| | | |
かねてから訪ねてみたいところとして一番に考えていたインカに関係する遺跡にや |
っと今年5月の連休時に訪ねることができた。丸一日24時間以上の空の旅でペルーに |
入り、体調を整え、高山病を予防するための高度順応もスケジュールに入れて、主要 |
なところだけを訪ねても出入り10日にはなってしまう。南米は確かに日本から遠い。 |
個人旅行としては、どうやっても合理的に、経済的に短期間の旅行を組み上げること |
は不可能に近い。 |
筆者は今まで一度も海外旅行で旅行社のパック旅行を利用したことはなかったが、 |
今回に限ってはどのようにやり繰りしても、旅行社がこじんまり少人数で改善を積み |
重ねながら実施している旅に勝るプランは立てられないことが分かった。そこで、余 |
り気乗りはしなかったが、自分の年齢を考えて、訪問を来年以降に先送りすればする |
ほど実現が難しくなるであろうから、パック旅行で可能性のあるもの全てを比較検討 |
して、最も時間的に余裕があり、無謀さが少ないものとして、JTBの旅物語「ペルー |
世界遺産紀行10日間」に参加することにした。 |
決めるに当たって最も期待したことは世界遺産として全世界で一番人気があるイン |
カ空中都市マチュピチュを二日間に亘って訪れ、しかも二日目にはインカ道をトレッ |
キングすることが予定されていることだった。世界の各大陸にそれぞれ一度はトレッ |
キングくらいの足跡は残したいことも筆者の旅行に際しての優先事項の一つだからで |
ある。また、折角待望の土地を訪ねても天候が悪ければ、成果や満足度は半減してし |
まうからである。一日が雨でも、もう一日は少し良い天気になることは充分有り得る |
ことだからである。博物館や建物の中を訪ねるには、天候は正直余り大きな要素には |
ならないが、屋外の少なくとも歩くことが主になるところでは天気の良いことは何よ |
りも望まれることである。 |
今回の選択はその点でまさに正解であった。マチュピチュ訪問の第一日目は午後で |
雷雨となり、高低差のある石組みと泥と水溜りの道を傘さしての足運びは正直難渋し |
た。しかし、二日目のインカ道トレッキングの日はからっとした打って変わった快晴 |
日であった。眺めた空中都市の景観は全く見違えるような変化であった。ところで、 |
後で自分の撮った写真を比べてみると、雨の中の霧や霞に煙る山肌をバックにした古 |
代都市の方が何倍も重みのある実際に遺産に相応しいものであることに気が付いた。 |
不思議なものである。 |
後日幾冊かの書物を読んでみると、著名な写真家でマチュピチュを訪ねたことのあ |
る人は全員訪ねるなら雨の日の方が趣あり、写真を撮るのならなおさらであると記し |
ている。これも経験してみて初めて知ることであった。 |
ペルー行の仔細をここに |
4月29日(雨天のマチュピチュ) |
4月30日(快晴のマチュピチュ) |
文章にするつもりはない。 |
以上のような背景のもとに |
数葉の写真を見ていただこ |
う。皆さんは初日4月29日 |
の雨天のときと,翌日4月 |
30日の快晴時の写真とどち |
らがお好きでしょうか。 |
(2007年6月30日 記) |
| | | |
ラクダ岩をバックに千葉さん |
トキメック旅行会では、今年は“桂林”へ行こうと昨年 |
から決まっていました。(トキメック旅行会については、 |
昨年5月野村・小田さんの「みちのく花見ツアー」で紹介 |
済参照方) |
幹事の黒沢・小田さんの近畿日本ツーリストとの強力 |
な交渉で、我々独自のツアーを組み、参加者24名(男女 |
各12名)で楽しい旅を満喫してきました。 |
日本からの添乗員はつきませんでしたが、そこは旅慣 |
れた我がグループ、それぞれの現地ガイドと仲よく楽しんできました。その概要を報 |
告させていただきます。 |
実は、私は19年前、当時会社が実施していた「リフレ |
広州空港ロビー |
ッシュ休暇制度」を利用して『香港・広州・桂林の旅』を |
経験していたので、20年間のこの地の変化を見るのも楽 |
しみの一つでした。 |
6月13日(水)午後1時(現地時間、以下同じ)広州 |
に到着、現地ガイド韓さん(独身女性)の案内で『西漢 |
南越王墓博物館』を見学しました。1983年に発見された |
もので、2200年前の王墓や約1,000点の青銅器や鉄剣など |
が発掘され、展示されていました。説明員の説明に感心しながら見学をしましたが、 |
雨の西漢南越王墓博物館 |
最後に展示品の一部を売っているのには驚きました。国 |
から予算が削減されていることと、オリンピックのため |
文化を分け与えるためと話していました。価格的にはそ |
う高くなく、数万円から数百万円でありました。さすが |
華商!4日目に見学しました、「鎮海楼」でも売ってい |
ましたので、国立博物館では全てで販売しているようで |
