『 よ 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【夜鳴きそば】 以前、夜になると哀愁に満ちた独特のチャルメラを鳴らし、「蕎麦」
 ならぬ「ラーメン」を売るオジサンがいました。
 「夜鳴きそば」の歴史を調べましたら、1736年(元文元年)〜1741年(元文6年/
 寛保元年)ごろからの商売で、夜間に屋台を担いで「蕎麦」を売っていたので「夜
 鷹蕎麦」とも言われていたようです。夜鷹の由来は、夜の街で客を引く娼婦説と、
夜鳴きそば
夜鳴きそば
鷹の仲間ではありませんが、夜鷹という夜行性の鳥から
という説があるようです。さらに、当時は風鈴を鳴らし
ていたこともあり、「夜鳴き蕎麦」となったとのことで
す。
今は風鈴からチャルメラ、蕎麦からラーメンになってい
ますが、コンビニやインスタント・ラーメンの普及のせ
いでしょうか、チャルメラの音を聞きません。お酒を飲
んだ後のラーメンの味は格別おいしいで すね。
【夜汽車】 正式には「夜行列車」でしょうか。「夜汽車」とも呼ばれて映画や音楽
 の題名にたくさん利用されてきました。映画では1987年(昭和62年)の邦画、十朱
 幸代、秋吉久美子、萬田久子、津川雅彦、丹波哲郎、萩原健一などが出演した「夜
 汽車」、特に、歌の世界では1972年(昭和47年)に発売の五木ひろしの「夜汽車の
 女」他に多く歌われています。 映画「夜汽車」
映画「夜汽車」
 私は鉄道ファンではありませんので文献で調べてみま
 した。2013年現在運行中の夜行列車は寝台車主体の寝
 台列車が数本で、JRでは座席車を多く連結している
 定期急行夜行列車は、札幌−青森間の「はまなす」の
 みのようです。
 寝台列車は「北斗星」(上野−札幌)、「カシオペア」
 (同)、「トワイライト エクスプレス」(大阪−札幌)、
 「サンライズ瀬戸・出雲」(東京−瀬戸、出雲)が定期運行されています。しかし、
 年々廃止される列車がある中で、明るい話題となったのがJR西日本の「ななつ星
 in九州」(九州内クルーズ)という「クルージング トレイン」で、他のJR各社で
 も検討されているようです。
 昔、出張や旅行では夜行列車のお世話になりました。夜行列車の魅力は、夜間の移
 動のため日中は目的地で有効な時間を増やせるし、ホテルの世話にならずに効率的、
 経済的なメリットがあることです。新幹線、飛行機、バスとの競争も激しく、寝台
 列車はどうなるのでしょうか。
 
 《1987年(昭和62年)の会社に関する記述は、「あ」行の「朝シャン」の項を
  参照。》
昭和62年の会社
【夜なべ】 今風なら、「夜業」、「夜勤」、「夜間作業」、「徹夜」でしょうか。
 下記は唱歌でお馴染みの「夜なべ」の1番の歌詞です。
   かあさんが 夜なべして 手袋あんでくれた
   木枯らし吹いちゃ 冷たかろうと せっせとあんだだよ
   ふるさとの 便りはとどく 囲炉裏のにおいがした
 母親の優しさと、素朴な生活が目に浮かぶようです。「夜なべ」の由来を調べたら、
 以下の説がありました。
  1.夜に鍋物を食べながら仕事をする「夜鍋」説
  2.昼に夜を並べて、続けての仕事をする「夜並べ」説
  3.夜遅くまで仕事をすることから夜を延ばす「夜延べ」説
 他ですが、どの説が正しいか分かりません。いずれにせよ、若い方は使わない言葉
 でしょう。
【夜這い】 「夜這い」は夜間に男性が女性に呼びかけて求婚すること(呼ばう)が
 語源と言われていますが、昔から日本の各地に存在した風習です。
 明治以降、都市部では「夜這い」の風習は廃れましたが、地方では、かなり最近ま
 で残っていたと言われています。しかし、いろいろな方面から「夜這い」は「野蛮
 な風習」と批判されたこと、嫁入り婚が主流となったこと、ファッションホテル
 (ラブホテル)が利用できることなどにより、今では完全にレトロ語ではないでし
 ょうか。
 
【余裕のよっちゃん】 「余裕である」、「朝飯前だ」の意味ですが、「冗談はヨシ
 コさん」、「平気のへっちゃん」、「当たり前田のクラッカー」、「アイムソーリー、
 ひげそーり」、「しまった、しまった島倉千代子」などと同様に単なる語呂合わせ、
 駄洒落の昭和のレトロ語言葉です。囲碁、将棋、麻雀などの仲間同士の会話で出そ
 うな言葉ですね。
 
【洋モク】 「マルボロ」、「ラーク」、「ケント」、「ラッキーストライク」など
洋モク
洋モク
の外国製のタバコのことで、「モク」はタバコの煙を雲
(くも)に見立てて逆さに言ったものとか、煙りの「も
くもく」から「モク」がタバコの俗語となったという説
があります。「洋モク」以外に「モク拾い」、「シケモ
ク」(吸殻)などがあります。
戦後の一時、愛飲家の「洋酒」、愛煙家の「洋モク」は
海外旅行のお土産の代表的な物でしたが、今ではレトロ
語でしょう。
 
【余所行き(よそいき/よそゆき)】 「余所行き」は「余所行きの支度をする」、
 「余所行きの着物」、「余所行きに着替える」の他、ふだんと違った改まった言葉
 や態度に対して、「余所行きの言葉を使う」とか、「余所行きの顔をつくる」など
 結構使っていました。
 「余所行き」というと先ず「余所行きの着物」をイメージします。子どものころ、
 母が定期的に行う和服の日陰干し、シミ抜き、虫食い防止の作業を見ていました。
 「余所行きの着物」を着た母は、いつもナフタリン(ナフタレン)や樟脳の清潔な
 匂いがしていました。「一張羅」と共に懐かしい言葉になっています。皆様はいか
 がでしょうか。
 
