『 レトロ語 』 か行(か-1)〜(か-4)
 
          レ ト ロ 語 「か行」
2014.1.26 か-1 【担ぎ屋/担ぎ屋のおばさん】から【カリプソ/カリプソの女王】まで
2014. 2. 9 か-2 【カマトト】から【ガチャ万・コラ千】まで
2014. 2.23 か-3 【数え年】から【飼い葉切り】まで
2014. 3. 9 か-4 【鰹節削り器】から【からす口】まで
 
      『 レ ト ロ 語 』 か行
2014.1.26 三橋 レトロ語 か行(か-1)
 
若い世代に通じなくなりつつある言葉・生活習慣・遊びなど・・・ 
 レトロ語 か行(か-1)以下、順不同          (文責/三橋春夫)
 
◇掲載語◇【担ぎ屋/担ぎ屋のおばさん】【乾物屋】【缶蹴り遊び】【看板娘】
     【街頭テレビ】【火炎ビン】【金偏景気】【神風タクシー/神風トラック】
     【神様・仏様・稲尾様/神様・仏様・バース様】【角 帽】
     【買い出し/買い出し列車】【カーボン紙】【合点承知之助】
     【岸壁の母】【カルメ焼き】【カリプソ/カリプソの女王】
 
【担ぎ屋/担ぎ屋のおばさん】 @担ぎ屋は縁起を担ぐ人、縁起を気にする人、
 A人を騙して面白がる人、B食料を生産地から運んで 担ぎ屋のおばさん
担ぎ屋のおばさん
 売る人、特に終戦後闇物資を運ぶ人などを意味します。 
 以前は千葉や茨城の方から多くのおばさんたちが自分 
 の体重より重い食料を背負った姿を電車内で見かけま
 したが、最近はとんと見る機会がなくなりました。
 高齢で重量物の運搬が無理になったのでしょうか。そ
 れとも身近なスーパーマーケットで新鮮な食料が入手
 できるため商売としてのうま味がなくなったのでしょ
 うか。
 
【乾物屋】 乾物は保存性や食味の向上を目的として水分を抜き乾燥させた食品です。
  代表的な乾物は干ぴょう、切干し大根、干し椎茸、干し芋、魚介類では干しえび、
 身欠きにしん、棒鱈、鰹節、煮干し、スルメ、海藻類などです。以前は街中で1、
 2軒は乾物屋があったのですが、最近はスーパーマーケットや百貨店で必要な乾物
 が全て買えるので問屋以外の昔風の乾物屋は姿を消してしまいました。
 
【缶蹴り遊び】 缶蹴りの呼び名は地方によって異なるようですが、子どものころの
 代表的な遊びの一つでした。「かくれんぼ」の変形でしょうか。この遊びは隠れる
 場所がある公園や空き地が必要ですので都会ではちょっと無理でしょうね。
 
【看板娘】 「看板娘」という語は江戸時代からあったようです。店の広告塔となる
 絵を「看板絵」、歌舞伎などの人気役者を「大看板」というように「看板娘」もそ
 の一つでしょう。よく、昔は煙草屋の看板娘が話題となりましたが、店先に座って
 いる姿を見ながら通勤していました。個人商店や飲食店などで店の顔となり接客す
 る魅力的な女性を指します。若い看板娘のいる飲食店には鼻の下を長くした男性客
 が通うのでしょうね。
 
【街頭テレビ】 戦後のテレビ放送は、1953年(昭和28年)2月1日にNHKが、同8月
 28日には日本テレビ放送網が本放送を開始しました。この時代、受像機はサラリー
街頭テレビ
街頭テレビ
マンの年収の数年分に相当する高額でしたので庶民には
高嶺の花。そこで、正力松太郎率いる日本テレビは普及
促進とスポンサー獲得のため、繁華街、主要鉄道駅、百
貨店、公園などの人が集まる場所に受像機を常設したこ
とにより、娯楽の少なかった当時、人気番組のプロレス、
ボクシング、大相撲などの中継には観衆が殺到しました。
やがて白黒テレビが一般家庭に普及し始め、三種の神器
の一つとなりました。
 その後、1958年(昭和33年)の東京タワーの竣工と皇太子ご成婚ブームなどにより
 家庭への普及が更に進みました。そして、1960年(昭和35年)にカラー放送が開始
 され、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを契機にカラーテレビも徐々に一般
 家庭へ浸透し始めました。
 この結果、街頭テレビは当初の目的を失ったため衰退して行きました。そう言えば、
 力道山の試合がある日はどこの街頭テレビの前は黒山のような人だかりでした。
 
 《1953年(昭和28年)の会社に関する記述は「あ」行の「赤電話」、1958年(昭和
  33年)については「あ」行の「赤線」、1960年(昭和35年)については「あ」行
  の「赤ヘル」、1964年(昭和39年)については「あ」行の「アイビールック/アイ
  ビー族」の項をそれぞれ参照。》
 
【火炎びん】 戦後、日本における過激派学生運動他で火炎ビンが盛んに使用されて
 きましたが、爆発物を取り締まる法律「爆発物取締罰則」では、1956年(昭和31年)
 に最高裁が「火炎ビンは爆発物に含めない。よって規制の対象外」との判示によっ
 て火炎ビンを取り締まることができませんでした。このため火炎ビンの使用等の処
 罰に関する法律が議員立法によって制定され処罰の対象となりました。この施行前
 の火炎ビンの使用は全国で372本でしたが、1972年(昭和47年)の施行後は34本に
 減少されたという記録があります。火炎ビンという語は平和な日本では死語であり
 たいです。
 
 《1956年(昭和31年)の会社は資本金を1億7,600万円、同3億5,200万円、同3億
  7,000万円と三度の増資を行った年でした。また、この年に東京計器販売鰍ェ設
  立されました。門司サービスステーションを関門サービスステーションと改称し
  下関駅前へ、同横浜出張所が海員掖済会ビルへ、大阪出張所が大阪中央ビルへ移
  転、一方、本社では創立60周年記念式典が大田区民会館で挙行されました。
  業界・一般では科学技術庁の設置、下請代金支払遅延等防止法公布、経済白書で
  「もはや戦後ではない」と発表され、暮れには国連に加盟した年でした。海外で
  はスエズ戦争が始まり、第16回オリンピックがメルボルンで開催された年でし
  た。》
 
【金偏景気】 1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍主体の連合軍の
 兵站基地となり、軍需物資調達を中心に1950年から3年間で10億ドル、1955年まで
 の5年間の間接特需総額は35億6,000万ドルにも上ったと言われ、他国での不幸な
 戦争が敗戦後のどん底にあった日本経済は一息つくことができました。この朝鮮特
 需によってもたらされた好景気は特需景気、糸偏景気、金偏景気、投資景気、消費
 景気、三白景気などと呼ばれました。この種の棚ボタ式景気再来はもうないでしょ
 う。
 
 《この年の会社に関する記述は、「あ」行の「アナタハンの女王事件」の項を
  参照。》
 
【神風タクシー/神風トラック】 「神風タクシー」は、ご存知のとおり無謀な運転
 をするタクシーのことです。 1950年代(昭和30年代前半)のモータリゼーション
 の進行に伴い、国内いたるところで道路渋滞がおき始め、歩合給を稼ぐため、速度
 制限無視、信号無視、強引な追い越し・割り込みなどを行って客を拾い、回転率を
 アップするため無謀な運転をするタクシーが増え社会問題化しました。「神風タク
 シー」は戦時中の「神風特別攻撃隊」になぞらえて呼ばれたようですが、その後、
 タクシー労組と経営者側との待遇改善協議の結果、さらに1959年(昭和34年)に優
 良運転者に個人タクシーが認可される制度ができてから「神風タクシー」は徐々に
 話題から消えて行きました。今、隣の国・中国のタクシーに乗ると当時の怖さを味
 わうことができます。同様に「神風トラック」も話題となりました。図体が大きく
 頑丈でスピードもすごいので私たちドライバーには脅威ですね。
 