す。広州のシンボル「五羊石像」も見学の予定でしたが |
雷雨に見舞われて4日目に延ばし、レストランで中華料 |
理の夕食。ビールはサイダーのようだったが、やはり本 |
桂林帝安苑酒店前の漓江 |
場の紹興酒は美味しかったです。 |
夕食後、最終便で広州空港から桂林に向かいました。 |
空港には桂林のガイド李さん(独身女性)が迎えてくれ |
ホテルに向かう、ホテル到着は午前0時30分、ホテルは |
漓江の河べりに建つ五つ星の『桂林帝安苑酒店』で部屋 |
からは桂林の景色が一望できましたが、なにぶんにも短 |
時間の滞在でした。 |
2日目は待望の漓江下り。雲一つない晴天に恵まれ、午前8時ホテルを出発。 |
漓江川下り絶景 |
竹江港から観光船に乗り、あの独特な奇峰・奇岩、 |
『動く画廊』と称される水墨画の世界を満喫!大満足! |
途中、冠岩で世界一の鍾乳洞を見学、エレベーターで |
地下へ降り、鍾乳石の柱が林立する中をトロッコで奥へ |
向かう。そこには色とりどりにライトアップされた鍾乳 |
洞のさながら仙境のような大空間に感嘆し大満足でした。 |
桂林の景色は、2万年前海底が隆起して出来たそうだ |
が、20年前と全く変わっていませんでした。 |
興坪で船を降り、日本人の林さんが経営する老寨山旅 |
老寨山旅館林さんご家族 |
館での昼食。ここは港が無く川岸に船を寄せ板を渡して |
降り、電動カートで旅館へ向かう、林さんが3歳の子供 |
を肩車して迎えに来ましたが、孫かと思ったら息子さん |
の喜多郎君とのこと。大変可愛い息子さんでした。この |
宿は日本のテレビでよく放映されるようで、また、7月に |
はNHKで放映されるそうです。 |
バスで陽朔に向い、イカダ遊覧と鵜飼いを楽しみ、泊 |
陽朔筏に乗る |
まりの宿、「陽朔新世紀酒店」にチェックイン。陽朔の |
中心地「陽朔西街」のレストランで夕食。ほろ酔い機嫌 |
で散策しながらホテルへ帰る。ここはスリが大変多いら |
しく、ガイドに何度も注意されましたが、幸い誰も被害 |
にあわずホテルに無事到着。 |
3日目、好天にめぐまれた中、4台の電動カートに分 |
乗し、山の中央に満月のような穴があいた「月亮山」を |
見学。更に、バスで陽朔の農家を訪問しました。やはり |
地方は貧しいようです。土間でオレンジ・瓜・サツマイ |
象鼻山公園 |
モ・トウモロコシ・南京豆などをご馳走になりました。 |
人のよさそうな老夫婦が一生懸命接待してくれました。 |
最初は食べるのをチョット躊躇しましたが、トウモロコ |
シが甘くて大変美味しいものでした。 |
バスで桂林に着き、パンダと金絲猴のいる「七星公園」 |
象の鼻が水を飲んでいるような形の「象鼻山」を見学後、 |
1日目と同じホテルに到着。 |
雑技「夢幻漓江」の俳優 |
夕食はレストラン「山水宴」で桂林料理を満喫。勿論 |
ビールと紹興酒も十分堪能し大満足! |
夕食後、桂林の雑技「夢幻漓江」を前の方の見やすい |
席で鑑賞しましたが、バレエとサーカスの要素を取り入 |
れたもので、その迫力は大変素晴しいものでした。上海 |
の雑技より面白い気がいたしました。 |
4日目、午前中に桂林空港から広州へ戻り、昼食はレ |
ストランで飲茶を満喫。本場の飲茶は大変美味しいもの |
でした。その後、1931年に建設された孫文ゆかりの「中山紀念堂」を見学。青い瑠璃 |
瓦が美しい高さ49m、八角系の宮殿式建築です。皆で中に入り中央の椅子に座り、5分 |
ほど瞑想に耽りました。 |
次に「陳氏書院」を見学、広東省72県の「陳」の氏姓 |
陳氏書院集合写真 |
を持つ人々が子弟の教育の場として、1890年から4年掛 |
けて建立されたもので、九堂六院からなる19棟の建物が |
あり、なかなか立派なものでした。 |
さらに、「広州博物館(鎮海楼)を見学、越秀山の頂 |
上に建つ明代の「鎮海楼」が1929年に博物館となりまし |
た。説明員の説明は分かりやすかったが、ここでも一部 |
売却の商売をしているのには驚かされました。見学の途 |
広州博物館(鎮海楼) |
中から猛烈な雷雨となり、しばし館内で雨宿り。初日パ |
スした「五羊石像」の見学は今日もパスとなりましたが、 |
待機中に、「五羊石像」のミニ版が展示されているのを |
見て、まあーいいか! |
本日の夕食は、子豚の丸焼きや海鮮の広東料理と飲み |
放題での最後の晩餐です。三つのテーブルに子豚の丸焼 |
きが一頭ずつ、やはり胃袋が少々疲れ気味なのか、料理 |
も飲み放題のアルコールもペースダウンの様相でした。 |
ホテルは最高級の「広州中国大酒店」、ゆっくり休み |
子豚の丸焼き |
ました。 |
5日目はホテルを午前10時30分に出発し広州空港へ、 |
空港隣接の中華料理店で中国最後の昼食、数人の中国人 |
学生が働いていたが、日本語勉強のため実習的に働いて |