【四等国】 我が国は戦前、米、英、独、仏に並んで世界の列強国の一員となり、一
 等国、一等国民を自負していました。しかし、終戦後、マッカーサー元帥が1945年
 (昭和20年)9月の記者会見で「日本は世界の四等国に転落した」と発言しました。
 特に9月29日の朝日、毎日、讀賣に掲載された昭和天皇が同元帥を表敬訪問された
 ときの写真は、元帥は開襟シャツ風の軍服に襟元のボタンを外し、両手はズボンの
 後ろに回した格好、一方、昭和天皇はモーニング姿で直立不動の姿勢という対照的
 なものでした。日本国民の多くが敗戦の惨めさを実感させられた四等国に落ちた写
 真でした。
 《1945年(昭和20年)の会社に関する記述は、「い」行の「一億総ざんげ」の項
  を参照。》
昭和20年の会社
【四十八歳の抵抗】 1956年(昭和31年)、石川達三のベストセラー小説が映画化さ
 れました。50〜55歳定年制の時代、あと2年で初老の50歳を迎える火災保険会社に
 勤める男性が、バーで知り合った19歳の少女に情熱を 小説「四十八歳の抵抗」
小説「四十八歳の抵抗」
 燃やし、老いて行くことに対する抵抗を試みるという
 ロマンスグレー男性の心理を描いた作品とでも言うの
 でしょうか。山村 聰、杉村春子、若尾文子などの豪華
 キャストが出演していました。
 当時の50歳と言えば、今はレトロ語である「初老」の
 年齢ですが、近年、我が国の男女の平均年齢は飛躍的
 に延び、定年の65歳から労働人口を確保するため、更
 に高齢まで働く時代。人ごとですが、該当する現役やシニア社員の皆さんの余生の
 過ごし方が心配になります。
 
 《1956年(昭和31年)の会社に関する記述は、「か」行の「火炎ビン」の項を
  参照。》
昭和31年の会社
【よろめき】 1957年(昭和32年)、文芸誌「群像」に連載、同年には単行本が刊行
 された三島由紀夫の人妻の「よろめき」を描いたベストセラー長編小説です。映画
 化をはじめテレビやラジオでドラマ化され「よろめき」は流行語となり、併せて、
 「よろめき夫人」とか「よろめきドラマ」という言葉が出現しました。
 「48歳の抵抗」ではありませんが、「高齢者の抵抗」はいかがでしょうか。お酒を
 飲み過ぎて「よろめき」、骨折などの怪我だけはしませんように。
 
 《1957年(昭和32年)の会社に関する記述は、「い」行の「一億総白痴化」の項を
  参照。》
昭和32年の会社
【夜の蝶】 昔から水商売を営む女性の代名詞的に使われてきました。一見、彼女ら
映画「夜の蝶」
映画「夜の蝶」
の華やかさから蝶に例えたのでしょう。
1957年(昭和32年)、川口松太郎の小説「夜の蝶」の映
画化では、京 マチ子、山本富士子など豪勢なキャストが
出演した映画が話題となりました。この小説と映画のヒ
ットにより、「夜の蝶」、「ホステス」、「ママ」など
の言葉が流行語となりましたが、今でも「夜の蝶」は使
われているのでしょうか。
 
 
【洋 行/洋行帰り】 「洋行」は、明治以降、西洋へ行って西洋文化を学んだことで
 できた言葉で、現在はほとんど使われていません。同じ言葉に「外遊」があります
 が、首相など特別な人が外国を旅行したり、訪問する以外は一般には使えません。
 一般的には「海外歴訪」、「海外留学」、「海外出張」、「海外旅行」などでしょ
 うか。一方、戦後、単に箔をつけるため政治家や芸能人が外遊するケースを「アメ
 ション」、「イギション」、「フラション」などと比喩しました。洋行帰りも肩書
 きのように思われました。
【よっしゃ、よっしゃ】 「三国峠をダイナマイトでぶっ飛ばせば越後に雪は降らな
 い。そして、その土を日本海に運べば佐渡と陸続きになる」(初出馬時の演説)、
 「政治は数であり、数は力、力は金だ」(数の理論)、「これからは東京から新潟
 へ出稼ぎに行く時代が来る」など、地元新潟に対する情熱は大変なものでした。
 また、残した語録もたくさんあります。
 「よっしゃ、よっしゃ」は、田中角栄元総理の口癖で 故_田中角栄氏
故_田中角栄氏
 もありますが、ロッキード事件で政治献金やピーナツ
 を受領した際にも発言したとされる言葉で、1970年
 (昭和45年)代の流行語となりました。年配の方の中
 には、スポーツ観戦中に味方チームの奮闘に「いいぞ、
 いいぞ」の意味で「よっしゃ、よっしゃ」と言ってお
 られる方もいるでしょうが、ご本人が他界されておら
 れる現在はレトロ語でしょう。
 
【ヨイトマケ エンヤコラ】 昔、今のように建設機械が普及していなかった時代、
 土木や建築現場の地固め作業は、大勢の作業員が滑車とロープを利用して重たい鎚
 を上下させて行っていました。重たい鎚を上下させるためのロープを引く合図に
 「ヨイトマーケ! エンヤコラ〜」掛け声を出していました。そして、この作業をす
 る人を「ヨイトマケ」と言っていました。その後、時代と共に、人夫、土方、作業
ヨイトマケの唄
ヨイトマケの唄
員と呼称が変わりました。
子どものころ見ていた、これらの作業員の半数は女性で
した。きっと家計を助けるために、「ヨイトマケ」の重
労働に従事していたのでしょう。ご苦労様でした。  
 ♪父ちゃんのためなら エンヤコラ
 ♪母ちゃんのためなら エンヤコラ
 ♪もひとつおまけに エンヤコラ
 ♪今も聞こえる ヨイトマケの唄
              ♪今も聞こえる あの子守唄
                 <中略>
              ♪働く土方の あの唄が
              ♪貧しい土方の あの唄が
 これは、1966年(昭和41年)に美輪明宏が作詞、作曲した「ヨイトマケの唄」の一
 番の歌詞です。ヒット曲となりましたが、歌詞の土方が差別用語と指摘され、放送
 禁止となり話題となりました。
 