 《この年の会社に関する記述は、「あ」行の「足のサイズ」(文)の項を参照。》 
 
【神様・仏様・稲尾様/神様・仏様・バース様】 ご存知、稲尾は日本の球界を代表
 する投手でした。その後、監督、解説者、評論家でも活躍されました。個々の活躍
 内容は省略しますが、西鉄ライオンズ時代の1957年(昭和32年)にプロ野球記録と
 なるシリーズ20連勝を記録するなど35勝をあげ、史上最年少でのリーグMVPを獲得
 しました。翌年の1958年(昭和33年)には、33勝で史上初の2年連続のMVPを獲得
 しました。読売ジャイアンツと対戦した日本シリ−ズでは、稲尾が2試合先発する
 中で3連敗と追い込まれましたが、第4戦で初勝利、第5戦で途中から登板し自ら
 のバットでサヨナラ本塁打の勝利投手、そして巨人本拠地・後楽園球場での第6、
 7戦でも2連投で完投勝利し、逆転日本一を達成したのは記憶に残る伝説です。
 この勝利で地元新聞は「神様・仏様・稲尾様」の見出しで新聞を発行しました。
 「神様・仏様・○○様」が使われたもう一人の伝説のプレーヤーは1985年(昭和60
 年)に阪神タイガースで大活躍をした顎鬚のランディ・バース選手がいます。
 
 《1857年(昭和32年)の会社に関する記述は、「い」行の「一億総白痴化」、
  1985年(昭和60年)に関しては、同行の「いちご世代」の項を参照。》
 
【角 帽】 ご存知のように学生帽は丸帽と角帽が一般的です。大学生が被る角帽は
 1886年(明治19年)に東京帝国大学が制定したのが始 角帽
角帽
 まりと言われています。以来、学校によりいろいろな
 学帽や制服が制定されてきましたが、太平洋戦争の激
 化により物資の統制が厳しさを増し、男子学生の服装
 は国民服に戦闘帽というのが一般的でした。
 終戦後、経済の復興と共に学生服や学生帽も再び普及
 しましたが、角帽については1965年(昭和40年)代ご
 ろから応援団員以外は着用されなくなりました。角帽
 にワックスを塗り、わざと汚して得意になっていた学生がいましたね。
 
 《この年の会社に関する記述は、「い」行の「いざなぎ景気」の項を参照。》
 
【買い出し/買い出し列車】 終戦後、米穀通帳があっても配給米がいつ配給される
 か分からない食糧難時代、都会の住民は大きなリュックを担いで近県の農家へ主食
 などの買い出しに出掛けました。列車は買い出し客で超満員でデッキの他、屋根ま
 で乗客が溢れるときがありました。当時の資料によりますと、米1kgが20〜40円、
 麦が15〜25円、さつまいもが5円程度とありました。
 買い出しの支払いの殆どが晴れ着や時計などと換えることが多く、当時は「タケノ
 コ生活」という言葉が流行しましたが、我が家も母の箪笥の着物が少しずつ減って
 行くのを子ども心に胸を痛めたことがありました。
 
【カーボン紙】 ご存知、「カーボン紙」は用紙の間に複写をするために用いる感圧
 紙ですが、1806年イギリスのラルフ・ウエッジウッドという人が発明したとありま
 した。その後、1954年(昭和29年)にアメリカのNCR社によりノーカーボン紙が発
 明されました。当時は事務業務の重要な文房具でしたが、印刷時にカーボンインキ
 を塗布できるカーボン印刷用紙や複写ができるノーカーボン紙が発明されると需要
 が減少しました。
 
 《この年の会社に関する記述は、「い」行の「糸偏景気/糸姫」の項を参照。》
 
【合点承知之助】 喜劇っぽい時代劇の中で物事を了承したときなどによく使ってい
 ますが、もとは江戸時代に流行った語呂合わせ、言葉の洒落、地口(じぐち)のよ
 うなものです。「冗談はよしてくれ」を「冗談は由乃介」、「恐れ入りました」を
 「恐れ入りやの鬼子母神」や「来たか長さん待ってたホイ・・」の例もこの類でし
 ょう。しかし、日常生活の中で「合点承知乃助」なんて言っている人はいないでし
 ょう。
 
【岸壁の母】 「岸壁の母」は第二次世界大戦後、旧ソ連によるシベリア抑留から解
 放されて、引揚げ船で息子の帰国を岸壁で待ち続けた母親(実話)をマスコミが取
 り上げて「岸壁の母」の名前で紹介しました。「母は来ました今日も来た この岸
 壁に今日も来た 届かぬ願いと知りながら もしやもしや もしやもしやに ひか
 されて」ご存知、1954年(昭和29年)に菊地章子が、そして1972年(昭和47年)に
 は二葉百合子による大ヒット曲となり、テレビドラマや映画化で国民の涙を大いに
 誘いました。今から60年以上も前の悲しい物語でした。
 
 《1954年(昭和29年)の会社に関する記述は「い」行の「糸偏景気/糸姫」の項を
  参照。また、1972年(昭和47年)については、「あ」行の「あっしには関わりの
  ねえことでござんす」の項を参照。》
 
【カルメ焼き】 むかし、お祭りや縁日の露店で駄菓子の一種であるカルメ焼きが売
カルメ焼き
カルメ焼き
られていました。直径10cmくらいの銅張りのお玉状の器
に砂糖とザラメを入れて、少量の水を加えて125℃まで
加熱して溶かし、重曹を少量加えて手早く?き混ぜて、
炭酸ガスで砂糖水が膨らんだところで冷却します。固ま
ったところで再度加熱し、器の下部のカルメ焼きが少し
溶けたら器に移し完成します。
 おやつには兄弟の分を作るのが役目でした。易しい
ようですが、砂糖と水の量、火から下ろすタイミングを
 逸すると、折角膨らんだカルメ焼きがしぼんでしまったことがありました。昔ほど
 ではありませんが、今でも縁日で偶に出会うことがあります。
 
【カリプソ/カリプソの女王】 「カリプソ」(Calypso)は、20世紀に始まったカリ
 ブ海地方の音楽です。特にトリニダード・トバゴのカーニバルで発展した音楽と言
 われています。4分の2拍子のリズムで発信されたのが1914年(大正3年)と言わ
 れています。
 その後、1940年代後半、第二次世界大戦終了後、多くのカリビアンが職を求めて国
 外へ出たことで、1950年代に各国でカリプソブームが起きました。
 日本では1957年(昭和32年)、ハリー・ベラフォンテの樂曲「バナナ・ボート」が
 モデル出身で美人歌手・浜村美智子により大ヒットし、「デ―オ」などで一躍「カ
 リプソの女王」として人気を集めました。今、カラオケで「バナナ・ボート」を愛
 唱している方はどのくらいおいででしょうか。
 
 《1914年(大正3年)は、人事・制度面では当時としては画期的な就業規則を制
  定、50歳定年を設定、更に、公休日は毎月1日、15日の2日間を設定しました。
  一方、業界・一般では、シーメンス疑獄事件の発覚、第一次世界大戦が勃発、日
  本が独国に宣戦布告した年でした。1957年(昭和32年)については、「い」行の
  「一億総白痴化」の項を参照。》
 
2014. 2. 9 三橋 レトロ語 か行(か-2)
 
 若い世代に通じなくなりつつある言葉・生活習慣・遊びなど・・・
   レトロ語 か行(か−2) 以下順不同     (文責/三橋春夫)
 
◇掲載語◇【カマトト】【カワイコちゃん/かわいこちゃん/可愛い子ちゃん】
     【紙芝居屋】【鍵っ子】【ガチョーン】【ガリ版印刷/ガリ版切り】
     【カストリ/カストリ雑誌】【外遊】【カウチポテト/カウチポテト族】
     【カム・カム・エブリボディ】【家庭電化時代】【河童のバッチ】
     【書きますわよ】【ガラス製のハエ取り器】【階段の手すり滑り】
     【額縁ショー】【ガチャ万・コラ千】
 