いるとのこと、積極的に皆に話しかけてきました。日本 |
語を覚えようという熱意はたいしたものです。 |
広州発のJAL,1時間ほどの遅れで成田空港へ向け |
広州空港国際線出発ロビー |
て飛び立ちました。 |
私の印象では、桂林の町並みは20年前の面影は全く感 |
じられないくらい道路も建物も変わり綺麗になっていま |
した。桂林・広州ともにマンションの建設ラッシュで、 |
7階建ぐらいの建築現場の足場が、何処をみても「竹」 |
を組み合わせたものには、皆さん驚かれていました。 |
“おいおい、これで大丈夫なの!”との思いでした。 |
さすがに陽朔は20年前の桂林の面影を残しておりまし |
たが、トイレは昔と違って何処も良くなっておりました。来年のオリンピック開催と |
経済発展の効果と痛感した次第であります。 |
奇峰奇岩の漓江を下る |
|
(注:掲載写真は野村一信さん撮影) |
| | | |
1.ベースキャンプへ |
出発の日の朝食時、パルスオキシメーターという計測器(体内の酸素不足の程度を |
調べるためのもの)で測ると、血中酸素飽和度82%、心拍数62で、まずまずの及第点 |
だった。我々の宿泊したヒマラヤホテルには他の登山隊も同泊していたが、日本隊が |
もう一組来ており、その隊長が大蔵喜福(よしとみ)氏、有名な登山家で、椎名誠の |
「あやしい探検隊」シリーズには“たわしひげの大蔵”として登場する。ホテル前で |
一緒に写真を撮り、お互いの健闘を祈って分かれた。 |
2台のランド・クルーザーに分乗、他に荷物運搬用の中国製トラックと計3台で出 |
発。「青蔵公路」という国道を行くと、至る所で鉄道の敷設工事が行われていたが、 |
これが本稿の冒頭で紹介した青蔵鉄道として2年後に開通することになる。 |
羊八井(ヤンパーシン)という地方に入ると、雪を頂いた山々が現われ、興奮した。 |
国道から分かりにくい分岐点で、僅かに轍(わだち)が残る程度の道に入った。ある |
ようでないような道で、湿地あり、小川あり、石のごろごろした所ありで、運転手の |
腕の見せ所だったが、しばしば立ち往生するのだった。ヤクや羊を飼う牧畜業の集落 |
がポツリポツリとあり、土で固めた粗末な家屋や塀が見られた。 |
ラサから150kmのベースキャンプ(BC)は標高4,640m、すでにアルプスのマッター |
ホルンの頂上より高い位置である。 |
ヤクの毛を紡ぐヤク使いの青年 |
広々としたなだらかな丘陵に囲まれ、広大なチベット |
高原を見下ろし、その彼方には高峰が連なる。近くには |
氷河から流れてくる乳白色の川があり、あちこちに愛ら |
しいリンドウが咲き、丘には羊飼いと犬に追われた羊の |
群れが移動しているのが見える牧歌的でのどかな別天地 |
だった。 |
食堂兼炊事場の大きなテントと、隊員用のドーム型テ |
ント4張が設営される。チベット人のヤク使いやポーター |
たちが興味深げな顔をして集まってくる。一人の精悍な |
感じの青年はヤクの毛を独楽のような道具でくるくる回しながら紡いでいた。コック |
は若い青年二人、そのうちリーダー格はズダンという利発そうな明るい若者だった。 |
| | | |
3日目に、外でポーターたちが飲んでいたバター茶というのを一口飲ませてもらう。 |
チベット人の常用茶だが、くせのある風味がして慣れないと違和感がある。 |
荷上げに使うヤクが14頭集まった。ヤク使いたちがヤ |
ヤクに荷物を載せる光景 |
クの毛で縒った20mもあるロープ2本を張って、それに |
1頭ずつ轡(くつわ)を結んで整列させ、荷物を括りつ |
ける。壮観な光景だ。中には荷を乗せられるのを嫌って |
逃げ出すヤクもいた。普段おとなしいのに、ヤク使いの |
怒声にも言うなりにならず、反抗的な性格を示すときも |
あるようだ。他にポニーが3頭、これはポーターたちの |
テントや器材の運搬用らしい。 |
BCからC1へは馬で行く |
我々隊員はやや小型のがっちりした馬に乗り、1人ず |
つチベット人がついた。乗馬は初めてだったがすぐ慣れ |
た。どんな崖っぷちや川の渡渉でも、馬に任せて自然体 |
で力を抜き、馬のリズムに合わせて座っていればよいよ |
うだ。段丘を越えたり、河原に沿ったりして、チュガ谷 |
の奥へ進むと白く輝く6,000m級の山々が近づいてきた。 |
最後は大きな段丘にぶつかって馬を降り、徒歩で上に登 |
ると、200mを超える岩壁の下に広い河原が広がり、そこ |
が第1キャンプ(C1)の予定地だった。標高5,170m。 |
| | | |
4日目、C1からC2へ。朝食でお粥が多いのは、前日のアルファ米(山で使う乾 |
燥米)の残りを利用するからで、それに味噌汁と梅干というあっさり系のメニューが |
多い。高山病の症状がひどくなったIさんはC1に残り、回復したら後から追いかけ |
ることになった。C1から上はもうヤクが歩けない険しい地形であり、11人のポーター |