 《1966年(昭和41年)の会社に関する記述は、「う」行の「ウーマンリブ」の項
  を参照。》
昭和41年の会社
【ヨーチン】 老人語リストに「ヨーチン」が入っていました。「あ」行の「赤チン」
 と同じく、傷口の消毒・殺菌薬ですが、一般名称は「ヨードチンキ」ですね。以前
 は家庭の常備薬として「オキシフル」、「タコの吸出し」、「キンカン」、「マー
 キュロクロム液」と共に、大変お世話になったものです。最近はポビドンヨード液
 (商品名イソジン)や、色が付かない、しみない「マキロン」が一般的のようです。
【世迷言】 勉強不足で、今まで別な言い方をしていました。「世迷言」はとるに足
 らない不平や愚痴、意味不明な繰り言ですね。「一体、何を言っているんだ!さっ
 きから訳の分からないことを言って・・。世迷言など言っているんじゃないよ!」
 の会話では、普通、「ちんぷんかん/ちんぷんかんな」、「虚言」、「たわけたこと」、
 「まともでない」の言葉に置き換えてきましたが、皆さんはいかがでしょう。
 一方、訳の分からないことをブツブツと言う行為、人は街中や電車の中で結構見か
 けます。ご本人は、理由があって何かを自問しているのかも知れませんが、傍から
 見ていると気になります。
 
       『 ら 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【ラクチョウ】 「落丁」は、本の一部ページが抜けている製本ミスのことですが、
 「ラクチョウ」は、フランク永井のヒット曲「有楽町で逢いましょう」の有楽町の
 ことです。終戦後、都会の中心部には大きなヤミ市が形成されて賑わいました。そ
 の地名で有楽町は「ラクチョウ」、上野は「ノガミ」、新橋は「バシン」、池袋が
 「ブクロ」と呼ばれていました。今の若者語のようですね。1947年(昭和22年)、
 NHKで藤倉修一アナウンサーによる街頭録音という人気ラジオ番組がありました。
 その番組で収録された「ガード下の女たち」に登場し、放送されたのが、20歳で有
 楽町の国電ガード下に立つ西田時子(自称)という街娼で、「ラクチョウのお時」
有楽町
有楽町
と呼ばれて大きな反響を呼びました。2012年(平成24年)、
新宿・白萩ホールで劇団チョコリンゴの第9回公演で
「ラク町の女たち」が上演されたことを、最近になって
知りました。街頭録音という言葉もレトロ語ですが、
「ラクチョウ」とか「ラクチョウ線」(東京メトロ・有
楽町線)と、まだ言っている人はいるのでしょうか。そ
して、気になることがひとつ、有楽町2丁目にサンケイ
グループでしょうか、1963年(昭和38年)に竣工した10
 階建ての「ラクチョウビル」というビルがありますが、当時の呼称と関係があるの
 でしょうか。
 
 《1947年(昭和22年)の会社に関する記述は、「い」行の「隠匿物資」の項を参照。》
昭和22年の会社
【ランデブー】 フランス語の「ランデヴー」で「会う約束」、「待ち合わせ」、
 「会談」、「逢引き」、「デート」などの意味の他、最近は聞きませんが、昔、宇
 宙船同士が宇宙空間で意図的に接近するときに使われていたように思います。1955
 年(昭和30年)、ひばり、チエミ、いづみの三人娘の映画「ジャンケン娘」の挿入
 歌で「素敵なランデブー」というのがありました。今風なら「デート」でしょうね。
 
 《1955年(昭和30年)の会社に関する記述は、「う」行の「歌声喫茶」の項を参照。》
昭和30年の会社
【羅宇屋(ラウ屋/ラオ屋)】 「き」行の「刻み煙草とキセル」の項を参照。
刻み煙草とキセル
 
【爛頭の急務】 こんな言葉初めて知りました。広辞苑を調べましたが「乱闘」、
 「卵塔」、「蘭塔」しかありませんでしたので、インターネットで検索した結果、
 以下のような概要でした。1953年(昭和28年)の総選挙で自由党が惨敗し、吉田 茂
 の後継者と目されていた緒方竹虎が、翌年の1954年(昭和29年)に自由党と改進党
 の保守合同を提案した声明文に「政局の安定は現下爛頭(らんとう)の急務である
 ・・・」という言葉がありました。「焦眉の急」と同じような意味で「頭が煮え返
 るほど差し迫った急を要する」という意味の造語と言われています。緒方竹虎は保
 守合同を実現しましたが、総理を目前に病死されましたのでレトロ語ではないでし
 ょうか。
 
 《1954年(昭和29年)の会社に関する記述は、「い」の「糸偏景気/糸姫」の項を参照。》
昭和29年の会社
【ラブホテル】 「つ」行の「連れ込み宿」の項を参照。
連れ込み宿
 
【ラッタッタ】 1976年(昭和51年)、HONDAから発売さ ロードパル
ロードパル
 れた「ロードパル」という原付バイクのCMに使われ
 た言葉です。TVコマーシャルには国際的女優のソフ
 ィア・ローレンを起用し、1年間で25万台を販売した
 ヒット商品でした。彼女がバイクに跨り「ラッタッタ
 ♪」と発したキャッチフレーズをご存知の方の年齢は
 50歳前後でしょうか。いくら国際的女優を使ってのC
 Mといっても、原付バイクのことを「ラッタッタ」と
 いう人は、もう少ないのではないでしょうか。
 
