話 題 『 旅 行 記 』-1 2006年4月〜2008年4月
 
          話  題  一  覧
2008. 4.27  インカの空中都市マチュピチュを訪ねる   投稿:清水有道
2007. 7.12 『桂林・陽朔・広州5日間の旅』       投稿:千葉茂行
2007. 9. 8  チベット旅行記(4/最終回)       投稿;砂田定夫
2007. 6.28  チベット旅行記(3)           投稿:砂田定夫
2007. 4. 8  チベット旅行記(2)           投稿:砂田定夫
2007. 2. 9  チベット旅行記(1)ラサの休日       投稿:砂田定夫
2006. 5.21 「みちのく花見ツアー」           投稿;野村:小田
2006. 6. 7  150円ふたり旅             投稿;小池芳光
2006. 4.11  150円一人旅              投稿;仲本隆信
 

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          話  題  『 旅 行 記 』
2008. 4.27 清水 インカの空中都市マチュピチュを訪ねる
 
インカの空中都市マチュピチュを訪ねる  横浜市 清水 有道
 
   世界遺産 インカの空中都市マチュピチュ(ペルー)
 
 かねてから訪ねてみたいところとして一番に考えていたインカに関係する遺跡にや
っと今年5月の連休時に訪ねることができた。丸一日24時間以上の空の旅でペルーに
入り、体調を整え、高山病を予防するための高度順応もスケジュールに入れて、主要
なところだけを訪ねても出入り10日にはなってしまう。南米は確かに日本から遠い。
個人旅行としては、どうやっても合理的に、経済的に短期間の旅行を組み上げること
は不可能に近い。
 筆者は今まで一度も海外旅行で旅行社のパック旅行を利用したことはなかったが、
今回に限ってはどのようにやり繰りしても、旅行社がこじんまり少人数で改善を積み
重ねながら実施している旅に勝るプランは立てられないことが分かった。そこで、余
り気乗りはしなかったが、自分の年齢を考えて、訪問を来年以降に先送りすればする
ほど実現が難しくなるであろうから、パック旅行で可能性のあるもの全てを比較検討
して、最も時間的に余裕があり、無謀さが少ないものとして、JTBの旅物語「ペルー
世界遺産紀行10日間」に参加することにした。
 決めるに当たって最も期待したことは世界遺産として全世界で一番人気があるイン
カ空中都市マチュピチュを二日間に亘って訪れ、しかも二日目にはインカ道をトレッ
キングすることが予定されていることだった。世界の各大陸にそれぞれ一度はトレッ
キングくらいの足跡は残したいことも筆者の旅行に際しての優先事項の一つだからで
ある。また、折角待望の土地を訪ねても天候が悪ければ、成果や満足度は半減してし
まうからである。一日が雨でも、もう一日は少し良い天気になることは充分有り得る
ことだからである。博物館や建物の中を訪ねるには、天候は正直余り大きな要素には
ならないが、屋外の少なくとも歩くことが主になるところでは天気の良いことは何よ
りも望まれることである。
 今回の選択はその点でまさに正解であった。マチュピチュ訪問の第一日目は午後で
雷雨となり、高低差のある石組みと泥と水溜りの道を傘さしての足運びは正直難渋し
た。しかし、二日目のインカ道トレッキングの日はからっとした打って変わった快晴
日であった。眺めた空中都市の景観は全く見違えるような変化であった。ところで、
後で自分の撮った写真を比べてみると、雨の中の霧や霞に煙る山肌をバックにした古
代都市の方が何倍も重みのある実際に遺産に相応しいものであることに気が付いた。
不思議なものである。
 後日幾冊かの書物を読んでみると、著名な写真家でマチュピチュを訪ねたことのあ
る人は全員訪ねるなら雨の日の方が趣あり、写真を撮るのならなおさらであると記し
ている。これも経験してみて初めて知ることであった。
 ペルー行の仔細をここに 4月29日(雨天のマチュピチュ)
4月29日(雨天のマチュピチュ)
4月30日(快晴のマチュピチュ)
4月30日(快晴のマチュピチュ)
文章にするつもりはない。
以上のような背景のもとに
数葉の写真を見ていただこ
う。皆さんは初日4月29日
の雨天のときと,翌日4月
30日の快晴時の写真とどち
らがお好きでしょうか。
 (2007年6月30日 記)
 
2007. 7.12 千葉 『桂林・陽朔・広州5日間の旅』
 
『桂林・陽朔・広州5日間の旅』 東松山市 千葉 茂行
 
      (6月13日〜17日 トキメック旅行会)
 