たちが共同装備を分担して運び、我々隊員は行動用の荷物だけを持った。河原や氷河 |
の雪上を歩いたりして、モレーン(堆積地帯)の段丘を3つ程超えたとき、突然ポー |
ターたちが騒然となった。この地点が第2キャンプ(C2)地点と勝手に思い込み、 |
これ以上荷を運べないとサボタージュを起こしたらしい。 |
荷上を終えたポーターたち、若い娘さんもいた |
彼らは1回当たりいくらという手当てを受けるので、荷 |
上げ距離が短ければ楽ができるわけである。扇動したの |
は一人の年長のポーターらしかった。 |
これまで黙って後方を歩いていた伊東隊長が大声で一 |
喝すると、自ら先頭を歩き出した。意味を解した私も伊 |
東さんに従い、「もっと先まで」とポーターたちを促し |
た。するとどうだろう、元気な若いポーターたちが声を |
上げながら先を争うように指示された方向へ駆け出した |
のだ。文句を言っていたらしい年長のポーターも仕方な |
第2キャンプと6000m級の山々 |
しについてくるのだった。 |
最前線キャンプのC2は標高5,500mの、開けた眺めの |
よい平坦地で、明日アタックする未踏の山チュガチュチ |
ン峰はじめ、6,000m級の山々がもう目と鼻の先にあった。 |
居住用テント2張と、炊事場兼食堂のテント1張が設営 |
された。設営を終えたポーターたちは下り、そのあとコッ |
クのズダンたちも下って行ったのでC2は隊員6人だけ |
になった。 |
| | | |
5日目、いよいよ登頂日。血中酸素飽和度64%、心拍数80、昨夜少し酸素ボンベで |
酸素を吸ったので少し改善されたようだ。目指すチュガチュチン峰は6,174m、アラス |
カのマッキンリーとほぼ同じ高さである。長い長い雪原(氷河)を赤旗の付いた標識 |
ポールを立てながら登り続けた。5時間以上もかかって漸く稜線のコル(鞍部)に達 |
登頂したチュガチュチン峰(6,174m) |
する。ここは6,000mを超えている。そこからの雪稜は技 |
術的には易しかったが、高度による辛さは身体にこたえ |
た。そのうえ二度にわたって瞬間的に風雪が襲ってきた。 |
幸いそれは長続きしなかった。トップに立った私の足に |
装着した12本爪アイゼンの爪あとは、この山が生成以来 |
初めて人間の歩行を許した刻印でもあった。最高点が近 |
づくにつれ、言い知れぬ感動が私の五体を覆い包もうと |
している。そして17時25分、頂上に着いた。未踏の山の |
頂点に立つ夢が生涯に一度でも叶えられれば、山を志す者にとってこんな幸せなこと |
はないだろう。先ほどの風雪も忘れたように去って、いま四囲は開け、ぐるり360度の |
大パノラマが展開している。入山以来、いつも山頂部を雲に覆われていたこの山群の |
主峰ニンチェンタングラ峰(7,162m)がベールを脱いでその雄姿を現していた。従う |
ように連綿と居並ぶ5,000〜6,000m級の無数の山々、蒼い湖面を山と山の間に見せてい |
るのは、チベット最大の塩水湖ナムツォウだ。 |
この日登頂できたのは8人の隊員のうち4人だけ。多くは大なり小なり高度障害の |
症状が出ており、BCやC1で涙を呑んだ人もいれば、アタック当日時間切れで登頂 |
を断念する人もいた。前月には一緒に体力強化のため利根川水源の山を登ったり、高 |
度順応のため2度にわたって富士山に登り、頂上でビバーク(簡易露営)して備えて |
きたパートナーのIさんは、高山病でC1までしか登れなかった。私も登頂後は胃の |
不調に苛まれたが、限られた日程の中で、登頂の日まで高所順応も比較的順調に推移 |
し、頂上を踏めた1人であったことは幸運だったと言えるだろう。 |
| | | |
1.食べある記 |
(1)大衆食堂 |
ラサ滞在中は、ヒマラヤホテルのレストランは高価なので、向かいにある大衆食堂 |
「経済便餐」で朝食をとるのが常だった。メニューはおかゆ、肉まん(包子)、ゆで |
卵、豆乳、揚げパン(油餅)などのほか、大根の塩漬けはさっぱりして良かったし、 |
餃子やピータンは旨かった。夕食も何回か利用したが、肉めし、チャーハン、豆腐料 |
理、羊肉料理、松茸スープなどなかなかいけた。1人4元(1元≒14円)程度で安い |
ので、金のなさそうなチベット人の若者がこの食堂をときどき利用していた。ビール |
は「拉薩ビール」とか「青島(チンタオ)ビール」が置いてあったが、初めてこの食 |
堂で飲んだときは一口でカーッとなってしまった。ビールが強いのではなく、まだ |
ラサの高度(3600m)に身体が順応していなかったせいであり、翌日からは馴れた。 |
因みにホテルのレストランで夕食をしたとき1人40元だった。 |
(2)チベット料理 |
ジョカン寺の門前町にあったチベット料理店で昼食、ヤクという動物の肉料理が特徴である。 |
ジョカン寺の門前町にあるチベット料理店で昼食をし |
