| 話 題 『 旅 行 記 』−3 | 2009年5月〜2009年8月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2009. 8. 9 | マウイよいとこ一度はおいで!(5) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2009. 8. 2 | ネパール撮影旅行記(2/完) 投稿;太田 孝 | ![]() |
| 2009. 7.26 | マウイよいとこ一度はおいで!(4) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2009. 7.19 | ネパール撮影旅行記(1) 投稿;太田 孝 | ![]() |
| 2009. 7.12 | マウイよいとこ一度はおいで!(3) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2009. 6.28 | マウイよいとこ一度はおいで!(2) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2009. 6.14 | マウイよいとこ一度はおいで!(1) 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2009. 6.11 | 「海外旅行」に魅せられて 投稿;木藤鉄平 | ![]() |
| 2009. 6. 2 | 戦没者遺児による東部ニューギニアの旅(2/完) 投稿;森井士郎 | ![]() |
| 2009. 5.13 | 戦没者遺児による東部ニューギニアの旅(1) 投稿;森井士郎 | ![]() |
| 話 題 『 旅 行 記 』 |
| 2009. 8. 9 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで! (5) | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! (5) | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 5話 レイとフラの話 | |||
| ハワイと言えばレイ。ハワイに旅行された方の中には、空港で出迎えの女性からレ | |||
| イを首にかけてもらい歓迎されたことがおありだろう。 | |||
| レイは元々、ポリネシアの島々ではいろいろな悪霊のお払いやお守り、神々の怒り | |||
| を鎮める神事などの儀式に使用されていたようだ。使用されていた材料・物質は、貝、 | |||
| 海草、植物、頭髪、骨、石などが使用されていたとのこと。特に、ポリネシア島々で | |||
| 信じられていた宗教において、超人的な力・能力や魂を意味するマナは、サメの歯や | |||
| クジラの歯、更に王様の骨とか頭髪には悪霊を払い、神々の怒りを鎮める特別なパワ | |||
| ーがあると信じられていた。 | |||
| その後、上記の材料・物質から少しずつ今風の花を使用したものが表れ、18世紀末 | |||
| にキャプテン・クックが来島した時代以降は友情や愛情を表す役割となり、花のレイ | |||
| が定着したと言われる。 | |||
| 今では、友情、愛情の象徴として、誕生日、冠婚葬祭、祭日、そして、我々観光客 | |||
| にも身近なものになった。そして、レイの用途は更に進み、結婚式では紙幣をレイに、 | |||
| 子どもの誕生日パーティにはキャンディのレイなどいろいろある。 | |||
| 文献によると、ハワイ諸島ではシンボルとしてのレイと色が決まっているという。 | |||
ケラニ(マウイ島の花/英語名:ダマスク・ローズ) |
イリマ(オアフ島の花) |
ククイ(モロカイ島の花) |
|
| マウイ島はロケラニ(ダマスク・ローズ)のディープ・ピンク。オアフ島はイリマの | |||
| イエロー・オレンジ、モロカイ島はククイのシルバー・グリーン、 | |||
オヒアレフア(ハワイ島の花) |
カウナオア(ラナイ島の花) |
モキハナ(カウアイ島の花) |
|
| ハワイ島はオヒアレフアの赤、ラナイ島はカウナオアの |
ニイハウ島原産の貝で作られるニイハウ・シェル |
||
| オレンジ・ゴールド、カウアイ島はモキハナの紫、 | |||
| そして、ニイハウ島は花ではなく、ププと呼ばれる白い | |||
| ニイハウ・シェルである。 | |||
| レイは新鮮で香りが重視されてきたが、それぞれの植 | |||
| 物・花には意味があり、それにより用途も異なったよう | |||
| だ。香りのよいマイレは中国やインドが原産地。ジャス | |||
| ミンなどの花を使用したレイは南アジアである。マイレ | |||
| のレイは戦いの休止や終了を祝って使用されていたが、いきさつは分らないが、今日 | |||
| は歓迎や祝福、愛情などを表すアトハの精神を象徴するものとして、結婚式他に広く | |||
| 使用されている。 | |||
| レイの種類は、一種類の花でつくられたシンプルなものをクイ、編み込みタイプの | |||
| ものをヒリ、数種類の花で豪華なものに仕上げたハクがあり、着ける部位によりレイ | |||
| の名前が異なる。頭につけるレイ・ポ・オ、首にかけるレイ・アー・イー、手首につ | |||
| るクーペ・エ・リマ、足首につけるクーペ・エがある。 | |||
| スーパーマーケットのセーフ・ウエイやフードランドなどで売られているのは上記 | |||
| のマイレ、ジャスミン、コウ、プルメリア、ラン、オーキッド、ホワイト・ジンジャー | |||
フラダンサーとレイ |
レイをかけたハッピーなおじさん |
などのポピュラーなものだ。 | |
| レイは、上のハッピーなおじさんのようにネックレスのように首から胸にたらすの | |||
| は正しくなく、写真の女性ダンサーのように前と後との長さを均等にして掛けるのが | |||
| 正しい方法らしい。 | |||
| ハワイ各地では、毎年5月1日は「レイ・デー」である。この祭の起源は、1928年 | |||
| にさかのぼる伝統の行事である。当日はレイを首に掛けた人で街はいっぱいになる。 | |||
| 同じく、6月11日はカメハメハ大王の日、ホノルルの大王の銅像が、たくさんの美し | |||
| いレイで飾られている写真をどこかでご覧になられた方もおられるだろう。 | |||
| レイと切っても切れない関係にあるがフラ(ダンス)である。フラは本来、神へさ | |||
| さげる敬虔な踊りで、祈りの儀式とともに行われた。この儀式は特別に修練を重ねた | |||
| 男性のみが踊ることが許されていた。今はオアフ島をはじめ、ハワイ諸島のイベント | |||
| 会場、有名ホテルで開催されているアウアナと呼ばれるルアウ・ショーは現代風にア | |||
| レンジされたものである。 | |||
| ルアウはハワイ語で「宴」を意味する言葉であり、タロイモの葉(ル・アウ)に由 | |||
| 来するとのこと。本来、フラは踊りであるが、観光客を相手にフラを始めとするポリ | |||
| ネシア諸島の歌と踊りに、地面に穴を掘って作られたかまどで豚を丸焼きにした料理 | |||
| 他をディナーにサービスしながらのエンターティメント・ショーが著名なホテルで開 | |||
| 催されている。 | |||
| マウイ島ではカパルア、 |
ホテルで開催されるルアウ・ショーのシーン(1) |
ホテルで開催されるルアウ・ショーのシーン(2) |
|
| カアナパリ、ワイレア地区 | |||
| の高級ホテルで夕方か海辺 | |||
| の広い庭園を利用し開催さ | |||
| れている。美しいサンセッ | |||
| トを楽しみながらのルアウ・ | |||
| ショーは、一度はエンジョ | |||
| イしたいものである。 | |||
| 一方、フラは、カフルイ地区のクイーン・カアフマヌ・センターなどのショッピン | |||
カアフマヌ・センターとフラ・ショー(1) |
カアフマヌ・センターとフラ・ショー(2) |
グ・センター内や公園の一 | |
| 角などで現地の人や日系の | |||
| 女性が中心にフラが披露さ | |||
| れている。今年は帰途時、 | |||
| 珍しくホノルル空港の出発 | |||
| 便待合広場でフラを見るこ | |||
| とができた。 | |||
| 2009. 8. 2 | 太田 | ネパール撮影旅行記(2/完) | ![]() |
| ネパール撮影旅行記(2/完) | 宇都宮市 太田 孝 | |
