『 み 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【耳の穴に100円玉を入れているおじさん】 子どもころ、八百屋さん、魚屋さんな
 ど、何か商売されておられる方に多いようですが、耳の穴に100円玉を入れている
 おじさんを見かけました。友人に確認したら、やはり見たことがあると言いました。
 あれは、何のためなのでしょうか。
 一説には、昔、ホープ、しんせい、ピース、ゴールデンバッド等が50円、100円で
 買える時代の名残で、亭主が売り上げから、ちょろまかしていたというのです。
 ちょろまかしても、奥さんか店員が耳を見れば分かります。それとも、奥さんから
 認められた一日の小遣いの意味でしょうか。噂では500円コインを耳の穴に入れてい
 る方もおられると聞きました。理由がわかりません。お分かりの方、是非、ご教授
 下さい。
【みゆき族】 既成の考え方にとらわれず、自由気ままな行動を目指す若者たちで、
 1964年(相和39年)の夏ごろ、銀座御幸通り周辺にたむろし、何の目的もなく、通
みゆき族
みゆき族
りをぶらぶら動き回ることで、「みゆき族」と命名され
ました。当時、同年4月に創刊された週刊誌「平凡パン
チ」に紹介されたことにより、一躍話題をさらいました
が、地元商店主や一般都民などから「商売の邪魔になる」、
「目障り」などの苦情が殺到したようです。さらに、10
月の東京オリンピック開催に向けて風紀向上の面からの
取締りが行われた結果、「みゆき族」は完全に姿を消し
てしまいました。
 
 《1964年(相和39年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アイビールック/アイ
  ビー族」の項を参照下さい。》
昭和39年の会社
【道端の万年筆売り】 昭和の大道芸というのでしょうか、人が大勢行きかう道路や
 公園などで、バナナの叩き売り、がまの油売りは有名でした。私も学校の帰り道
 で大道芸を見かけると、人だかりに紛れ込んで見物していました。    
 これとは別に、意外に思っていたのが万年筆売りです。それも、汚れた万年筆を売
 っているのです。おじさんの講釈を聞いていると、会社が火事になり、焼け跡から
 使えるものを集めて従業員の給料の足しに販売をしているとか、彼らを支援するた
 めとか・・・、当時、中学生だった私には理解できない内容でした。驚いたことに、
 万年筆は火災現場から集められたように、火災の燃えかすと消火のための水で濡れ
 ている生々しい物でした。
 今、考えると、火災に遭った万年筆が濡れた状態で売られることなど、あり得ませ
 んが、サクラもいたのでしょう。同情して買う方がおりました。騙すおじさん、同
 情して買うお客、昭和のよい時代の思い出です。
 
【三越にはストもございます】 1951年(昭和26年)の暮れの大売出し中の三越の日
 本橋、新宿、銀座の三店で百貨店業界初のストライキが行われました。争議は組合
 幹部の解雇に抗議する48時間ストでした。損をしたのは三越ですが、このストで喜
 んだのはもちろん同業者の伊勢丹、白木屋、高島屋でした。当時、百貨店は「なん
 でもございます」がキャッチフレーズでしたので、「三越はストもございます」の
 流行語を生みました。  
 
 《1951年(昭和26年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アジャパー」の項を
  参照。》
昭和26年の会社
【ミツグくん】 「あ」行の「アッシーくん/メッシーくん/ミツグくん」の項を参照。 
アッシーくん
 
【ミリバール】 ミリバールは、かつて気象分野でよく 気圧計
気圧計
 使われてきましたので、人によっては親しみを感じる
 のではないでしょうか。日本では、古くは水銀柱ミリ
 メートル(mmHg)が使われていましたが、1945年(昭
 和20年)からミリバール(mbar)に切り替わりました。
 その後、1992年(平成4年)に国際単位系(SI)のヘ
 クトパスカル(hpa)に切り替わりました。
 
 《1992年(平成4年)の会社に関する記述は、「は」行の「花の中三トリオ」の項
  を参照。》
平成4年の会社
【耳年増】 元々は「若い割に耳が肥えている、知識が豊富な女性」という意味だそ
 うですが、どうも「セックスに関する知識に詳しい女性」とありました。初めて知
 りました。女性週刊誌の読み過ぎの結果でしょうか。
 男性の場合はなんと言うのでしょうか。
 
【蓑着て、笠着て、鍬持って、お百姓さん、ご苦労さん】 「蓑着て 笠着て 鍬持っ
 て お百姓さん ご苦労さん 今年も豊年満作で お米が沢山取れるよう 朝から晩ま
 で お働き」ご存知、終戦後、食糧増産のためNHKのラジオ番組「農村に送る夕」の
 テーマソングでした。
 昔は確かに、農家の方はこういう格好でしたが、今は機械化の時代、田植え、稲刈
 り、そして畑仕事も変わり、蓑も笠も姿を消してしまいました。
 
【耳飾り】 お年寄りは「耳輪」とも言っていました。今では「イヤリング」、「ピ
 アス」ですが、古い時代の耳飾りは、日本はもとより世界の各地でも残されていま
 す。
 国内では縄文時代の魔除けや呪術的な意味合いや、結婚や成人時などでの儀式用に
真珠の耳飾りの少女
真珠の耳飾りの少女
使われたと思われる出土品が、また、海外ではオリエン
ト文明、ローマ時代1〜2世紀の金製の耳飾り、ビクト
リア朝時代の数々の貴重な耳飾りが知られています。
耳飾りと言えば、オランダの画家ヨハネス・フェルメー
ルの「真珠の耳飾りの少女」は有名ですね。少女の耳た
ぶの大きな白い真珠が印象的です。同じように年寄り言
葉で「首飾り」は「ネックレス」、「手首、腕輪」は
「ブレスレット」。カタカナ語の方がスマートに聞こえ
ますね。
 
【味噌汁で顔を洗って出直して来い】 随分、きつい言い方ですね。落語の中のセリ
 フでしょうか。上司にコテンパンに叱られているフレーズでしょうか。「普通の水
 では覚めないほど寝ぼけた、トンチンカンなことを言っている。味噌汁で顔を洗え
 ば眼も覚めるだろう」という意味でしょう。普通なら「外の風(空気)で頭を冷や
 して出直して来い」くらいになるのでしょうか。 
 