 《1976年(昭和51年)の会社に関する記述は、「う」行の「ウナ電」の項を参照。》
昭和51年の会社
【ラリってる】 「ラリってる」は、1960年(昭和35年)代ごろ睡眠薬の乱用が話題
 となったころの言葉です。睡眠薬、シンナー、麻薬などの薬物の影響で舌が回らな
 くなったり、ふらふらする状態を言いますが、「ラリる」の「ラリ」の語源を調べ
 たら、1.薬を飲むと、呂律が回らなくなり、「ラリルレロ」のラ行しか発音でき
 なくなることから、2.馬鹿者を意味する「らり」を動詞化したもの、3.めちゃ
 めちゃになることを意味する「乱離骨灰(らりこつぱい)」の略で「乱離」を動詞
 化したもの、とありました。どれが正解か分かりませんが、直感では1.か3.説
 のような気がしますが、いかがでしょうか。
 
《1962年(昭和37年)の会社に関する記述は、「あ」行の「青田買い」の項を参照。》
昭和37年の会社
【ラッパズボン】 金管楽器に似ていることから国際的には「ベルボトム」と呼ばれ
 ていますが、日本では「パンタロン」、「ラッパズボン」などと呼ばれていました。
 元々「ベルボトム」はアメリカ海軍の制服でしたが、1960年(昭和35年)代以降、
 ヒッピーの代表的なファッションとして定着し、1970年(昭和45年)後半まで男女
 を問わず世界中の若者の間で流行しました。
 日本では1960年代末期ごろから流行し、当時は「パンタロン」と呼ばれていました。
 「パンタロン」はフランス語でパンツ(レトロ語のズボン)の意味で使われました
 が、現在は「ラッパズボン」共にレトロ語です。
 ファッションの世界はどんどん進化しますので、おじさん族はついていけません。
 「スリムジーンズ」、「美脚パンツ」、「フレアパンツ」、そして「スキニージー
 ンズ」などの流行もありました。脱線しますが、年をとるとお尻の肉が弛みます。
 これをカバーしてくれる衣服は大歓迎です。そして、おじさん族の目を楽しませて
 くれるファッションはなおさら歓迎ですね。
【ララ物資】 第二次世界大戦後、日本は困窮を極めていたとき、アメリカのNGOの
 手によって、1946年(昭和21年)〜1952年(昭和27年)にかけて、日本をはじめ朝
 鮮、沖縄に対する援助物資です。
 その歴史を調べてみると、当時、アメリカで新聞記者として活躍されておられた盛
 岡市出身でサンフランシスコ在住の浅野七之助氏が米国在住の日系人の権益回復・
 擁護のため奔走していた折りに、戦後の日本の窮状を知り、救援運動をスタートさ
 せたのが始まりと言われています。
 この母体がLARA(Licensed Agencies for Relief of Asia=アジア救援公認団体)
 と言い、アメリカ、カナダをはじめ多くの国の民間人や民間団体から主に食糧、衣
 類、医薬品類、日用品、学用品などが救援物資として ララ物資
ララ物資
 送られてきました。この救援物資の総額は、当時の金
 額で400億円以上と言われています。そして、日本人の
 6人に1人の割合で、その恩恵を受けたと言われてい
 ます。
 終戦から70年を迎えました。平和国家として歩む日本、
 この恩返しに世界で援助を必要とする国々へ人道的な
 支援を積極的に推進する必要がありますね。
 
       『 り 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【輪タク】 自転車タクシーはアジアをはじめ世界中で広く庶民の足として利用され
 ています。1947年(昭和22年)ごろ、自転車を指す 現代の輪タク(鎌倉八幡宮付近)
現代の輪タク(鎌倉八幡宮付近)
 「銀輪」と「タクシー」という言葉を合成語として
 「輪タク」と呼ばれていました。
 当時の資料を調べると、24q/10円でスタートしまし
 たが、すぐに20円に値上げされています。さらに、
 1qごとに10円の加算とありました。当時の都電・都
 バスの料金が50銭でしたので、戦後の一般庶民は乗れ
 ませんでした。この割高が原因で昭和26〜27年ごろに
 は、一部地方の業者を除いて姿を消しました。しかし、ここへ来て、地球環境に優
 しい交通手段として観光用交通手段として世界規模で導入されています。「輪タク」
 とか「自転車タクシー」という名称ではなく、ラテン語で自転車の意を持つ「velo」
 から「velotaxi」(ベロタクシー)と言われています。
 日本では福岡市、京都市、奈良市、名古屋市、東京都などで営業されています。20
 20年の東京オリンピックの時は、これを利用して都内の観光を楽しむ多くの外国人
 を見ることになるでしょう。
 
 《1947年(昭和22年)の会社に関する記述は、「い」行の「隠匿物資」の項を
  参照。》
昭和22年の会社
【リクルート活動】 今は「就活/シュウカツ」が一般的ですが、以前は「リクルー
 ト活動」と言っていました。「recruit」とは「募集する/採用する」という意味で
 すので企業サイドの話です。ただ、不思議なことに、就活用の男子のショートカッ
 トを意味する「リクルート・カット」、就活のときに着る画一的な服装「リクルー
 ト・スーツ」、全般的なスタイルを表す「リクルート・ルック」などのように「リ
 クルート」が使われていることです。さらに不思議に思うことは、どうして男女と
 も黒一色の個性的でない服装で会社訪問をするのでしょうか。服装も堂々と、個性
 を表現する相応しいスタイルが望ましいと考えますが、いかがなものでしょうか。
【リーゼント・スタイル】 「リーゼント・スタイル」はワックスやポマードを使っ
 て両側頭部の髪を撫でつけて後頭部でI(アイ)の字 リーゼント・スタイル
リーゼント・スタイル
 型に一直線に合わせる髪型で和製カタカナ語です。
 芸能人や若者の中に前髪を高く上げた髪型をリーゼン
 トと称する人がいますが、これは「ポンパドール」と
 いう別な髪型の名称のようです。
 「リーゼント」はアメリカでロックアンドローラーや
 ロカビリアンたちにより流行した「ダックテール」と
 いう髪型が元祖となっており、日本では1950年(昭和
 25年)代にロカビリーと共に流行しました。さらに、1955年(昭和30年)ごろ、エ
 ルヴィス・プレスリーの登場により、「ポンパドール」を併せ持った「リーゼント・
 スタイル」が流行しました。
 不良スタイルで当時、一世を風靡した「横浜銀蠅」がパンチパーマをかけた「ポン
 パドール」スタイルであったため、「リ−ゼント」は不良の代名詞的な認識を植え
 付けたようです。
 