たことがある。9品ほどオーダーしたが、チベット料理 |
はヤクという高地・寒冷地に強い体毛の長い牛の一種で、 |
登山のときなどは荷物の運搬に使う動物であり、その肉 |
が使われるのが特徴である。例えばヤクの肉と大根の入 |
ったスープとか、ヤクの舌の焼肉とかである。全体とし |
て辛い味付けだった。 |
|
(3)イタリア料理 |
チベットでイタリア料理というのも変だが、好奇心の強い我々は登山後に一度イタ |
リア料理店へ夕食に行った。ステーキ風のヤクの肉もあったが、やはりピザ、マカロ |
ニスパゲティなど当たり前のイタリア料理が主体になった。 |
料理よりも雰囲気のあるレストランという印象で、ローソクの灯った中世のヨーロ |
ッパ風であり、我々以外は欧米人観光客ばかりだった。 |
(4)家庭料理 |
ラサ最後の夜は、ガイドのパサンが最近建てたという豪邸へ晩餐に招待してくれた。 |
パサン自身が調理したという何種もの料理で、鶏肉の煮込み、えび料理、羊の焼肉、 |
羊の肺、ところてんのような食材とキュウリ・ニンジンの炒め物、チンゲンサイのス |
ープなどが並べられ、中でもドクダミのお浸しはくせがあるが珍味だった。 |
プラという大麦の蒸留酒(焼酎)を勧められたが、強すぎてまともに飲めたのは広 |
島のK氏1人だけだった。 |
(5)四川料理 |
帰途成都に寄ったとき、「チベット聖地株式有限公司取締役会長」という肩書きを |
もつ実力者、スーピン(蘇平)氏の招待で一流の四川省料理店に入った。 |
大きな広間には中国人たちが幾組もテーブルを囲んで賑やかにディナーを楽しんで |
いた。料理そのものは日本の都市によくある中華料理店の高級コースくらいだったが、 |
店内の雰囲気は豊かになった中国の一面を見る思いだった。 |
(6)餃子料理 |
ラサでも成都でも餃子料理を食べたが、専門店は何種もの餃子料理が用意されてい |
る。ご存知のように中国人は蒸し餃子、水餃子として食べ、焼き餃子はあまり食べな |
い。我々は特別に注文して焼き餃子を作ってもらった。成都では8種の餃子を食べて |
1人13元だった。 |
| | | |
2.見てある記 |
(1)ラサ川とボンブリ山へハイキング |
宿泊したヒマラヤホテルの近く、ラサ川に面して中国人 |
ラサ川沿いを散策中に見た賭博風景。 |
民解放軍の駐屯地があり、ホテルの8階のベランダからは |
兵舎の一部が見えた。いつも朝は兵士たちの掛け声が聞こ |
えてきた。ラサ川を散策したとき、門の近くに近づいたら |
衛兵に咎められた。 |
対岸で格闘訓練中の兵士たちを見たが、こちら側の岸で |
チベット人の女性たちが平和そうに洗濯している光景と対 |
照的だった。ラサ川では護岸工事が行われており、日本の |
丁半に似た賭博光景も目にした。 |
登山中最初に高山病になって山からリタイヤし、回復してからずっとホテルに滞在 |
していた静岡のTさんと二人でボンブリ(崩布)山へハイキングした。この山はラサ |
川の対岸に聳える岩山で、チベット人の信仰の対象になる聖山である。 |
その朝はホテルで言葉のさっぱり分からない中国のドラマを見ていたら、正に反日 |
ドラマで、旧日本軍の将校がひどい悪者に仕立てられていた。最近温家宝首相が来日 |
して日中関係は「氷を解かす」関係になったと言われるが、当時重慶でのアジア・カ |
ップ・サッカーで反日的騒動が起こったように、マスコミを利用して反日感情をあお |
っていたとしか思えなかった。 |
ボンプリ山の頂上は「タルチョー」と呼ばれる経文の書かれたカラフルな旗が沢山あった。 |
さて、ボンブリ山はラサ大橋を渡ったところにある建 |
材工場を通り抜けて登山道が始まる。中腹に祈祷所があ |
り、夥しい数のタルチョーと呼ばれる祈祷文を書いた5 |
色の旗がかけられ、風になびいていた。枝をくべて立ち |
上る煙の中でチベット人たちが祈りを捧げていた。山の |
頂上にもタルチョーが沢山あった。 |
山の途中には高山植物の花が咲き、ラサの市街や蛇行 |
するラサ川の美しい河原や中洲が眼下に見え、ポタラ宮 |
殿も確認できた。 |
(2)足按摩を体験 |
登山の前に隊長の伊東氏が推奨する足按摩へ、話の種にと出かけた。店の看板には |
「良子足道」と書いてあった。いわゆる按摩やマッサージとは若干異なる方法で、座 |
ったままの姿勢ではじめにかなり熱い湯に足を漬け、1時間半くらいかけて足先のツ |
ボを刺激しながらもんでもらう。20歳前後の若い娘たちがマンツーマンで行う。費用 |
は1人60元(約840円)。登山後もリクエストが多く、同じ店へ行った。登山で疲れた |
足の回復には大いに効果があるようで、快適だった。娘たちは5、6人常勤していた |
が、養成学校で訓練を受け、中国から出稼ぎに来ているようで、月1000元(約14,000 |
円)の手当てをもらうという。一般に足の裏には身体の全機能が集中していわゆるツ |