| 前年に続き2003年(H15)3月同じ旅行社企画の「ヒマラヤの自然と生活を歩いて、 | |||
| 見て、撮る8日間」に参加した。 | |||
| 前回は、ネパール国の北より、山岳地帯の山並みや山村の人々を撮り歩いたが、今 | |||
| 回は、南よりの広大な平坦地域で、川や湖の景色や、住民の生活などを撮るのが目的 | |||
| です。 | |||
| 1日目 | |||
| 3月2日羽田空港を午前7時出発、関西空港でネパール航空に乗り継ぎ上海経由で、 | |||
| 首都カトマンズには深夜到着、市内のホテルへ直行した。 | |||
| 2日目 | |||
| 午前9時にホテルを出発しカトマンズ空港から、国内航空便でパラトプールへ向か | |||
| う。専用車チトワン国立公園近くのソウハラ村のリゾートホテル「ロイヤルパークホ | |||
| テル」に昼頃到着。メンバーは撮影指導の講師、私と参加者1人の計3人。それに現 | |||
| 地旅行社のガイドさん1人。今回は、平地のためポーターを雇わず、撮影機材は最小 | |||
| 限で、背負っての行動なる。 | |||
| 休憩後、終日ソウハラ村近辺の住民や生活を撮影した。 | |||
@ホテル正門際売店の主人 |
A藁を打つ農婦 |
B草の束を運ぶ夫人 |
|
| 夕食前、近くの河で夕日を撮影後、ホテルへ戻る。 | |||
C川面の夕照 |
D沈む夕日 |
||
| 3日目 | |||
| 朝食前、渡し舟で河を渡る通勤通学の様子を撮る。 | |||
E自転車乗船中 |
F渡河中 |
G浅瀬で下船 |
|
| 朝食後、ソウハラ村からチトワン国立公園に入り、村とそこに暮す先住民族の人々 | |||
| を撮影した。 | |||
H椰子の木の下を歩く |
I家事に忙しそう |
Jポンプのシャワー |
|
K装飾の老婆 |
L牛トラックのお通り |
M象のタクシー? |
15草束を背に女性の隊列 |
ホテルに戻って冷たいシャワーで体を洗い夕食。 | ||
| 4日目 | |||
| 朝食後。車でバラトプールの空港に向かい、国内航空便でカトマンズへ戻った。 | |||
| 到着後、車でドゥリケルの宿泊地「ロッジリゾート」へ向かう。終日、移動に終わり | |||
| 今日の撮影はお休み。 | |||
| 5日目 | |||
| ロッジリゾートでは、午 |
Oホテルのテラスと遠くに霞むヒマラヤ |
P絶壁一面の段々畑とヒマラヤの峰々。 |
|
| 前疲労のためか腹痛を起こ | |||
| し、ベットで休養。窓越し | |||
| の景色を数枚撮った。 | |||
Q段々畑に菜の花のパッチワーク |
R菜の花を収穫する農民 |
体調もほぼ回復した昼前 | |
| 頃から、車でナガルコット | |||
| へむけて出発、途中の風景 | |||
| を撮りながら、今日の宿 | |||
| 「ホテルフォート」に夕刻 | |||
| 到着。 | |||
| 6日目 | |||
| 終日ナガルコット滞在、周辺の村や丘陵を散策しながら、農山村の人々の暮らしぶ | |||
| りを撮影。 | |||
S坂道を並んで学校に行く子供たち |
21綺麗な先生 |
22女子学生 |
|
23重い荷物 |
24仲良く通勤 |
25気取る少年 |
26桜と老婆 |
27日当たりで編み物 |
28お手伝い頑張る |
|
| ホテルへの帰路、段々畑の崖道を上り下りしながらの撮影。 | |||
29山肌は全面段々畑 |
30農山村の学校 |
31山頂からの眺望 |
|
| 7日目 | |||
| 朝食後、カトマンズに向け車で出発。途中で世界遺産の古い寺院街に立ち寄り撮影。 | |||
32五重の寺院 |
33郊外教室 |
34街頭楽団 |
|
35窓の夫人 |
|||
| 午後カトマンズのホテルに到着後、市内のみやげ物店 | |||
| などを散策した後、ホテルで休息と荷物のまとめをして、 | |||
| カトマンズ空港より深夜の便で帰国の途についた。 | |||
| 6日目 | |||
| 上海空港経由、関西空港乗継で羽田空港の到着は、午後2時半となりここで解散。 | |||
| 2009. 7.26 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで! (4) | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! (4) | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 4話「タロイモ(カロ)の話」 | |||
| ハワイと言えばタロイモ(カロとも言う)を思い浮かべる。タロイモは私たち日本 | |||
| 人の米と同じく、日常生活に欠くことのできない作物である。 | |||
| ルアウ・ショーではビュッフェ・スタイルの料理の中に必ずタロイモ料理がある。 | |||
| ルアウ・ショーの「ルアウ」はハワイ語で宴会の意味だそうだ。また、「ルアウ」の | |||
| 単語本来の意味は、「タロイモの若葉」というらしい。肉や魚などをタロイモの葉と | |||
| ココナッツ・ミルクで煮込んだ料理のことも「ルアウ」と呼ぶとか・・。 | |||
「ルアウ」は若者二人によるカルア料理でスタートする(イメージ) |
出来立てのカルア・ピッグをさばくコック(イメージ) |
「ルアウ・ショー」には | |
| 地面に穴を掘って造ったか | |||
| まどに、豚一匹を丸焼きに | |||
| したカルア料理が振舞われ | |||
| 「ルアウ」がスタートする。 | |||
| 「ルアウ」は古くは戦で | |||
| の勝利、子どもの誕生、結 | |||
| 婚などの吉ごとに行われて | |||
| いたように、元々は神事・宗教的な行事であり、当時は男女別々のものであったよう | |||
| だ。これが、カメハメハU世により、これらの古い習慣が改められて、男女が一緒に | |||
| 参加できる宴会や酒も解禁となったのは19世紀後半からとされる。今では、パーティ | |||
| など全て「ルアウ」の時代である。 | |||
| 話は戻るが、タロイモの根茎を蒸して、水を加えながら潰してペースト状にしたも | |||
| ので、現地では「ポイ」と呼ばれハワイアンの食卓を飾る。ハワイでは赤ちゃんの離 | |||
| 乳食に用いられたり、発酵させたり、焼いたり、茹でたりして食べる。「ポイ」は一 | |||
| 見、日本のこし餡のような紫色をしているが、決して美味しい料理とは思えない。 | |||
| しかし、タロイモは、ハワ |
伝統的なタロイモ料理「ポイ」 |
「開演を待つルアウ・ショーの料理」(イメージ) |
|
| イでは単なる食料用植物で | |||
| はなく、ハワイの四大神の | |||
| 一つである「カーネ」から | |||
| 誕生した植物であるとされ | |||
| るため、大変神聖な植物と | |||
| 言われている。 | |||
| タロイモをハワイ人だけ | |||
| の食卓だけではなく脱ポイを目指して販売されている味つき一口ポイ、タロイモ・チッ | |||
| プス、タロイモ・アンパン、ポイ・チーズケーキなどがある。他人ごとのようである | |||
| がヒット商品になることを願っている。 | |||
タロイモ畑風景(イメージ) |
同じくタロイモの水田 |
ハワイ諸島は火山の島で | |
| ある。そして、自然が豊富 | |||
| な島である。水も豊富、狭 | |||
| いながらも平地があり、渓 | |||
| 谷があり、海に通じている。 | |||
| その地形を利用してタロイ | |||
| モの栽培はハワイ先住人の | |||
| 努力により各島で栽培され | |||
| ているが聞いた話では、カウアイ島では他島に比べて大規模に栽培されているようだ。 | |||
| マウイ島の西マウイの山は、ハワイでも二番目に降雨量の多い場所であり、この豊 | |||
| 富な雨水を利用してタロイモの栽培が続けられている他、ハレヤカラ火山の裏側にあ | |||
| るハナなどの一部で栽培されている。この地では毎年4月末に、ハワイの伝統の植物 | |||
| タロイモを主とする食のイベント「イースト・マウイ・タロイモ・フェスティバル」 | |||
| が開催される。タロイモを食材とした料理が味わえる他、フラ、ライブ・ミュージッ | |||
| クなど盛りたくさんの催しがある。 | |||
収穫されたタロイモ(イメージ) |
日本のサトイモ |
そのタロイモの原産地は | |
| インドやインドネシアで、 | |||
| 日本のサトイモは同種であ | |||
| る。現在、ハワイ以外でも | |||