【磨き砂】 懐かしい言葉です。子どものころ、今のようにいろいろな家庭用洗剤が
 なかった時代、各家庭で鍋釜、食器類の洗いに活躍していたのが「磨き砂」でした。
 母はいつも薄暗い台所で「亀の子タワシ」を使って黙々と磨いていたのを思い出し
 ます。お蔭で釜は黒光り、お櫃の銅の輪っかはいつもピカピカでした。
 磨き砂の歴史を調べてみると、かつては家庭用洗剤の他、精米機がなかった時代に
 は良質の磨き砂を混ぜて利用したり、上質紙の目つぶしの原料として利用されたよ
 うですが、これも時代と共に衰退し、現在は化学洗剤が使用できないケースや、義
 歯制作、金属研磨加工、仏具の灰の代用として目立たないところで活躍しています。
【列車の窓を開けて見送りに挨拶】 私が社会人になってしばらくは、東京駅他で新
 婚旅行や転勤の見送り風景をよく見かけました。昔は列車の乗降口や窓を開けて見
 送りの家族や友人、同僚に手を振りながら出発したものでした。微笑ましく、情緒
 がありました。それが、新幹線時代に入り、この風景 上下に開閉できた車窓
上下に開閉できた車窓
 が見られなくなりました。見送りだけではありません。
 窓が開けられたから駅弁を楽しめました。今は車内販
 売です。楽しみがなくなりました。
 国内には、まだ一部に窓が開けられる列車が運行され
 ていると聞きましたが、事故防止、車内の気密、断熱、
 防音、空調などの関係で消えて行くのは致し方ないで
 すね。近い将来、リニア・カーが運行されたら、どう
 いう変化が起きるのでしょうか。何とか頑張って見届けたいですね。
 
【水も滴るいい男(?)女(?)】 一般的には「水も滴るいい男」で、「男も惚れ
 惚れするような男」に対する表現でしょうか。しかし、広辞苑他では「美男、美女
 の形容」、「生気ある男や女の/つやつやとした/またみずみずしさの形容」などと
 解説されていますので女性にも適用されているのですね。
 私には俳優でしたらどなたが対象となるのか知りたいところです。上原 謙や長谷
 川一夫のような男性のことでしょうか。私には普通のお世辞の類にしか感じられま
 せん。時代劇を見ていると、女郎が「あら旦那、水も滴るいい男だねえ。あたいと
 遊んでいきなよ・・・」というセリフをよく耳にしますが、今では時代劇か落語の
 世界のレトロ語ではないでしょうか。
 
【耳をダンボにする】 「聞き耳を立てる」、「耳を大きくしてよく聞く」ことです
 が、ご存知、「ダンボ」は小象をモチーフにしたディズニーの大きな耳が特徴の人
ダンボ
ダンボ
気キャラクターです。
漫画で聞き耳を立てる様子を表現するときは主人公の耳
を大きく描くか、耳に大きな手を当てるように描きます。
このことから「耳をダンボにする」という言葉が生まれ
たのでしょう。  
日本で「空飛ぶゾウ ダンボ」の題名で封切られたのが
1954年(昭和29年)ですから、今ではほとんどレトロ語
でしょうが、ひょうきんで可愛らしい表現ですので、子
どもさん用に残したい言葉ですね。
 
 《1954年(昭和29年)の会社に関する記述は、「い」行の「糸偏景気/糸姫」の項
  を参照。》
昭和29年の会社
【ミーハー】 いろいろな説があるのでインターネットで調べてみたら、1927年(昭
 和2年)、当時、颯爽とデビューした二枚目スター・林 長二郎(後の長谷川一夫)
 は、瞬く間に若い女性の間で大人気となり、彼女らが好きな「みつ豆」と「はやし
 長二郎大好き人間」を加味したキャッチフレーズが「ミーハー」であったとありま
 したが、ちょっとこじ付け過ぎていませんか。
 元々は、世の中の流行やタレント、芸能人の動静に夢中になり、影響を受けやすい
 者に対する呼称で「みいちゃん、はあちゃん」の略とされています。そして、彼ら
 を総称して「みいはあ族/ミーハー族」とも呼んでいます。
 いずれにせよ、低俗な趣味や流行に夢中となる軽い人を軽蔑した言葉ですが、日本
 人には何かが話題となると殺到する性格がありませんか。おばさん方に叱られます
 が、韓流ブームに悪乗りして当地へ押しかけたミーハーおばさん。テレビで、この
 野菜が体によいというと、スーパーで直ぐ売り切れとなる現象。長続きしないのが
 玉に瑕ですね。
 《1927年(昭和2年)の会社に関する記述は、「な」行の「縄ない機」の項を
  参照。》
昭和2年の会社
【三行半】 江戸時代に庶民が離縁する際、夫が妻の家 三行半 
三行半 
 族に出した「離縁状」のことで、離婚を決めたこと、
 妻の再婚許可が3行半に纏められていることから「三
 行半/三くだり半/三下り半」と呼ばれているものです。
 夫婦連名による離婚届の今、若い人たちには通じない
 のではないでしょうか。でも、妻の再婚許可を入れる
 のは人情味がありますね。
 
【ミスター・レディ】 夜の世界、風俗の世界に身を置いている職業男性のことでし
 ょうか。昔からいろいろな呼称がありました。定義は別として、「ゲイボーイ」、
 「シスターボーイ」、「ブルーボーイ」、「おかま」、「ミスター・レディ」、
 「ニューハーフ」、「おねえ」などでしょうか。今では一般的な呼称は「ニューハ
 ーフ」という和製カタカナ語でしょうか。
 昔、タイへ観光に行ったときニューハーフ・ショーを見ましたが、舞台の彼らは照
 明の関係で綺麗でした。しかし、ショーが終了し、帰りがけに彼らを見たらやはり
 女性にはほど遠いという感じでした。ご覧になられた方のご感想はいかがでしたか。
 