 《1953年(昭和28年)の会社に関する記述は、「あ」行の「赤電話」の項を
  参照。》
昭和28年の会社
       『 る 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【ルンルン】 今どきの若者は使わない言葉の一つでしょう。1985年(昭和60年)、
 林 真理子の「ルンルンを買っておうちに帰ろう」(角川文庫)によって「ルンル
ルンルンを買っておうちに帰ろう
ルンルンを買っておうちに帰ろう
ン」は世の中に送り出されました。
「ルンルン」は「ルンルン気分」のことで、ワクワク感
や機嫌が最高で あることを表現する感動詞です。
「気分」がつく同類語には、「ウキウキ気分」、「ラン
ラン気分」、「よい気分」、「上々な気分/気分上々」、
「幸せな気分」などがあります。また、「気持ち」がつ
く同類語には、「弾む気持ち」、「嬉しい気持ち」、
「幸せな気持ち」、「天にも昇る気持ち」、「舞い上が
 った気持ち」、「浮き立つ気持ち」など豊かな表現語がたくさんあります。
 
 《1985年(昭和60年)の会社に関する記述は、「い」行の「いちご世代」の項を
  参照。》
昭和60年の会社
【ルンペン】 語源は、布きれやボロ服を意味するドイツ語の「lumpen」とのことで
 す。また、ドイツ語の「ルンペンプロタリアート」と ルンペン
ルンペン
 いう日雇いなど最下層の労働者階級の蔑称から、日本
 では浮浪者などの意味として使用されてきました。
 浮浪者、乞食は差別用語であり、放送禁止用語になっ
 ていますので使用できません。今風では「ホームレス」
 とか「路上生活者」でしょうか。その意味ではルンペ
 ン、乞食、おこもさん、浮浪者はレトロ語でしょう。
 
 
       『 れ 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
【連合赤軍】 1971年(昭和46年)〜1972年(昭和47年)にかけて活動した我が国の
 共産主義同盟赤軍派と日本共産党(革命左派)神奈川 連合赤軍-浅間山荘事件
連合赤軍-浅間山荘事件
 委員会が合流して結成されたテロ組織で、「浅間山荘
 事件」他を起こしたことで有名です。
 1971年(昭和46年)は日本の学生運動が下火になった
 当時、共産主義者同盟赤軍派は「大菩薩峠事件」や「
 よど号ハイジャック事件」などを起こして最高幹部ク
 ラスが逮捕されたり、国外へ逃亡して弱体化していま
 した。同派の軍事組織である中央軍と革命左派の人民
 革命軍が統合して「赤軍」が誕生しましたが、後に「連合赤軍」と改称されました。
 「連合赤軍リンチ事件」、そして「浅間山荘事件」、「よど号ハイジャック事件」は、
 当時、多くの国民がテレビの前で釘づけにされて、成り行きを見守ったものです。
 
 《1971年(昭和46年)の会社に関する記述は、「え」行の「エトランゼ」の項を
  参照。》
昭和46年の会社
【列島改造論】 1972年(昭和47年)、田中角栄氏は自由民主党の総裁選挙を控えて
 「工業再配置、交通・情報通信の全国的なネットワークの形成をベースに、人・物
 ・金の流れを巨大都市から地方に逆流させる地方分散化を推進する」という主旨の
列島改造論
列島改造論
マニフェストを発表し、併せて「日本列島改造論」(日
刊工業新聞社)が刊行された結果、総裁選に勝利し、第
64〜65代内閣総理大臣となりました。
 結果は全国的な地価の高騰、急激なインフレの進行、
1973年(昭和48年)に起きた第1次オイルショックなどに
より計画自体は失速して行くこととなり、「列島改造論
から低成長へ」の道を歩むことになりました。思えば私
たちは現役のバリバリでした。良いこと、悪いこと、い
 ろいろ経験しました。皆さんはいかがでしたか。
 
 《1973年(昭和48年)の会社に関する記述は、「あ」行の「赤チン」の項を参照。》
昭和48年の会社
【列車ボーイ】 鉄道関係の乗務員を調べると、機関士、運転士、乗務掛(1973年職
 制改正以前)、乗務係、列車掛(同前記)、列車係、車掌、食堂従業員、車内販売
 員、アテンダントの他、「列車ボーイ」がありました。
 この「列車ボーイ」が登場したのは1898年(明治31年)、当時の山陽鐡道の急行列
 車でした。
 当時、列車で旅行する人は、金持ちがほとんどでした 列車ボーイ
列車ボーイ
 ので旅行案内や手荷物の上げ下ろしの手伝い、車内の
 清掃などを担当していたようですが、この「列車ボー
 イ」になるには健康で容姿端麗、言葉使い、礼儀正し
 いなどの条件をクリアする必要があったようです。
 1977年(昭和52年)〜1978年(昭和53年)ごろまでは
 寝台車に白いスーツ姿の「列車ボーイ」がいたように
 思いますが、今はどうなっているのでしょうか。飛行
 機の時代、海外以外は寝台車を利用したことがありませんので分かりません。
 《1977年(昭和52年)の会社に関する記述は、「え」行の「エレックする」の項を
  参照。》
昭和52年の会社
【レッツラゴー】 1970年(昭和45年)代前半ごろでしょうか、使っていたことを記
 憶しています。「行きましょう!」のLet’ goのことですが、赤塚不二夫のマンガ
 本「レッツラゴン」から来ているという説、日本語の「えっちら おっちら」、「
 よっこらせ」の言い方をレッツゴーに応用したという レッツラゴー
レッツラゴー
 説がありますが、私には後者の説のように思われます
 が分かりません。しかし、今どき、「レッツラゴー」
 を使う人はおられないでしょうね。
 