| ポリネシア、ミクロネシア、 | |||
| メラネシア、アメリカ、東 | |||
| 南アジアなどの暖かい地域 | |||
| で栽培されている。 | |||
| 2009. 7.19 | 太田 | ネパール撮影旅行記(1) | ![]() |
| ネパール撮影旅行記(1) | 宇都宮市 太田 孝 | |
| 山岳秘境を専門の旅行社が企画した「ヒマラヤの自然と生活を歩いて、見て、撮る | |||
| 8日間」に参加して、ヒマラヤの大山脈に抱かれた大自然と、そこに生活する人々の | |||
| 表情などを、山村を歩きながら撮影した状況と作品を紹介します。 | |||
太田孝さん |
ネパールには2002年と2003年の2回この専門の旅行社 | ||
| の企画に参加しておりますので、今回は、2002年の撮影 | |||
| 旅行を(1)として、掲載いたします。 | |||
| 2003年の撮影旅行は(2)として次回に掲載する予定 | |||
| にしておりますので、皆様、お読みください。 | |||
| ネパールは、北側の中国(チベット)と南側のインド |
ネパール国主要地図 |
||
| に囲まれた、北海道の2倍ほどの面積を持つ長方形の国 | |||
| 土に、約2千万人の人々が暮らしています。 | |||
| 南方の平地から北方の世界最高峰エベレストまで、標 | |||
| 高差は8,500m以上と、山歩き、山登りを楽しむ人々の憧 | |||
| れの国で、トレッキングが盛んです。 | |||
| 1日目 | |||
| 2002年2月10日午前6時羽田空港に集合し、関西空港へ飛んだ。乗り継ぎの国際線 | |||
| ネパール航空で上海空港経由ネパールの首都カトマンズに到着。3時間15分の時差も | |||
| あって、深夜となりホテルへ直行した。 | |||
| 2日目 | |||
| 午前8時ホテルを出発し、カトマンズ空港より、観光地ポカラへ向かう。昼食後、 | |||
| 専用車(ジープ)にてミランチョークへ。(スーツケースなどの大型荷物は別便で次 | |||
| の宿泊地へ送られた。) | |||
トレッキング・コース |
いよいよ山登りの始まりだ。メンバーは撮影指導の講 | ||
| 師、私と参加者の計4人、それに現地ガイドさんと荷物 | |||
| 運びのポーター4人、ポーターは撮影機材と手荷物を一 | |||
| 人ごとに持ってくれた。 | |||
| ミランチョークから今日の宿泊地アスタムコットまで、 | |||
| 高度差500mを砂利道と石段の急な山道を登るのは、容易 | |||
| ではない。 | |||
| しかし、この道は村人たちの生活道路でもあるので、 | |||
| 村人と度々出会うし、途中の山村に立ち寄り、暮らし振りや、段々畑の眺望などを夢 | |||
| 中で撮影しながら歩くと疲れを感じる暇がないほどだ。 | |||
草の大束を背負うオシャレな老婆 |
派手な衣装の農婦 |
顔立ちのよい農夫 |
|
| 出会う農民に「ナマステ!」(こんにちは)と声をかけると「ナマステ!」と挨拶 | |||
| が戻ってくる。みんな表情がよく、カメラを向けても構えることもなく、普段の顔で | |||
| 撮らせてくれる。厳しい山村の生活を超越し、明るく楽しく暮らしている様にその姿 | |||
| からうかがえる。 | |||
| 麓から3時間ほど撮影し |
旅行社直営「はなのいえ」ロッジ |
「はなのいえ」前庭テラスからアンナプルナ山群を望む |
|
| ながらの山登りで、今夜の | |||
| 宿泊地アスタムコットの、 | |||
| 「はなのいえ」ロッジに到 | |||
| 着。 | |||
| (右写真は旅の栞より) | |||
| アスタムコットは標高1,500m程度で、高度障害は出ないが、歩き疲れと汗拭いに、 | |||
| 五右衛門風呂に浸かり、ネパール家庭料理の夕食を済ませ、明日の朝撮りに備え早め | |||
| に就寝する。 | |||
| 3日目 | |||
| 朝6時、ロッジの前庭テラスからアンナプルナ山群の山頂に朝日が射し、山肌の輝 | |||
| きが移動する瞬間を、山群の名峰ごとに300mmの望遠レンズで捉えた。 | |||
ヒウンチュリ(6,441m) |
マチャプチャレ魚の尾(6,993m) |
アンナプルナU(7,937m) |
|
| 朝食後、今夜の宿泊地ダンプスに向かって、尾根道をトレッキング。途中の山村や | |||
| そこに暮らす人々、小学校の子供たちを撮りながら、5時間ほどを歩く。 | |||
トレッキング途中の山村(1) |
トレッキング途中の山村(2) |
トレッキング途中の山村(3) |
|
途中で会った少女 |
村人 |
婦人たち |
村の洗濯場 |
峠の石積みの小学校 |
峠の小学校の子供たちみんな嬉しそう! |
先生も一緒に |
|||
| 夕方ダンプス「つきのいえ」ロッジに到着、一休みの後、ロッジテラスからアンナ | |||
| プルナ山群の夕焼けを撮影。夕日に染まる蓮峰の美しさには感激だ!。 | |||
アンナプルナサウス(7,219m) |
ヒウンチュリ |
マチャプチャレ(頂が雲に隠れた) |
|
満天の星空 |
日没後は、満天の星空を、広角レンズで約2時間の開 | ||
| 放露光による撮影。夕食の間中シャッターを開け放し、 | |||
| 就寝前に閉じる。 | |||
| 『北極星を星環の中心に、山並みと民家の灯火も写って | |||
| いる。』 | |||
| 右の写真は、旅行社直営のロッジ「つきのいえ」を、 |
旅行社直営「つきのいえ」ロッジ |
||
| 旅の栞よりとった。 | |||
| 4日目 | |||
| 朝5時、ロッジのテラスから名峰の朝焼けを撮る。 | |||
マチャプチャレ |
アンナプルナサウスとヒウンチュリ |
アンナプルナサウス東稜線 |
|
| 朝食後、ダンプス周辺の山村の暮らしと地人々の表情を撮りに出かける | |||
ミシンを使う家族 |
布織り中の人 |
行き逢った人 |
|
丈夫な赤ちゃん |
|||
| 「つきのいえ」ロッジの戻り昼食、午後は自由の休憩タイム。「つきのいえ」女将 | |||
| ミルマラさんをモデルに撮った。 | |||
ロッジのテラスで休息するメンバー |
気軽にモデルになったミルマラ女将 |
テラスで笑顔のポーズ |
|
| 夕刻、夕日に焼ける山頂をテラスから撮影。 | |||
アンナプルナサウス |
マチャプチャレ |
アンナプルナUとW |
|
| 5日目 | |||
| ダンプスからフェディに約2時間かけて坂道を降り、フェディから車でポカラのホ | |||
| テルに向かいながら、途中の景色を撮影した。 | |||
降り道途中の段々畑 |
段々畑の尾根道を行く |
||
| ポカラのホテル「ベースキャンプリゾート」には午後3時ごろ到着、疲れた体をマ | |||
| ッサージして、夕食後は早めの就寝。 | |||
| 6日目 | |||
| 午前ポカラ空港から国内線でカトマンズ空港へ、市内を観光したのち、夜はお別れ | |||
| の会食後ホテルへ。 | |||
ホテルのレストラン前で記念撮影 |
道端のみやげ物売り |
市内の観光地ボダナート寺院の宝塔 |
|
| 7日目 | |||
| 終日自由行動。町を散策しながらスナップ撮影をする。昼食は日本食を味わった後、 | |||
| ホテルに戻って荷物をまとめ空港に向かう。7,000メートル級のヒマラヤ山群を目のあ | |||
| たりにしながら歩いて、大自然とそこに暮らす村人の生活に接しながら撮った、感動 | |||
| の8日間を思いおこしながら、深夜発の便で帰国の途についた。 | |||
| 8日目 | |||
| 上海空港経由、関西空港乗継で羽田には午後2時ごろ到着し、ここで解散となった。 | |||
| 2009. 7.12 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで!(3) | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! (3) | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 3話 マウイ島の植物 | |||
| OB会HPの風物詩に皆さんから素晴らしい季節の花や景色などの写真をいつも楽 | |||
| しく拝見している。しかし、私は花の美しさに惹かれるが、名前、原産地、特徴など | |||
| を覚えようとはしなかった。 | |||
| そんな私がマウイ島に通う内に、宿泊先のリゾート・ホテルの広大な敷地に咲いて | |||