ラクダ岩をバックに千葉さん
ラクダ岩をバックに千葉さん
トキメック旅行会では、今年は“桂林”へ行こうと昨年
から決まっていました。(トキメック旅行会については、
昨年5月野村・小田さんの「みちのく花見ツアー」で紹介
済参照方)
 幹事の黒沢・小田さんの近畿日本ツーリストとの強力
な交渉で、我々独自のツアーを組み、参加者24名(男女
各12名)で楽しい旅を満喫してきました。
 日本からの添乗員はつきませんでしたが、そこは旅慣
れた我がグループ、それぞれの現地ガイドと仲よく楽しんできました。その概要を報
告させていただきます。
 実は、私は19年前、当時会社が実施していた「リフレ 広州空港ロビー
広州空港ロビー
ッシュ休暇制度」を利用して『香港・広州・桂林の旅』を
経験していたので、20年間のこの地の変化を見るのも楽
しみの一つでした。
 6月13日(水)午後1時(現地時間、以下同じ)広州
に到着、現地ガイド韓さん(独身女性)の案内で『西漢
南越王墓博物館』を見学しました。1983年に発見された
もので、2200年前の王墓や約1,000点の青銅器や鉄剣など
が発掘され、展示されていました。説明員の説明に感心しながら見学をしましたが、
雨の西漢南越王墓博物館
雨の西漢南越王墓博物館
最後に展示品の一部を売っているのには驚きました。国
から予算が削減されていることと、オリンピックのため
文化を分け与えるためと話していました。価格的にはそ
う高くなく、数万円から数百万円でありました。さすが
華商!4日目に見学しました、「鎮海楼」でも売ってい
ましたので、国立博物館では全てで販売しているようで
す。広州のシンボル「五羊石像」も見学の予定でしたが
雷雨に見舞われて4日目に延ばし、レストランで中華料
理の夕食。ビールはサイダーのようだったが、やはり本 桂林帝安苑酒店前の漓江
桂林帝安苑酒店前の漓江
場の紹興酒は美味しかったです。
 夕食後、最終便で広州空港から桂林に向かいました。
空港には桂林のガイド李さん(独身女性)が迎えてくれ
ホテルに向かう、ホテル到着は午前0時30分、ホテルは
漓江の河べりに建つ五つ星の『桂林帝安苑酒店』で部屋
からは桂林の景色が一望できましたが、なにぶんにも短
時間の滞在でした。
 2日目は待望の漓江下り。雲一つない晴天に恵まれ、午前8時ホテルを出発。
漓江川下り絶景
漓江川下り絶景
 竹江港から観光船に乗り、あの独特な奇峰・奇岩、
『動く画廊』と称される水墨画の世界を満喫!大満足!
 途中、冠岩で世界一の鍾乳洞を見学、エレベーターで
地下へ降り、鍾乳石の柱が林立する中をトロッコで奥へ
向かう。そこには色とりどりにライトアップされた鍾乳
洞のさながら仙境のような大空間に感嘆し大満足でした。
 桂林の景色は、2万年前海底が隆起して出来たそうだ
が、20年前と全く変わっていませんでした。
 興坪で船を降り、日本人の林さんが経営する老寨山旅 老寨山旅館林さんご家族
老寨山旅館林さんご家族
館での昼食。ここは港が無く川岸に船を寄せ板を渡して
降り、電動カートで旅館へ向かう、林さんが3歳の子供
を肩車して迎えに来ましたが、孫かと思ったら息子さん
の喜多郎君とのこと。大変可愛い息子さんでした。この
宿は日本のテレビでよく放映されるようで、また、7月に
はNHKで放映されるそうです。
 バスで陽朔に向い、イカダ遊覧と鵜飼いを楽しみ、泊
陽朔筏に乗る
陽朔筏に乗る
まりの宿、「陽朔新世紀酒店」にチェックイン。陽朔の
中心地「陽朔西街」のレストランで夕食。ほろ酔い機嫌
で散策しながらホテルへ帰る。ここはスリが大変多いら
しく、ガイドに何度も注意されましたが、幸い誰も被害
にあわずホテルに無事到着。
 3日目、好天にめぐまれた中、4台の電動カートに分
乗し、山の中央に満月のような穴があいた「月亮山」を
見学。更に、バスで陽朔の農家を訪問しました。やはり
地方は貧しいようです。土間でオレンジ・瓜・サツマイ 象鼻山公園
象鼻山公園
モ・トウモロコシ・南京豆などをご馳走になりました。
人のよさそうな老夫婦が一生懸命接待してくれました。
最初は食べるのをチョット躊躇しましたが、トウモロコ
シが甘くて大変美味しいものでした。 
 バスで桂林に着き、パンダと金絲猴のいる「七星公園」
象の鼻が水を飲んでいるような形の「象鼻山」を見学後、
1日目と同じホテルに到着。 
雑技「夢幻漓江」の俳優
雑技「夢幻漓江」の俳優
 夕食はレストラン「山水宴」で桂林料理を満喫。勿論
ビールと紹興酒も十分堪能し大満足!
 夕食後、桂林の雑技「夢幻漓江」を前の方の見やすい
席で鑑賞しましたが、バレエとサーカスの要素を取り入
れたもので、その迫力は大変素晴しいものでした。上海
の雑技より面白い気がいたしました。
 4日目、午前中に桂林空港から広州へ戻り、昼食はレ
ストランで飲茶を満喫。本場の飲茶は大変美味しいもの
でした。その後、1931年に建設された孫文ゆかりの「中山紀念堂」を見学。青い瑠璃
瓦が美しい高さ49m、八角系の宮殿式建築です。皆で中に入り中央の椅子に座り、5分
ほど瞑想に耽りました。
 次に「陳氏書院」を見学、広東省72県の「陳」の氏姓 陳氏書院集合写真
陳氏書院集合写真
を持つ人々が子弟の教育の場として、1890年から4年掛
けて建立されたもので、九堂六院からなる19棟の建物が
あり、なかなか立派なものでした。
 さらに、「広州博物館(鎮海楼)を見学、越秀山の頂
上に建つ明代の「鎮海楼」が1929年に博物館となりまし
た。説明員の説明は分かりやすかったが、ここでも一部
売却の商売をしているのには驚かされました。見学の途
広州博物館(鎮海楼)
広州博物館(鎮海楼)
中から猛烈な雷雨となり、しばし館内で雨宿り。初日パ
スした「五羊石像」の見学は今日もパスとなりましたが、
待機中に、「五羊石像」のミニ版が展示されているのを
見て、まあーいいか!
 本日の夕食は、子豚の丸焼きや海鮮の広東料理と飲み
放題での最後の晩餐です。三つのテーブルに子豚の丸焼
きが一頭ずつ、やはり胃袋が少々疲れ気味なのか、料理
も飲み放題のアルコールもペースダウンの様相でした。
 ホテルは最高級の「広州中国大酒店」、ゆっくり休み 子豚の丸焼き
子豚の丸焼き
ました。
 5日目はホテルを午前10時30分に出発し広州空港へ、
空港隣接の中華料理店で中国最後の昼食、数人の中国人
学生が働いていたが、日本語勉強のため実習的に働いて 
いるとのこと、積極的に皆に話しかけてきました。日本
語を覚えようという熱意はたいしたものです。
 広州発のJAL,1時間ほどの遅れで成田空港へ向け
広州空港国際線出発ロビー
広州空港国際線出発ロビー
て飛び立ちました。
 私の印象では、桂林の町並みは20年前の面影は全く感
じられないくらい道路も建物も変わり綺麗になっていま
した。桂林・広州ともにマンションの建設ラッシュで、
7階建ぐらいの建築現場の足場が、何処をみても「竹」
を組み合わせたものには、皆さん驚かれていました。
“おいおい、これで大丈夫なの!”との思いでした。
 さすがに陽朔は20年前の桂林の面影を残しておりまし
たが、トイレは昔と違って何処も良くなっておりました。来年のオリンピック開催と
経済発展の効果と痛感した次第であります。
奇峰奇岩の漓江を下る
奇峰奇岩の漓江を下る
 
        (注:掲載写真は野村一信さん撮影)
 
2007. 9. 8 砂田  チベット旅行記(4/最終回)            
 
チベット旅行記 (4)『登山の日々』 相模原市 砂田 定夫
 
 今回の旅は、主目的が未踏峰の登山であり、全日程17日間のうち7日間が登山の日
程に当てられた。登山隊の名称は「中高年未踏峰登山隊」、先にも書いたように平均
年齢68歳を超える8人の高年登山隊で、登る山はニンチェンタングラ山脈の一峰チュ
ガチュチン峰(6,174m)である。
 
1.ベースキャンプへ
 出発の日の朝食時、パルスオキシメーターという計測器(体内の酸素不足の程度を
調べるためのもの)で測ると、血中酸素飽和度82%、心拍数62で、まずまずの及第点
だった。我々の宿泊したヒマラヤホテルには他の登山隊も同泊していたが、日本隊が
もう一組来ており、その隊長が大蔵喜福(よしとみ)氏、有名な登山家で、椎名誠の
「あやしい探検隊」シリーズには“たわしひげの大蔵”として登場する。ホテル前で
一緒に写真を撮り、お互いの健闘を祈って分かれた。
 2台のランド・クルーザーに分乗、他に荷物運搬用の中国製トラックと計3台で出
発。「青蔵公路」という国道を行くと、至る所で鉄道の敷設工事が行われていたが、
これが本稿の冒頭で紹介した青蔵鉄道として2年後に開通することになる。
 羊八井(ヤンパーシン)という地方に入ると、雪を頂いた山々が現われ、興奮した。
国道から分かりにくい分岐点で、僅かに轍(わだち)が残る程度の道に入った。ある
ようでないような道で、湿地あり、小川あり、石のごろごろした所ありで、運転手の
腕の見せ所だったが、しばしば立ち往生するのだった。ヤクや羊を飼う牧畜業の集落
がポツリポツリとあり、土で固めた粗末な家屋や塀が見られた。
 ラサから150kmのベースキャンプ(BC)は標高4,640m、すでにアルプスのマッター
ホルンの頂上より高い位置である。
ヤクの毛を紡ぐヤク使いの青年
ヤクの毛を紡ぐヤク使いの青年
 広々としたなだらかな丘陵に囲まれ、広大なチベット
高原を見下ろし、その彼方には高峰が連なる。近くには
氷河から流れてくる乳白色の川があり、あちこちに愛ら
しいリンドウが咲き、丘には羊飼いと犬に追われた羊の
群れが移動しているのが見える牧歌的でのどかな別天地
だった。
 食堂兼炊事場の大きなテントと、隊員用のドーム型テ
ント4張が設営される。チベット人のヤク使いやポーター
たちが興味深げな顔をして集まってくる。一人の精悍な
感じの青年はヤクの毛を独楽のような道具でくるくる回しながら紡いでいた。コック
は若い青年二人、そのうちリーダー格はズダンという利発そうな明るい若者だった。
 
2.前進キャンプへ
 入山の翌日、雄大なるチベット高原で迎える朝は荘厳だった。ズダンが勧めるヤク
乳を飲む。牛乳の苦手な私も、新鮮なヤク乳は抵抗なく飲めた。この日は高度順応の
日、標高5,000m辺りまで行ってくる。静岡のT氏は下痢のため静養したが、脳浮腫と
いう重い高山病の症状が現われたので、ガイドのパサンに付き添われて車でラサの病
院へ直行する。隊の中では最も若く、初めての海外登山とあって「頑張らなくっちゃ」
と張り切っていたのに、高山病第1号になってしまった。
 