【カマトト】 よく知っているのに知らないふりをすること、女性では初心らしく振
 舞う人に対して用いられています。
 「かまとと」の「かま」は「蒲鉾」。「とと」は幼児語で「魚」のこと。「蒲鉾」
 が「魚」から造られていることを知らないふりをして「蒲鉾はととから出来ている
 の?」と、わざと聞いたことから生まれた語と言われています。
 江戸時代は、上記、初心らしく振舞う遊女(女性)に対して使われ始めたと言われ
 ています。今でも初めての会合の折、その道の専門家なのに聴き手にまわって、後
 で、その道の専門家であったことが分かり恥をかいた方も多くおありのことと思い
 ます。どちらが可愛いでしょうか。いつの場合でも自分をストレートに表現した方
 がよいようですね。とは言い、簡単に性格は変えられないようですね。
 
【カワイコちゃん/かわいこちゃん/可愛い子ちゃん】 可愛い子(女)、男性の関心
 を集めるような可愛らしい若い女性のことですが、今でも通用する語だと思います
 が、調査したところ30年以上前にレトロ語と判定されていました。
 
【紙芝居屋】 子どものころ、学校から帰ってしばらくすると紙芝居屋さんの拍 子木
 が聞こえると家を飛び出し、水飴やニッキ、ハッカ、 紙芝居屋
紙芝居屋
 酢昆布などの余り衛生的とは思えない駄菓子を買って
 紙芝居を楽しんだものです。一説では紙芝居屋のおじ
 さんは、トーキーの隆盛で追われた活弁士や失業して
 俄か仕込みの人もいたようですが、子ども心では迫力
 のある話術に大いに満足したものです。
 戦後も紙芝居屋さんは活躍していましたが、テレビが
 普及するようになった1968年(昭和43年)ころまでに
 は殆んど見かけなくなりました。
 しかし、しっかりした目標・使命感で今もって幼稚園や保育園、その他で活躍され
 ておられる方も大勢おられます。それらの方々に心から頑張れと応援したいと思い
 ます。
 
 《1968年(昭和43年)の会社は、新年早々、通用門脇の2号館が完成、新工場建設
  業務遂行のための臨時建設部を新設、8月には東京ビッカース鰍ェ設立され、管
  理者を含む7名が移籍し12月から操業開始された年でした。
  その他、大阪営業所が神戸銀行北浜支店5階へ移転、5月には舶用、油圧、航空、
  工業、空調の事業部制を実施した年でした。
  人事・制度面では女子従業員の教育訓練講座の開催、献血共済会の発足、修士奨
  学金規定の制定、新入社員教育に初の宿泊研修の実施、その他、社内報「弥生」、
  隔月刊「弥生」と週刊「HRニュース」を統合し、月刊「弥生」が誕生しました。
  一方、業界・一般では、霞が関ビルが落成、小笠原諸島の復帰実現、1次期主力
  戦闘機にF−4Eファントムの採用を決定、川端康成が日本初のノーベル文学賞を
  受賞、そして、この年、GNPがアメリカについで資本主義国で第2位となりました
  が、大学紛争が多発した他、例の3億円強奮事件も起きた年でした。一方、海外
  では、第19回オリンピックがメキシコで開催され、米国がベトナム北爆を停止し
  た歴史的な年でもありました。》
 
【鍵っ子】 1963年(昭和38年)〜1965年(昭和40年)ごろに流行った語です。夫婦
 共働きの場合や片親または身内のケースで会社勤めをしているため、帰宅しても家
 に誰もおらず、このため自宅のカギを常時持参し、夜に親や身内の帰宅を待つ子ど
 もですが、女性の社会進出が目覚ましい昨今、決して珍しいことではないと思いま
 すが、いかがでしょうか。
 
 《昭和38年の会社に関する記述は、「い」行の「一姫二虎三ダンプ」を、昭和39年
  については、「あ」行の「アイビールック/アイビー族」を、さらに、昭和40年
  については、「い」行の「いざなぎ景気」の項を参照。》
 
【ガチョーン】 ご存知、クレージーキャッツのメンバーの一人、谷 啓のギャグで
谷
谷 啓のガチョーン
す。仲間とマージャンを楽しんでいるとき、谷の口グセ
でパイを引きながら「ピローン」「ムヒョー」「クチョ
ッ」などを発していたようです。そして、ツモって欲し
いときに「ガチョーン」と言いながらパイを引いてきた
らツモったというので、それ以来、「ガチョーン」を番
組の中のギャグに使ったという説があります。
 今どき、「ガチョーン」なんて言ったら頭がおかしい
のでは?と言われそうです。
 
【ガリ版印刷/ガリ版切り】 謄写版は印刷方法の一つで孔版印刷です。中学校時代の
 文集制作で大変お世話になりました。発明者はトーマス・エジソンで1893年ごろに
 原型が考案され、1894年に日本の堀井新治郎が改良して現在の製品につながってい
 るようです。
 原紙に鉄筆でヤスリ板の上で文字や挿絵を描くのですが、文字を書くときガリガリ
 と音をたてることから「ガリ版」と呼ばれているようです。
 しかし、1985年(昭和60年)以降、コピー機やパソコンの普及により使われなくな
 りましたが、一部の愛好家やアフリカやアジアなどで電気のない地域では現在も利
 用されています。その意味では偉大な発明品であり、人間社会に貢献した製品と言
 えましょう。
 
 《この年の会社に関する記述は、「い」行の「いちご世代」の項を参照。》
 
【カストリ/カストリ雑誌】 「カストリ」とは「カストリ酒」または「カストリ雑
 誌」の略ですが、お酒の方の「カストリ」はイモや酒粕からとった粗悪な焼酎や当
 時の闇市で売られていた粗悪な密造酒のことです。
 また、「カストリ雑誌」のことも言いました。戦後、昭和20年代前半ごろから出版
 の自由化に伴って、戦時中、抑制されていた性・性風俗や猟奇などを内容とした粗
 悪な紙を使用した安価な雑誌、娯楽雑誌を指します。
 インターネットで検索しましたら、「りべらる」「奇抜雑読」「結婚生活」「夫婦
 生活」「実話雑誌」「青春ロマンス」「風俗奇譚」「寝室手帖」「裏室」「奇譚ク
 ラブ」「愛情生活」・・など、切りがありません。そして、粗悪雑誌から廃刊に押
 しやられて行きました。
 
【外遊】 外遊とは不思議な意味を持つ言葉です。多分、過去の一部政治家のアメシ
 ョン的な印象があるからでしょう。広辞苑によると「外国へ旅行すること」とあり
 ますので「洋行」と同じですが、「留学や研究、視察などを目的として外国を旅行す
 ること」を指し、「特に政治家の外国訪問の場合によく使用される」との説明があ
 ると つい良くないイメージを持ちます。
 一方、「遊」は軍隊の「遊軍」「遊兵」、新聞社の「遊軍記者」や野球の「遊撃手」
 のように、遊びを意味するものではなく「他国へ出る」「一定の位置や所属ではな
 く自由に働く」という意味で「機動的なこと」を指すことで、初めて納得できるこ
 とになります。一般的には、目的を明確にして、外国歴訪、表敬訪問、視察、国際
 会議に出席などと表記すべきでしょう。
 
【浮浪児狩り】 敗戦でGHQの管理下にあった我が国は社会秩序を回復すべく、昭和
 45年9月20日に「戦災孤児等保護対策要綱」を決定し、 はだしのゲン
はだしのゲン
 戦災孤児、引揚孤児、戦没軍人の孤児等の収容保護を
 行いました。しかし、その収容保護の取扱いは、強硬、
 強制的に行われたことにより、マスコミから「浮浪児
 狩り」と批判されました。
 今、当時者の皆様方は、悲しく苦しかったでしょうが、
 新しいファミリーと共に、老後を幸せに暮らしている
 ことを願っています。
 