| いる草花・植物に興味を持ち、デジカメで撮影し、植物図鑑と照合しながら、やっと | |||
| 数種類の花や木の名前を覚えることができた。 | |||
| 文献によると、ハワイの植物は固有の植物と外来の植物が混ざり合い、その種類は | |||
| 1万を越え、その多くが外来植物であると記されており、植物学者でも全容を把握す | |||
| ることができないと言われる。 | |||
| ハワイの植物相は18世紀末にキャプテン・クックが来島するまでは約千種の種子植 | |||
| 物の内、ハワイ諸島にしか見られない固有植物の比率は90%近くであったと言われて | |||
| いる。これは、ハワイ諸島がもっとも近い大陸でも4,000q近く離れている「絶海の | |||
| 孤島」であったことが要因と考えられるとの説がある。 | |||
| ハワイを訪れると、ブーゲンビレア、プルメリア、ヘリコニアなどハワイをイメー | |||
| ジする植物と思っていたが、植物図鑑によると、これらも外来種であった。 | |||
| 私自身、ハレアカラ火山の麓、クラで栽培されているプロテアはマウイ島の花と思 | |||
| っていたが、2007年の南アフリカ旅行で、こちらが原産地ということを初めて知った。 | |||
| 6世紀から12世紀にかけて、ハワイ諸島にマルケサス諸島やタヒチからの島民が集 | |||
| 団で移住した。彼らは新天地での生活に欠かすことのできない植物を持ち込んだ。 | |||
| 例えば、コー(さとうきび)、ウル(パンノキ)、タロ(タロイモ)、マイア(バナ | |||
| ナ)、ウアラ(サツマイモ)は食用、ククイは燃料、カマニ、ニウ(ココヤシ)はカ | |||
| ヌーや家具・建材、ミロ、イプ(ヒョウタン)は食料保存箱や水を運ぶ容器、ハウ、 | |||
| ノニ、ウル、カヴァ、オレナ、ピアなどは薬用、オヘ(タケの一種)、イプ(ヒョウ | |||
| タン)、ニウ(ココヤシ)は楽器、ハウ、ワウケ、ニウなどはロープ、敷物や衣服な | |||
| どに活用した。芳香のあるオレンジ色の花を咲かすコウ、キー、そして、ククイの花・ | |||
| 葉・実などはレイの素材として現在も利用されている。 | |||
| 宿泊先のリゾート・ホテルではいつも綺麗な花が宿泊客を温かく迎えてくれる。 | |||
| その幾つかを紹介しよう。 | |||
ハイビスカスの花 |
ブーゲンビレア |
ピンク・ジンジャー |
イエロー・ポイの花 |
クイーン・エマ・リリー |
ヘリコニア・プシッタコルム |
アフリカン・チューリップ・ツリー |
アフリカン・チューリップ・ツリー |
ナンヨウサクラ |
| 2008. 6.28 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで! (2) | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! (2) | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 2話 マウイ島の産業 | |||
マウイ島空の玄関口・カフルイ空港 |
ホノルル国際空港でハワイアン航空へ乗り継ぎ、カフ | ||
| ルイ空港まで約30分。ガヴァのジュースかコーヒーの簡 | |||
| 単な機内サービスだけで到着する。 | |||
| マウイ島にはカフルイ空港の他にアイランド・エアー | |||
| やコミュッター・エアーの小型機やプロペラ機が離発着 | |||
| するカパルア・ウエスト・マウイ空港とハナ空港がある。 | |||
| 〈二階建て赤い屋根が特徴のカフルイ空港〉 | |||
| 水路はカフルイ空港の近く、女王様の首の部分カフル |
ハワイ諸島巡りの豪華客船 |
||
| イ湾に大型船舶が係留できるカフルイ港があり、ドライ | |||
| ブ中によくハワイ島巡りで立ち寄っている真っ白な船体 | |||
| の大型客船を見かける。 | |||
| マウイ島の面積は、およそ1,902.3ku、東京都より | |||
| ひと回り小さく、人口は正確なデーターはないが、約14 | |||
| 万人で日系人も多く住居している。 | |||
| マウイ島で、個人観光客が一番困るのは交通機関では | |||
| ないだろうか。ホノルルのあるオアフ島と異なり公共の交通機関は無に等しく、レン | |||
| タ・カーがないと身動きがとれなかったが、最近、島内のカパルア、カアナパリ、ラ | |||
島内を走るトロリーバス |
ハイナ、マアラエア、キヘイ、ワイレア、カフルイ、ワ | ||
| イルク、パイア、ハイク、ハリイマイル、マカオア、プ | |||
| カラニなどの島内主要箇所に8路線のバスが運行されて | |||
| いる。 | |||
| 乗り継ぎの不便さはあるが、行動半径が広がったこと | |||
| は間違いない。それとは別に、ホテル間を巡回するシャ | |||
| トル・バス、チップ程度で近場なら送迎してくれるホテ | |||
| ルの送迎用バンもある。お金のある人はタクシーが便利 | |||
| である。 | |||
| さて、マウイ島の産業は何か?と言われると、ちょっと答えに困る。一般には、マ | |||
| ウイ島の主な産業は砂糖キビ、パイナップル、コーヒー、ワインなどの農業とハレア | |||
| カラ火山の麓の牧場を利用しての酪農であろう。ただし、砂糖キビはかつてのように | |||
| 島を代表する産業ではなくなっている。 | |||
| 島の前に見えるマウイ郡に所属するモロカイ島、ラナイ島を含めた3島の土地の内、 | |||
| 約1/4にあたる760kuが牧場、また、190kuが砂糖キビ畑として、更に38kuが | |||
| パイナップル畑として使用 |
キング・プロテアの花 |
マウイ・オニオン<普通の玉葱より少し小振り> |
|
| されていると言われている。 | |||
| 最近では観光業が最大の | |||
| 収入源で、1973年には76万 | |||
| 人だった観光客が、2004年 | |||
| には約220万人を数え、オア | |||
| フ島に次ぐ2番目の数字で | |||
| ある。 | |||
| オアフ島を訪れる観光客の60%がアメリカ本土からと言われるのに対して、マウイ | |||
| 島は観光客の87%がアメリカ本土から、次がカナダとなる。日本人の観光客比率はま、 | |||
| だ低い。特に、2000年代に入り、カアナパリ、カパルア地区に次ぎ、近年はワイレア | |||
| 地区がアメリカ国内でもトップ・クラスのリゾート地となり10数億円前後の高級別荘 | |||
| の建設が盛んである。 | |||
10億円前後の高級別荘〈イメージ1〉 |
10億円前後の高級別荘〈イメージ2〉 |
しかし、サブ・プライム・ | |
| ローン問題に端を発した米 | |||
| 国経済の悪化に伴い、昨年 | |||
| は別荘建設が中断されてい | |||
| るところが見られたが、今 | |||
| 年の3月に訪れると結構完 | |||
| 成しており入居者が増えて | |||
| いた。金持ちは大勢いるの | |||
| だというのが実感であった。 | |||
| 現在のマウイのホテル・ルーム数は約9,000室近くで、その50%以上がラグジュア | |||
| リー・クラスと呼ばれる普通以上の部屋であり、オアフ島の8.8%、カウアイ島の | |||
| 11.1%と比べると際立って高い率を示している。マウイ島が高級リゾート地と言われ | |||
| るゆえんである。2010年にはフランス系資本のホテルはワイレアに進出する計画があ | |||
| るという。 | |||
| また、アメリカ本土から |
キヘイ地区「マウイ バニアン」 |
同部屋の内部 |
|
| 訪れる長期滞在者のための | |||
| 経済的で、必需品や条件が | |||
| 整っているコンドミニアム | |||
| のユニット数は10,000以上 | |||
| と言われおり、現在も新し | |||
| いコンドミニアムが誕生し | |||
| ている。 | |||
| 2008. 6.14 | 三橋 | マウイよいとこ一度はおいで! (1) | ![]() |
| マウイよいとこ一度はおいで! (1) | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 1話 マウイ島の歴史 | |||
| はじめに | |||
| OB会幹事会が終わり、有志で飲み屋の席上、「また行くの?マウイ島の記事を書 | |||
| いて!」ということになった。5月のOB会一泊バス旅行は「スパ・リゾート・ハワ | |||