 
 
 
 
 《1970年(昭和45年)の会社に関する記述は、「う」行の「ウハウハ」の項を
  参照。》
昭和45年の会社
【レッド・パージ】 「あ」行の「赤狩り」(その他、「公職追放」)の項を参照。
 
【レジ代わりのザル】 昔、商店街の魚屋、八百屋さんなどの店内には天井から吊る
 されたザルがありました。会計時、お釣りは店のおやじさんがゴム付きのザルから
 釣銭を出してくれました。中を覗いて、この店の繁盛 レジ代わりのザル
レジ代わりのザル
 具合が分かりました。
 記憶では、少なくとも1955年(昭和30年)代は、こう
 いう店がたくさんあったような気がします。消費税が
 付きまとう時代、こういう風景は懐かしいですね。
 
 
 
 《1959年(昭和34年)の会社に関する記述は、「あ」行の「足のサイズ(文)」の
  項を参照。》
昭和34年の会社
【冷 戦】 「つ」行の「冷たい戦争」の項を参照。
冷たい戦争
       『 ろ 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【老兵は死なず】 「老兵は死なず、ただ消え行くのみ」、 ダグラス・マッカーサー
ダグラス・マッカーサー
 朝鮮動乱の最中、トルーマン大統領から国連軍司令官
 の職務を解任されたダグラス・マッカーサーは、1951年
 (昭和26年)、ワシントンD.C.の上下院合同会議
 に出席し、退任に際しての演説の中で、ウエストポイ
 ント士官学校の兵舎で、当時流行していた歌のフレー
 ズを引用した言葉として有名です。       
 日本でも、会社や学校、スポーツ界などで現役を引退
 する人が「老兵は死なず、・・」を挨拶の最後によく使っていたのを思い出します。  
 ダグラス・マッカーサーは、1964年(昭和39年)に84歳で逝去されました。 
 《1951年(昭和26年)の会社に関する記述は、あ行「あ-1」の「アジャパー」の
  項を参照。》
昭和26年の会社
【ロマンス・グレー】 日本では完全な白髪ではなく、 「旅情」で主演のロッサノ・ブラッツィ
「旅情」で主演のロッサノ・ブラッツィ
 黒髪も多少混じっている紳士を指すようですが、アメ
 リカなどでお洒落の条件の一つである「ローマンティッ
 ク・グレー」が語源のようです。 
 日本で話題となったのは、飯沢 汲フ小説「ロマンス・
 グレー」(昭和29年発刊)と、1955年(昭和30年)に
 上映されたアメリカ映画「旅情」で主演のロッサノ・
 ブラッツイのロマンス・グレーが女性の人気となり流
 行語となりました。
 以後、経済力があり、包容力もある魅力的な白髪混じりの紳士を指す言葉となりま
 した。経済力、包容力のない、禿頭はお呼びではないようです。
 
 《1955年(昭和30年)の会社に関する記述は、あ行「う」の「歌声喫茶」の項を
  参照。》
昭和30年の会社
【六本木族】 若者風俗を代表するものに、「太陽族」、 六本木族
六本木族
 「六本木族」、「みゆき族」、「原宿族」などがあり
 ました。1961年(昭和36年)の高度成長期に向かうこ
 ろ、流行の最先端であった六本木界隈に集まる若者を  
 マスコミが「六本木族」と名付けました。この族のメ
 ンバーには良家の子女も多く、芸能界関係者にスカウ
 トされて芸能界入りした若者も大勢いました。田辺靖
 雄、峰岸 徹、井上 順、加賀まりこ、中川 ユキ、
 大原麗子(故人)、小川知子他などです。 
 同じ族でも、自炊道具や身の回り品を入れたリュックを背負い全国各地を放浪する
 「カニ族」は、上記の時代を背景とした若者風俗の族の仲間入りにはなりませんで
 した。良家の子女ではないからでしょうか。
 
 《1961年(昭和36年)の会社に関する記述は、あ行「あ-2」の「アンネナプキン/
  アンネの日」の項を参照。》
昭和36年の会社
【録 勉】 「録音」と「勉強」を合成した言葉でしょう 東芝オープンデッキ「カレッジエース」
東芝オープンデッキ「カレッジエース」
 か。ラジオ講座や講義などを録音し勉強することです。 
 1964年(昭和39年)、当時、東芝がテープレコーダー
 「カレッジ エース」をPRするために、「昔、ガリ勉。
 今、録勉」というキャッチフレーズで紹介したのが流
 行語となりました。
 資料によると、当時の大卒初任給が18,930円の時代に、
 「カレッジ エース」の価格は19,800円だったそうです。
 両親に買っていただき、猛勉強された方も多いことでしょう。
 対照的なのが教科書やノート類一式を学校の机の中やロッカーに置きっぱなしで家
 に持ち帰らない中高生に使われた言葉が「置き勉」でした。皆さんはどちらの「勉」 
 でしたか。  
【ロンとヤス】 第71〜73代中曽根康弘内閣総理大臣が ロンとヤス(ロナルド・レーガンと中曽根康弘)
ロンとヤス(ロナルド・レーガンと中曽根康弘)
 訪米時に語ったとされる「日米運命共同体」、「日本
 列島不沈空母化」や「三海峡(千島・津軽・対馬)封
 鎖」発言などにより、アメリカとの信頼関係を取り戻
 した第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン
 との個人的な親密さをアピールするため、「ロン」、
 「ヤス」と呼び合ったことは有名な話ですね。
 そのレーガン大統領が1981〜1989年の任期中の出来事
 を記した「レーガン日記」が刊行されていますが、その中にも中曽根元首相を「真 
 の友人」、「歴代最高の日本の首相」と記されているようです。
 日本の首相は過去、外国の元首に比べて短期間で交代するため、「ロン」、「ヤス」
 のような関係を築くのは極めて困難なことでしょう。その意味では素晴らしい関係
 であったと言えるでしょう。そのレーガン元大統領はアルツハイマー病との闘病生
 活の末、2004年(平成16年)に93歳の人生の幕を引かれました。
 