 《この年の会社に関する記述は、「う」行の「ウハウハ」の項を参照。》
 
【カウチポテト/カウチポテト族】 ソファー(カウチ)に座り込んだり、寝そべっ
 たりしたまま、主にテレビを見たり、ゲームに興じて長時間を過ごす人を、「ソフ
 ァーの上に転がっているジャガイモ」に例えたアメリカの俗語的な表現と言われて
 います。
 1987年(昭和62年)、米国の週刊誌「New York」が若者の動向を「カウチポテト時
 代」として取り上げました。これが一年後の1988年に日本にも伝わり流行語として
 広まりました。1989年(昭和64年)版の「現代用語の基礎知識」で初めて「ポテ
 トチップスをかじりながら」という「カウチポテト」が取り上げられました。
 一方、風俗や若者用語の分野だけでなく、解釈で社会問題としても取り上げられ、
 「一人孤独でテレビやビデオ、ゲームを楽しむ」若者族、さらに、現在の日本文化
 を象徴して「ビデオ、パソコン、ゲームなど、快適な室内でのAVライフを満喫する
 ことのカッコイイの記述がついているが、一般的には「孤独を好む現代人の新らし
 いライフスタイル」とする記述です。同じ視点でみると「粗大ゴミ」も定年退職後
 の男性が、無趣味で外出もせず、一日中、ゴロ寝でテレビを見て過ごす様子を表す
 語と同じようです。
 
 《1987年(昭和62年)の会社に関する記述は、「あ」行の「朝シャン」、同1989年
  (昭和64年/平成元年)は、同行の「アッシーくん/メッシーくん/ミツグくん」
  の項を参照。》
 
【カム・カム・エブリボディ 】1946年(昭和21年)2月1日、当時の東京放送局
 (3月4日からNHKに名称変更)のラジオ番組(僅か15分の短い番組)「英語会話
 教室」がスタートし、子どもでしたがよくラジオを聞いていました。でも生涯、英
 語は好きですが上達しなかった科目の一つでした。同年9月に発売された「英会話
 の本」が350万部を売り上げ、戦後初のベストセラーとなったと記録されています。
 戦争で抑圧されていた教育、それを取り戻そうと考えた国民の教育に対する向上心
 の現れでしょうか。
 昭和21年、「週刊朝日」に連載された新聞漫画「ブロンディ」をこよなく愛し、ア
 メリカの進んだ文化にあこがれていた時代でした。
 この教室のオープニング・ソングは「証城寺の狸囃子」の替え歌だったことも大い
 に人気を博したと言われています。
 Come, come,everybody. How do you do, and how are you?
 Won’t you have some candy, One and two and three, four, five?・・・、
 もちろん、ご記憶に残っておられることでしょう。
 
 《この年の会社に関する記述は、「え」行の「駅弁大学」の項を参照。》
 
【家庭電化時代】 戦後の日本の家庭電化時代の開幕は1956年(昭和31年)ごろと言
 われていますが、当時の生活を振り返ると我が家は出遅れていたように思われます。
 昭和30年ころ、冷蔵庫欲しさに自分で外側は木製ですが、実によく冷える冷蔵庫を
 製作してしまいました。 これで「白黒テレビ」「洗濯機」それと自家製の「冷蔵
 庫」で何とか「三種の神器」が揃いました。
 記録によりますと、洗濯機は1951年(昭和26年)、テレビは1953年の本放送に先立
 ち、1952年に発売されました。そして、1953年(昭和28年)に冷蔵庫が発売されま
 した。
 因みに、当時の洗濯機の価格は46,000円、冷蔵庫が129,000円、白黒テレビが
 290,000円とありました。昭和32年入社の私の給料では、正に高嶺の花でした。
 
 《1956年(昭和31年)の会社に関する記述は、「か」行の「火炎ビン」、1951年
  (昭和26年)については、「あ」行の「アジャパー」、1953年(昭和28年)につ
  いては、同行の「赤電話」の項を参照。》
 
【河童のバッチ】 毎年10月1日は、1952年(昭和27年)に東京都が「都民の日条
 例」を制定した記念日「都民の日」です。都民の一体感や自治意識を高め、福祉を
 増進することを目的としたものです。私も一時、都民の一人でしたが「河童のバッ
 チ」のことは僅かに記憶にあるていどで詳しいことは知りませんでした。
河童のバッチ
河童のバッチ
1956年(昭和31年)の大東京祭以降、都民の日を記念し
たバッチ「大東京祭記念徽章」を毎年発売してきました。
当初は彫刻家・朝倉文夫のデザインから始まり、1959年
(昭和34年)からは漫画家の清水 崑によるデザイン、
その後1976年(昭和51年)小島 功によるデザインにバ
トンタッチされました。そして、昔、隅田川に河童が住
んでいたという伝承により代々、河童のデザインです。
このバッチは都営施設の無料入場を認める際の目印とし
 て用いるため、都内各区の窓口や宝くじ売り場などで販売されてきましたが、1997
 年(平成9年)の都民の日を最後にバッチの販売は中止されました。都民以外はほ
 とんど知られていない「河童のバッチ」です。ご存知でしたでしょうか。
 
 《1952年(昭和27年)の会社に関する記述は、「お」行の「踊る宗教」、1956年
  (昭和31年)については、「か」行の「火炎びん」、1959年(昭和34年)につい
  ては、「あ」行の「足のサイズ(文)」、1976年(昭和51年)については、「う」
  行の「ウナ電」の項を参照。》 
 
【書きますわよ】 1956年(昭和31年)、俳優であり女医でもある川上敬子が、随筆
 集「女だけの部屋」で芸能界の裏話を纏めました。その後、続いた「暴露本」の走
 りとなり、「書きますわよ」は脅し文句の代名詞となり流行語となりました。本で
 はありませんが、榎本三恵子の「蜂の人刺し」という怖い話も話題となりました。
 
 《1956年(昭和31年)の会社に関する記述は、「か」行の「火炎ビン」の項を
  参照。》 
 
【ガラス製のハエ取り器】 子どものころ、我が家にも昭和初期に発売されたと言わ
 れるガラス製の蠅取り器がありました。戦後もしばらく蠅取り紙、蠅取りリボンや
 蠅たたきが活躍していました。 ハエ取り器(復刻品)
ハエ取り器(復刻品)
 ガラスの器の下が丸く空いていて器の中には洗剤を薄
 めた水を入れ、器の下に蠅をおびき寄せる食べ物が置
 いてありました。蠅が餌につられて器の中にいったん
 入ると出られず、最後は水に落ちて死んでしまいます。
 現在、使っておられる家庭はほとんど見かけませんが、
 今でも当時のものが、よりスマートなデザインの下に
 復刻されて販売されているようです。
 
 《1928年(昭和3年)〜1930年(昭和5年)ごろ、鞄結梃v器製作所は蒲田に進出
  した年でした。
  1928年(昭和3年)4月、蒲田に化学工場(工業用絶縁体の製造工場)が完成、
  11月には社長 和田嘉衡が紺綬褒章並びに勲五等瑞宝章を受章されました。業界・
  一般では初の普通選挙、池上線・蒲田―池上間が延長され五反田への乗り入れの
  他、第1回全国工場安全週間が実施された年でした。
  同29年(同4年)は蒲田で本社工場が曾禰中条設計事務所、施工:戸田組により
  建設が着工、10月にはスペリー社、スペリー博士が再来日され、勲二等瑞宝章を
  受章されました。業界・一般では、ドイツ飛行船「ツエッペリン伯号」が霞ヶ浦
  飛行場に到着、10月24日、ニューヨーク株式市場の大暴落により世界経済恐慌が
  起った年でした。
  同30年(同5年)6月16日、帰国されたスペリー博士が逝去され、同年7月、東
  京会館で追悼会が挙行されました。一方、建設中の本社工場が完成し、同年6月
  22日、現在地へ移転した年です。業界・一般では、金輸出解禁、ロンドン海軍軍
  縮条約に調印、そして国内では、国産の電気洗濯機、冷蔵庫が発売されました。》
 
【階段の手すり滑り】 中学生のころ、学校の階段の手すりをピカピカに磨き、跨い
 で滑り下りる遊びをしていました。こんなことをするから学生ズボンのお尻部分は
 光り、穴があきミシン掛けされたのをはいていたのです。海外では転落して死んだ
 というニュースもありました。友人の一人が滑り過ぎて手すりの終わり部分にあっ
 た装飾用の出っ張りに、しこたまぶっつけました。でも危険ですので、今の学校で
 は禁止されていると思います。
 
【額縁ショー】 1947年(昭和22年)、秦 豊吉という方が始めた「名画アルバム」
 と言われる女性ヌードを売り物にしたショーのようです。当時、ストリップショー
 が規制されていましたので、約30秒ずつ額縁の中でヌードの女性が名画の裸婦のよ
 うに静止ポーズをとるという演出でその規制を逃れて流行したショーだったようで
 す。 世の中、頭のよい方がいるものですね。
 