| イアンズ」へ泊まり、フラ・ショー、タヒチアン・ダンス、ファイア・ダンスなど心 | |||
| ゆくまで楽しんだ。 | |||
| そこで、「旅行記」ではなく、マウイ島の歴史、産業、植物、タロイモ、レイとフ | |||
| ラ、魚、そして、マウイ島で楽しむスポーツとアクティビティ、更にマウイ島の観光 | |||
| 案内などにスポットを当てて「紹介記」をまとめることになった。題して、マウイよ | |||
| いとこ一度はおいで! | |||
| 1988年(S63年)、私たち共稼ぎ夫婦は退職後の余暇の過ごし方を話し合った。そ | |||
| の一つが海外でのロング・ステイを楽しむことであった。そして、大阪に本社がある | |||
| 某リゾート会社が募集していたリゾート会員権を買い、ハワイ(マウイ島)のメンバー | |||
| となった。 | |||
| その2年後、家内とカナダ、アメリカを旅行中、シアトルのゴルフ場で知り合った | |||
| 同市在住のビル&ドロシー夫妻が3ヶ月間マウイ島へ滞在するとの手紙をもらい、同 | |||
| 夫妻との再会と建設中のリゾート・ホテルを確認がてらマウイ島へ初めて出掛けた。 | |||
| それから19年間、多い年には年3回も往復するなどマウイ島の魅力にすっかり取り付 | |||
| かれてしまった。 | |||
| マウイ島はハワイ諸島の一つで、中央部に位置し、ハ |
ハワイ諸島の地図 |
||
| ワイ主要8島の内で2番目に大きい島である。(1番は | |||
| ハワイ島、2番がマウイ島、3番がホノルルのあるオア | |||
| フ島、以下省略)そして、ハワイの他の島々と同様に火 | |||
| 山活動によって生まれた島である。豊かで変化に富んだ | |||
| 自然を有するところから「渓谷の島」と呼ばれている。 | |||
| マウイ島は数十万年前に、ハレアカラ火山(標高3,055 | |||
| m)を抱く東マウイと、イアオ渓谷のあるプウ・ククイ | |||
| 山(一般名ウエスト・マウイ山/標高1,765m)を中心とした西マウイの二つの火山島 | |||
| が噴火によって繋がり、今のマウイ島になったと言われている。 | |||
| この島の山々、空気、風、海、花、そして、マウイ出身の人気力士であった高見山 | |||
| のようなアロハ・スピリットの人々が、とても優しく旅行者を迎えてくれることで、 | |||
| マウイの自然は女性的であると言われる。母なる島<マザー・アイランド>と呼ぶ人 | |||
| も多い。 | |||
マウイ島の地図 |
女性的と言えば、マウイ島の形は横を向いた女性の上 | ||
| 半身に似ている。そういう私たちも場所をいうとき、女 | |||
| 性の部位で会話することが多い。 | |||
| 1790年、カメハメハ大王は武装船団を率いてカフルイ | |||
| 港からマウイ島に上陸、プウ・ククイ山の裏側にあるイ | |||
| アオ渓谷の戦いで、当時マウイを治めていた王のカヘキ | |||
| リ軍を倒し、マウイをその支配下に置いた。これを機に | |||
| 大王はハワイ諸島統一とハワイ王朝の繁栄に生涯をささ | |||
| げたことで、毎年6月にはハワイ各地で「カメハメハ・セレブレーション」という大 | |||
| 王の功績をたたえるフェスティバルが開催されている。 | |||
カメハメハ大王の銅像 |
イアオ渓谷と清流 |
アクティビティ・ツアーで賑わうラハイナ・ハーバー |
|
| 大王はカアフマヌ王妃とともに、ラハイナ(後、アメリカの捕鯨船の基地として栄 | |||
| えたが、現在はマウイ島の観光街)に居を移した。大王にはもう一人の高名な妃があ | |||
| り、彼女との間に後のカメハメハT世・リホリホと、同じくV世・カウイケアオウリ、 | |||
| そしてナヒエナエナ王女をもうけている。 | |||
| 1819年にカメハメハ大王が亡くなると、この地をリホリホがカメハメハU世として | |||
| 王位を継承し、ハワイ島コナからラハイナへ王国首都を移し、その後、1845年まで、 | |||
| この街はハワイ王朝の中心地として栄えた。(その後、現在のオアフ島のホノルルが | |||
| 首都となる) | |||
| 1819〜1840年にかけてラハイナは捕鯨産業でも大いに栄えたが、前後して、アメリ | |||
| カ大陸で石油採掘が開始されるや捕鯨産業は衰退の一途をたどった。 | |||
| 1823年、キリスト教の宣教師や伝道団が移住し、更に白人が移住し始めた結果、あ | |||
| らゆる伝染病を持ち込み、これらに抵抗力がなかった多くのハワイアンを死に追いや | |||
| った。文献では20万人前後いた人口が100年間で約4万人にまで減少したと言われる。 | |||
| 免疫力がないため命を落とした話に、1824年、カメハメハU世と奥方のカママル王妃 | |||
| は旅行先のロンドンで麻疹にかかり亡くなっている事実がある。 | |||
| 1849年、ジョージ・ウイルフォンという人がマウイ島 |
ラハイナのかつての牢獄跡 |
||
| でも僻地であったハナ地区に砂糖キビ農園を始めて以来、 | |||
| マウイ全島に砂糖キビ畑が拡大され、1950年代までマウ | |||
| イの主要産業であった。 | |||
| 砂糖キビ産業の全盛時代にハワイアンの人口減による | |||
| 労働不足を補うため、最初のハワイ労働者移民となった | |||
| のは293名の中国人と言われる。その後、ドイツ人、ノル | |||
| ウエー人とスウエーデン人、スコットランド人、日本人、 | |||
ホテル「パイオニア・イン」 |
イタリア人、韓国人、スペイン人、ロシア人、フィリピ | ||
| ン人の順に世界の各地から移民が進められた。 | |||
| 1901年、捕鯨船団の基地となり、海の荒くれ船員たち | |||
| で活気づいていた反面、犯罪が増加していたラハイナの | |||
| 街も、捕鯨産業の衰退により街は静けさを取り戻し、ホ | |||
| テル「パイオニア・イン」がオープンした。1950年まで、 | |||
| マウイは元よりアメリカ本土にも知名度の高いホテルと | |||
| して繁盛した。 | |||
| 1926年、マウイ島の僻地・ハナを結ぶリアス式海岸沿 |
ハワイ州の旗 |
||
| いに、56の橋と617のカーブを有する運転技術が求められ | |||
| る狭い道路が完成した。 | |||
| そして、マウイ島を含むハワイ諸島がアメリカ合衆国 | |||
| の第50番目の州となったのは1959年の8月21日であった。 | |||
| 2008. 6.11 | 木藤 | 「海外旅行」に魅せられて | ![]() |
| 「海外旅行」に魅せられて | 多摩市 木藤鉄平 | |
| 私の趣味の一つに「旅行」があります。この「旅行」 |
“ノルウェー”トロムソ市内にて |
||
| も今のところは完全に"海外"主体です。この一年間を | |||
| 見ましても、最近の“ノルウェー”をはじめとして“米 | |||
| 国のイエローストン、アーチーズ”、“モロッコ”“中 | |||
| 国(香港・マカオ・大連・旅順)”に行きましたが、今 | |||
| 回、中国を除いて簡単に写真でご紹介いたします。 | |||
| 3年前にバレーボールで切断したアキレス腱が未だ痛 | |||
| みがありますが、それよりも年のせいか“旅行疲れ”を | |||
| 感じるようになりました。しかし、まだまだ当分は“海外”へ出掛ける楽しみとお別 | |||
| れする訳にはいきません。それには「健康管理」が第一と戒めております。 | |||
| ☆ 米国:“アーチーズ国立公園” 2008/5/17〜5/24 | |||
鹿の角で飾られたアーチ |
“アーチーズ国立公園”は、ユタ州東部モアブ近郊に | ||
| あります。風化・浸食により形成された天然の砂岩のア | |||
| ーチの数は2,000を越えるそうです。 | |||
| 公園の入り口には、無数の「鹿の角」で作られたアー | |||
| チをくぐって公園内に入りました。 | |||
| 下覧の3枚のアーチの写真は、数あるアーチの中でも | |||
| 特に有名なものであります。 | |||
「デリケート・アーチ」 |
「ダブル・アーチ」 |
「バランス・ロック」 |
|
| 左の「デリケート・アーチ」は、公園内で最も有名なアーチです。120m位の高さで | |||
| ユタ州のシンボルマークにもなっております。 | |||
| 真中の「ダブル・アーチ」は、一方が他方の上に乗った二つのアーチです。 | |||
