外界と遮断して | |||
| 執筆活動をしている売っ子作家、国や企業の将来をゆっ | |||
| くり考えようと来島した政治家・実業家は世界中の旅行 | |||
| 者から愛されているホテル「ハナ・マウイ」というコテージ風の超高級ホテルに宿泊 | |||
| し、外出などしない。」ということのようである。 | |||
| ハレアカラのなだらかな山裾、海を目の前にした丘の上にあるこのホテルは、敷地 | |||
| 26万uというから日比谷公園が一つ半すっぽり収納される広さの中に、ホテルの部屋 | |||
| 数はたったの93部屋という。しかも部屋は人数に応じていろいろな部屋が準備されて | |||
| おり、ハワイならではの調度品や上品なインテリアでゲストを迎えてくれるという。 | |||
| お金持ちのために最高級にランクされるスイートも準備されているという。 | |||
| ホテル内では2つのプー |
究極のホテル「ハナ・マウイ」の前景 |
フロントのスナップ |
|
| ル、フィットネス・センタ | |||
| ー、テニス・コート2面、 | |||
| ビーチバレー、ブギー・ボ | |||
| ード、スノーケルを楽しめ | |||
| るプライベート・ビーチ、 | |||
| 乗馬、フラの練習場、9ホ | |||
| ールのゴルフ・コースがあ | |||
| る。ハナに行った折り、一度、ホテルの入口近くの部屋が開いていたので中を覗いた | |||
| ら、天井から大きなクラシックな形をした扇風機が見えたが、外界と遮断するためか | |||
| テレビが無いように見えた。およそ、都会的な近代的なホテルのイメージではなかった。 | |||
| ハナの名所は、更に道幅を心配しながら先に進むと、日系人のハセガワ・ファミリー | |||
| が経営するハセガワ・ジェネラル・ストアがある。 | |||
| 初めてここを訪れたときは、ハワイ諸島でもすでに有名になっていた。その理由は、 | |||
| 「暗くて汚い店、超狭い店、狭いのに品物の多さ、天井に届くくらいに雑多に品物が | |||
| 置かれており、どこになにが売られているか聞かないと分らない店、しかし、店員に | |||
| 言うと、すぐ取り出してくるのにびっくりした店、更に当時、ハセガワ・ジェネラル | |||
| ストアのコマーシャル・ソング“♪ハナへ行ったら、ハセガワ・ストアを見なくちゃ | |||
| ダメだよ。一歩入れば驚きダア。何でもあるよ、この店にゃ。バットも帽子も、水着 | |||
ハセガワ・ジェネラル・ストア |
も苗木も・・・”をハワイのラジオ局で流していたこと | ||
| でちょっとしたヒット曲となっていた。 | |||
| しかし、私たちが訪れた数年後、火事で消失したが、 | |||
| その後、前とは少し離れた場所に新しい店舗が建ってい | |||
| た。いくらでも土地があるのに以前より少し広くなり、 | |||
| 店内は明るくなっていたが、相変わらずのごたごたの店 | |||
| であった。 | |||
| ここまでで普通の観光客は引き返すが、冒険心のある |
7つの聖なる池 |
||
| 観光客は先に進みオヘオ・プールと呼ばれるところで、 | |||
| かつて、ハワイ人が禊(みそぎ)に使用した7つの聖な | |||
| る池がある所を目指す。 | |||
| そのオヘオ・プールから未舗装の道を行くとキパフル | |||
| の集落がある。その近くにパラパラ・ホオマウ教会が建 | |||
| っている。その敷地内、海の見える丘に大西洋横断単独 | |||
| 飛行に成功したチャールズ・O・リンドバーグの墓がある。 | |||
島をこよなく愛したリンドバーグの墓 |
リンドバーグは、一線を引いた晩年、「ハナと比べる | ||
| ことのできる静かなところは他にない。滝の音が快く響 | |||
| き、その近くには美しい海が広がっている。かつて訪れ | |||
| た、どの地よりも、ハナは美しい」と感動した彼は、 | |||
| ハナに4エーカーの土地を得て、小さな家を建て夫婦で | |||