 《この年の会社に関する記述については、「い」行の「隠匿物資」の項を参照。》
 
【ガチャ万・コラ千】 1951年(昭和26年)、朝鮮戦争による特需景気は別名「ガチ
 ャ万」景気として、繊維以外にセメント、肥料、紙などの三白景気、そして、トヨ
 タ、ソニー他が大発展する基礎となるなど各種業界を復興させました。
 終戦後の闇市全盛期のころ、闇商品だった銘仙は取り締まりの対象でした。「ガチ
 ャ万」とは織機を織っては1万円儲け、当局による闇の摘発・手入れを食い、「コ
 ラツ!」と言われたら千円の賄賂を渡して許してもらうこと、織機がガチャと音を
 たてることから織物産地の景気の良さを「ガチャ万、コラ千」と呼んでいたと書か
 れていました。
 その織物業界は数度の好不況を繰り返し、この間の昭和30年代中ごろから同40年代
 前半まで繊維産業は時代の花形で、全国から多くの若い女性の集団就職が当時の話
 題となりましたが、1969年(昭和44年)のアメリカへの輸出規制、東南アジア諸国
 との価格競争、そして海外への生産機能シフトにより、年々繊維業界は縮小されて
 現在に至っています。それにしても、「コラ千」の説明を聞くと、どこかの国での
 賄賂社会と同じで嫌な気分ですね。
 
 《1951年(昭和26年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アジャパー」の項を
  参照。》
 
2014. 2.23 三橋 レトロ語 か行(か-3)
 
 若い世代に通じなくなりつつある言葉・生活習慣・遊びなど・・・
   レトロ語 か行(か−3) 以下順不同     (文責/三橋春夫)
 
◇掲載語◇【数え年】【外食券/外食券食堂】【カラーテレビ】
     【東京ぼん太の唐草模様の風呂敷/唐草模様のタンス掛け】
     【カラスの勝手でしょ〜】
     【カアチャンヤスメ・ハハキトク/オカアサンヤスメ・ハハキトク】
     【カエルコール】【厠(かわや)】【外 套】【感謝感謝、雨あられ】 
     【飼い葉切り】 
 
【数え年】 日本では古くから数え年が使われてきましたが、1902年(明治35年)12
 月22日施行の「年齢計算に関する法律を」を受けて、満年齢を使用することになり
 ました。しかし、一般には数え年が使われ続けたため、1950年(昭和25年)1月1
 日施行の「年齢のとなえ方に関する法律」により、改めて満年齢によって年齢を表
 すことを推奨した経緯があります。
 
 《1902年(明治35年)、合名会社東京計器製作所が資本金2万円で設立された年で
  す。業界・一般では日英同盟が調印されました。
  1950年(昭和25年)については「あ」行の「アナタハンの女王事件」を参照。》
 
【外食券/外食券食堂】 1941年(昭和16年)4月に戦時下の食糧統制の一環として、
 米穀配給通帳制と共に実施され、終戦後も米軍の統制化において外食する者のため
 に発行された食券で、1969年(昭和44年)に廃止されました。また同券持参者へ食
 事を提供するために指定された食堂を「外食券食堂」と言われていました。
 参考までに、昭和18年当時、一人/1ケ月分の配給は六升五合で(約10kg)で2円
 80銭という記録がありました。また、家で食事をしない人は配給代わりに「外食券」
 の配布を受けることができたようです。外食券30枚(10日分)で米二升三合に相当
 するとありました。どんなメニューだったのでしょうか。
 
 《この年の5月、創立45周年厚生大運動会を鶴見花月園で開催、同8月には茅ヶ崎
  分工場が開設された年でした。人事・制度面では人事相談所、東京計器在郷軍人
  分会が開設され、12月には在籍者徴用が実施されました。
  一方、業界・一般は労働者年金保険法制定、米穀の配給通帳制の実施、小学校が
  国民学校に改称、金属回収令公布、東条英機内閣が樹立、12月1日、御前会議で
  対英米蘭開戦を決定、同8日に太平洋戦争へ突入、16日には戦艦「大和」が竣工
  すると共に、物資統制令を制定、施行され戦時体制一色となりました。国外では
  日ソ中立条約を調印した年でもありました。
  同昭和18年は、前年の東京兵器梶i現不二サッシ工業)の設立に続き、東京航空
  計器と共同出資で三光航空工業鰍設立、更に横須賀、呉、舞鶴、佐世保に出張
  所を開設すると共に、矢向鋳物工場の操業を開始した年でした。人事・制度面で
  は、勤労部が新設され昼夜二交代制が実施されました。一方、前年には早くも東
  京、名古屋、神戸などが初空襲を受け、ミッドウエー海戦と戦局は厳しさを増す
  中で山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、商工省を廃止し軍需省を設置、12月に
  は軍需会社法が施行されました。そして、東京都制が実施された年でもありまし
  た。》
 
【カラーテレビ】 今は美しい色のテレビを楽しんでいますが、日本で登場したばか
 りのときは「総天然色映画」ならぬ「総天然色テレビジョン」と呼ばれていました。
 世界初のカラー放送は1954年(昭和29年)、米国NBC 初期のカラーTV
初期のカラーTV
 のニューヨーク局であるWNBCが最初であるとされてい
 ます。そして我が国は6年遅れの1960年(昭和35年)
 9月10日に本放送が開始されました。
 1968年(昭和43年)4月以降、NHKがカラー放送を大
 幅に増やしたことからカラーテレビの普及が促進され、
 同年から1970年(昭和45年)にかけて、「パナカラー」
 「キドカラー」「トリニトロンカラー」「ユニカラー」
 「サンカラー」「純白カラー」「ロングランカラー」「ダイヤトロン」など各社か
 らの製品が出揃い、量産体制も整い価格も一段と下がったため爆発的に普及し、そ
 の結果、1973年(昭和48年)にはカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回り、今
 日に至っています。テレビは色つきが当たり前の時代ですので「カラーテレビ」は
 レトロ語です。
 
 《1968年(昭和43年)の会社の記述については、「か」行の「紙芝居屋」の項、ま
  た、1973年(昭和48年)については、「あ」行の「赤チン」の項を参照。》
 
【唐草模様の風呂敷/唐草模様のタンス掛け】 昔はどの家にも唐草模様の風呂敷が
 あったような記憶がありますが最近はほとんど見かけません。我が家には母の嫁入
唐草模様の風呂敷
唐草模様の風呂敷
道具のタンスに使われたという唐草模様のタンス掛けが
ありました。
唐草文様の原型はギリシアだそうですが、メソポタミア
やエジプトから各地へ、そして日本へはシルクロード経
由で中国から伝わったと言われています。
学術的な考察は専門家に任せるとして、どうして唐草模
様の風呂敷を背負っていると泥棒のイメージが浮かぶの
でしょうか。それほど風呂敷の定番だったためでしょう
 か。それとも、「夢もチボーもないね」「いろいろあらあな」「ぺけ子ちゃん」な
 ど栃木訛りで人気を博した東京ぼん太というコメディアンの影響でしょうか。
 その東京ぼん太は1986年(昭和61年)に47歳という若さで他界されました。そして、
 彼の流行り言葉も消えてしまいました。
 