| 右の「バランス・ロック」は、バランスをとっている巨大な岩で、スクールバス3 | |||
| 台分と言われております。直径17m、重さ3,500tの巨岩が岩塔の上にのっていて、今 | |||
| にも落ちそうですね!全体の高さは39mとのことです。 | |||
| それにしても自然の神様は、凄い芸術作品を創り出すものですね。 | |||
| ☆ “モロッコ”旅行 2009/2/9〜2/15 | |||
| モロッコ王国“モロッコ”は、アフリカ大陸北西端に |
ハッサン2世モスク |
||
| あり、太西洋と地中海に面してジブラルタル海峡を挟ん | |||
| でヨーロッパ:スペインと向き合っています。 | |||
| 訪れた「カサブランカ」は、モロッコ経済の中心都市で | |||
| モロッコの玄関口とも言われ、ヨーロッパ的な近代都市 | |||
| とモロッコの古い町並みが共存してます。 | |||
| 海辺は高級リゾートとして有名です。 | |||
「水売り人」 |
ラバトの「王宮の護衛兵」 |
「水売り人」・「ラバト | |
| の王宮の護衛兵」の皆さん | |||
| も、気軽に写真撮影に応じ | |||
| て呉れました。 | |||
| (ちなみに、水は1杯日本 | |||
| 円で100円チョットです) | |||
| 「アトラス山脈」は、ア |
2,260m「標高標識」の前で |
2,260mの峠にて |
|
| ルジェリア、チュニジアに | |||
| 向って全長2,000kmの山脈 | |||
| で、平均標高は3,000mを越 | |||
| えるそうです。 | |||
| 2,260mの峠も大変寒かっ | |||
| たです。 | |||
| ☆ “オーロラ”求めてノルウエー旅行 2009/3/28〜4/4 | |||
| ノルウエー王国の面積は |
トロムソ町を一望 |
待望の「オーロラ」 |
|
| 日本とほぼ同じ位ですが、 | |||
| 人口は480万人と少なく日 | |||
| 本の人口のわずか約3.8% | |||
| に過ぎません。 | |||
| (横浜市の人口365万人) | |||
| 本土の約半分が北極圏内 | |||
| で、その北極圏内の最大の | |||
| 町がトロムソです。しかし町の中心は10分程度歩けば一回りできる大きさであります。 | |||
| 「オーロラ」は夜の8時から真夜中の2〜3時が良いとのことですが、5日間待って | |||
| ヤット念願の「オーロラ」に出逢えました。大変寒かったのですが、寒さを忘れさせ | |||
| る正に自然現象の神秘さにただただ感嘆!の連続でした。 | |||
乗船前の一時 |
船上からの雪景色 |
「フィヨルド観光」の船旅 | |
| ですが、船上から眺める雪 | |||
| 景色もまた一段と趣のある | |||
| ものでした。 | |||
| ただ大変寒いので、直ぐ | |||
| に暖かい船内に戻ることの | |||
| 繰り返しでした。 | |||
| 北極圏のノースカップを |
ノースカップ岬 |
北緯71度の厳寒を味わう! |
|
| 訪れました。北緯71度10分 | |||
| 21秒ですから、南極の昭和 | |||
| 基地の南緯69度00分22秒よ | |||
| り緯度としては高いのです。 | |||
| そのような所に、自分が | |||
| 今、現実に立っているのが | |||
| 大変不思議な気持ちでした。 | |||
| 最後に、今はさて今度は何処に出掛けようかと、検討しているところです。これも | |||
| また楽しみの一つです。 | |||
| 2009. 6. 2 | 森井 | 戦没者遺児による東部ニューギニアの旅(その2/完) | ![]() |
| 戦没者遺児による東部ニューギニアの旅(2/完) | 京都府綾部市 森井士郎 | |
| 2月18日(5日目) | |||
| 今日は、病院を訪ねて子供用車いすを寄贈しながら病院を見学させてもらた。付き | |||
| 添いの人は、床に座ってお |
寄贈の車椅子 |
ブカ島議事堂 |
|
| り、室外に生活道具が積み | |||
| 重ねられている。日本の青 | |||
| 年協力隊から派遣された医 | |||
| 師にお会いしたり、以前、 | |||
| 青年協力隊でブカ島に派遣 | |||
| されて現在はフリーの記者 | |||
| という人にもお会いした。 | |||
| 病院では大変歓迎されて、1時間程度の予定がサンドイッチと果物でもてなしてもら | |||
| いお昼近くまでお邪魔した。 | |||
| 午後は戦跡巡りをする。先ずは、この地域の連邦議会議事堂を見学、ホテルのオー | |||
| ナーも議員さんとか。昨日追悼をした所に行くとそこには、大砲の銃身が地面から出 | |||
| ている民家の庭や、コンクリートで作られた壕の入り口、学校の校庭に残る防空壕、 | |||
| 昔神社のあった所とか、ジャングルに残る戦車はかろじて形をとどめている。 | |||
戦跡 |
銃身が出ている民家の庭 |
かろうじて形をとどめている戦車 |
|
| ホテルに戻る。直ぐ前200メートルくらい先海の向こうは、ブーゲンビル島、高い山 | |||
| も見える。雲がかかりやけに寂しさを感じるが多く英霊の悲しみなのだろうか。その | |||
| ような思いをしながら夕食をとる。バナナ、パパイヤ、マンゴウなど果物は美味しい。 | |||
| ご飯、このご飯にも慣れてきた。 明日は、学校訪問持参した学用品を集める。 | |||
| 2月19日(6日目) | |||
| やっと気持ちも落ち着いてきた。永く感じていた巡拝も残り少なくなってきた。今 | |||
| 日は、学校訪問日、日差しが強い中、学校に向かう。小学校低学年の学校です。花で | |||
| 作ったレイとニューギニア国歌で迎えてくれた。私たちは「君が代」でお返しをした。 | |||
| 団長が挨拶の中で、「昔、日本は戦争をしていて多大の迷惑を掛けました、今は平 | |||
| 和を誓いその時亡くしたお父さんにお参りに来ました。皆さんは、お父さんお母さん | |||
| から戦争のことを聞いていますか」と尋ねると、全員が手お上げ知っていると答えた。 | |||
小学校 |
歓迎の準備 |
歓迎の踊り |
|
| 教室は周囲に数個の机と腰掛が並べられているだけ。私たちは、その数少ない椅子 | |||
| に座らせてもらった。子どもたちの踊りが演じられたが、敷物もなく土間で授業をう | |||
| けている。なぜ机がないのか尋ねると、先生は、全てゼロからのスタートです。何も | |||
| ないところから教えるのですと答えが返ってきた。正にそのとおり、大いに反省させ | |||
| られる言葉であった。私たちは折り紙を折って見せたり、幸せのうたを歌うとみんな | |||
| もリズムにのって、ニューギニアの言葉で一緒に歌って心が一つに成ったように思え | |||
| た。外に出て記念植樹を行い、別れを告げた、さようなら、さようならと日本語で手 | |||
| をふって送ってくれた。 | |||
| 一休みしているとブーゲンビル島の高い山に黒い雲がかかりその下が白く成ってい | |||
| る。雨だ!午後3時より予定していた、全島戦没者追悼式を早め12時45分より行う事 | |||
| にしてむこうの島に渡った。慰霊塔の前に祭壇を造り「ふるさと」を歌い、般若心経 | |||
| を唱え、代表による追悼の言葉を捧げ、順番に献花を行った。追悼式を終えて各自思 | |||
| い思いに線香を供え日本から持ってきた水やお茶を慰霊碑にかけて、英霊を偲んだ。 | |||
| 祭壇のかたずけをして帰りかけたとき、ブーゲンビルの空が一気に曇り、船乗り場に | |||
祭壇 |
慰霊の石碑 |
迎えの船が着くのと同時く | |
| らいに大粒の雨急いで船に | |||
| 乗り込んだ。もの凄い雨、 | |||
| それでもブーゲンビルの船 | |||
| つき場で急ぎ土を取り直ぐ | |||
| に戻った。 | |||
| ホテルに着くまで数分の | |||
| 間、雨とゆうより水をかぶ | |||
| っている感じだった。巡拝は全て終了した。全ての英霊が大泣きしている涙雨であっ | |||
| たのでは、と話し合った。 | |||
| 2月20日(7日目) | |||
| いよいよ三日間滞在したブカ島を離れるときが来た。個人追悼式、戦跡巡り、病院 | |||
| 訪問及び小学校訪問と友好親善に努めた。周囲の人々も私達が帰ることを感じている | |||
| 様子、荷物を送り出してから昨日訪れた小学校に、植樹の看板を立てるため再び尋ね | |||