       『 む 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
【無責任時代】 どこかの国ではありませんが、沈没して行く船の乗客を置いて自分
 だけ逃げてしまうような無責任船長と船員が存在したことに驚いています。と共に、
 不幸にして亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。こんな不幸な話
 題とは関係ありませんが、1962年(昭和37年)、「ニッポン無責任時代」という映
 画が上映されました。主な出演者はクレージーキャッツのハナ 肇、谷 啓、犬塚
植木
植木 等
弘、石橋エータロー、桜井センリと植木 等の皆さんでし
た。これが大ヒットするや、急遽制作されたのが続編
「ニッポン無責任野郎」です。正体不明の謎の男(植木
等)が口八丁手八丁でサラリーマンを演じますが、傍若
無人、無責任の言動の末、すべてハッピー・エンドとなる
ワン・パターンのコメディ映画でした。私のもっとも嫌い
な言葉の一つが「無責任」ですが、企業をはじめ社会を
取り巻く環境がより厳しくなったこと、日本人全体のモ
 ラルが向上したこと、等で最近はほとんど使われない言葉でしょう。歓迎すべき現
 象です。
 
 《1962年(昭和37年)の会社に関する記述は、「あ」行の「青田買い」の項を参照。》
昭和37年の会社
【ムラサキ】 花柳界をはじめ業界言葉として、「おとも」(ハイヤー/タクシー)、
 「おてもと」(箸)、「くろもじ」(楊枝)、「なみのはな」(塩)、「めいし」
 (つけ)の他、寿司屋さんでは「あがり」(お茶)、「シャリ」(ご飯)、「ツメ」
 (たれ)、「がり」(生姜)、「なみだ」(山葵)に、醤油のことを「ムラサキ/
 むらさき」などと言います。
 「ムラサキ/むらさき」の語源を調べると、江戸時代からのようですが、醤油は高価
 なものであったため高貴な色である「紫」を当てた・・とか、醤油の色が紫であっ
 たとか、いろいろ説があるようです。どの分野でも業界用語や俗語はあると思いま
 すが、一般の人は使わない方がよいでしょう。
 
【向こう三軒両隣】 自分の家の向かい側の3軒と左右の2軒の家で、日常的に親し
 く付き合っている家と定義されていますが、軒数にはこだわらずご近所の家という
 ことでしょうか。これが隣組の単位となっています。戦時中、「隣組の歌」があり
 ました。よく皆さん歌っていました。この歌の3番は、 向こう三軒両隣
向こう三軒両隣
  「とんとん とんからりと 隣組 地震かみなり
   火事泥棒 互いに役立つ 用心棒
              助けられたり 助けたり」
  今の日本の社会に無くなってしまった地域の温もり
 を思い出させます。老人社会、孤独死が問題となって
 いる今日、いつも声を掛け合う、助け合う社会に戻し 
 たいものです。
【胸キュン】 胸が締め付けられて「キュン」とする感情のことです。1982年(昭和
 57年)〜1983年(昭和58年)にかけて、松本 隆が作詞した2つの曲「赤道小町ドキ
 ツ」、「君に、胸キュン」がヒットしていました。そこに、1983年(昭和58年)、カ
 ネボウ化粧品の「レディ80サンケーキ」のCMに「胸キュン」が使用されて流行語
 となりました。「胸のときめき」を表す言葉は、時代により新しく現れては、消え
 て行くものです。個人的には「胸キュン」ではなく、「胸がキュンとなる」の表現
 の方が、若い女性らしく、これからも通用する言葉ではないでしょうか。
 
 《1983年(昭和58年)の会社に関する記述は、「お」行の「おしん/おしんする」の項
  を参照。》
昭和58年の会社
【ムキムキマン】 ボディビルで鍛えられた素晴らしい筋肉美の男性のことですが、
 自分にない腹筋割れのムキムキマンは男が見ても素晴らしいと思います。個人的な
 ことで恐縮ですが、ドライバーの飛距離が年々落ちてきたので体重を2sほど増や
 そうと勝手に考え実施しました。
ムキムキマン
ムキムキマン
結果は、飛距離は少し伸びてきましたが、お腹が出てき
てしまい、修復をどうしようか、思案中でしたが、スポ
ーツクラブへ入会し、水泳を再開しました。お蔭で少し
ずつ戻り、好調です。 
でも女性のこの種の肉体美は人にもよるでしょうが、特
別なアスリート以外は、私は好みません。女性はふっく
らした美しさがよいのではないでしょうか。皆様はいか
がですか。
 
       『 め 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【メンコ/メンコ遊び】 「面子」は昔から日本の男児の遊びの一つですが、文献に
 よると、江戸時代は大人のバクチ遊びの一種で規制対 メンコ
メンコ
 象とされていたものと知り驚いています。
 私の子どものころは主に丸面子と力士の写真面子で遊
 びました。丸面子には、蝋や油を塗って硬さや重みを
 出し、相手の面子を「裏返し」、「外にはじき出し」
 などで勝つ工夫をしたものです。 
 関西では「ぺったん」と呼ぶようですが、地方によっ
 て「パッチ」、「びだ」、「パッタ」、「ペッタ」、
 「ペッタイ」、「ペッチ」、「ペッチョ」、「ショーヤ」、「ぱっちん」、「カッ
 タ」、「パッチー」他の名称で呼ばれているようです。皆さんはどの名称で遊んで
 おられましたか。
 現在も時代々々の人気キャラクターが登場する角面子、丸面子、そして「昭和レト
 ロ面子」が結構な値段で販売されているのを見ると、子どもの遊びとしては衰退し
 ている現在、大人のコレクション対象でしょうか。
【メリケン粉】 明治の初期、アメリカから輸入の精製された良質で白色の製パン用
 小麦粉です。英語のAmericanが、当時の人々には「メ うどん
うどん
 リケン」と聞こえたことから、我が国在来の「うどん
 粉」と区別し、「メリケン粉」と称されてきました。
 現在は「小麦粉」が一般的ですが、英語のwheat flour
 から単に「フラワー」とも言われています。この「小
 麦粉」も「強力粉」、「中力粉」、「薄力粉」、「浮
 き粉」、「全粒粉」、「グラハム粉」、「セモリナ粉」
 など、精製法と成分により分類されていますが、これ
 を更に作る料理によって添加物を加味し、天ぷら、から揚げ、お好み焼き、食パン、
 ホットケーキ、蒸しパン、スポンジケーキ、ドーナツ用に商品が多数市販されてい
 ます。たかが「小麦粉」ではないのですね。
 