 《1986年(昭和61年)は、1月末に本社ビル(Eセンター)建設の詳細が公表され、
  11月21日に地鎮祭が行われた年でした。同年は創立90周年に当たり弥生会館で盛
  大に挙行されました。
  長年提携関係にあったスペリー社をバローズ社が買収、スペリー社の当社持株比
  率は5%に、同ビッカース社は6%に減少しました。
  経営・組織面でも大きな動きがあった年でした。3月には海洋支援機材を解散、
  東海、高知、釧路、南九州、韓国駐在員の各営業所、出張所、事務所(舶用)を
  廃止、さらに大分、中国・四国・長崎の出張事務所、サービスステーション(舶
  用)を廃止し、更に関西、関東サービスステーションをODKビルと蒲田本社内へ
  移転するなど舶用事業部の立て直しを実施、同様に生産体制整備計画に沿って油
  圧事業推進部を廃止しました。一方、佐野事業所の事務棟、矢板事業所の第3期
  工事HIC/MIC製造工場が完成し新たな戦力アップとしてスタートしました。新た
  な経営組織として新規事業提案プロジェクトが発足し、11月には第1回Hit全社
  発表大会を那須事業所で開催した年でした。
  人事・制度面では、センター構想の基本計画について労使が協定書に締結する一
  方で舶用事業部の総人員の25%の他部門への移動、油圧技術者26名の佐野事業所
  への移動が実施されました。
  そういう状況下で行われた職レク主催「サマーランドフェスティバル」を八王子
  サマーランドで開催し、900名が参加する盛況でした。
  一方、業界・一般では、男女雇用機会均等法施行、この年、地価が高騰、地上げ
  が社会問題となりました。工業会では油圧工業会と空気圧工業会が合併し、油空
  圧工業会としてスタートしました。
  国際面では米国スペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故、ソ連チェル
  ノブイリ原子力発電所事故の他、第12回東京サミットが開催された年でした。
  この年、三原山が大噴火し話題をさらいました。》
 
【カラスの勝手でしょ〜】 童謡「七つの子」の歌詞は「カラス なぜ鳴くの カラ
 スは山にかわいい七つの子があるからよ・・」ですが、1980年(昭和55年)のお笑
 いグループの「ザ・ドリフターズ」の人気TV番組「8時だよ、全員集合!!」で、
 志村けんが「カラス なぜ鳴くの カラスの勝手でしょ〜・・」という替え歌を歌
 ったことから、子どもたちの間で流行しました。しかし、当時、“純粋な童謡をギ
 ャグにするとはなにごとぞ・・”と、PTAをはじめ多くの関係者から苦情が寄せられ
 たと聞いています。
 
 《この年の4月、資本金を28億9,900万円に、さらに10月に35億8,900万円に増資し
  財務体質の改善を実施した年でした。話題となった貿易の日本社特集「80年代成
  長路線固まる東京計器」を発刊したのもこの年でした。
  組織面ではトーテック名古屋営業所、航空事業部がオートメーション インダス
  トリー社(ロスアンゼルス)内に駐在所、南九州出張事務所(舶用)などを開設
  しました。
  人事・制度面では、一般従業員の資格制度の導入、新賃金制度、ジョブローテー
  ション制度、タイムカードを廃止し、勤務表による自主管理方式の導入・実施が
  ありました。
  その他、東計興産による「那須高原寮」の運営がスタートしました。
  一方、業界・一般では、日本の自動車生産台数が年間1,000万台を突破し世界一
  となりましたが、国際的には第22回モスクワ・オリンピックが日・米・中国・
  西独などの不参加となった大会でした。》
 
【カアチャンヤスメ・ハハキトク/オカアサンヤスメ・ハハキトク】 世の中には、
 いろいろと語呂合わせを考える奇特な方がいるようです。いくら語呂合わせでも
 「ハハキトク」はやり過ぎではないでしょうか。
 子どもたちの大好物メニュー「カレー」「チャーハン」「ヤキソバ」「スパゲティ」
 「メダマヤキ」の頭文字を連ねると「カアチャンヤスメ」となります。一方「ハハ
 キトク」は「ハンバーガー」「ハムエッグ」「ギョウザ」「トースト」「クリーム
 シチュー」だそうです。どれも若いお母さんの得意そうな料理です。
 また、若者に人気の主なカタカナ語メニューに「オムレツ」「カレー」「アイスク
 リーム」「サンドイッチ」「ヤキソバ」「麺類」、そして「ハムエッグ」「ハンバ
 ーグ」「ギョウザ」「トースト」「クリームシチュー」の頭文字を連ねて「オカア
 サンヤスメ・ハハキトク」だそうです。1980年〜1982年(昭和57年)にかけての流
 行語でした。
 しかし、これらのメニューのほとんどは冷凍食品で「チーン」して簡単に食べられ
 るメニューですが、脂質や糖質の摂りすぎと、野菜や魚、海藻などの摂取不足で生
 活習慣病の心配があります。むしろ、「オリーブオイルとお茶」「魚=青魚」「海
 藻類」「納豆」「酢」「きのこ類」「野菜」「特にネギや玉ネギ」を摂取する「オ
 サカナスキヤネ」で健康を維持したいものです。
 
 《この年、資本金を38億5,800万円に増資、新東京計器を吸収合併し、矢板事業所
  が発足すると共に、Hit運動キックオフで労使による「生産性向上共同宣言」で
  新風を吹き込む活動をスタートさせた年でした。組織面では、長崎サービスステ
  ーション(舶用)、小集団活動の推進で「TQC推進室」、国際化に対応するため
  「渉外室」などの新設がありました。さらに、会長・岡崎 忠が取締役相談役に
  就任、社長・河野俊助が勲三等瑞宝章を受章された年でもありました。
  人事・制度面では、職場労使懇談会の設置、段階的に60歳定年制に移行の他、第
  1回東京計器遊園会を向ケ丘遊園地バラ苑で開催された年でした。
  業界・一般では、商法大幅改正(単位株等)、上越新幹線・大宮−新潟間が開通、
  中曽根康弘内閣が成立、初のテレフォンカード使用公衆電話が開設などの年でし
  た。》
 
【カエルコール】 ご主人が奥さんに帰宅すること/帰宅する時間を告げる電話のこ
 とですが、1985年(昭和60年)に「カエルコール」は カエルコール
カエルコール
 NTTが提唱したものです。
 「帰る」と「蛙=カエル」をかけたもので、当時のCM
 で話題となりました。同じく仕事や学業のため故郷を
 離れた子どもから親へかける「ふるさとカエルコール」
 というのもありました。皆さんは外出した奥様にカエ
 ルコールをされておられますか。酔っ払っていると
 「俺々と名乗って妻にすぐ切られ」(シルバー川柳)
 のようにならないように気をつけましょう。
 
 《この年の会社に関する記述については、「い」行の「いちご世代」を参照。》
 
【川の手】 1986年(昭和61年)の日本新語・流行語大賞の新語部門の表現賞となっ
 た用語です。受賞者は東京都隅田区長(当時の山崎榮治郎区長)です。
 ネーミングの狙いは明治以降、地盤沈下の進んだ「下町」を隅田川沿いの南北の細
 長い地帯をウオーターフロントとして再興させたいという願いから「山の手」に対
 する「川の手」と表現されたとのことです。
 過日、OB会のバス旅行で東京スカイツリーの見学前に、日の出桟橋から浅草まで
 の隅田川ラインを観光させていただきましたが大変美しい景観に驚かされました。
 残念ながら「川の手」の知名度は今一つのような気がしますが、東京のもう一つの
 シンボル地帯となることを期待したいです。
 
 《この年の会社に関する記述については、「か」行の「唐草模様の風呂敷」の項を
  参照。》
 
【厠(かわや)】 便所には、厠(かわや)、閑所(かんじょ)、雪隠(せっちん)、
 後架(こうか)、脊屋(かど)、御不浄、はばかり、手水(ちょうず)、こうや、
 手洗い、化粧室、トイレなどと異称が多いですね。これも日本語の繊細さ、表現力
 の豊かさの表れでしょうか。厠は古く「古事記」にその例が見られ、施設の下に水
 が流れる川屋だったとする説があるようです。日常ではほとんど使うことのない用
 語のようです。
 
【外 套】 「外套の襟を立てて歩く」「コートを脱いでクロークに預ける」「カシ
 ミアのオーバー・コートを新調した」「上からマントをひっかけて部屋を出た」な
 どは、外套に属する外衣に関する使われ方例ですが、どうも外套はレトロ語のよう
 ですね。一般に防寒のために衣服の上に着る、ゆったりとした外衣となるとオーバ
 ー(オーバー・コート)とか、コートあたりではないでしょうか。
 
【感謝感謝、雨あられ】 非常にありがたい気持ちを表す言葉として親しい間柄の人
 に対して少しおどけて言う場合に用います。もともとは戦時中の軍の戦況を新聞な
 どに報道するため、見出しとして「乱射乱射撃雨霰」をもじったものと言われてい
 ます。しかし、最近は親しい友人同士でもほとんど使われなくなっていませんか。
 