| た。少しの時間でしたが子ども達が、有り難う!有り難う!と手を振り送ってくれた。 | |||
| 心うたれるものを感じ感激し来て良かったと思った。 | |||
| ポートモレスビー空港に着き、ロビーでふと気がつくと、国内線乗り換え、国際線 | |||
| →の日本文字が目に入った日本人が多いのかなと思った。 | |||
| 昼食は、中国飯店に行く。中国料理コース美味しかった。A班・B班は、まだ着い | |||
| ていない。私たちC班は市内見物に出掛ける。市内はなんというゆうか、何とも言葉 | |||
| で表せない。町の雰囲気は、日本では感じられない。おみやげものの店には作り物ば | |||
| かりで食べ物は無い。通りを車で走るだけで午後4時過ぎホテルに入る。3班が合流 | |||
| し部屋割りされ、部屋に入る。日本と同じだ。二人部屋だがダブルベットにシングル | |||
| ベットが一つテレビもある。 | |||
| 夕方より現地日本大使館との懇親会が行われた。現地民族舞踊の披露があった。各 | |||
| 班ごとの報告や余興を行った。C班は1番バッッターで団長作詞のラバウル小唄を披 | |||
| 露した。 | |||
| 2月21日(8日目) | |||
| いよいよ最終日。荷物をホテルに預け市内見学に出かける。美術館に国会議事堂、 | |||
| 植物園、植物園には、鳥類も飼育されている。ニューギニアの鳥、極楽鳥もいた。南 | |||
| 国らしく木々は高く伸びている。美術館は、ニューギニアの歴史や、農耕の進化等々 | |||
| 根野菜が主な生産物となっているようだ。国会議事堂も極楽鳥が羽ばたく姿を形にし | |||
| たものであった。 | |||
| 洋上生活者の住まいも見えた。全体的に工事中の町と |
ニューギニア国会議事堂 |
||
| いった感じで、眺めは300度が海。昼食には、再度空港近 | |||
| くの、ポートモレスビーに着いたとき朝食をしたレスト | |||
| ランに行った。昼はバイキングで、今日は、手巻き寿司 | |||
| が出ていてワサビもあった。班別行動で、時間をずらせ | |||
| て空港に向かった。荷物のチェックを受けるが搭乗手続 | |||
| きに時間がかかり、やっと待合所に入る。出国手続きの | |||
| 後、また手荷物検査。搭乗待合室に着きほっとする。中 | |||
300度は海 |
には免税店があり買物もできたが、キナを残しておけば | ||
| 良かったと反省した。 | |||
| 搭乗開始通路では、現地の人のバンド演奏で送られて | |||
| 搭乗した。滑走開始。雨になった14:30分ポートモレス | |||
| ビーを離陸した。お天気は悪く、雲海の中を飛行。日本 | |||
| までの太平洋の島々を見たいと期待していたが残念であ | |||
| った。 日本に着いて夕食場所を探しに東京の町へ、夜 | |||
| も遅いのでコンビニしか開いていない。適当に食べ物を | |||
| 買って部屋に帰る。 | |||
| 2月22日(9日目) | |||
| 終わりに! | |||
| 長いようで短かった9日間であった。出発前は現地が良くわからないので、全くイ | |||
| メージがわかない。ちょっと外国に、ニューギニアに行ってくるわ、の感じだった。 | |||
| ポートモレスビーに着いて、高台のレストランから眺める景色は、草原を見る様だ。 | |||
| 目の前で飛行機が離発着している。ここはローカル空港ですかと尋ねると、これが今 | |||
| 着いたポートモレスビー国際空港だと教えられた。各島を巡拝して、一年中気温が高 | |||
| いこの地ジャングルの中、何があるのかどのような環境なのか?何もわからない所に | |||
| 送り込まれた多くの兵隊さん、当時は、お国のため思っていたと思うが、もし、今、 | |||
| 自分がそのような状況に置かれたらどうだろう。 | |||
| 時間がたつにつれ太陽の昇る方角を見ては、ああ、日本はどちらだろう、ご飯が食 | |||
| べたいなあ〜、味噌汁が飲みたいなあ〜、蚊に刺され体調がおかしくなった・・、と | |||
| 想像すると、あの戦争は何だったのだろうか?現代でも戦火のたえることのない状態 | |||
| は、同じ事が繰り返されている。反省って無いのだろうか?なんと愚かなことだろう | |||
| か。この急激な繁栄を深く反省し、これでいいのかと、振り返って見る時期に来てい | |||
| ることを感じた巡拝の旅であった。 | |||
| 2009. 5.13 | 森井 | 戦没者遺児による東部ニューギニアの旅(その1) | ![]() |
| 戦没者遺児による東部ニューギニアの旅(1) | 京都府綾部市 森井士郎 | |
| 季節の田舎情報をお伝えすることを、予定していましたが、東部ニューギアに行く | |||
| 機会を得て、2月14日より22日まで行って参りましたので報告いたします。 | |||
ポートモレスビー国際空港到着ロビー |
平成21年2月14日(土)午後1時九段会館に集合し、 | ||
| 靖国神社に参拝・旅の無事を祈願した。 | |||
| 参加者32名、結団式を行い夕食をしてA班13名・B班 | |||
| 12名・C班7名随行は、総団長・各班団長・日本旅行添 | |||
| 乗員5名総員41名で成田に向かった。 | |||
| 成田発21:05分ニューギニア航空55便でニューギニア | |||
| ポートモレスビーへ現地到着は、現地時間2月15日午前 | |||
| 4:30分日本との時差は1時間、空港近くのレストラン | |||
| で朝食をする。赤道直下の朝日の日差しは日本より鋭く感じた。ここで3班に別れて | |||
| の別行動となる、私たちC班は時間に余裕があり洗面をしてちょっとさっぱりする。 | |||
| 2月15日(日)2日目 | |||
| ポートモレスビー9:05発→10:30マヌス島に着く。 |
追悼場所一覧 |
||
| 空港とはいっても、滑走路と簡単な通信施設があるだけ | |||
| で、管制塔などなくパイロットの思うがままと言った感 | |||
| じ、荷物はトラックターが牽引する。荷車で待合所兼荷 | |||
| 物置き場にそれぞれ各自が自分の荷物を持ってゆく、囲 | |||
| いもないオープンスペースである。 | |||
| あれがバスです、と言われて見ると、トラックの荷物 | |||
| 台にホローが掛けられ横に渡された歩み板が座席。私 | |||
| たちは、日本車のワンボクス車で移動、この車も日本では、車検切れ同等車、私たち | |||
| 7名と団長、添乗員現地ガイド(男性)運転手で丁度満員。私たちの移動方法は、こ | |||
| の後、各地とも同様であった。 | |||
ジャングル |
さて、私たちの行動であるが、空港を出たらすぐにマ | ||
| ヌス島の小島でロスネグロス島で慰霊を行う予定であっ | |||
| たが、昼食の準備が出来ているとの連絡が有り、ホテル | |||
| に向かった。 | |||
| ホテルまでは約40分、車中から初めて見るジャングル、 | |||
| ジャングルの間に時々見える現地の人の住まいは、日本 | |||
| の参考書で見たジャングルそのものであった。床が高く | |||
| 椰子の葉で拭かれた屋根、柱だけの素通し、道路は舗装 | |||
| では無くでこぼこ路であった。 | |||
| 時々出会う人は、裸足で生活様式は全くわからない。ホテルに到着した。入り口に | |||
| はゲートがあり、周囲は鉄の柵で囲ってあった。海辺のリゾートの感じで、部屋は2 | |||
| 人、シャワーにトイレ洗面所付きの長屋のようであった。昼食は、ご飯でなく、柔ら | |||
| かなご飯と鳥ガラスープ・果物・パン・コーヒーであった。食事を済ませて慰霊の準 | |||
| 備をし玄関に集合したら突然凄い雨、黒い雲が通りすぎるのを待つこと、約30分、小 | |||
| 降りに成ったので慰霊場所に向かう。空港近くなので40分ほど走る、日本人慰霊碑は | |||
| 海辺に向かって建っており、現地の人が草刈りの準備をしてくれていた。 | |||
日本人慰霊碑と祭壇 |
米軍人の慰霊碑 |
当時日本兵を匿った老人 |
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| 2メートル程の棒にロープを張りニューギニア国旗と日の丸を掲げ祭壇を作った。 | |||
| 広島から来られたSさん、Tさんご姉妹により追悼・全員で線香をお供えて般若心経 | |||