ボがあり“第2の心臓”と言われるが、理にかなった疲労回復法だと思った。 |
(3)その他 |
民族衣装などを展示した西 |
西蔵博物館で見た民族衣装。身分の違い、儀式によって色々な衣装が展示してあった。 |
テンプ寺の近くのある絨毯工場で働く女子の職工さん。若い男女が美しい絨毯を編んでいた。 |
蔵博物館、ラサの代表的なデ |
パート「拉薩大百貨楼」。 |
観光向けのみやげ物店「民族 |
旅遊商城」など好奇心をもっ |
て見て回った。 |
手作りのアクセサリーやバ |
ッグなどの商品のほかにマニ |
車や数珠が多いのはいかにもチベットらしかった。 |
印象的だったのは、デプン寺の近くにある絨毯工場を見学したこと。通訳のシーチ |
ン(前出)の案内で出かけたが、若い男女の職工10人位が薄暗い建物の中で、楽しそ |
うに絨毯を編んでいた。シーチンは彼らの月給1000元(14,000円)位と説明していた |
が、伊東氏はとてもそんなに高給は取っていないだろうと言っていた。 |
私は目的の山を登った後、胃腸が不調でベースキャンプへ着いてからラサの「西蔵 |
自治区人民病院」へ入って検診を受けた。「観留」といって検査を受けたり、酸素吸 |
入や点滴を受けたが、高山病の症状がないということがわかると、一晩で無罪放免と |
なった。一緒に診察を受けたIさんは肺水腫か脳浮腫という重い高山病の疑いがある |
というので2晩拘留され、心電モニターをつながれていた。 |
一晩入院したおかげで、貴重な体験をした。そのひとつがトイレである。当時中国 |
のトイレはひどいと聞いていたが、自治区立の病院といっても扉が壊れていたり、仕 |
切りが低く立ち上がると隣が丸見えというお粗末なものだった。 |
| | | |
1. ポタラ宮殿 |
広場から見たポタラ宮殿の全景 |
地上117m、13階という白亜の宮殿は、正にラサの象徴 |
であり、真っ青なチベットの空に堂々と聳える様は一大 |
城塞を思わせる。もともと観世音菩薩が瞑想する場所と |
して建てられたもので、その化身とされるダライ・ラマ |
の居住地(注1)となり、今も700人のラマ僧が修業して |
いるという。 |
7世紀に創建され、その後17世紀に増築されたという。 |
(注1:ダライ・ラマ1〜4世はデプン寺にいたが、 |
6世を除く5〜13世はポタラ宮に居住した。) |
我々はラサ滞在3日目に、宗教史を独学で勉強したという通訳兼案内役のシーチン |
(前出)の名解説を聴きながらポタラ宮を見学した。 |
赤い宮殿(紅宮)と呼ばれる部分には、歴代ダライ・ラマ像やその師とされるツオ |
ン・カバ像が並び、特に権勢をきわめたダライ・ラマ5世の、高さ17m、使用した金 |
3.7トンという霊塔、7世紀のとき清朝第6代皇帝の乾隆帝が政治的影響力を及ぼした |
ことを示す“皇帝万歳”の文字、青海省生まれでモンゴル侵入のとき脱出して行方不 |
明になったという数奇な生涯を送ったダライ・ラマ6世像など印象深く見た。 |
それにしても夥しい数の経文(保存性を良くするため、毒を塗ってあるという)、 |
小さな仏像群、立体曼荼羅など珍しく、弥勒菩薩、薬師如来、釈迦如来といった仏像 |
と同格に、ツオン・カバ像やダライ・ラマ像が並んでいるのも、活仏として当然の扱 |
いとはいえ、不思議な感じがした。 |
文化大革命のとき偶像排斥が行われ、仏像が破壊されたというが、各寺院の仏像の |
多くはここの宮殿に集められ、保存されたという。 |
外に飾られたタルチョという経文の5色の旗がそれぞれ意味があるように、仏にも |
白は観音(慈悲)、赤は文殊(知恵)、黒は金剛(力)と色分けされるのも、チベッ |
ト人が色彩に対する感性を持ち合わせた民族という感じを受けた。 |
最後に白い宮殿(白宮)と呼ばれる部分を見学する。ダライ・ラマ13世が使ったと |
いう謁見の間、瞑想の間、寝室などはその生活の様子を想像させ、興味深かった。 |
(なぜかシーチンの説明の中で、インドに亡命したダライ・ラマ14世のことには触 |
れなかった。言論統制のためだろうか。) |
宮殿内には、灯明として使うバターランプの独特の匂いが立ちこめ、仏像の前には |
色々な国の紙幣が積まれ、チベット人巡礼者、観光の中国人や短パン姿の欧米人団体 |
など多種多様な人びとが行き交っていた。 |
宮殿の前は広場となっており、一部公園になっている。以前はチベット人の家が集 |
まっていたようであるが、中国政府による解放政策によって立ち退きさせられたので |
あろう。それを象徴するように大きな解放記念碑が立っており、古いミグ機が置いて |
あった。 |
| | | |
2. 憧れのチベットへ |
2004年9月、チベットの6,000m級未踏峰(誰も登ってない山)を登る目的で17日間 |
の旅をした。福岡空港へ集結した8人は平均68歳を超える高年登山隊である。まず上 |