【メートルが上がる】 昔、お酒を飲んで酔うと「今日は少し、メートルが上がり過
 ぎた・・」などのように、酒量の表現として使っていました。「メートル」はフラ
 ンス語読み、「メーター」は英語読みですが、距離や長さの単位ではなく電気や水
 道などの「計器」のメーターの方です。
 語源を調べると、飲み過ぎて、しゃっくりが出る状態を「尺があがる」という言葉
 があります。昔は尺貫法でしたが、メートル法が導入されてから、「尺」と「メー
 トル」に置き換えたという説がありますが本当でしょうか。
 昔、ウイスキーのCMで「トリスのおじさん」の顔が、飲むほどに下から赤らんで
 いく様子が大人気でしたが、あれが「メートルが上がる」ことを表したものでしょ
 う。今の若い人たちには通用しない言葉の一つではないでしょうか。そう言えば、
 去る8月17日、「アンクルトリス」のイラストレーター・柳原良平氏の訃報を知り
 ました。私たちの青春時代に素晴らしいCMを世に送り出していただきました。
 ウイスキーを口にすると、あのCMが懐かしく思い出されます。同氏のご冥福を心
 からお祈りいたします。
【メスタルジア】 私自身、初めて知りました。1951年(昭和26年)ごろに出た「昭
 和の造語」の一つでした。「メスタルジア」は、女性を意味する「雌(メス)」と、
 故郷や過去のことを懐かしむといった意味の「ノスタルジア」をもじった語のよう
 で、男性が女性を恋しがる意味だそうです。また、ガールフレンドを募集中という
 意味もあるようです。同様に「オスタルジア」という語もあるようです。
 
 《1951年(昭和26年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アジャパー」の項
  を参照。》
昭和26年の会社
【めくら判】 現役時代によく耳にしました。「めくら判」は目が見えない人を意味
 する盲(めくら)と、「はんこ/主に承認印」との合 めくら判
めくら判
 成語で、提出された書類の内容をしっかり確認しない
 で承認印を押すことですが、あとで、その中味が問題
 となるケースがよくありました。
 「盲」(めくら)は視覚障害者に対する差別用語とな
 っていますので使ってはいけない言葉です。同様に
 「めくら判」も放送禁止語となっています。これを言
 い換えると「ろくに見ないで/いい加減に判を押す」、
 「適当に判を押す」、「確認もせず/確認を怠り判を押す」などとなりますが、世の
 中には差別語として意識せずに使っている言葉や代替えのない言葉もあるようです。
 代替えのない言葉の一つが「めくら蓋」ですが、「めくら」を使った言葉は決して
 少なくありません。「盲蜘」、「盲鰻」、「あきめくら」、「めくら蛇に怖れず」、
 「盲の垣覗き」、「盲将棋」「盲縞」、「盲地」、「盲千人目明き千人」、「盲長
 屋」、「盲長屋梅加賀鳶」、「盲探し」、「盲壁」、「盲御前」、「盲暦」、「盲打
 ち/撃ち」などです。失礼のないように代替え言葉を自分なりに考えておきましょう。
 
       『 も 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【モク拾い】 戦後間もないころ、煙草が統制品と品不足であったこと、生計を立て
 るために道端や駅のプラットホームの線路上に捨てられている煙草の吸殻を拾って、
 まき直して闇市などで販売している人たちがいました。駅のホームでは長い竹棒の
煙草の吸殻
煙草の吸殻
先に針を付けて、吸殻を刺して拾いあげ、背中の竹籠な
どに入れているのをよく見かけました。
私も40数年前経験しましたが、喫煙者は卑しいものです。
煙草を切らすと灰皿や火鉢の中から吸殻を拾い出し、吸
っていましたが、美味しいものではありませんでした。
当時は、まだフィルター付きの煙草がなかった時代か、
出だした時代だったのでしょう。
今は駅前、商店街などで、地域ぐるみ、あるいは個人で
 街の美化のために、昔とは異なり火挟みを使ってモクモクとボランティ活動されて
 いる姿を見かけます。ご苦労様です。インターネットを閲覧すると、海外からの観
 光客の声として、街中はゴミがなく清潔だと称賛の声が聞かれます。しかし、裏道
 に入ると、吸殻やペットボトル等の投げ捨てが、まだ目立ちます。来る2020年の東
 京オリンピックに向けて、本当に世界の人々が感じてくれるような清潔で美しい、
 安全な日本に育て、世界からの人々を迎えたいものですね。これらは将来にわたり
 日本の宝となるでしょう。
【モチのローン】 「もちろん/当たり前」のことを意味する俗語で、昭和時代の言
 葉ですので、今ではレトロ語です。同じような俗語で同じようにレトロ語入りして
 いる言葉には、「だいじょうブイ」(大丈夫)、「バッチグー」(バッチリ・グッ
 ド)、「許してチョンマゲ」(許して頂戴)、「ナウイ」(今風の)、「やって味
 噌」(〜してみなさい)、「ちかれたビー」(疲れた)、「チョベリグ」(最良/
 最高)、「チョベリバ」(最悪/最低)などがあります。
 
【もはや戦後ではない】 1956年(昭和31年)に発表された「年次経済財政報告」
 (正式名称)、「経済財政白書」(通称)、「経済白書」(従来の通称)の副題
 「日本経済の成長と近代化」の結語として、第二次世界大戦後の我が国の復興が終
 了したことを指して「もはや戦後ではない」と記述さ 経済白書
経済白書
 れ、流行語にもなりました。
 10月には「日ソ共同宣言」に調印し、日ソの戦争状態
 が終了、12月には国連への加盟が認められた年でした。
 冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビの「三種の神器」と呼ば
 れた家電を中心とする消費財ブームがスタート、前年
 下期以来の神武景気が加担した結果でしょうか。
 しかし、庶民の生活はまだまだ貧しい時代でした。こ
 の年でもモロタイ島やインドネシア、ミンドロ島で生き残った日本兵が帰国してい
 た時代でした。
 