 3日目に、外でポーターたちが飲んでいたバター茶というのを一口飲ませてもらう。
チベット人の常用茶だが、くせのある風味がして慣れないと違和感がある。
 荷上げに使うヤクが14頭集まった。ヤク使いたちがヤ ヤクに荷物を載せる光景
ヤクに荷物を載せる光景
クの毛で縒った20mもあるロープ2本を張って、それに
1頭ずつ轡(くつわ)を結んで整列させ、荷物を括りつ
ける。壮観な光景だ。中には荷を乗せられるのを嫌って
逃げ出すヤクもいた。普段おとなしいのに、ヤク使いの
怒声にも言うなりにならず、反抗的な性格を示すときも
あるようだ。他にポニーが3頭、これはポーターたちの
テントや器材の運搬用らしい。
BCからC1へは馬で行く
BCからC1へは馬で行く
 我々隊員はやや小型のがっちりした馬に乗り、1人ず
つチベット人がついた。乗馬は初めてだったがすぐ慣れ
た。どんな崖っぷちや川の渡渉でも、馬に任せて自然体
で力を抜き、馬のリズムに合わせて座っていればよいよ
うだ。段丘を越えたり、河原に沿ったりして、チュガ谷
の奥へ進むと白く輝く6,000m級の山々が近づいてきた。
最後は大きな段丘にぶつかって馬を降り、徒歩で上に登
ると、200mを超える岩壁の下に広い河原が広がり、そこ
が第1キャンプ(C1)の予定地だった。標高5,170m。
 
 4日目、C1からC2へ。朝食でお粥が多いのは、前日のアルファ米(山で使う乾
燥米)の残りを利用するからで、それに味噌汁と梅干というあっさり系のメニューが
多い。高山病の症状がひどくなったIさんはC1に残り、回復したら後から追いかけ
ることになった。C1から上はもうヤクが歩けない険しい地形であり、11人のポーター
たちが共同装備を分担して運び、我々隊員は行動用の荷物だけを持った。河原や氷河
の雪上を歩いたりして、モレーン(堆積地帯)の段丘を3つ程超えたとき、突然ポー
ターたちが騒然となった。この地点が第2キャンプ(C2)地点と勝手に思い込み、
これ以上荷を運べないとサボタージュを起こしたらしい。 荷上を終えたポーターたち、若い娘さんもいた
荷上を終えたポーターたち、若い娘さんもいた
彼らは1回当たりいくらという手当てを受けるので、荷
上げ距離が短ければ楽ができるわけである。扇動したの
は一人の年長のポーターらしかった。
 これまで黙って後方を歩いていた伊東隊長が大声で一
喝すると、自ら先頭を歩き出した。意味を解した私も伊
東さんに従い、「もっと先まで」とポーターたちを促し
た。するとどうだろう、元気な若いポーターたちが声を
上げながら先を争うように指示された方向へ駆け出した
のだ。文句を言っていたらしい年長のポーターも仕方な 第2キャンプと6000m級の山々
第2キャンプと6000m級の山々
しについてくるのだった。
 最前線キャンプのC2は標高5,500mの、開けた眺めの
よい平坦地で、明日アタックする未踏の山チュガチュチ
ン峰はじめ、6,000m級の山々がもう目と鼻の先にあった。
居住用テント2張と、炊事場兼食堂のテント1張が設営
された。設営を終えたポーターたちは下り、そのあとコッ
クのズダンたちも下って行ったのでC2は隊員6人だけ
になった。
 
3.頂上へ
 
 5日目、いよいよ登頂日。血中酸素飽和度64%、心拍数80、昨夜少し酸素ボンベで
酸素を吸ったので少し改善されたようだ。目指すチュガチュチン峰は6,174m、アラス
カのマッキンリーとほぼ同じ高さである。長い長い雪原(氷河)を赤旗の付いた標識
ポールを立てながら登り続けた。5時間以上もかかって漸く稜線のコル(鞍部)に達
登頂したチュガチュチン峰(6,174m)
登頂したチュガチュチン峰(6,174m)
する。ここは6,000mを超えている。そこからの雪稜は技
術的には易しかったが、高度による辛さは身体にこたえ
た。そのうえ二度にわたって瞬間的に風雪が襲ってきた。
幸いそれは長続きしなかった。トップに立った私の足に
装着した12本爪アイゼンの爪あとは、この山が生成以来
初めて人間の歩行を許した刻印でもあった。最高点が近
づくにつれ、言い知れぬ感動が私の五体を覆い包もうと
している。そして17時25分、頂上に着いた。未踏の山の
頂点に立つ夢が生涯に一度でも叶えられれば、山を志す者にとってこんな幸せなこと
はないだろう。先ほどの風雪も忘れたように去って、いま四囲は開け、ぐるり360度の
大パノラマが展開している。入山以来、いつも山頂部を雲に覆われていたこの山群の
主峰ニンチェンタングラ峰(7,162m)がベールを脱いでその雄姿を現していた。従う
ように連綿と居並ぶ5,000〜6,000m級の無数の山々、蒼い湖面を山と山の間に見せてい
るのは、チベット最大の塩水湖ナムツォウだ。
 この日登頂できたのは8人の隊員のうち4人だけ。多くは大なり小なり高度障害の
症状が出ており、BCやC1で涙を呑んだ人もいれば、アタック当日時間切れで登頂
を断念する人もいた。前月には一緒に体力強化のため利根川水源の山を登ったり、高
度順応のため2度にわたって富士山に登り、頂上でビバーク(簡易露営)して備えて
きたパートナーのIさんは、高山病でC1までしか登れなかった。私も登頂後は胃の
不調に苛まれたが、限られた日程の中で、登頂の日まで高所順応も比較的順調に推移
し、頂上を踏めた1人であったことは幸運だったと言えるだろう。
 
4.おわりに
 国内の移動を含め18日にわたる旅には、多くの思い出と人との触れ合いが凝縮され
ている。成都でも多くの人と出会い、例えば日本の結婚式で花嫁がお色直しをする風
習に憧れる日本びいきの若い娘さんに会ったり、案内に当たった人たちの親切な対応
に感動したりした。また、名所史跡を巡ったり、パンダの飼育センターを見学したり
して、充実した旅をエンジョイした。多くを綴るのは本稿の主旨から外れるので、最
後に行動日程を記して締め括りたい。
   9月1日;羽田〜福岡
     2日;福岡〜上海〜成都
     3日;成都〜ラサ(観光)
   4〜5日;ラサ滞在(観光)
     6日;ラサ〜BC(4,640m)
     7日;BC〜5,050m〜BC(高所順化)     BC=ベースキャンプ
     8日;BC〜C1(5,170m)          C1=第1キャンプ
     9日;C1〜C2(5,500m)          C2=第2キャンプ
     10日;C2〜頂上〜C2
     11日;C2〜C1
     12日;C1〜BC〜ラサ
   13〜15日;ラサ滞在(病院,ハイキング,観光)
     16日;ラサ〜成都
     17日;成都滞在(観光)
     18日;成都〜上海〜福岡〜羽田。
 
2007. 6.28 砂田  チベット旅行記(3)           
 