海へ飛んで入国チェックを受け、更に成都へ飛んで一泊、翌日再び航空便でチベット |
のラサへ。標高3,600m、いきなり富士山の頂上近くへ連れてこられたようなものだ。 |
とにかく憧れの神秘の国へ第一歩を踏み入れた。 |
ラサ空港から都市のホテルへ向かう途中で見た磨崖仏。タカという絹の白布を周囲の岩に投げかけて願をかける。 |
ホテルへ向かう車の外は興味をそそるものばかり。 |
珍しい皮舟に乗ったチベット人、主食ツァンポの原料と |
なる大麦の畑、家畜の群れ、ポプラの街路樹、そして色 |
彩豊かな磨崖仏など。市内の案内と通訳はシーチン(色 |
珍)、ラサ大学で日本語科を専攻した若い娘さん、観光 |
会社に勤める。チベットの宗教史を独学で勉強したとい |
うことで、宗教について詳しいため、寺院の見学では名 |
解説振りを発揮した。 |
ラサにあるヒマラヤホテルが我々の宿となる。テンジン(丹増)という世話役兼通 |
訳が迎えてくれた。彼は作家椎名誠氏の夫人渡辺一枝氏が50日間チベットを旅した |
ときのガイドで、気に入られて日本に3年間滞在する機会を与えられた。そのため日 |
本語は堪能だった。 |
| | | |
≪第1部≫ “みちのく旅”紀行 野村 記 |
今年は国内旅行、「みちのく花見ツアー」を旅行会社の企画に乗り、4月20日〜22 |
日の2泊3日の旅行となった。東京地方の今年の桜は3月末に開花宣言が出て、これで |
は予定の日程では、「葉桜」になってしまうと危惧していたのが、予想は大ハズレ! |
“雪見ツアー”と名前を変える結果となった。 |
<1日目> 秋田空港着、大型中2階デラックスバスが、 |
入道崎石碑 |
「トキメック旅行会ご一同様」をお出迎え。24名の団体 |
との同行を敬遠してか、他の客はゼロ。私たちの完全な |
“貸切”となった。ラッキー! |
寒風山展望台経由で、入道崎のレストランで昼食、海 |
鮮石焼料理に舌づつみ。突然、昭和35年に東京計器に入 |
社した野崎由紀子さん(現姓:平川さん・地元の酒屋さ |
んに嫁ぐ)の訪問を受ける。何10年振りかの再会である |
入道崎石焼鍋 |
再会(前田さん、野崎さん、前田さん、三橋さん) |
が、彼女は昔と変わらず、 |
綺麗で、すぐに当時を思い |
出すことができ感激! |
さらに、地元の銘酒「高清 |
水」の差入れ!感謝感激! |
良い思い出が作れました。 |
|
|
八郎潟を通って7号線経由(大館)今夜の宿“大鰐温 |
ホテルの外はクリスマスツリーのような雪景色 |
泉:青森ロイヤルホテルへ向かう。 |
途中の峠では、季節外れの大きなボタン雪が吹雪いて |
弘前公園夜桜見学は中止。(吹雪がなくても、桜はなし) |
ホテルは、眼下に大鰐温泉郷と遠くに八甲田山から津軽 |
平野を一望できる阿闍羅山の山頂にあるが、途中で |
大型バスでは無理で、ホテルからのマイクロバス2台に乗 |
り換える、ハプニング!が有ったがホテルに無事到着。 |
八甲田連山 |
雪見の露天風呂を堪能して、夜の宴会で、明日の活力 |
を養った。 |
|
<2日目>目覚めは爽快!天候も良し!道路が下れるか |
心配であったが凍結もなく、無事予定通り八甲田ロープ |
ウエーに向かった。一面の雪景色の中、ロープウエーに |
乗ったが、乗客は我々以外は、若い男女のスキー客で、 |
大型ロープウエーは超満員。 |
途中、眼下の左右には青森湾、その先に津軽半島、 |
奥入瀬の滝 |
また野辺地湾の先に下北半島も見えていたが、頂上は |
ガスで何も見えず、早々に乗ってきたロープウエーでの |
とんぼ返りとなった。チョット残念! |
八甲田山雪回廊を下って奥入瀬に向かった。渓流は |
木々がまだ芽吹かないので、普段は見れない滝が次々に |
良い姿を見せてくれ、車中の“滝見ツアー”となった。 |
|
十和田湖遊覧は寒いが天気が回復したので景色最高!後ろに八甲田連山を見て発荷 |
峠に到着。今、遊覧船で眺めた景色を峠の上から見るのと、十和田湖の先に八甲田連 |
山が雪を抱えて聳え立ち、心が洗われる気分で山を下る。 |
岩手山サービスエリア |
雪の回廊をバスはチェン着装。里に下りたら“蕗のと |
う”がいたるところに見えて、「採りたい!」の声も |
あったが、今日も早めに宿に向かう。途中、東北道岩手 |
SAで休息、目の前に聳える“岩手山”の見事な山容に |
思わずシャッターを切った。 |
今日の宿は、雫石近くの鴬宿温泉の由緒ある「長栄館」。 |
素晴らしい温泉に浸かり、宴会では、特別料理に舌づつ |
み、地酒を少々嗜み?、カラオケで大いに盛り上がる。 |
<3日目> ヤット朝から晴れている!今日は角館武家屋 |
道 |
敷に向かう。昨日見た岩手山を裏側から見ながら、1時 |
間程で角館に到着。“桜まつり”開催中!バス駐車場の |
各バスの標識にはいずれも「東北桜名所巡り」が貼られ |
ている。しかし見事な枝垂れ桜の木は、多少は赤らんで |