 《1956年(昭和31年)の会社に関する記述は、「か」行の「火炎ビン」の項
  を参照。》
昭和31年の会社
【猛烈社員/モーレツ社員】 企業のために本人はもちろん、家庭をも犠牲にして一
生懸命に働いたサラリーマンを「企業戦士」と言ってたたえてきました。彼らこそ
が高度経済成長以降、日本を「世界の日本」に成長させた担い手でした。そして、
モーレツ社員
モーレツ社員
彼らを「猛烈社員/モーレツ社員」と呼んできました。
1991年(平成3年)〜2002年(平成14年)のバブル崩壊
後、年功序列、終身雇用などの日本的経営に変化が起こ
り、収入は伸びず、場合によっては減収となり、最悪、
リストラの対象となるなどサラリーマンにとって大変厳
しい時代となりました。
一方、企業側は、各種の合理化を促進しつつ、従来の
「戦士」型人材だけを求めることはせず、従来以上に有
能な人材確保に目を向けてきています。更に企業イメージを損なう「過労死」問題も
あるため、労働条件の見直しも必要でしょうし、個人々々の力を如何に大きな組織
力に持って行けるかが、リーダーに問われるところでしょう。
 《1991年(平成3年)の会社に関する記述は、「そ」行の「ソノシート」の項を
  参照。》
平成3年の会社
【モンペ】 「モンペ」で思い出すのは戦時中の女性です。戦時中、厚生省から「モ
 ンペ普及運動」として、当時の婦人会へ着用を推奨させました。その後、空襲時の
 防空用として女性に着用が義務付けられました。
 「モンペ」は労働用ズボンとして働きやすい作業衣装ですので、今でも立派に販売
 されています。我が家の近くにも、初老のご婦人がいつも愛用されているのを拝見
 しています。
 生前の母も、戦前、戦後と「モンペ」を愛用した一人でした。昔の女性は、普段も
 和服を着ているときが多く、「モンペ」を着用し、割烹着か、和服にたすき掛け、
 姉さんかぶりで、炊事、洗濯、掃除、さらに、買い物など忙しげによく働いていた
 という印象ですが、農業など、特殊な作業を除き、作業もしやすく、ファッショナ
 ブルな衣装が出回っていますので、年々、見る機会が少なくなるような気がします。
 いかがでしょうか。
 
【モヒカン/モヒカン族/モヒカン刈り】 文献によると、かつてアメリカのハドソン
 川上流に居住していたアメリカ・インデアンの一部族で、正式には「マヒカン/マヒ
 カン族/マヒカン刈り」のようですが、18世紀半ばに絶滅状態に追い込まれたとあり
 ました。
 「モヒカン」については、1992年(平成4年)に公開されたアメリカ映画「モヒカ
 ン族の最後」で知られています。
 ところで、「モヒカン刈り」をインターネットで閲覧して思い出しました。1980年
 (昭和55年)以降、漫画や映画でよく見るニワトリの モヒカン刈り
モヒカン刈り
 トサカのように刈る男子のヘアスタイルが流行りまし
 た。日本では「棟髪刈り」とも言われていたそうです。
 頭部の左右を丸刈り、あるいは、剃髪して、頭部上部
 の髪だけを残すので、ニワトリのトサカのように見え
 るのです。
 最近は、ややおとなしい髪型の若者が多く見られます。
 英国の超人気のサッカー選手であったベッカム選手の
 ように、「ソフト・モヒカン」スタイルと言われている髪型です。私もと思うので
 すが、残念ながら上部の髪の毛が不足でした!
 
 《1992年(平成4年)の会社に関する記述は、「は」行の「花の三中トリオ」の項
  を参照。》
平成4年の会社
【もらい風呂】 昔は、今のように各家庭に風呂・シャワーがありませんでしたので、
 風呂がある家の親切に甘えて、「もらい風呂」をしていました。私も信州へ疎開し
 た当初、農家の離れにお世話になり、「もらい風呂」を経験しました。しかし、風
 呂場は室内ではなく、台所と土蔵の間に屋根はあるものの、裸電球がついているだ
 けで薄暗いところでした。冬は壁がないので寒く、風呂から出て、しばらくすると
 手ぬぐいがカチカチに凍ってしまうほどでしたが、風呂桶から眺める星が実に綺麗
 でした。今思うと、照明は暗く、皆が入った風呂の湯は清潔ではなかったでしょう
 が、当時はなにも気にしませんでした。
 「もらい風呂」というと、四代目・桂 米丸の落語「もらい風呂」を思い出します。
【モボ・モガ】 「モダン・ボーイ」、「モダン・ガール」を略した「モボ」、「モ
 ガ」です。1920年代(大正9〜同15年)、更に昭和初期にかけて、西洋の文化の影
 響を受けて、風俗や服装などを取り入れた先端的な若い男女のことですが、一般庶
 民の視線は羨望の一方、西洋かぶれの風潮に対して嘲笑的表現の「モボ」、「モガ」
 が流行したとの説があります。
 当時の写真を見ると、「モボ」は山高帽子にロイド眼鏡、セーラーパンツにステッ
 キに代表されるスタイルは、喜劇俳優の榎本健一が歌った「洒落男」の歌詞にも出
モボ・モガ
モボ・モガ
てきますので、ご存知と思います。
「俺は村中で一番 モダンと言われた男・・・ そもそも
その時のスタイル 青シャツに真っ赤なネクタイ 山高シ
ャッポにロイド眼鏡 ダブダブなセーラーのズボン・・
・」とあります。一方、「モガ」の服装は、スカート丈
は膝下か、それ以下。絵やポスターにも描かれているシ
ョートカットの髪型、釣鐘型の帽子(クロッシェ)、引
眉、ルージュと頬紅が一般的のようでした。そして昭和
 に入ると、パーマネントやマニキュアが流行することになります。
 
 《1920年(大正9年)の会社に関する記述は、「し」行の「省線」の項を参照。》
 
【もやしっ子】 最近はほとんど耳に入らない言葉では もやしっ子
もやしっ子
 ないでしょうか。家の中にばかり閉じこもっている
 「もやし」のように細身で色の白い子どものことです。
 最近はスマホのゲームに夢中のオタク族に属する子ど
 もが話題となります。
 体型も昔と違い、恵まれた生活をする家庭が多いよう
 で「もやしっ子」のような子どもは見たことがありま
 せん。逆に、生活習慣病予備軍のような子どもを多く
 見かけます。こちらの方が大いに心配ですね。
 