【ロートル】「ロートル」(老頭児)は中国語の年寄り・ ロートル
ロートル
 老人を意味するようですが、発音は「ラオトウ」に近
 いとされています。 
 この「ロートル」が会話の中で俗語、隠語としてよく
 使われたのは、1965年(昭和40年)代とされています。
 その意味は、「役立たず」、「戦力外」、「年を取り過ぎ」、
 「時代遅れ」など、いずれも否定的な意味を持った言
 葉として使われています。例えば「自分みたいなロー
 トルの出番じゃない」とか「彼はもうロートルの部だ」などです。
 今や日本は世界を代表する高齢化社会です。これからは否定的な意味合いを改めて
 行く必要があります。職場の「シニア社員」、「シニア世代」、「シルバー社員」、
 「シルバー世代」、「シルバーエイジ」などが定着しています。安倍首相が唱える
 「一億総活躍」社会を実現するためには、更に素晴らしいネーミングが求められる
 時代です。
 
 《1966年(昭和41年)の会社に関する記述は、あ行「う」の「ウーマンリブ」の
  項を参照。》
 
【蝋 石】 最近、お目にかからない遊びの一つに、子 道路に蝋石で落書きする子ども
道路に蝋石で落書きする子ども
 どものころ蝋石やチョークを使って道路や壁に描いた
 落書きです。飛行機、戦車、軍艦から花、人の顔、相
 合い傘、へのへのもへじ・・などでした。 
 当時は、大人や近所の迷惑など考えもせずに遊んでい
 ましたが、最近、年を取ったせいか腹が立つのは、工
 場の塀、倉庫、鉄道施設など、やたらとスプレーによ
 る抽象的な絵文字の落書きです。周囲の美観を損なう
 ことが多く、これこそ器物損壊・刑法第261条の犯罪行為ではないでしょうか。
 美しい街並みにするために落書きを問題視するキャンペーンをすべきと思うのと同
 時に、何かを自己表現したい若者のために、ペインティング目的のための倉庫や建
 物を提供していただき、町興しを兼ねて、公認の落書きコンテストを常時開催する
 というアイデアはいかがでしょうか。
【ロンタイ】 「ロンタイ」とは「ロングタイトスカート」 ロングタイトスカート
ロングタイトスカート
 の略です。1984年(昭和59年)ごろ、流行した美容・
 ファッション用語、若者言葉でした。
 当時のツッパリ少女は、くるぶしにかかる丈の長いス
 カートに、丈の短い上着が彼女らのステータスでした。
 1990年(平成2年)代に入ると、一挙に短いスカート
 にルーズソックスの時代となり、「ロンタイ」はファッ
 ション用語として残っていますが、実際に着用してい
 る姿はほとんど見られなくなりました。
 
 《1984年(昭和59年)の会社に関する記述は、か行「く」の「くれない族」の項
  を参照。》
昭和59年の会社
       『 わ 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【和式トイレの蓋】 海外旅行をして気がつくと思いますが、日本のトイレの清潔さ
 は世界でもトップクラスではないでしょうか。最近はウオッシュレットつきも多く、  
 トイレットペーパーも完備されているし、掃除もきちんとしているところが多く見
 られます。 和式トイレ
和式トイレ
 そんなトイレ事情も昔はいろいろありました。戦前か
 ら戦後しばらくの間、まだ水洗式でなかった時代は蠅
 の発生や臭いが問題でした。蛆退治の薬品や消臭液を
 散布し、さらに、和式便器に木製の蓋を被せていまし
 た。その後、和式トイレでも水洗式となると蓋は不要
 となりました。今の若い人に現物を見せても分からな
 いでしょうね。
 ちょっと脱線しますが、駅、公園、その他の公衆トイレには和式トイレが必ず同数
 ていど設置されています。しかし、最近の若者や子どもはウオッシュレットつきの
 トイレに慣れているため和式を敬遠するのをよく見かけます。
 和式のメリットは便器そのものの価格と設置費用が安いこと、1回の洗浄水の量が
 少なくて済むこと、清掃がしやすいなどの他、外国には跨いでしゃがんで用を足す
 国も多くあること、さらに、少々穿った考えとして、しゃがんで肉体的な負担を受
 けるため敬遠する人や長時間占有しにくく、回転率をあげることも考慮されている
 という人がいますが本当でしょうか。
【私は嘘を申しません】 ご存知、第58〜60代内閣総理大臣を歴任された池田勇人の
 語録と流行語の一つです。
池田
池田 勇人氏
その一つに「貧乏人は麦を食え」が有名です。1950年
(昭和25年)12月の参議院予算委員会での質疑応答で、
当時大蔵大臣であった同氏は「所得に応じて、所得の少
ない人は麦を多く食う。所得の多い人は米を食うという
ような経済の原則に沿った方へ持って行きたいというの
が私の念願であります・・」という主旨の発言が、吉田
政権に対して厳しい態度を取っていたマスコミが「貧乏
人は麦を食え」という見出しで発表し、各方面から批判
 されました。また、通産大臣当時、「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得な
 い」の発言で辞任に追い込まれたのも有名です。
 さらに、1960年(昭和35年)の第29回総選挙では、10年以内に国民所得の倍増、高
 度経済成長政策を掲げて、自ら自民党のCMに登場して、本音しか言えない「池田」
 というイメージを逆手に取って「私は嘘を申しません」と打って出て見事に勝利し
 ました。このフレーズは当時の流行語となりました。逆に「この顔が嘘をつく顔に
 見えますか?」と大型間接税は導入しないと選挙公約をしてホゴにしたのが中曽根
 元首相でした。
 
