『 ひ 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【100万ドルの笑窪】 「100万ドルの夜景」という言葉 乙羽_信子さん
乙羽_信子さん
 はよく聞きますが、「100万ドルの笑窪」と言われる女
 性とはどんなチャーミングで美しい女性なのだろうと
 想像してみました。一般的に赤ちゃんは笑窪を持って    
 いるケースが多いですが成長すると消えます。そして、
 大人になっても残った笑窪は魅力的と評価されます。  
 ところで、昔、日本で「100万ドルの笑窪」として売り 
 出した映画女優に故乙羽信子さんがおられました。
 海外ではアメリカのかつての名子役で、2014年2月に他界されたシャリー・テン
 プルさんを思い出します。最近は笑窪を美容整形でつくる女性がいるようですが、
 整形で作られた美では100万ドルの評価は得られないのではないでしょうか。   
【ビジネス特急】 1958年(昭和33年)、東京-大阪間 ビジネス特急・こだま号
ビジネス特急・こだま号
 の日帰り可能な電車による「ビジネス特急・こだま号」
 が新設され、画期的な列車として、業界はもちろんの
 こと、鉄道ファンも注目した列車でした。先頭車は、    
 クハ26006、ビュッフェもあり、なかなかかっこよい
 車輌でした。 
 東京-大阪間を時速110kmで走り、所要時間は6時間
 50分でした。これは、それまでの「つばめ号」、「はと号」
 の7時間30分を40分短縮するものでした。例えば、東京7:00発→大阪13:50着、
 上りは、大阪16:00発→東京22:50着ですが、これで会議を済ませられたのでしょ
 うか。
 
 《1958年(昭和33年)の会社に関する記述は、あ行「あ-1」に「赤線/青線」の項
  を参照。》
昭和33年の会社
【日の丸弁当】 懐かしい弁当です。今の若い母親が作 日の丸弁当
日の丸弁当
 るお弁当は色とりどりのおかずが綺麗に並べられて美
 味しそうですね。  
 終戦前後、学校で食べた弁当はアルマイト製の弁当箱
 に詰められたご飯の真ん中に梅干しだけの「日の丸弁
 当」でした。おかずは、沢庵、野沢菜の漬物、前日の
 煮物の残りくらいでした。たまに、ごま塩か振りかけ
 が掛けられていました。何年も使っていたので梅干し   
 の酸で弁当箱が腐食していましたが、他の生徒の弁当も同じですので気になりませ 
 んでした。
【ヒロポン】 ヒロポンは大日本住友製薬(旧大日本製 ヒロポン
ヒロポン
 薬)の商品名です。正式にはメタンフェタミンという
 有機化合物で代表的な覚せい剤として知られています。
 1893年(明治26年)に日本の薬学者・長井長義により
 エフェドリンから合成されて生まれ、1919年(大正8
 年)、緒方 章により結晶化に成功しました。      
 日本ではシャブなどの俗称や商品名であるヒロポンの 
 名で呼ばれていますが、戦時中は軍隊や軍需工場など
 でいろいろな目的で使用されていたようです。また、敗戦後の数年間は街の薬局で
 自由に買えましたが、覚醒剤取締法による規制後も闇のルートで芸能界、文壇界を
 はじめ、広く庶民にも浸透し、健康被害や中毒者による凶悪犯罪の原因となり大き 
 な社会問題となりました。 
 
 《1919年(大正8年)の会社に関する記述は、か行「け」の「けん玉遊び」の項
  を参照。》
大正8年の会社
【ヒッピー】 伝統・制度など既成の価値観に縛られた ヒッピー
ヒッピー
 人間生活を否定し、定職を持たず気ままに放浪する人々
 でしょうか。1960年(昭和35年)代でしょうか、アメ
 リカの若者の間で一大ムーブメントを起こし、ヨーロッ
 パ、日本などに広まりました。元々はベトナム戦争へ   
 の反戦運動を発端に派兵、徴兵に反対の若者がヒッピー
 の中心であったと言われています。男たちはTシャツ
 にジーンズ、髭を伸ばし長髪、女たちは長い髪にミニ
 スカートかジーンズ、男女とも額にはアクセサリー兼用のヒッピーバンドなど風変    
 わりな独特のファッションをしていました。現在もアメリカ西海岸カルフォルニア 
 周辺にはヒッピーが多く見られますが、日本では余り話題になりません。 
 