 チベット旅行記 (3)『ラサの散歩あちこち』 相模原市 砂田 定夫
 
1.食べある記   
 (1)大衆食堂
 ラサ滞在中は、ヒマラヤホテルのレストランは高価なので、向かいにある大衆食堂
「経済便餐」で朝食をとるのが常だった。メニューはおかゆ、肉まん(包子)、ゆで
卵、豆乳、揚げパン(油餅)などのほか、大根の塩漬けはさっぱりして良かったし、
餃子やピータンは旨かった。夕食も何回か利用したが、肉めし、チャーハン、豆腐料
理、羊肉料理、松茸スープなどなかなかいけた。1人4元(1元≒14円)程度で安い
ので、金のなさそうなチベット人の若者がこの食堂をときどき利用していた。ビール
は「拉薩ビール」とか「青島(チンタオ)ビール」が置いてあったが、初めてこの食
堂で飲んだときは一口でカーッとなってしまった。ビールが強いのではなく、まだ
ラサの高度(3600m)に身体が順応していなかったせいであり、翌日からは馴れた。
 因みにホテルのレストランで夕食をしたとき1人40元だった。
(2)チベット料理
ジョカン寺の門前町にあったチベット料理店で昼食、ヤクという動物の肉料理が特徴である。
ジョカン寺の門前町にあったチベット料理店で昼食、ヤクという動物の肉料理が特徴である。
 ジョカン寺の門前町にあるチベット料理店で昼食をし
たことがある。9品ほどオーダーしたが、チベット料理
はヤクという高地・寒冷地に強い体毛の長い牛の一種で、
登山のときなどは荷物の運搬に使う動物であり、その肉
が使われるのが特徴である。例えばヤクの肉と大根の入
ったスープとか、ヤクの舌の焼肉とかである。全体とし
て辛い味付けだった。
 
(3)イタリア料理
 チベットでイタリア料理というのも変だが、好奇心の強い我々は登山後に一度イタ
リア料理店へ夕食に行った。ステーキ風のヤクの肉もあったが、やはりピザ、マカロ
ニスパゲティなど当たり前のイタリア料理が主体になった。
 料理よりも雰囲気のあるレストランという印象で、ローソクの灯った中世のヨーロ
ッパ風であり、我々以外は欧米人観光客ばかりだった。
(4)家庭料理
 ラサ最後の夜は、ガイドのパサンが最近建てたという豪邸へ晩餐に招待してくれた。
パサン自身が調理したという何種もの料理で、鶏肉の煮込み、えび料理、羊の焼肉、
羊の肺、ところてんのような食材とキュウリ・ニンジンの炒め物、チンゲンサイのス
ープなどが並べられ、中でもドクダミのお浸しはくせがあるが珍味だった。
 プラという大麦の蒸留酒(焼酎)を勧められたが、強すぎてまともに飲めたのは広
島のK氏1人だけだった。
(5)四川料理
 帰途成都に寄ったとき、「チベット聖地株式有限公司取締役会長」という肩書きを
もつ実力者、スーピン(蘇平)氏の招待で一流の四川省料理店に入った。
 大きな広間には中国人たちが幾組もテーブルを囲んで賑やかにディナーを楽しんで
いた。料理そのものは日本の都市によくある中華料理店の高級コースくらいだったが、
店内の雰囲気は豊かになった中国の一面を見る思いだった。
(6)餃子料理
 ラサでも成都でも餃子料理を食べたが、専門店は何種もの餃子料理が用意されてい
る。ご存知のように中国人は蒸し餃子、水餃子として食べ、焼き餃子はあまり食べな
い。我々は特別に注文して焼き餃子を作ってもらった。成都では8種の餃子を食べて
1人13元だった。
 
 2.見てある記
(1)ラサ川とボンブリ山へハイキング
 宿泊したヒマラヤホテルの近く、ラサ川に面して中国人 ラサ川沿いを散策中に見た賭博風景。
ラサ川沿いを散策中に見た賭博風景。
民解放軍の駐屯地があり、ホテルの8階のベランダからは
兵舎の一部が見えた。いつも朝は兵士たちの掛け声が聞こ
えてきた。ラサ川を散策したとき、門の近くに近づいたら
衛兵に咎められた。
 対岸で格闘訓練中の兵士たちを見たが、こちら側の岸で
チベット人の女性たちが平和そうに洗濯している光景と対
照的だった。ラサ川では護岸工事が行われており、日本の
丁半に似た賭博光景も目にした。
 登山中最初に高山病になって山からリタイヤし、回復してからずっとホテルに滞在
していた静岡のTさんと二人でボンブリ(崩布)山へハイキングした。この山はラサ
川の対岸に聳える岩山で、チベット人の信仰の対象になる聖山である。
 その朝はホテルで言葉のさっぱり分からない中国のドラマを見ていたら、正に反日
ドラマで、旧日本軍の将校がひどい悪者に仕立てられていた。最近温家宝首相が来日
して日中関係は「氷を解かす」関係になったと言われるが、当時重慶でのアジア・カ
ップ・サッカーで反日的騒動が起こったように、マスコミを利用して反日感情をあお
っていたとしか思えなかった。
ボンプリ山の頂上は「タルチョー」と呼ばれる経文の書かれたカラフルな旗が沢山あった。
ボンプリ山の頂上は「タルチョー」と呼ばれる経文の書かれたカラフルな旗が沢山あった。
 さて、ボンブリ山はラサ大橋を渡ったところにある建
材工場を通り抜けて登山道が始まる。中腹に祈祷所があ
り、夥しい数のタルチョーと呼ばれる祈祷文を書いた5
色の旗がかけられ、風になびいていた。枝をくべて立ち
上る煙の中でチベット人たちが祈りを捧げていた。山の
頂上にもタルチョーが沢山あった。
 山の途中には高山植物の花が咲き、ラサの市街や蛇行
するラサ川の美しい河原や中洲が眼下に見え、ポタラ宮
殿も確認できた。
(2)足按摩を体験
 登山の前に隊長の伊東氏が推奨する足按摩へ、話の種にと出かけた。店の看板には
「良子足道」と書いてあった。いわゆる按摩やマッサージとは若干異なる方法で、座
ったままの姿勢ではじめにかなり熱い湯に足を漬け、1時間半くらいかけて足先のツ
ボを刺激しながらもんでもらう。20歳前後の若い娘たちがマンツーマンで行う。費用
は1人60元(約840円)。登山後もリクエストが多く、同じ店へ行った。登山で疲れた
足の回復には大いに効果があるようで、快適だった。娘たちは5、6人常勤していた
が、養成学校で訓練を受け、中国から出稼ぎに来ているようで、月1000元(約14,000
円)の手当てをもらうという。一般に足の裏には身体の全機能が集中していわゆるツ
ボがあり“第2の心臓”と言われるが、理にかなった疲労回復法だと思った。
(3)その他
 民族衣装などを展示した西 西蔵博物館で見た民族衣装。身分の違い、儀式によって色々な衣装が展示してあった。
西蔵博物館で見た民族衣装。身分の違い、儀式によって色々な衣装が展示してあった。
テンプ寺の近くのある絨毯工場で働く女子の職工さん。若い男女が美しい絨毯を編んでいた。
テンプ寺の近くのある絨毯工場で働く女子の職工さん。若い男女が美しい絨毯を編んでいた。
蔵博物館、ラサの代表的なデ
パート「拉薩大百貨楼」。
観光向けのみやげ物店「民族
旅遊商城」など好奇心をもっ
て見て回った。
 手作りのアクセサリーやバ
ッグなどの商品のほかにマニ
車や数珠が多いのはいかにもチベットらしかった。
 印象的だったのは、デプン寺の近くにある絨毯工場を見学したこと。通訳のシーチ
ン(前出)の案内で出かけたが、若い男女の職工10人位が薄暗い建物の中で、楽しそ
うに絨毯を編んでいた。シーチンは彼らの月給1000元(14,000円)位と説明していた
が、伊東氏はとてもそんなに高給は取っていないだろうと言っていた。
 私は目的の山を登った後、胃腸が不調でベースキャンプへ着いてからラサの「西蔵
自治区人民病院」へ入って検診を受けた。「観留」といって検査を受けたり、酸素吸
入や点滴を受けたが、高山病の症状がないということがわかると、一晩で無罪放免と
なった。一緒に診察を受けたIさんは肺水腫か脳浮腫という重い高山病の疑いがある
というので2晩拘留され、心電モニターをつながれていた。
 一晩入院したおかげで、貴重な体験をした。そのひとつがトイレである。当時中国
のトイレはひどいと聞いていたが、自治区立の病院といっても扉が壊れていたり、仕
切りが低く立ち上がると隣が丸見えというお粗末なものだった。
 