いるがまだまだ早い!いぶりがっこを試食しながら地酒 |
を試飲して昔を偲んだ。(人間だけ赤らんだ!) |
広い武家屋敷(3,000坪)を見学。 |
舟 |
バスは折り返して盛岡に向かう。今朝のテレビで |
“石割桜”(盛岡市役所前)が一輪咲いたと言っていた |
所を通過しして昼食(わんこそば・じゃじゃ麺・冷麺) |
各自自由選択で、皆さんそれぞれ満足! |
最後の見学地“猊鼻渓舟下り”“中尊寺”に向かう。 |
“猊鼻渓舟下り”の船頭とメンバーの口の悪いのが見事 |
な掛け合いをしながらの舟遊び!良かったよ! |
桜もやっと開花が始まったところである。 |
中尊寺では、広い境内を |
舟 |
金色堂 |
ゆったりと散策。昔の栄華 |
を思い描きながら北上川の |
景色を堪能した。 |
そこから仙台に一気に向 |
かった。途中、東北道で桜 |
が満開になっていた。 |
|
仙台からは、栃木・埼玉・千葉・東京・神奈川の各自宅へ向けて一路、新幹線で! |
思いかけずに雪の東北でしたが、普段見れない景色が堪能できとても楽しかった。 |
中尊寺本堂 |
中尊寺参道 |
十和田湖にて集合写真 |
| | | |
コース図 |
OB会のHP「話題コーナー」で、仲本隆信さん投稿 |
の「150円一人旅」が目にとまった。 これは「隣の |
駅までの切符(川崎→蒲田)一枚で、できるだけ遠回り |
をして1都6県を12時間かけて楽しんだ旅」という内容 |
である。(4月11日号参照) |
好奇心旺盛な私としては大いに興味をそそられ、お願 |
いしてゴールデンウィーク真只中の5月4日に、この |
「150円二人旅」が実現した。 |
JR「川崎」駅(以降の駅名はJR・駅を省略)にて「川崎→蒲田」の切符を150円で購 |
入。いざ出発!前回は12時間と、いささか長時間だったので、今回は短めのコースを |
とることにした。コース地図と時刻表、それに仲本さんの用意した缶ビールとおつま |
みで膨らんだバッグは、ずしりと重そう。 |
@《 神奈川県:川崎 》・・・南武線「立川」行に乗車。7:27の出発。休日のせい |
か、がら空きで隅の席に陣取る。電車が動き出すと、積もり積もった話に夢中にな |
っている間に、もう終点。 |
A《 東京都:立川 》・・・8:21「立川」に到着。ここで中央線に乗換える。 |
8:37の発車。平日ここは学生達で活気あふれるところ。 |
B《 東京都:八王子 》・・・8:49「八王子」に到着。ここで八高線に乗換え、 |
「高麗川」行に乗車する。9:26に発車。ようやく窓外の景色を見る余裕ができた。 |
「東福生」では、近くの基地から飛び立ったのか、戦闘機が編隊を組み轟音をたて |
て飛んでいった。 |
C《 埼玉県:高麗川 》・・・10:11「高麗川」に到着。「高崎」行に乗継ぐ。2両編 |
成の車内はラッシュアワー並の混雑で、一つ座席を確保するのがやっと。次の電車 |
は1時間半待ちとなるので、このままで我慢する。10:22に発車。待ちに待った缶 |
ビールで乾杯!きゅーっと五臓六腑に沁みわたる。仲本夫人の手作りのサンドウイ |
ッチに舌鼓を打つ。さらにビールがすすむ。途中で前の席が空き、向かい合わせに座 |
ることができた。ふと窓外に目をやると、新緑が鮮やかで眩い。初めて乗る八高線、 |
のどかな風景が広がっており、後へ後へと飛んでいく。 |
高崎駅ホームの立ち食い「そば」(左が筆者、右は仲本さん) |
D《 群馬県:高崎 》・・・11:52「高崎」着、もう昼 |
どき。同行の仲本さんは前回、名物の「だるま弁当」 |
を食べたので、今回は香りに誘われてホーム内の立ち |
食い「そば」にした。喉ごしの良い美味しい地そばであ |
った。ここからは栃木、茨城、千葉県へと足をのばせ |
るが、今回は欲張らずに湘南新宿ライン「茅ヶ崎」行 |
で帰路に着くことにする。高崎には有名な観音様があ |
り、駅構内から外に出ることができないので、ホーム内から旅の安全を願い手を合 |
わす。12:20の発車、始発なので楽に座れた。向かいの席に一人旅の小学生がいて |
歓談した。とても礼儀正しかったのが印象に残った。 |
駅員さんとの記念写真(蒲田駅)手に持つのは川崎駅発行、150円区間の切符 |
「大崎」で山手線に乗換え、さらに「品川」で京浜東 |
北線に乗換える。偶然にも「蒲田」行であった。 |
E《 東京都:蒲田 》・・・最終目的地の「蒲田」には |
14:30に無事到着した。改札出口に行ったら、何と前 |
回と同じ駅員さんが窓口にいた。「あっ! また行って |
きたのですか?」・・・と笑顔で切符に印を押してく |
れ、それを記念に頂いた。さらに、記念撮影まで一緒 |
に納まってくれた。 |
打ち上げは、駅ビルで「さつま揚げ」と「アゴ」の九州料理をつまみに、ビールで |
乾杯! お疲れ様! 1都3県、7時間、150円の楽しい旅でした。 |