【目標、1327店】 1970年(昭和45年)代から1980年(昭和55年)代にかけて、ヒグ
 チ産業鰍フ社長が真っ赤なスーツを着て象に乗り、「目標、1327店」とPRするテ
 レビCMをご記憶の方もおられると思います。
 大阪府東大阪市に本社を置くヒグチ産業鰍ヘ、ドラッグストア、調剤薬局の経営を
 行う企業で薬局のチェーン店他で国内各地に展開していました。このCMが放映さ
 れてから茶の間で話題となりました。
 当初の目標は427店だったそうですが、気になったので達成されたのか調べてみまし
 た。結果は同業他社との競争激化の影響で既存の小型店は統廃合し、2012年(平成
 24年)からファミリーマートとフランチャイズ契約を結んでコンビニとの融合店舗
 を展開中とありましたが、現在の店舗数は154店舗とありました。
 以前は、飲食業のチェーン店等で店舗数をPRするCMを見ましたが、最近はほと
 んど見ません。
 
       『 や 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
【宿六】 ご存知のとおり、「宿のろくでなし」の略です。調べてみましたが「宿六」
うちの宿六 福島慶子
うちの宿六 福島慶子 著
の語源は諸説があり、どれが妥当なのか分かりませんが、
納得のいく二説を紹介いたします。
「宿六」とは、「自宅に六つのものが備えられている者」
の意で、門、玄関、うだつ、欄干、床の間、倉の六つだ
そうです。これらを備えている家は江戸時代なら上級武
士ということになり、転じて「世間的に認められた立派
な人物」ということになります。これらの六つを持たな
い家の亭主は世間的に認められない、駄目な人物という
 ことになるのでしょうか。 宿六・色川武大
宿六・色川武大 色川孝子 著
 もう一つは「宿の禄(ろく:俸禄:収入)でなし」の
 ことで、「酒ばかり呑んで仕事をせず、金を稼がない
 甲斐性のない亭主」の意味で妻が亭主を罵る際に使う
 言葉ですが、落語に出てくるセリフはなぜか親しみと、
 ちょっぴり愛情を感じます。今なら、せいぜい「うち
 の亭主」くらいでしょうか。
 
 
【やったぜベイビー】 この言葉を最初に使ったのはタレントの加藤 茶氏とか、大
 橋巨泉氏と言われています。これが流行語となったのは1969年(昭和44年)です。
 当時、テレビ番組の司会者として人気絶頂の大橋巨泉氏は「はっぱふみふみ」とか
若かりし、加藤
若かりし、加藤 茶 氏
「ボイン」などの言葉を流行らせていますので、同氏が
最初に使った言葉という説が有力です。
「ベイビー/ベビー」は、赤ちゃんの意味ですが、「可
愛い女の子/恋人/愛人」、「君/あなた」、「男/少年/
やつ/野郎」の意味もあるようです。
当時、流行したころ、何かをしていて、よい結果が出る
と「やった!」と同じ意味で、親しい仲間に対して「や
ったぞ、お前(君/あなた)」的に、皆さん使っていたよ
            うに思います。同じような言葉に「やったぜ セニョール」
やったぜベイビー
やったぜベイビー 45歳差
もあります。日常の会話で「うまいぜベイビー」とか
「恰好いいぜベイビー」などなんにでも使えるようです
が、このフレーズはレトロ語となっています。
 
 《1969年(昭和44年)の会社に関する記述は、「あ」
  行の「アンタもすきねえ」の項を参照。》
 
 
昭和44年の会社
【闇市/ヤミ市】 戦前は1923年(大正12年)の関東大震災後、戦後は終戦の混乱期、
 配給以外に何もない品物不足の時代、空襲で焼けた商店主や焼け跡を不法占拠した
 外国人やヤクザ/的屋などがバラック建ての店や露店で、戦時経済統制を無視して、
 横流し品、盗品、密造品、鍋釜などの日用品、水団(すいとん)や進駐軍の残飯シ
 チューなど簡単な飲食店などの露店市場で、物資不足に付け込んで高い値段で商売
 をしていました。 闇市
闇市
 光がささない様を「闇」、類語に「暗」があります。
 共通するのは「音」という字があることですが、「闇
 市」の表記は、我が国の当時のすべてを物語っている
 言葉のように思えます。
 我が国の各地には伝統的な「朝市」、「骨董品市」な
 どの「○○市」がたくさん開催されていますが、「闇
 市/ヤミ市」だけはレトロ語です。
 《1923年(大正12年)の会社に関する記述は、「お」行の「オートバイ」の項を
  参照。》
大正12年の会社
【ヤンキー・ゴー・ホーム】 1968年(昭和43年)、米原子力空母「エンタープライ
 ズ」の佐世保港寄港阻止闘争で、政治団体や市民団体が「ヤンキー・ゴー・ホーム」
 とシュプレヒコールをしていました。
 戦時中、アメリカ人が日本人を「ジャップ」という軽 ヤンキー・ゴーホーム     (原子力空母)
ヤンキー・ゴーホーム     (原子力空母)
 蔑語を使ったように、日本ではアメリカ人を「ヤンキ
 ー」とか「鬼畜米英」という軽蔑語を使っていまた。
 「ヤンキー」という言葉は、元々、南北戦争当時、南
 軍が北軍に対して使った蔑称とされており、それが、 
 そのままアメリカ人全体に対する蔑称に転化されたの
 も興味のあることです。
 
 
 《1968年(昭和43年)の会社の記述は、か行「か-2」の「紙芝居屋」の項を参照。》
昭和43年の会社
【ヤッケ】 「ヤッケ」の語源はドイツ語のjackeで、これが英語のjacket(ジャケ
 ット)の語源なのでしょうか。昔は登山用上着を「ヤッケ」と呼んでいたと思いま
ヤッケ
ヤッケ
すが、今風に言うと「ウンドブレーカー」でしょうか。
同じくスキーウエアに「アノラック」がありましたが、
これもレトロ語でしょう。その他、アウトドア用ウエア
には「パーカー」、「アウター」、「ブルゾン」などと、
いろいろなウエアがあり高齢者には区別がつきません。
 
 
 