2007. 4. 8 砂田  チベット旅行記(2)           
 
チベット旅行記 (2)『ラサの寺院めぐり』 相模原市 砂田 定夫
 
 一昨年、チベット自治区成立40周年を迎えた。1956年中国軍の侵攻でチベットの革
命が武力鎮圧され、59年ダライ・ラマ14世はインド北部へ脱出し、亡命政府を発足させ
た。現在、中国政府はチベット仏教の指導者としてパンチェン・ラマ11世を据え、人
民解放軍を進駐させてチベットの分離・独立を警戒している状況である。
 近代化・中国化の波が押し寄せる中、チベット人の精神的支柱であるチベット仏教
も大きな曲がり角を迎えていると言われている。そんな背景を頭に描いて、チベット
仏教を支えるポタラ宮殿や寺院を訪ね歩いた。
 
 1. ポタラ宮殿
広場から見たポタラ宮殿の全景
広場から見たポタラ宮殿の全景
 地上117m、13階という白亜の宮殿は、正にラサの象徴
であり、真っ青なチベットの空に堂々と聳える様は一大
城塞を思わせる。もともと観世音菩薩が瞑想する場所と
して建てられたもので、その化身とされるダライ・ラマ
の居住地(注1)となり、今も700人のラマ僧が修業して
いるという。
 7世紀に創建され、その後17世紀に増築されたという。
(注1:ダライ・ラマ1〜4世はデプン寺にいたが、
                 6世を除く5〜13世はポタラ宮に居住した。)
 我々はラサ滞在3日目に、宗教史を独学で勉強したという通訳兼案内役のシーチン
(前出)の名解説を聴きながらポタラ宮を見学した。
 赤い宮殿(紅宮)と呼ばれる部分には、歴代ダライ・ラマ像やその師とされるツオ
ン・カバ像が並び、特に権勢をきわめたダライ・ラマ5世の、高さ17m、使用した金
3.7トンという霊塔、7世紀のとき清朝第6代皇帝の乾隆帝が政治的影響力を及ぼした
ことを示す“皇帝万歳”の文字、青海省生まれでモンゴル侵入のとき脱出して行方不
明になったという数奇な生涯を送ったダライ・ラマ6世像など印象深く見た。
 それにしても夥しい数の経文(保存性を良くするため、毒を塗ってあるという)、
小さな仏像群、立体曼荼羅など珍しく、弥勒菩薩、薬師如来、釈迦如来といった仏像
と同格に、ツオン・カバ像やダライ・ラマ像が並んでいるのも、活仏として当然の扱
いとはいえ、不思議な感じがした。
 文化大革命のとき偶像排斥が行われ、仏像が破壊されたというが、各寺院の仏像の
多くはここの宮殿に集められ、保存されたという。
 外に飾られたタルチョという経文の5色の旗がそれぞれ意味があるように、仏にも
白は観音(慈悲)、赤は文殊(知恵)、黒は金剛(力)と色分けされるのも、チベッ
ト人が色彩に対する感性を持ち合わせた民族という感じを受けた。
 最後に白い宮殿(白宮)と呼ばれる部分を見学する。ダライ・ラマ13世が使ったと
いう謁見の間、瞑想の間、寝室などはその生活の様子を想像させ、興味深かった。
 (なぜかシーチンの説明の中で、インドに亡命したダライ・ラマ14世のことには触
れなかった。言論統制のためだろうか。)
 宮殿内には、灯明として使うバターランプの独特の匂いが立ちこめ、仏像の前には
色々な国の紙幣が積まれ、チベット人巡礼者、観光の中国人や短パン姿の欧米人団体
など多種多様な人びとが行き交っていた。
 宮殿の前は広場となっており、一部公園になっている。以前はチベット人の家が集
まっていたようであるが、中国政府による解放政策によって立ち退きさせられたので
あろう。それを象徴するように大きな解放記念碑が立っており、古いミグ機が置いて
あった。
 
 2. 大昭寺(ジョカン)
 大昭寺を訪れたのは、ポタラ宮の前の日だった。午前 大昭寺(ジョカン)の入口、五体投地する巡礼者の姿も見える
大昭寺(ジョカン)の入口、五体投地する巡礼者の姿も見える
中西蔵博物館を見学後、ラサデパートへ寄ったり、チベ
ット料理屋で昼食をしてからこの寺へ行った。
 チベット仏教修業の中心となる名刹だけに、多くの仏
像や経文が残されている。寺の中はバターランプの匂い
がプーンと漂い、ラマ僧が所々で修業していた。一列横
隊に並んだ男女の作業者たちが、唄を歌いながら床の地
固めをする光景は珍しかった。並べられたマニ車を次々
回したり、寺の外で五体投地をしている巡礼者の姿を目の当たりにした。
 門前町は人の群れであふれ、無数のリンタクが行き交って賑やかだった。通りには
露天商が並びある固定店舗では爆竹を派手に鳴らして電気製品を売り出していた。ど
こかで聴いたようなメロディーが流れているな、と思ったら、日本の歌謡曲「くちな
しの花」だった。日本製品でも売っているのだろうか。
 
 3. 色拉(セラ)寺
 ポタラ宮を訪れた日は、餃子屋で昼食をとってからセラ寺を訪ねた。明治の時代、
河口慧海(えかい)という日本人(注2)が滞在した名刹である。
 (注2:明治期の宗教家・探検家で、2度にわたり当時厳重な鎖国下にあったチベ
     ットの聖都ラサへ、日本人として初めて潜入し、仏教学界、探検史に寄与
     した。著書『西蔵旅行記』にはヒマラヤを越えての苦難の冒険行が記述さ
     れている。世田谷区九品仏に記念碑がある。)
セラ寺で問答修業(弁教)する若い僧たち
セラ寺で問答修業(弁教)する若い僧たち
 400人のラマ僧が修業するという。中庭へ行くと、弁教
と呼ばれるラマ僧の問答修業の光景が見られた。
 何グループかに分かれた若い僧たちが座り、そのうち
の2人が相対して問答をする。そのうちの1人が立ち、
座っている僧へ向かって次々に質問を発し、それに答え
るのだが、これは正式な学位をダライ・ラマ(現在はパ
ンチェン・ラマ)から取得するための練習なのである。
 この光景の撮影は許可されている。結構楽しそうであ
り、欧米人が目を丸くしてこの光景を見ているのが印象的だった。
 寺には釈迦如来、弥勒菩薩、文殊菩薩、ツオン・カバなどの像をはじめ、六道輪廻
(ろくどうりんね)の絵画や、バターで造ったバター花などあり、五葬といって、
鳥・土・火・水・塔の5種の葬儀が身分によって区分されるという説明があった。
 
 4. デプン寺    
 
 ラサ三大寺のひとつ、デプン寺が寺院では最後の見学 デプン寺でマニ車を回しながら参拝するチベットの女性たち
デプン寺でマニ車を回しながら参拝するチベットの女性たち
で、登山後に訪れた。市街からかなり離れた山の際にあ
る。荒涼とした花崗岩の露出した山を背景に、寺は荘厳
に建っていた。ダライ・ラマ1〜4世が居住した大きな
寺で、見学した日は欧米人の団体客が沢山来ていた。女
人禁制の礼拝堂などあったが、外国婦人の目にどのよう
に映っただろうか。この寺にも多くの仏像、ダライ・ラ
マ像、経文が残されていた。
 
2007. 2. 9 砂田  チベット旅行記(1)ラサの休日       
 
チベット旅行記 (1)『ラサの休日』 相模原市 砂田定夫
 
 1. 青蔵鉄道の開通
 
 この正月2日に、NHKが「青海チベット鉄道」(世界の屋根2000キロをゆく)と
いう番組を放映した。新春とあって、同時刻に民放が長編時代劇など放送していたの
で、あるいはNHKをご覧になった方は少なかったかも知れない。青海省・西寧−チ
ベット自治区・ラサ(拉薩)を結ぶ全長1,956km、鉄道では海抜5,072mという世界
最高地点を走るという中国・青蔵鉄道が昨年7月全線開通した。
 