【飼い葉切り】 昔、長野県に疎開していたころ、大きな農家にお世話になっていま
飼葉切り
飼葉切り
した。裏のリンゴ畑の近くには牛車用や田畑の耕作に使
う牛が二頭飼育されていました。飼い葉にするため草や
藁を食べやすいように短く切る作業をよく手伝ったこと
があります。
今は機械化されていますので、食肉用以外に牛馬を飼育
している農家は大分減っているように思いますが、それ
でも農家では畑の肥やしにするために今でも使われてい
るのではないでしょうか。
 飼い葉切り、飼い葉桶・・いずれも懐かしい言葉です。
 
2014. 3. 9 三橋 レトロ語 か行(か-4)
 
 若い世代に通じなくなりつつある言葉・生活習慣・遊びなど・・・
   レトロ語 か行(か−4) 以下順不同     (文責/三橋春夫)
 
◇掲載語◇【鰹節削り器】【釜/かまど】【割烹着姿の主婦】【髪結いの亭主】
     【かぶりつき】【風車を付けた乳母車】【カツアゲ】【ガールハント】
     【ガリ勉】【可取り専攻】【ガメ子】【カミナリ親父】【カンカン娘】
     【カタワ】【皮靴の裏の金具】【かいまき】
     【かいぐり かいぐり とっとの目】【カミナリ族】【カンカン帽】
     【偕老同穴】【がらっぱち】【からす口】  
 
【鰹節削り器】 江戸時代後期に土佐清水浦の佐之助という人が初めてカビ付けをし
 た鰹節を作ったと言われています。これがきっかけで土佐、薩摩、伊豆など鰹節の
 三大名産品が全国へ広がって行きました。
 昔、子どもの頃、朝食時は鰹節削りの手伝いからでした。焚きたてのご飯をお櫃に
 に入れ、味噌汁、母の漬けた糠の漬物、焼き魚、庭でとれる蕗の煮つけ、焼き海苔、
 冷奴などが我が家の定番でしたが、ご飯にまぶして食べる鰹節の味を忘れることが
 できません。
 専門店ではピンからキリですが4千円〜7千円程度で今も、しっかり販売されてい
 ますので、愛用家はおられるのでしょう。
 スーパーではパック入りで売られている昨今、削り器で削っておられるご家庭はど
 の程度の普及率なのでしょうか。
 
【釜/かまど】 おいしいご飯を食べたいのは日本人のDNAです。現在のように炊飯器
 がないときは、どの家庭でも「かまど」に釜、ガスコンロに釜や鍋でご飯を焚いて
 いました。 かまど
かまど
 築年によりリフォームが進んでいる現在、より便利な
 水まわりの改装に着手しているようで、段々、釜と
 「かまど」の懐かしい風物が減っているのは寂しいこ
 とです。それに比例して、炊飯器以外でご飯を焚けな
 い主婦や主婦代行のご主人が増えてきたようです。
 自慢ではありませんが、私は手の平が入る鍋・釜でし
 たら固目のご飯、軟らか目のご飯を自由に炊くことが
 できます。子どものころ母に教わったことが、今でもしっかり身についています。
 
【割烹着姿の主婦】 昔は割烹着姿やエプロン姿の主婦をご近所で見かけたり、とき
 には買い物もしている姿をよく見かけました。ところが、最近はこういう姿を余り
割烹着
割烹着
見かけません。私自身、こういう格好で甲斐々々しく働
く主婦を頼もしく思っていた一人でした。
インターネットで調べると、最近の若い主婦から中年以
降の一般の主婦は、エプロン姿や割烹着姿は、近くのゴ
ミ出し、家の前の掃除などに限定されておられる方がほ
とんどのようです。
家庭内着を外出時に着ることの問題は、神経質な人は外
気に触れ、外の物質に触れることを嫌っておられる方も
 おられるようで、家庭着というイメージで気にされる方も多いことと、いつも周囲
 の目を気にして生活している主婦像を考えずにはおられません。昨今はカラフルで
 ファッショナブルなポケットの多いエプロンや割烹着もあって近場の買い物にも決
 しておかしくないと思いますが、いかがでしょうか。真っ白な割烹着とエプロン姿
 の母の姿が瞼に残っています。
 
【髪結いの亭主】  江戸時代、女性が結婚すると、そのほとんどが専業主婦の時代
 でした。結婚すると、男性は女性を、そして子どもや親・兄弟も食べさせなければ
 なりませんでした。これは現在も同じでしょうが、近年、社会への女性進出が著し
 い昨今、逆の現象もありうる現在です。
 その時代、今の美容院/ヘアサロンの仕事だけは「髪結い」という職業婦人ができ
 る仕事だったようです。髪結いの亭主は、経済力をもった女性をもらった夫へのう
 らやみや妬みの世間的な表現として、冷やかされたことからの言葉のようです。
 一方、亭主へは「男としてだらしない」、「怠け者」、「女房に喰わせてもらって
 いる」など軽蔑の意もありました。そう言えば、我が社にも数名の幸せな男性が居
 られたと記憶しています。
 
【かぶりつき】 一般には舞台に一番近い客席、舞台際の席を「かぶりつき」と呼び
 ますが、現在では何かを間近かに見ることを、広く一般に「かぶりつき」と表現す
 るようです。
 思い出すのが、昔ストリップショーの「かぶりつき」専門の先輩がおられました。
 関東地区の興行情報に詳しく、当時、楽しんでおられました。その先輩も他界され
 ましたが、あの世でも「かぶりつき」を楽しんでおられるのでしょう。こちらの
 「かぶりつき」はもうレトロ語でしょう。
 
【風車を付けた乳母車】 風車をつけた乳母車を押してゆく母がいた
 庭に生け垣直している父の姿があった
 私はまだ5歳になったばかり 母のあとを追いかける
 駅までの道は麦が実り 乳母車には眠る弟
 こんな詩がありました。
 昔は風車を付けた乳母車をよく見かけましたが、最近は余り風車を付けたのを見か
 けません。今のお子さんは別な物に興味があるのでしょうか。それに、構造も違い
 ますが、乳母車の「乳母」はベビーシッターのことですので殆ど使われません。
 今は和製英語の「ベビーカー」です。車内への持ち運びを考えたら乳母車ではどう
 しようもないですが、一方、懐古ブームで籐製の乳母車が現在も立派に販売されて
 います。
 
【カツアゲ】 漢字では「喝上げ」ですが、中学生、高校生他若者によって行われる
 恐喝、ゆすり、たかりなどの行為の隠語的呼称です。語源は恐喝の「喝」と金銭を
 巻き上げるの「上げ」をミックスしたものです。今、社会で問題となっている「イ
 ジメ」と同じく立派な犯罪です。ちなみに、恐喝は刑法第249条に以下のように定
 められています。
 1.人を恐喝して財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処せられる。
 2.前項の方法により財産上不法の利益を得、又は他人のこれを得させた者も、
   同項と同様とする。          
 喝上げは隠語的呼称ですが、部活などで同僚や先輩からたかられている者も少なく
 ないようです。一般的には恐喝、ゆすり、たかりという表現でしょう。
 
【ガールハント】 ご存知、男性が遊び目的で女性に声をかけて誘うことですが和製
 カタカナ語の一つです。
 1950年(昭和25年)代から普及しましたが、その後、1970年(昭和45年)代末あた
 りから、こうした行為を「ナンパ」と呼ぶようになりました。その後、女性から男
 性に声をかけて誘う「逆ナン」という積極的な女性が話題となりましたが、いずれ
 もレトロ語となりました。
 
【ガリ勉】 ガリ勉は「ガリガリ勉強する人/ガリガリ勉強すること」を略したもの
 で、昭和中期から使われていた言葉です。ガリ勉は遊びや部活、恋愛など勉強以外
 には一切目を向けない人を言いますが、とかく頭でっかち、勉強はできるのですが
 人間的魅力に欠けるなどの悪いイメージも伴うことが多々あります。しかし、そう
 いう人に対するやっかみもあるのではないでしょうか。勉強ができることは素晴ら
 しいことです。もう一つ、健康的で人間として魅力な人に育って欲しいですね。
 