 《1960年(昭和35年)の会社に関する記述は、「あ」行の「赤ヘル」の項を参照。》
昭和35年の会社
【渡し場】 渡し船の発着場所、渡し、渡船場です。大田区に関係する多摩川の渡し
 場を調べてみると、昔は「丸子の渡し」、「平間の渡し」、「下丸子の渡し」、
 「矢口の渡し」、「古市場の渡し」、「小向の渡し」、 羽田の渡し
羽田の渡し
 「六郷の渡し」、「羽田の渡し」、「六左衛門の渡し」
 などがあったようです。今では渡船場跡碑や解説板で
 その歴史を知ることができます。
 昔は陸路の他、河川が重要な交通路でしたが、明治時
 代以降、鉄道や橋の架設により、徐々に渡し場は廃止
 されました。
 東京では「矢切の渡し」が有名です。江戸時代初期に
 住民の交通手段として利根川水系河川15ヶ所の渡し場の一つだったようです。今も
 江戸川を挟む矢切と葛飾区柴又を結ぶ渡し船が主に観光用として運行されています
 が、いつまでも続いて欲しいものですね。
 
【分かっちゃいるけどやめられない】 これを口にする人はほとんどおられないでし
分かっちゃいるけどやめられない
分かっちゃいるけどやめられない
ょうが、ご存知、1961年(昭和36年)に発売された植木
等の「スーダラ節」に出てくるフレーズです。当時はテ
レビに映画に連日紹介され、庶民の間に浸透して行きま
した。
私は、たかが「分かっちゃいるけどやめられない」の言
葉ほど人間の弱みを見通した言葉はないのではと思うの
です。「体に良くない」タバコや酒。「たまに儲かった
のが運のつき」の競馬、競輪、パチンコ、麻雀、株。
 「よせばよいのに」の可愛い子ちゃんへのお節介や浮気。「いくらやっても上手く
 ならない」ゴルフなどです。
 皆さんの「分かっちゃいるけどやめられない」の弱みは何でしょうか。私は酒とゴ
 ルフです。
【私作る人、ボク食べる人】 1975年(昭和50年)、ハウス食品工業が発売したイン
 スタント・ラーメン「シャンメン」のCMに用いられたものです。
 シーンは彼女の家に訪ねてきた彼氏に、インスタント・ラーメンを作った彼女が
 「私、作る人」と言い、彼氏が「僕、食べる人」というだけの内容でした。これが
 放送されてから2か月後に放送が中止されました。
 当時、アメリカで起きたウーマン・リブ(女性解放運動)が全世界に広がりを見せ
 ていたこともあり、日本の「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」
 なる団体が、同社に女性は家事・育児に専念するという固定観念をより定着させる
 ものとクレームをつけたものでした。
 私にすればとんでもない要求だと思います。理由は、我が家は「僕、作る人、私食
 べる人」で、家内は食べる専門だからです。しかし、世の中は1979年(昭和54年)
 の女子差別撤廃条約の国連採択、1985年(昭和60年)の男女雇用機会均等法の制定
 などに大きな役割を果たしたことはご同慶の至りですし、まだまだ世界のレベルよ
 り低い女性の社会進出への期待も大きいところです。
 
 《1975年(昭和50年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アンタあの娘のなんな
  のさ」の項を参照。》
昭和50年の会社
【私は、これで会社を辞めました】 1984年(昭和59年)、マルマンが発売した禁煙
 パイポのCMのフレーズです。3人のスーツ姿の男性が登場し、男性Aは「私は、こ
 の禁煙パイポでタバコを辞めました」、男性Bは「私も、このパイポでタバコを辞
 めました」と語ります。最後の男性Cは、パイポの代 私は、これで会社を辞めました
私は、これで会社を辞めました
 わりに小指を立てながら「私は、コレで会社を辞めま
 した」と語るシーンでした。放映後、商品の売り上げ
 は3倍、小指を立てた男性Cは東京都の職員でしたが、
 仕事に支障をきたすほどの有名人となったと、後日談  
 として紹介されていました。この結果、1985年(昭和
 60年)の新語・流行語大賞に選ばれています。世の中、
 実際に「私は、コレで会社を辞めました」という人も
 いるのでしょうね。
 
 《1984年(昭和59年)の会社に関する記述は、「く」行の「くれない族」の項を
  参照。》
昭和59年の会社
【わら草履/わらじ/草鞋】 現在はほとんど手に触れることも使われることも無くな
 った草鞋ですが、私には懐かしい履物です。
わらじ
わらじ
昔、信州に疎開していたころ、工作の時間に草鞋作りの
実習がありました。稲藁を水に浸し、小槌で叩き加工し
易いように柔らかくしてから作業に入ります。最初は長
さ、幅とも、左右の寸法が合わず製品になりませんでし
たが、慣れにより自分で履けるほどの実用的なものが完
成しました。
草鞋は日常生活から消えましたが、「二足の草鞋を履く」
のことわざの他、福島県の羽黒神社や三重県志摩市の
 「わらじ祭り」など伝統的な行事が残されています。また、「わらじ」のような大
 きさとPRしたいのでしょうか、名古屋名物「わらじとんかつ」、秩父の「わらじか
 つ丼」などの人気メニューが「草鞋」の代役を果たしています。
【ワザトラマン】 なんのことか分かりませんでしたので、一度も使ったことがあり
 ません。調べてみたら、「言動がわざとらしい人のこと」、または「そういう人を
 嘲う言葉」とありました。
 1980年(昭和55年)ごろの言葉で、「わざとらしい」と「ウルトラマン」との合成
 語のようです。どなたが考えたのかは知りませんが、いろいろ考える暇な御仁がお
 られるようですね。
 
 《1980年(昭和55年)の会社に関する記述は、「あ」行の「あ〜う〜」の項を
  参照。》
昭和55年の会社