 《1960年代の1964年(昭和39年)の会社に関する記述は、あ行「あ-1」の
  「アイビールック/アイビー族」の項を参照。》
昭和39年の会社
【ビート族】 ビートたけしに関係あるのかと思ったくらい初めて知りました。先述
 のヒッピー族といい、ビート族といい、アメリカという国は「戦争」というキーワー
 ドと無関係ではなさそうです。ヒッピー族はベトナム戦争と、ビート族は第二次世  
 界大戦と朝鮮戦争です。反戦、派兵、徴兵反対という共通点が見られるようです。 
 1950年(昭和25年)代、アメリカを中心に、現状の常識や道徳に反抗し、物質文明 
 を否定し既成の社会生活から脱しようと無軌道な行動をとるビートニクと称する若 
 者たちのことだそうです。日本では無軌道な行動を取り始めた「カミナリ族」でしょ
 うか。  
【ビジネスガール】終戦後、女子事務員の一般名称はビジネスガール(BG)と呼ば
れていました。しかし、このBGが「街の天使」(=売春婦)を意味する隠語である
ビジネスガール
ビジネスガール
ことが判明し、東京オリンピックを前に、1963年(昭和
38年)、NHKは放送禁止用語にしました。これに代わって
登場したのがオフィスレディー(OL)ですが、今でも
立派に定着しています。女性の地位の変遷により、女性
労働者を指す語は、これからも、いろいろと派生し変化
するのではないでしょうか。その代表的なものが「キャ
リア・ウーマン」ですが、「○○アナリスト」とか「○
○スペシャリスト」などのように、より専門的に細分化
された名称になるのではないでしょうか。
《1963年(昭和38年)の会社に関する記述は、「い」行の「一姫二虎三ダンプ」の項
を参照。》
昭和38年の会社
【ピンク電話】 昔、タバコ屋の店先、喫茶店、飲食店 ピンク電話
ピンク電話
 などに店の運営者などが設置する公衆電話サービスで、
 対応電話機の多くがピンク色のためピンク電話と呼ば                                                                                       
 れ親しまれてきました。                                        
 当時は公衆電話の不足を補う目的で1953年(昭和28年)
 に開始された簡易公衆電話の後継として、1959年(昭
 和34年)に電話機をレンタルする形で開始されたもの
 です。たまに小さな飲み屋で見かけることがあります
 が、懐かしさを覚えます。赤電話については、あ行「あ-1」の「赤電話」を参照下
 さい。     
赤電話
 《1959年(昭和34年)の会社に関する記述は、あ行「あ-4」の「足のサイズ(文)」
  の項を参照。》 
昭和34年の会社
【引揚者/引揚げ船/引揚げ列車】 今でこそ平和な毎日 引揚げ列車
引揚げ列車
 を過ごしていますが、多くの犠牲者を出した大戦と、
 命からがら身一つで帰国した引揚者の労苦は筆舌に尽                                                                                       
 くし難いものだったでしょう。                                
 敗戦に伴って帰国した海外在住日本人非戦闘員を「引 
 揚者」、同様に帰国した軍人を「復員兵」、「復員軍人」
 などと呼びました。資料によると、終戦時、海外在住
 の軍人・民間人は約660万人、内引揚げて来たのは500
 万人と言われていますが、正確な残留邦人の数と実態は不明というのが現実のよう
 です。史上、これほどの多数の祖国帰還の例はなく、これに携わったのが「興安丸」、   
 「高砂丸」、「白山丸」など32数隻の「引揚げ船」の運航、そして主な入港先となっ
 た舞鶴港や佐世保港に上陸後、それぞれの故郷へ送り届けた「引揚げ列車」の運行 
 でした。 
 終戦から70年になろうとしています。引揚げされた方々の高齢化も進み、生存者も
 年々減っていますが、決して忘れてはならない言葉です。  
【ビー玉遊び】 ガラス製のビー玉には遊戯用と鑑賞用 ビー玉遊び
ビー玉遊び
 があり、鑑賞用の色、模様もいろいろあり綺麗でした。
 ビー玉の呼び方も地域により様々なようで、「ラムネ                                                                                       
 玉」、「ビーダン」、「マーブル」、「ビーごろ」、「ラッコー」、                                           
 「ラッター」などでしょうか。 
 遊び方もいろいろありましたが、すっかり忘れてしま
 いました。「三角出し」、「島出し」、「線決め」、
 「目玉落し」、「ホール」などがありました。   
 