 凍土地帯に設けた高架橋、高山病を防ぐ酸素補給装置など困難を乗り越えて、中国
が誇る技術力が駆使された。日本は、スピード・安全性・ハイテク技術を駆使した新
幹線を世界に誇るが、このTVを観て「中国もやるな」という感想を受ける。車窓に
展開する紺碧の空と崑崙(コンロン)山脈の雪嶺、凍結した広大な湖、壮大なチベッ
ト高原とのどかな遊牧風景、正に天空を駆け抜ける夢の列車だ。この鉄道の開通は沿
線の人々の生活、特に終着駅のラサの都の経済・文化・生活様式を劇的に変えてしま
うだろう。画面を観ながら私は2年前のチベット旅行を懐かしく想い起こした。
 
 2. 憧れのチベットへ
 2004年9月、チベットの6,000m級未踏峰(誰も登ってない山)を登る目的で17日間
の旅をした。福岡空港へ集結した8人は平均68歳を超える高年登山隊である。まず上
海へ飛んで入国チェックを受け、更に成都へ飛んで一泊、翌日再び航空便でチベット
のラサへ。標高3,600m、いきなり富士山の頂上近くへ連れてこられたようなものだ。
とにかく憧れの神秘の国へ第一歩を踏み入れた。
ラサ空港から都市のホテルへ向かう途中で見た磨崖仏。タカという絹の白布を周囲の岩に投げかけて願をかける。
ラサ空港から都市のホテルへ向かう途中で見た磨崖仏。タカという絹の白布を周囲の岩に投げかけて願をかける。
 ホテルへ向かう車の外は興味をそそるものばかり。
珍しい皮舟に乗ったチベット人、主食ツァンポの原料と
なる大麦の畑、家畜の群れ、ポプラの街路樹、そして色
彩豊かな磨崖仏など。市内の案内と通訳はシーチン(色
珍)、ラサ大学で日本語科を専攻した若い娘さん、観光
会社に勤める。チベットの宗教史を独学で勉強したとい
うことで、宗教について詳しいため、寺院の見学では名
解説振りを発揮した。
 ラサにあるヒマラヤホテルが我々の宿となる。テンジン(丹増)という世話役兼通
訳が迎えてくれた。彼は作家椎名誠氏の夫人渡辺一枝氏が50日間チベットを旅した
ときのガイドで、気に入られて日本に3年間滞在する機会を与えられた。そのため日
本語は堪能だった。
 
 3. ラサの印象
 私たちは登山行動7日間の前後5日間、ホテル基点にラサの街の観光をする機会を
得た。そのうち登山前の3日間は高度に対する順応期間でもあった。ツアー旅行と違
って好きな所へ出かけ、好きなものを食べ歩いた。
 ラサの人口は40万人というが、変動があるので正確に 我々が泊ったヒマラヤホテル。三つ星マークで、サービスは良かった。
我々が泊ったヒマラヤホテル。三つ星マークで、サービスは良かった。
は分からないようだ。因みに79年発行の百科事典にラサ
の人口約8万人とあるが、20数年経った現在は当時の5
倍位に人口が増えていることになる。
 この地を6年前から毎年訪れているメンバーの1人M
氏によれば、ラサの街の様子は年々めまぐるしく変わっ
ているという。確かに市街を歩いてみると、建築中の建
物、特に商店舗の新築が多く見られ、発展途上の印象が
 
ラサの市街、道路にはセンターラインも標識もない。自動車・リンタク・自転車・歩行者が行き交う。
ラサの市街、道路にはセンターラインも標識もない。自動車・リンタク・自転車・歩行者が行き交う。
強く、活気を呈している。「経済発展」とか「教育優先」
の標語があちこちに見られる。中国の経済発展の波はか
つて秘境といわれたラサにも押し寄せていることを実感
した。
 私はハインリヒ・ハラー著「チベットの七年」(注)
という本を読んで描いていた秘境ラサのイメージは、宮
殿や寺院を中心に、土で固めた貧しい家の並ぶ集落でし
かなかったが、そのイメージは全く覆された。
 
 (注)人気俳優ブラッド・ビット主演で「セブン・イヤーズ・イン・チベット」と
いう映画になった。ハラーはオーストリアの登山家で、アイガー北壁の初登攀者。
ヒマラヤ遠征中第2次世界大戦が勃発、インドで英軍の捕虜となり収容所を脱出、過
酷な旅の末チベットにたどり着き、ダライ・ラマ14世の個人教師となる。他に「白い
蜘蛛」という著書がある。戦後、ナチスの親衛隊だったということが分かり、物議を
かもした。
 「五体投地」といって、手を合わせ体を地に伏せながら数ヶ月かけて聖地ラサへ向
かう巡礼者や、マニ車を回しながら経文を唱えて歩くチベット族の庶民と、新車を乗
りまわす漢族などが入り混じった不思議な国。商店の看板は大きな漢字とその下に小
さなチベット文字が併記されている。中国とチベットの異文化が混然と一体になって
いる中に、格差が感じられる。タクシーはじめ小型車は欧州車が多いが、4駆のRV
車はトヨタのランドクルーザーや三菱パジェロなど日本車の人気があるようだ。
 
 交通規制や標識・信号などはまだ後進国という印象で、 ラサ川沿いを散策中に見た賭博風景。サイコロを使う、日本の「丁半」と似ている。
ラサ川沿いを散策中に見た賭博風景。サイコロを使う、日本の「丁半」と似ている。
統制はとれていない。横断歩道の信号があっても車の方
が優先したり、センターライン無視の追越しなど日常茶
飯事、すべてがクラクションで統制されている感じであ
る。だから事故はよく見かけたし、タクシーの助手席に
座ったときは何度も肝を冷やしたものだ。(帰途、成都
も観光したが、中国の大都市でもやはり交通秩序は日米
欧に比べ低いようだ。最近交通事故による死者の多さは
中国政府の悩みの種と報道されていた。)
 クラクションを鳴らす車の横行、その間をリンタク、自転車、歩行者がとりどりの
服装で往来する。制服を着た軍人や警察官、都会風の中国人若者、赤い僧衣をまとっ
たラマ僧、ツバつきの帽子をかぶって古ぼけたスーツを着た色黒のチベット族、民族
衣装を着た少数民族、上半身裸でリヤカーを引く労働者、家の前でビリヤードに興じ
る人々、ラサの街は正にさまざまな人たちのオンパレードである。
 
2006. 5.21 野村:小田  「みちのく花見ツアー」         
 
2泊3日の「みちのく花見ツアー」参加 横浜市 野村一信
横浜市 小田 茂
         “サクラ見物”が“雪見見物”に変身!
 ≪はじめに≫
 今年の国内旅行は、4月20日〜22日の「みちのく花見ツアー」を実施いたしました。
参加者24名(男性13名、女性11名)、男性13名は全員OB会会員ですが、女性の女房
族の内6名は東京計器OGと、正にトキメック(東京計器)一家の集まりです。
 “第1部”として、今回の旅行記を「野村一信」が担当、“どんな集団なの?”と
思われる方のため、46年の歴史ある?この集団を“第2部”として「小田 茂」が担当
し、ご紹介いたします。
 
 ≪第1部≫ “みちのく旅”紀行          野村 記
 今年は国内旅行、「みちのく花見ツアー」を旅行会社の企画に乗り、4月20日〜22
日の2泊3日の旅行となった。東京地方の今年の桜は3月末に開花宣言が出て、これで
は予定の日程では、「葉桜」になってしまうと危惧していたのが、予想は大ハズレ!
“雪見ツアー”と名前を変える結果となった。
<1日目> 秋田空港着、大型中2階デラックスバスが、 入道崎石碑
入道崎石碑
「トキメック旅行会ご一同様」をお出迎え。24名の団体
との同行を敬遠してか、他の客はゼロ。私たちの完全な
“貸切”となった。ラッキー!
 寒風山展望台経由で、入道崎のレストランで昼食、海
鮮石焼料理に舌づつみ。突然、昭和35年に東京計器に入
社した野崎由紀子さん(現姓:平川さん・地元の酒屋さ
んに嫁ぐ)の訪問を受ける。何10年振りかの再会である
入道崎石焼鍋
入道崎石焼鍋
再会(前田さん、野崎さん、前田さん、三橋さん)
再会(前田さん、野崎さん、前田さん、三橋さん)
が、彼女は昔と変わらず、
綺麗で、すぐに当時を思い
出すことができ感激!
さらに、地元の銘酒「高清
水」の差入れ!感謝感激!
良い思い出が作れました。
 