【可取り専攻】 学校の成績が優・良・可の中で、合格ラインぎりぎりの可ばかりの
 人をユーモア的に呼んだ言葉で「蚊取り線香」をもじったものです。そう言えば高
 校の友人で一流大学をオール可で卒業し、一流証券会社のトップに上り詰めた御仁
 がいます。いずれにせよ、優・良・可評価の時代ではありませんので昭和語のレト
 ロ語です。
 
【ガメ子】 私自身、1979年ころの若者言語であったことを知りませんでした。がめ
 つい女性のことなら、「がめつい女性」の表現でよいと思いますが、お金などに対
 して抜け目なく、押しが強いという意味の「がめつい」を女性の名前っぽく表した
 ものです。これだけでは良い意味の言葉か、悪い意味の言葉か分かりません。同様
 に江戸時代から知られている「万事を巧みに切り回す女性」を意味する「やり手婆」
 という言葉がありますが、これも、どちらかというと悪い意味を含む罵り言葉のよ
 うです。
 
【カミナリ親父】 「雷親父」は何かというと大声でどなりつける、口やかましい親
 父のことで、「夕べオヤジの凄い雷が落ちた」とよく カミナリ親父
カミナリ親父
 聞きました。また職場でも怖い名物上司がいて、いつ
 も部下を相手に大声でどなって、叱っていました。
 昔から、怖いものの順番に並べたものとして、地震・
 雷・火事・親父というのがありましたが、最近の親父
 殿は余りガミガミとやらないように聞いていますがい
 かがでしょうか。どちらかというと、地震・津波・雷
 ・火事、又は地震・雷・火事・女房をあげる人もおら  
 れます。
 
【カンカン娘】 正式には「銀座カンカン娘」ですが、1949年(昭和24年)の公開さ
 れた映画とその主題歌です。映画の出演者は高峰秀子、笠置シズ子、灰田勝彦、5
 代目古今亭志ん生などでした。
 「あの娘可愛やカンカン娘 赤いブラウス、サンダル履いて 誰を待つやら銀座の
 街角・・・」が、その歌詞の一番です。ところで、「カンカン」の意味を、いろい
 ろと調べてみましたら映画の脚本家・山本嘉次郎の造語で、当時の売春婦を「パン
 パンガール」と呼んだのに対して「カンカンに怒っている」という意味がこめられ
 ているものと言われていますが、鈍感な私には歌詞を見た限りでは感じられません。
 「レトロ語」の音楽愛好家により日本のどこかで昔をしのんで歌っておられる方も
 いるでしょう。
 
 《この年の会社に関する記述については、「あ」行の「暁に祈る/暁に祈る事件」の
  項を参照。》
 
【カタワ】 「片端」と書きますが、体が不自由なこと、不自由な人です。言葉は江
 戸時代前から使われていたようです。もともとは馬車や台車の車輪が片方しかなく、
 まともに、その機能しない状態が語源と言われていますが、現在は完全な差別用語
 として使用はされていません。
 
【皮靴の裏の金具】 インターネットを検索していたら皮靴の踵が鳴る靴が欲しいと
 若者が書いていました。タップダンスなら理解できますが、わざわざ求めるのには
 理由があるのでしょう。
 私たちの青春時代は、まだまだ物資の豊富ではなく入社したときも月賦で買った通
 勤靴を大切に履いていました。後ろから見て大分踵がすり減ってくると、靴の修理
 屋で金具を打ってもらい履いたものです。
 わが国の経済が右上がりになってから、私自身金具を打つことなく新しい靴に次々
 と替えて行きました。当時、踵に金具を打って困ったことは、雨の日やマンホール
 の蓋でうっかりすると滑ることでした。今、そこまで修理をして履いている人はお
 られないのではないでしょうか。
 
【かいまき】 掻巻は袖のついた着物状の寝具で、首から肩を覆うことで保温性に富
 んでいますので子どものころは愛用していました。特に寒い東北地方などでは欠か
 せない寝具ではないでしょうか。
 しかし、家屋の建材の進歩で保温性が増し、暖房設備も一段と普及している今日、
 あのころの綿入りの掻巻はほとんど使用されていないのではないでしょうか。掻巻
 でも軽い羽根掻巻、掻巻毛布、肌ざわり優しいガーゼ掻巻が使用されているようで
 す。そういう我が家には家庭を持ってから利用したことがありません。
 
【かいぐり かいぐり とっとの目】 子どものころ、母が赤ん坊の妹に「ちょち
 ちょち あわわ」「かいぐり かいぐり とっとの目」「おつむてんてん」「いな
 い いない ばあ〜」などと言ってあやしていました。赤ちゃんに対する手遊び歌
 のようでした。詳しいことは分かりませんが、家庭、地方によって文句が違うよう
 です。また、最近でも育児教室や保育園で教わる若い母親やそのお子さんがおられ
 るようで、昔の手遊び歌となってしまったようです。こんな手遊び歌があったこと
 を思い出すだけでラッキーです。そして、またまた若いころの母を思い出します。
 
【カミナリ族】 記録では1955年(昭和30年)代から1965年(昭和40年)代ごろ、公
 道をオートバイで高速走行することを嗜好していた一部若者たちを指す俗称です。
 マフラーの芯を抜くなどの違法改造を施すため騒音が雷に似ていることから「カミ
 ナリ族」と名がつきました。現在の「暴走族」の前身です。更に昭和40年ごろから
 は「サーキット族」とか「街道レーサー」などの名も現れ、無謀な運転により交通
 事故や騒音問題で大きな社会問題となりましたが、今ではレトロ語です。
 
 《1965年(昭和40年)の会社に関する記述については、「い」行の「いざなぎ景気」
  の項を参照。》
 
【カンカン帽】 ご存知、麦わら帽子の一種で主に男性用の帽子です。天井とつばが
カンカン帽
カンカン帽
平らなのが特徴で帽子の山の部分は円筒形です。そして
リボン状の帯は黒が正式な色とされています。
日本では明治の末から流行し、大正時代に入ると洋装・
和装に関係なく愛用者が増え大流行し、昭和初期までブ
ームが続きました。「カンカン帽」はニスや糊で塗り固
めてあり、叩くと「カンカン」という音がするほど固い
ので「カンカン帽」と呼ばれたようです。
この「カンカン帽」と類似する帽子にパナマハット(パ
ナマ帽)があります。
 
 《大流行した1912年(明治45年/大正元年)の会社は、本部を5課、工場部を5部に
  区分し、和田嘉衝が、社長および技師長に就任、同改元に際し、社章(TKSマーク
  )を制定した年でした。
  一方、業界・一般では、第5回オリンピック・ストックホルム大会に日本が初参
  加、同7月30日、明治天皇が崩御され大正に改元された年でした。》
 
【偕老同穴】 広辞苑によると、「生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる意
 で、夫婦が仲むつまじく連れ添うこと」とあります。「偕」は「共に」の意、「穴」
 は「墓の穴」の意であり、「偕老同穴の契りを結ぶ」とか「偕老の契り」、つまり
 夫婦の愛情が長く続くことを願って結婚披露宴のスピーチで以前よく聞きましたが、
 最近は「カイロウドウケツ」と言われても理解できる人が少ないためでしょうか、
 言う人がいなくなりました。
 
【がらっぱち】 言葉使いや行動が粗野なこと、または、そういう人のことですが、
 落語に出てくる八五郎のような人物と言動でしょうか。語源は「がさつ」の意味を
 持つ「がらがら(した性分)」から来ていると言われています。でも、さすがに今
 はレトロ語の仲間ではないでしょうか。
 
【からす口】 製図・トレースでお世話になりました。製図やトレース、レタリング
 などに使用されますが、コンパスをも併用して使用用途はいろいろでした。ペン先
 の形状が烏(からす)のくちばしに似ていることからカラス口と呼ばれています。
 初めは線の不揃いや、インクの滴り落ちによる図面の汚しなど、随分と苦労し失敗
 をしました。
 今はより扱いが簡単な製図ペンもあり、さらに、殆ど電子化により以前より利用さ
 れることが少なくなっているのではないでしょうか。