 
【焼き場】 昔、火葬場のことを「焼き場」と言っていました。昔の火葬場は小さく、
 陰気くさい雰囲気でしたが、最近の火葬場は大きく、施設も整って明るい雰囲気の
 ところが多いようです。 
 ところが、この「焼き場」を平成時代の若者は肌を焼く場所ということで「日焼け
 サロン」の意にしていることを知り、驚いています。日焼けマシンで横たわって肌
 を焼いている姿からでしょうが、これはいかがなものでしょうか。
 余談ですが、2011年度の財団法人・日本消費者協会で纏めた葬儀費用一式の全国平
 均額は、1件当たりほぼ200万円とありました。なんだかもったいない気がします。
 家族葬のように身内だけの葬儀が、これから増えるでしょうね。
【藪入り】 江戸時代から商家などに住み込みで奉公し 藪入り
藪入り
 ていた丁稚や女中などの奉公人が実家に帰ることがで
 きた休日で、1月15日(小正月)と7月15日(盆)の
 祭日を利用した1月16日と7月16日だったようです。
 元々の由来は、奉公人ではなく嫁が実家に帰る日だっ
 たようですが、商家の習慣へと転じたようです。
 藪入りの日には、主人は奉公人たちに、小ざっぱりし
 た着物、履物、そして、何がしかの小遣いを与え、更
 に手土産を持たせて実家へ帰したようです。実家が遠い奉公人は帰らず、芝居見物
 や買い物で休日を楽しんだそうです。
 明治、大正、昭和と時代は移り、藪入りの日は浅草などの繁華街では活動写真など
 で大いに賑わったようです。終戦後は労働基準法の強化などにより、日曜日は休日
 となったため、藪入りの習慣は徐々に衰退して行きましたが、正月や盆の帰省は、
 その名残でしょうね。
 それにしても、年2回の休みとは過酷な労働条件ですね。今では週休2日が当たり
 前、更に有給休暇まで与えられ、国民祝日は時代々々で増加していることは、あり
 がたいことですね。感謝しないと罰が当たります。
 
【焼きが回る】 以前は熟練の職人がよく使っていましたが、最近はほとんど耳にしま
耄碌寸前 森
耄碌寸前 森 於莵 著
せん。「焼きが回る」は、加齢で頭の働きや腕前などの
能力が若いころに比べて低下したり、鈍く感じたときに
自嘲気味に、あるときは自慢気味に使う言葉です。
「焼き」は元々刃物を製作する際に行う「焼入れ」のこ
とですが、丈夫で切れ味をよくする「焼入れ」も、作業
次第では刃が脆くなり、切れ味も悪くなります。
このように火が回り過ぎてしまうことを「焼きが回る」
と言いますが、転じて「老いぼれ」の意味に使われるよ
 うになりました。「加齢/馬齢」、「薹が立つ」、「耄碌」、「油が切れる」、「ガ
 タが来る」、「タガが緩む」くらいの言葉はまだ普通です。最近は「大分、頭にき
 ている」、「ボケが始まっている」、「認知症が始まっている」などの表現が多い
 ですね。
 
【ヤッピー】 「ヤッピー」という言葉を初めて知りました。私自身、使ったことも
 聞いたこともありませんでした。1984年(昭和59年)、 ヤッピー M.ピーズマン+M.ハートリー
ヤッピー M.ピーズマン+M.ハートリー 著
 アメリカで使われた言葉のようですが、「ヤッピー」
(yuppie)とは「young urban professionals」の略
 で、何やら「ヒッピー」をもじったような言葉に思え
 ます。意味はというと、若手の知的な職業に携わる裕
 福なエリート・サラリーマンということだそうです。
 反面、ある特定個人に対して使われたときは、幾分軽
 蔑的な意味合いを持つと言われています。世の中には
 財・知に恵まれた若者は大勢おられるでしょうが、「○○のボンボン」のように、
 余りよい評価はされそうにありませんね。
 《1984年(昭和59年)の会社に関する記述は、「く」行の「くれない族」の項を参
  照。》
昭和59年の会社
【闇 米】 太平洋戦争から戦後にかけて、物資不足の 闇米(闇物資を没収する警察官)
闇米(闇物資を没収する警察官)
 中、米などの生活必需品は政府の統制下に置かれ「米
 穀通帳」<「か」行の「買い出し/買い出し列車」、
 「は」行の「配給」の項を参照>により、家族構成に
 応じて「配給米」を受けてきました。
 しかし、「配給米」だけでは質・量共に不足で、子ど
 も多い家庭では郊外や地方の農家へ出向いて米を金や
 着物などと物々交換をして何とか生き延びてきました。
 この米を「配給米」に対して「闇米」と呼んでいました。(食糧管理制度下のおけ
 る「自由米」に対し統制外の「闇米」もありますが、ここでは省略します)
 その「闇米」も帰りに警察の取り締まりに引っ掛かり、経済統制法令違反で没収さ
 れるシーンを当時のニュース映画でたびたび見て来ました。今は美味しいご飯が不
 自由なく食べられるよい時代です。感謝、感謝ですね
 
       『 ゆ 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【許してチョンマゲ】 「許して頂戴」と「チョンマゲ」 許してチョンマゲ
許してチョンマゲ
 をかけたオジサンギャグの代表的な言葉です。同じよ
 うな言葉に「そんなバナナ」(そんな馬鹿な)、「余裕 
 のヨッチャン」、「なんちゅうか、本中華」、「なるへ
 そ」などたくさんあります。かつては流行で使われて
 いましたが、今は完全なレトロ語です。
 
 
 
【ユリ・ゲラーの超能力】 ユリ・ゲラー氏はイスラエ ユリ・ゲラー
ユリ・ゲラー
 ル生まれの超能力者を名乗る人物で、1974年(昭和49年)
 を皮切りに何度か来日し、「スプーン曲げ」や「時計
 動かし」のパフォーマンスを披露し、我が国での超能
 力ブームの火付け役となったことはご記憶にあること
 でしょう。
 しかし、専門家やマジシャンのビデオの解析から「ス
 プーン曲げ」などは超能力によるものではなく、巧妙
 な手品であることが指摘されました。当時、私もやってみました。スプーンは曲げ
 ることができました。TVを見ていた多くの方が台所からスプーンを持参して一緒       
 に曲げの研究をされたのではないでしょうか。  
 《1974年(昭和49年)の会社に関する記述は、あ行「お-1」の「オート三輪」の項
  を参照。》
昭和49年の会社
【夕暮れ族】 「夕暮れ族」は、先に亡くなられた吉行 吉行淳之介の小説「夕暮れまで」
吉行淳之介の小説「夕暮れまで」
 淳之介の小説「夕暮れまで」(1978年/昭和53年・新潮
 社)に描かれたカップルを取り上げてできた言葉で、
 中年男性と若い女性のカップルのことと言われていま
 す。ややこしいことに、「暮れ」と「ぐれ」の表記が
 異なります。1982年(昭和57年)ごろ実在した会員制
 の愛人バンク「夕ぐれ族」とは関係ありませんが、19
 84年(昭和59年)に「夕ぐれ族」が映画化され、世間
 的には金持ちの愛人になる若い女性を意味する「夕暮れ族」で通っているようです。
 この逆が「逆夕暮れ族」というそうですが、最近は耳に入りませんので、何か新し
 い言葉が出ているのでしょうか。   
 