 
 八郎潟を通って7号線経由(大館)今夜の宿“大鰐温 ホテルの外はクリスマスツリーのような雪景色
ホテルの外はクリスマスツリーのような雪景色
泉:青森ロイヤルホテルへ向かう。
 途中の峠では、季節外れの大きなボタン雪が吹雪いて
弘前公園夜桜見学は中止。(吹雪がなくても、桜はなし)
ホテルは、眼下に大鰐温泉郷と遠くに八甲田山から津軽
平野を一望できる阿闍羅山の山頂にあるが、途中で
大型バスでは無理で、ホテルからのマイクロバス2台に乗
り換える、ハプニング!が有ったがホテルに無事到着。
八甲田連山
八甲田連山
 雪見の露天風呂を堪能して、夜の宴会で、明日の活力
を養った。
 
<2日目>目覚めは爽快!天候も良し!道路が下れるか
心配であったが凍結もなく、無事予定通り八甲田ロープ
ウエーに向かった。一面の雪景色の中、ロープウエーに
乗ったが、乗客は我々以外は、若い男女のスキー客で、
大型ロープウエーは超満員。
 途中、眼下の左右には青森湾、その先に津軽半島、 奥入瀬の滝
奥入瀬の滝
また野辺地湾の先に下北半島も見えていたが、頂上は
ガスで何も見えず、早々に乗ってきたロープウエーでの
とんぼ返りとなった。チョット残念!
 八甲田山雪回廊を下って奥入瀬に向かった。渓流は
木々がまだ芽吹かないので、普段は見れない滝が次々に
良い姿を見せてくれ、車中の“滝見ツアー”となった。
 
 十和田湖遊覧は寒いが天気が回復したので景色最高!後ろに八甲田連山を見て発荷
峠に到着。今、遊覧船で眺めた景色を峠の上から見るのと、十和田湖の先に八甲田連
山が雪を抱えて聳え立ち、心が洗われる気分で山を下る。
岩手山サービスエリア
岩手山サービスエリア
 雪の回廊をバスはチェン着装。里に下りたら“蕗のと
う”がいたるところに見えて、「採りたい!」の声も
あったが、今日も早めに宿に向かう。途中、東北道岩手
SAで休息、目の前に聳える“岩手山”の見事な山容に
思わずシャッターを切った。
 今日の宿は、雫石近くの鴬宿温泉の由緒ある「長栄館」。
素晴らしい温泉に浸かり、宴会では、特別料理に舌づつ
み、地酒を少々嗜み?、カラオケで大いに盛り上がる。
<3日目> ヤット朝から晴れている!今日は角館武家屋  道
敷に向かう。昨日見た岩手山を裏側から見ながら、1時
間程で角館に到着。“桜まつり”開催中!バス駐車場の
各バスの標識にはいずれも「東北桜名所巡り」が貼られ
ている。しかし見事な枝垂れ桜の木は、多少は赤らんで
いるがまだまだ早い!いぶりがっこを試食しながら地酒
を試飲して昔を偲んだ。(人間だけ赤らんだ!)
広い武家屋敷(3,000坪)を見学。
舟
 バスは折り返して盛岡に向かう。今朝のテレビで 
“石割桜”(盛岡市役所前)が一輪咲いたと言っていた
所を通過しして昼食(わんこそば・じゃじゃ麺・冷麺)
各自自由選択で、皆さんそれぞれ満足!
最後の見学地“猊鼻渓舟下り”“中尊寺”に向かう。
“猊鼻渓舟下り”の船頭とメンバーの口の悪いのが見事 
な掛け合いをしながらの舟遊び!良かったよ!
桜もやっと開花が始まったところである。
 中尊寺では、広い境内を  舟
金色堂
金色堂
ゆったりと散策。昔の栄華 
を思い描きながら北上川の
景色を堪能した。
 そこから仙台に一気に向
かった。途中、東北道で桜
が満開になっていた。
 
 仙台からは、栃木・埼玉・千葉・東京・神奈川の各自宅へ向けて一路、新幹線で!
 思いかけずに雪の東北でしたが、普段見れない景色が堪能できとても楽しかった。
中尊寺本堂
中尊寺本堂
中尊寺参道
中尊寺参道
十和田湖にて集合写真
十和田湖にて集合写真
 
 ≪第2部≫ “会の生立ち、活動”について           小田 記
 このグループが誕生したのは、今から46年前の昭和35年(1960年)、労働組合の 
「職場委員」(15期)のメンバーで、たまたま“麻雀”好きの連中14〜5名が集まった
のがきっかけであった。「お前が質問するから、委員会が長引き、開始が遅れた!」
等と、今と違い麻雀が盛んな時代であった。「職場委員」の1年の任期満了後も
『チョンボ会』と命名し、毎月の積み立てを開始し、「旅行を兼ねた麻雀大会」を年
に1〜2回開催してきた。
 特徴として、アルコールを「飲まないメンバー」と「嗜む?メンバー」とが半々で、
『飲まないメンバー」は当時も車を持っており、ドライブ大好き人間、「嗜む?メン
バー」にとっては大変ありがたい、メンバー構成であった。また、旅行に出掛けるに
しても、職場がバラバラなので休暇が取りやすいという利点もあった。
 
 始めの内は、健保の保養所・他社の施設等、関東圏内だったのがだんだん足を伸ば
すようになる。
 平成に入った頃になると、昔は徹夜でやっていた麻雀大会も、体力的なことなのか
どうかは判らないが、だんだん「麻雀」時間は短くなり、近年では「麻雀の麻も字」
もなく、完全に健全な「年金生活者旅行会」?に変身している。
 初めて海外に進出したのは、平成5年(1993年)の“シンガポール・マレーシア”で、
この時、初めて「長年の罪滅ぼし」?ということで、「女房族」同伴という画期的な
方針変更をした!以後、年1回の“ご機嫌取り”が続行している。
 
 その後、気心の知れた仲間が、夫婦揃って参加しその輪が広がり現在に至っている。
 海外は、その後、欧州(伊・仏・独)、カナダ、中国、韓国、と昨年はベトナム・
カンボジアへ、国内は一昨年は「五島列島」。
 国内・海外の隔年ごとの年1回の行事ですが、毎年、新鮮な活力を受けながら「新し
出会いを楽しんでいる」グループです。
 ご関心おありの方、ご一報ください!
 