| を唱え冥福をお祈りした。雨が降り出したので一人一人のお祈りは出来なかった。帰 | |||
| りに米軍の碑を見学し戦跡巡りをした。当時、日本兵を匿った老人の住む住居を訪ね、 | |||
| 説明を聞いたが見学料を要求された。そこには、日本兵の作ったと思われる建物があ | |||
| り、今も現地の人が利用しており日本の煤けた「やかん」を見せてくれた。この建物 | |||
| は床は高いが、周囲が波板で囲われており明らかに日本風の小屋だった。 | |||
| これで、今日の予定が終了した。部屋でベットに横になると、波の音を心地よく感 | |||
| じた。夜9時眠りに就いた。 | |||
| 2月16日(月)3日目 | |||
| 朝5時目を覚ます。外はまだ暗い。もう少し寝るかと思い眠る。ちょっと寝たなと | |||
| 思い外を見ると太陽が昇っていた。山がないので明るくなるのが早い。外に出て見て、 | |||
| 太陽が東だとすると、日本は?・・と、思ったとたん胸に熱いものがこみ上げてきた。 | |||
| 日本恋しさのものではない。60数年前太陽が出るたびに、日本を思い、何時終わると | |||
| もしれない日々を過ごしていただろう英霊たちのことがこのジャングルの中で・・、 | |||
| この暑さの中で・・、と思うと涙が止まらなかった。 |
市場内 |
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| 朝食は、洋食でスープ・トースト・果物。荷物をまと | |||
| めて出発準備をしてから、市場の案内をしてもらった。 | |||
| 日本の100円ライターからすぐそばで収穫したようなバナ | |||
| ナなど果物・薫製にした魚・手作りかごなどなど。 | |||
| 空港に向かう。手荷物検査は、機械が無いので全て開 | |||
| けて点検、時間がかかる。日本の路線バスと同じでポー | |||
| トモレスビーを出発し順次島を回ってゆく。降りる人、 | |||
| 乗る人、続いて乗っている人、添乗員さんが次の追悼者を窓側に席を取って頂いたの | |||
| に乗ってみれば誰かが座っている。スチュワーデスさんの指示に従うしかなく、指定 | |||
| 席があってないに等しいが、幸いに私は窓側に座れた。 | |||
| アヌス島を後にニューアイランド島カビエンに向かい、約1時間で到着。カビエン | |||
| 空港は管制塔もあり、ちょっとは空港らしさがある。荷物はトラックで、私たちはワ | |||
| ンボックスカーでホテルへ、エアコン付きであった。早速昼食、魚、肉、鶏の注文を | |||
カビエン空港 |
とってくれた。ご飯が用意されていた。日本での外米ご | ||
| 飯、海辺のリゾート地風のいい感じのところ、木造作り | |||
| で落ち着いた感じである。部屋もいい部屋であった。追 | |||
| 悼の準備をして玄関に、誰かの携帯が鳴った。日本から | |||
| だ!海外用だと通信可能なのだ。車で慰霊地へ向かう。 | |||
| 東南方向に細長い島海岸はアメリカを向いている。近年 | |||
| 日本兵の遺骨が発見された場所は、周囲が空き瓶で囲わ | |||
| れ砂が盛ってあり、ここで追悼をすることにした。父の | |||
| 遺影と家族の写真を飾り追悼した。涙が止まらなかった。写真を土に埋め、土をビニ | |||
| ール袋に入れ持ち帰った。 | |||
慰霊祭 |
錆びた大砲 |
壕の中の観音様 |
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| 戦跡巡りをした。海岸に赤く錆びた大砲が海に向かって崩れていたが砲身はしっか | |||
| りしていた。次に銃口を出す細長い窓のある壕がある。中にはいると壁に観音様が掛 | |||
| けられていた。60数年間そのままだった。戦跡を探しジャングルの奥に入ると、食料 | |||
| (農産物)品を栽培している雰囲気を感じる場所に出た。小さな田んぼがあり、稲が | |||
| 植えられていた。いい出来ではないが穂を付けていた。 | |||
| 町らしき所に案内され、途中でスーパーがあったので、入ってコーヒーを買った。 | |||
| ここには、亀甲万醤油に日新の天ぷら粉もあった。ホテルに入り一息、テレビもある。 | |||
| ニュースで日本にクリントンさんが来られた事を伝えていた。インタビューに答える | |||
| 日本語を聞いた。湯ぶねのあるシャワールームで観光地をイメージできた。シャワー | |||
| 浴びて団長の部屋で一杯やってから夕食。チキン・魚・ラムの何れかとライス、お酒 | |||
| の好きな人は、ビールかワイン、私は水、水も日本円で200円位、ビールは280円位、 | |||
| 明日の朝は早い。カビエン空港を午前06:00出発。朝食を通常にするなら03:00起き、 | |||
| 朝食は弁当にして03:30起床することになる。 | |||
| 2月17日(火)4日目 | |||
| 早朝ホテルを出発し、06:00カビエン空港発でブカ島へ向かう。ここでも手動荷物 | |||
| 検査、書類は手書き、時間がかかる。何とか待合いロビーにいれてもらって、朝食に | |||
| ハンバークを食べる。まだ暗いうちから搭乗が始まる。 | |||
ニューブリテン島(ラバウルの火山) |
ラバウルの私 |
ブカ島での追悼 |
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| 滑走が始まり窓から外を見るとそれでもぽつぽつと灯りが見えた。ブカ島に向かう | |||
| が、もしかしたらラバウルに寄るかもしれない、30分位飛んでから火山が見えてきた。 | |||
| 旋回しているのでラバウルに降りるらしい。ブカ島行きは11:00発ラバウル空港で4 | |||
| 時間待つことになった。団長が言付かった英霊の追悼を静かに行う。思いが伝えらて | |||
| よかった。出発ロビーはエアコンがあるので荷物検査を済ませて入れてもらう。ここ | |||
| は検査機が装備されていた。ロビーの椅子で横になって一休みした。 | |||
| やっと飛行機がきた。「さらばラバウル」ブカに向かう。ブカに着いたが荷物受け | |||
| 取りに時間がかかる。どうやら死体が乗っていたらしく、救急車が来ている。手荷物 | |||
| を受け取り、ホテルのトラックに渡し、私たちは空港に残る。トイレにゆきたいが、 | |||
| 水が出ないので使用禁止を何とかお願いして用をたす。 | |||
| チャーター機でブーゲンビル島の機上より遙拝に向か |
ブカ島上空より |
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| う。偶然にも副操縦士は日本人で名古屋出身の人であっ | |||
| た。約1時間半の飛行、島の半分くらいは雲がかかって | |||
| いた。低空飛行をしてもらって遙拝、一面ジャングルの | |||
| 間に、椰子の葉の屋根が見えたり時々畑のような所も見 | |||
| える。あそこが旧日本軍の飛行場跡、たしかに緑一色だ | |||
| がそれらしき形が伺える。ここは、海軍大将山本五十六 | |||
| が視察中撃墜され亡くなったとろだ。心の中で自然と | |||
| 「般若心経」を唱えていた。ブーゲンビル島を東側から東南方向に進む。余り南に進 | |||
| と領空侵犯するので、早めに西側に旋回し島の西側を北に向かう。やはりジャングル | |||
| が続く小さな島々が見えてきた。まもなくブカ空港に無事着陸した。 | |||
| ホテルへ。やはり鉄柵で囲われたゲートのある地区に入る。部屋は倉庫に仕切を入 | |||
| れ、洗面、トイレ、シャワー室で入口はドアだが窓はなく、洗面場所に明かり取り程 | |||
| 度があるだけ、エアコンがあるが動かしておかないと、湿っぽくにおう2人部屋、食 | |||
| 事場所は海にせり出したすのこ状の床で海は流れが速い様子、水上バスがひっきりな | |||
| しに往来していおり、右斜め方向には全戦没者慰霊塔が見える場所であった。 | |||
| 早速、追悼に出かける。島の高台を探してブカ島、ブーゲンビル島戦没者と遺族の | |||
| Iさん、Yさん、Tさん、Oさんの追悼を行う。ブカ島の西海域ソロモン海戦艦によ | |||
| る多くの英霊が眠る海である。 | |||
| C班による個人追悼が終了した。安堵感の中、夕食をゆっくりとりながら南十字星 | |||
| を探すが雲がおおくて見ることができなかった。 | |||
| 次もありますので読んでください。 | |||