 《1978年(昭和53年)の会社に関する記述は、あ行「お-2」の「おセンチ」の項を
  参照。》
昭和53年の会社
【湯たんぽ】 子どものころ、冬になると母が毎日、寝 湯たんぽ
湯たんぽ
 床に「湯たんぽ」を入れてくれました。当時の「湯た
 んぽ」は昔からの金属製湯たんぽでした。火傷をしな
 いように「湯たんぽカバー」の代わりに厚手のタオル 
 を巻いてくれました。頭寒足熱でよく眠れた記憶があ
 ります。
 昔は、今と違って、典型的な木造家屋で密閉性も悪く、
 空調設備の時代ではありませんので、一般家庭では
 「炬燵」の周りに布団を敷き、家族皆で足を炬燵の中に入れて寝るか、湯たんぽを
 使用していました。   
 資料によると、「湯たんぽ」は、中国語の「湯婆」(tangpo)が語源で、「婆」は
 「妻」、「母親」の意味で、妻や母親の体温の温もりを感じながら安眠できるよう
 に、お湯を入れた容器を代わりに抱いて寝たことが由来とされています。  
 日本に伝わったのは古く、室町時代とされていますが、「たんぽ」では意味が不明
 のため、温めて使用する容器ということで「湯たんぽ」となったとありました。
 今は「電気毛布」、「電気あんか」の時代、空調が整っていれば何も要りません。
 お湯を準備する必要はありますが、火災の心配がないのは年寄りにはよいことでは
 ないでしょうか。お湯は、翌朝の洗顔にも使用できます。
【遊 廓】 資料によると、「遊廓」の歴史は安土桃山時 吉原遊廓の大門
吉原遊廓の大門
 代にさかのぼるようです。別称として、花街、廓(く
 るわ)、色里(いろさと)、遊離(ゆうり)、色町
 (いろまち)などがあります。江戸時代の岡場所もそ
 うでしょうか。  
 我が国の三大遊廓は、大坂の新町遊廓、京都の島原遊
 廓、江戸の吉原遊廓ですが、各々の名妓として、夕霧
 太夫、吉野太夫、高尾太夫は有名ですね。
 戦後の1946年(昭和21年)にGHQの指令により公娼制度が廃止されましたが、看板
 を替えただけで中身は同じ。通称「赤線」、「青線」として存続したものの、翌年
 の4月、同法の施行と共に「遊廓」の歴史は幕を閉じました。
 しかし、法の目をくぐり、手を替え、品を替えての風俗街は今でも存在しています
 が、「遊廓」がレトロ語入りしたことは間違いありません。
 近年は無店舗型のファッションヘルスとか、デリバリーヘルスというのが増加して
 いるとか。地球上に男と女が存在する限り、いたちごっこは永遠に続くことでしょ
 う。
 
 《1946年(昭和21年)の会社に関する記述は、あ行「え-1」の「駅弁大学」の項
  を参照。》
昭和21年の会社
【夢の超特急】 新幹線が運行される前の1960年(昭和 夢の超特急_0系新幹線
夢の超特急_0系新幹線
 35年)、東京―大阪間は電車特急「こだま」で所要時
 間は、6時間30分でした。それが新幹線の開通により、
 所要時間は半分となりましたので、まさに「夢の超特
 急」の呼称は期待を表すものでした。
 1964年(昭和39年)、東京オリンピックに合わせるよ
 うに開業した東海道新幹線は、開業当初、東京―新大
 阪は4時間でしたが、その後、新しい車両を投入し、
 3時間10分になると、「夢」という前置詞は使われなくなりました。
 その後、2008年(平成20年)には開業時からの車両であった0系の現役引退が迫る
 と、マスコミやJRが、挙って、“さよなら「夢の超特急」0系新幹線”“ありがとう、
 夢の超特急”など「夢の超特急」のフレーズを使い、引退する車両のPRをしました。
 車両は0、100、300、500、700、800、N700系と次々に新型車両が登場し、最終は
 2045年、リニア中央新幹線です。品川―新大阪間を1時間7分で結ぶと言われてい
 ます。再度「夢」の前置詞が付くのでしょうか。         
 
 《1964年(昭和39年)の会社に関する記述は、あ行「あ-1」の「アイビールック/
  アイビー族」の項を参照。》
昭和39年の会社
【有閑マダム】 戦後、俄かにクローズアップされた言 有閑マダム
有閑マダム
 葉で、時間とお金に余裕があり、高級品の買い物や浮
 気などの遊びに時間を費やす優雅な暮らしをする奥様
 でしょうか。「有閑」と「貴婦人/奥様」の意味の英語
 (madam)とを合成させた言葉です。「ざあます語」と
 共に、最近はとんと耳にしません。今風には「セレブ」
 でしょうか。 
 
【百合族】 大分昔、話題となったようですが、そちらにはまったく興味がなかった
 ので知りませんでした。ゲイ(ホモ/ボーイズラブ)の人たちを「薔薇族」と言う
 のに対して、レズの人たちを「百合族」と呼んだようです。「薔薇族」は1971年
 (昭和46年)創刊のゲイ雑誌「薔薇族」が語源のようですが、女性同性愛者の場合
 は美しい隠語として呼ばれたのではないでしょうか。同年以降、「百合族」の言葉    
 が出始めていましたが、日活ポルノで制作された「制服百合族」、「セーラー服・ 
 百合族」、「OL百合族19歳」、「女教師百合族」などの「百合」シリーズにより 
 1980年(昭和55年)代には流行語となっていたようです。皆様はご存知でしたか。 
 
 《1971年(昭和46年)の会社に関する記述は、あ行「えー1」の「エトランゼ」の
  項を参照。》
昭和46年の会社