| ここへ来ては2ヶ月ほど過ごしていた。 | |||
| 1974年夏、その彼がニューヨークで体調を崩し入院し | |||
| た結果、末期のリンパ腫癌と宣告され、家族とともにハ | |||
| ナに戻り、1974年8月25日、最愛の夫人らに見守られて天国へ旅立っていった。 | |||
| 2010. 1. 3 | 稲垣 | ドイツ旅行−2/最終回(ベルリン一人旅) | ![]() |
| ドイツ旅行−2/最終回(ベルリン一人旅) | 鎌倉市 稲垣 貢 | |
| 8月27日ボンでの桜のセレモニーが終わった一行は、帰国の途についた。私は一人 | |||
| 残って、4泊5日の一人旅に出発する。途中、ケルンに立ち寄りベルリンに向かう。 | |||
| ヨーロッパは何度か来ているが、ベルリンは今回が初めてである。さて、ある書に | |||
| よれば日本の高校で海外旅行にベルリンを選んだ学校が一番多かった由。その理由は | |||
| 「色々な意味で、近代史・現代史の舞台となった、世界中を探してもベルリンほど歴 | |||
| 史を体感できる場は無いから」と言ったそうである。たしかに善きにしろ悪きにしろ | |||
| ベルリンほど世界中から注目された都市はない、と言われている。 | |||
| この町は「栄光のベルリン」「悲劇のベルリン」の両極端を味わい、人間の愚かさ、 | |||
| はかなさ、たくましさ、を生々しく見せつけられた。ベルリンという「生きた教材」 | |||
| から歴史を学ぶという考えに感心した。 | |||
| ケルン(市内見学) | |||
| ケルンは、ボンから車で20分ほどの所にある。なんと |
ケルン大聖堂 |
||
| 言っても「世界遺産の大聖堂と明るい陽気なカーニバル | |||
| の町」として知られており、ケルンの中央駅に降りたっ | |||
| て、まず目に入るのが世界遺産でもあるケルン大聖堂。 | |||
| 高く聳える二つの尖塔の高さは、なんと157 m。建築が | |||
| 始まったのは1248年のことだが完成したのは、その600 | |||
| 年も後のこと。509段もある階段を昇ればライン川の流 | |||
| れるケルンの街並みを見渡すことが出来る。とにかく | |||
| 現物を見なければ、その凄さが解らないと思う。また、 |
大聖堂のステンドグラス |
||
| 内部から眺めるステンドグラスは、バイエルン王ルート | |||
| ヴィヒT世が奉納したのでバイエルン窓と呼ばれている。 | |||
| ステンドグラスはヨーロッパで何度か見ているが、これ | |||
| ほどの美しいのは初めてである。 | |||
| (大聖堂は第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍 | |||
| の14発の直撃弾を受けた。内部は激しく破壊されたもの | |||
| の全体は崩れなかったため、1956年まで復旧工事が行わ | |||
| れ、元の状態に復元された) |
ケルン大聖堂と私 |
||
| ケルンも博物館や美術装飾が多い文化都市であるが、 | |||
| 世界で唯一の「チョコレート博物館」がある。三千年と | |||
| いわれるチョコレートの歴史を学び、出来立ての試食。 | |||
| 最後は驚くほど沢山の種類があり、おみやげをどれにす | |||
| るか迷ってしまう。 | |||
| ベルリン(ブランデンブルク門) | |||
| 地図によればホテルから近いようなので、歩きだした。 |
ブランデンブルク門 |
||
| 土地の人達と話を交わすのも一興なので、英語を話しそ | |||
| うな人に声をかけてみた。東洋人はなるべく無視して、 | |||
| 土地っ子(お店の人や教養のありそうな男性か中年の女 | |||
| 性に)声をかけてみた(気がついたが、ドイツ人はフラ | |||
| ンス人やイタリア人などと違って親切なことを発見した) | |||
| 広々とした道へ出たら目の前にブランデンブルク門が | |||