2006. 6. 7 小池  150円ふたり旅             
 
150円で一都三県大回り ふたり旅 横浜市 小池芳光
 
コース図
コース図
 OB会のHP「話題コーナー」で、仲本隆信さん投稿
の「150円一人旅」が目にとまった。 これは「隣の
駅までの切符(川崎→蒲田)一枚で、できるだけ遠回り
をして1都6県を12時間かけて楽しんだ旅」という内容
である。(4月11日号参照)
 好奇心旺盛な私としては大いに興味をそそられ、お願
いしてゴールデンウィーク真只中の5月4日に、この
「150円二人旅」が実現した。
JR「川崎」駅(以降の駅名はJR・駅を省略)にて「川崎→蒲田」の切符を150円で購 
入。いざ出発!前回は12時間と、いささか長時間だったので、今回は短めのコースを
とることにした。コース地図と時刻表、それに仲本さんの用意した缶ビールとおつま
みで膨らんだバッグは、ずしりと重そう。
@《 神奈川県:川崎 》・・・南武線「立川」行に乗車。7:27の出発。休日のせい
 か、がら空きで隅の席に陣取る。電車が動き出すと、積もり積もった話に夢中にな
 っている間に、もう終点。
A《 東京都:立川 》・・・8:21「立川」に到着。ここで中央線に乗換える。
 8:37の発車。平日ここは学生達で活気あふれるところ。
B《 東京都:八王子 》・・・8:49「八王子」に到着。ここで八高線に乗換え、
 「高麗川」行に乗車する。9:26に発車。ようやく窓外の景色を見る余裕ができた。
 「東福生」では、近くの基地から飛び立ったのか、戦闘機が編隊を組み轟音をたて
 て飛んでいった。 
C《 埼玉県:高麗川 》・・・10:11「高麗川」に到着。「高崎」行に乗継ぐ。2両編 
 成の車内はラッシュアワー並の混雑で、一つ座席を確保するのがやっと。次の電車 
 は1時間半待ちとなるので、このままで我慢する。10:22に発車。待ちに待った缶
 ビールで乾杯!きゅーっと五臓六腑に沁みわたる。仲本夫人の手作りのサンドウイ
 ッチに舌鼓を打つ。さらにビールがすすむ。途中で前の席が空き、向かい合わせに座
 ることができた。ふと窓外に目をやると、新緑が鮮やかで眩い。初めて乗る八高線、
 のどかな風景が広がっており、後へ後へと飛んでいく。  高崎駅ホームの立ち食い「そば」(左が筆者、右は仲本さん)
高崎駅ホームの立ち食い「そば」(左が筆者、右は仲本さん)
D《 群馬県:高崎 》・・・11:52「高崎」着、もう昼 
 どき。同行の仲本さんは前回、名物の「だるま弁当」
 を食べたので、今回は香りに誘われてホーム内の立ち
 食い「そば」にした。喉ごしの良い美味しい地そばであ
 った。ここからは栃木、茨城、千葉県へと足をのばせ
 るが、今回は欲張らずに湘南新宿ライン「茅ヶ崎」行 
 で帰路に着くことにする。高崎には有名な観音様があ
 り、駅構内から外に出ることができないので、ホーム内から旅の安全を願い手を合
 わす。12:20の発車、始発なので楽に座れた。向かいの席に一人旅の小学生がいて  
 歓談した。とても礼儀正しかったのが印象に残った。
駅員さんとの記念写真(蒲田駅)手に持つのは川崎駅発行、150円区間の切符
駅員さんとの記念写真(蒲田駅)手に持つのは川崎駅発行、150円区間の切符
 「大崎」で山手線に乗換え、さらに「品川」で京浜東
 北線に乗換える。偶然にも「蒲田」行であった。   
E《 東京都:蒲田 》・・・最終目的地の「蒲田」には 
 14:30に無事到着した。改札出口に行ったら、何と前
 回と同じ駅員さんが窓口にいた。「あっ! また行って
 きたのですか?」・・・と笑顔で切符に印を押してく  
 れ、それを記念に頂いた。さらに、記念撮影まで一緒
 に納まってくれた。
 打ち上げは、駅ビルで「さつま揚げ」と「アゴ」の九州料理をつまみに、ビールで
 乾杯! お疲れ様! 1都3県、7時間、150円の楽しい旅でした。    
 
《返信》:小池さんが参加しての二人旅とは吃驚です。ほとんど一日中の電車は疲れ
     ますね。蒲田に到着して飲んだビールがきっと素晴らしくおいしかったで
     しょう。これからも楽しい時間をすごして皆さんに少しでもその雰囲気を
     伝えてください。またの投稿を期待しています。   (野村一信 記) 
 
《事務局から》 これは「お便りコーナー」に投稿されたものを移行再掲しました。
 
2006. 4.11 仲本  150円一人旅              
 
150円で一都六県大回り 川崎市 仲本隆信
 
川崎駅発行、150円区間の切符です
川崎駅発行、150円区間の切符です
 JRの☆特例を利用すると、隣の駅までの切符で、出来
るだけ遠回りをして楽しみながら、150円で一都六県
「大回り」の旅が出来る事を、新聞を見て知りました。
これは電車愛好家の間ではポピュラーの旅のようです。
 私は、初体験として今回川崎〜蒲田間を、12時間かけ
て行く事にしました。
☆JRの大都市近郊間特例とは
 路線が複雑で、目的地までの行き方が何通りもある 用意した旅程経路の拡大地図
用意した旅程経路の拡大地図
大都市で、自由にJRの路線を選んで乗れる制度です。
 これには、3つの条件があり、これを守らなければ
なりません。
 1.同じ駅や区間を2回通る事は出来ません。
 2.切符は発売当日限りです。
 3.途中下車は出来ません。
 さて、いよいよ出発準備、駅員さんに不正乗車と間違われないために、用意した
ものは旅程経路の拡大地図と、前日詳細に調べた時刻表。そして何よりも楽しみな
飲み物と、手製のおつまみ。
 
@ 神奈川県・川崎駅
 午前7時40分、川崎駅を出発隣の鶴見駅から鶴見線で浜川崎へ、ここは一旦下車
して南武線浜川崎駅へ乗り換えるが、実はこれが、今回の旅の最初で最後の「駅・
そと」尻手から立川に向かう。
 
A 東京都・立川駅
 午前9時29分、立川駅着、ここは登山客やら旅行者、学生でいつも大賑わい、
青梅・五日市線で昭島市の拝島駅へ、ここで八高線線に乗り換え。
 
B埼玉県・高麗川駅
 午前10時35分着、ここから八高線で高崎へ向かうが、待ち合わせ時間が1時間10分、
外へ出て駅の周りを歩いてみたいが、これは駄目、ベンチに腰け早速持参のビールと
おつまみで、先ずは一休み、ビールの美味さが身にしみる。キオスクなど見当たら
ないので大正解。11時45分高崎へ向かう。
 
C群馬県・高崎駅
 13時05分着、ホームに降りると、美味しそうな「そば」の香り、丁度昼どきそば
好きな私だが、ここは高崎・やはり名物の「だるま」弁当を購入、両毛線に乗り換え
車中で昼食。
 
D栃木県・小山駅
 15時16分着、高崎までは何となくルンルン気分であったが、ここまで来ると少し
だけだるさを感じる。出発から8時間を経過水戸線に乗りかえる。
 
E茨城県・友部駅
 16時54分着、駅舎が工事中でキオスクも見当たらず、周りは暗闇で気温も下がり、
23分の待ち合わせ時間が長く感じる。目的地蒲田まであと3時間、常磐線がホームに
入ってきた。
 
F千葉県・我孫子駅
 18時54分着、川崎を出て11時間、タフな私も疲労がにじむ、19時29分上野駅に到着
蒲田まであと一息、京浜東北線に乗り換える足が何故か軽い。
 
G蒲田駅
 19時54分最終目的地蒲田駅に到着。隣の川崎駅〜蒲田駅まで来るのに、何と12時間
9分。達成感で疲れなど微塵も感じない。
 さて、いよいよ駅員さんに切符を渡す時が来た。 駅員さんとの記念写真(蒲田駅)
駅員さんとの記念写真(蒲田駅)
できることならこの切符は記念に欲しい!不安な気持ち
を押さえて、経過時刻表を記入した地図と切符を駅員
さんに見せながら、「大回り」をして来ましたと言うと、
「お疲れ様でした、切符は記念にどうぞ」の思いも寄らぬ
ひと言に、感動した私は厚かましくも、その駅員さんに
写真を一緒に撮って欲しいと頼むと、快く引き受けて
くれた。
 今回の旅は、初めての体験で時間も掛ったが、楽しい思い出も有りました。
皆さんも、自分でコースと時刻表をつくり、各駅停車のノンビリ旅行150円で
満喫しては如何でしょうか。
 
◆次の楽しみ
 次回はグーンと短い5時間半の旅を予定しています。
どなたか、楽しい旅をご一緒しませんか、連絡をお待ちしています。