| そびえ立っていた。アッ!ついに念願のベルリンだ! | |||
| ベルリンにはかって18の市門が有った由、現存してい |
ブランデンブルク門と私 |
||
| るのはこの門だけ。かろうじて地下鉄駅に2〜3の市門 | |||
| の名前が残っているそうである。ブランデンブルク門は | |||
| 1791年に建てられたプロイセル王国の凱旋門で、現地で | |||
| は統一ドイツのシンボルとなっている。 | |||
| 「どんなにベルリンが変わろうとも、この都市を代表 | |||
| するのは、やはりブランデンブルク門である」」と言わ | |||
| れている。 | |||
| ベルリン(美術館と博物館) | |||
| 今回、ベルリンへ是非来たかったのは、このベルリン |
ペルガモン博物館(ガウスの祭壇) |
||
| 美術館と博物館であった。 | |||
| 幸いなことに美術館と博物館が、ほとんど一カ所に固 | |||
| まっているので、見学には大変助かることだ。 | |||
| 先ず、一番目の目玉はペルガモン博物館である。この | |||
| 博物館は1930年に建てられ、古代都市ペルガモンから発 | |||
| 掘されたゼクスの大祭壇が圧巻である。内部はギリシャ、 | |||
| 古代ローマ、メソポタミア文化等々、中でも最も有名な | |||
| 「ゼウスの祭壇」の大ホールは復元されている。祭壇を |
ペルガモン博物館と私 |
||
| 飾っている彫刻は神々と巨人との戦いがテーマである。 | |||
| 復元されているのは祭壇の一部だが、3分の1の大きさ | |||
| とは驚ろいた。 | |||
| ペルガモン博物館をじっくり鑑賞するには1日かかる | |||
| であろう。どこの町もそうだが短時間で見物するには、 | |||
| 観光バスを利用するのが効率が良く、ベルリンの場合も | |||
| 乗って見物したが、日本語の説明もあり、便利だった。 | |||
| ベルリン(ポツダム広場とベルリンの壁) | |||
| 1920年代はヨーロッパで最も交通量の多い賑やかな広 |
ポツダム広場のソニーセンター |
||
| 場であったが、大戦後は跡形もなく消え失せた。その後 | |||
| 1961年に東西を隔てる壁が築かれた。こうしてボッタム | |||
| 広場は東西2つに分けられたのである。有力な次のよう | |||
| な説として「ドイツはいつか必ず統一する。その暁には | |||
| ポツダム広場は再びベルリンの中心になるだろう」と言 | |||
| われていた。現在賑やかな広場には「ベルリンの壁」 | |||
| が一部残っているが、ポツダム広場の再建で、ベルリン | |||
| のビジネス、文化発信の中心地になっており、ソニーセンターの中庭などは、最も多 | |||
| くの人が憩う場所となっている。 | |||
| ベルリンでは生きている(マレーネ・ディートリッヒ) | |||
| 若い人は知らない名前だが、戦前・戦後に外国映画に |
マレーネ・ディートリッヒ |
||
| 興味のある人は「マレーネ・ディートリッヒ」の名前を | |||
| 知っていると思う。ドイツ生まれの彼女は、現在でも | |||
| 「ドイツの最上級の大スター」として通っている。 | |||
| 今回ソニーセンターで彼女の大がかりなセットで特別 | |||
| 展示をしていたので見にいった。かっての映画のスチー | |||
| ルを拡大して、大変贅沢なセットには流石ディートリッ | |||
| ヒらしいと感心しながら見物した。お客は若いカップル | |||
| の多いのにも驚いた。 | |||
| ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」 | |||
| と命名されていた。 | |||
| ドイツの旅を終えて | |||
| ベルリンの町や美術館・博物館・有名な建造物などを4日間で十分に見るのは無理 | |||
| とわかった。 参考までに。 稲垣 貢 | |||