【貧乏人は麦を食え】 1950年(昭和25年)12月の参議 麦飯
麦飯
 院予算委員会で、第3次吉田内閣の大蔵大臣であった
 池田勇人(後の第58、59、60代総理大臣)は、社会党
 の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相
 の所見を求めたのに対して、「所得に応じて、所得の少
 ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うとい
 うような、経済の原則に副った方へ持って行きたいと
 いうのが、私の念願である・・」と述べたのが、翌日
 の新聞は「貧乏人は麦を食え」という見出しで発行されたため、いろいろと強い批       
 判を受けました。その他、所得倍増計画の成否について問われ、「私はウソは申し
 ません」の発言は当時の流行語となりました。  
 差し詰め、「血糖値を改善したいなら麦飯を食え」が正解でしょう。麦飯を粗食と
 する社会通念はなくなっています。  
 
 《1950年(昭和25年)の会社に関する記述は、あ行「あ-4」の「アナタハンの女王
  事件」の項を参照。》 
昭和25年の会社
【ピンク映画】 「ピンク映画」は、日本のポルノ映画の中で大手制作・配給会社以
 外の 映画制作会社による作品のこととありました。最初は「お色気映画」と言わ
 れていたようですが、現在の過激なセックス描写とは、程遠い代物であったと言わ 
 れています。
 全盛期は1980年(昭和55年)代前半で、「お色気映画」の「お」を取って「色気映画」
 から「ピンク映画」となったようですが、同じアメリカでは「ブルー・フィルム」
 と称されているようです。しかし、1980年代後半となるとアダルトビデオに市場を
 奪われて、専用映画館も一部を除いて衰退してしまいました。  
 
 《1980年代後半の1988年(昭和63年)の会社に関する記述は、あ行「お-2」の
  「オバタリアン」の項を参照。》
昭和63年の会社
【火 鉢】 「火鉢」は炭を使用する日本の伝統的な暖 長火鉢
長火鉢
 房器具です。昔、我が家にも木製の「長火鉢」、陶器
 の「六角火鉢」と「丸火鉢」がありました。
 しかし、炭は着火に時間がかかる上、一酸化炭素中毒 
 や火災の危険があるため、戦後は徐々に各種ストーブ
 の普及、そしてストーブから冷暖房機器の普及により
 火鉢は一般家庭から姿を消して行きました。  
 火鉢を使うには、炭の他、火おこし、十能、火箸、火 
 消し壺、五徳、灰ならしなどの昔ながらの道具一式が必要です。実家には使われな 
 くなった火鉢が金魚や亀の飼育用になっていました。 
【びっくりしたなあ、もう!】 三波伸介(初代)は、 三波_伸介と_てんぷくトリオ
三波_伸介と_てんぷくトリオ
 1961年(昭和36年)に伊東四郎、戸塚睦夫らと「てん
 ぷくトリオ」を結成し、舞台、テレビのバラエティ番  
 組を中心に、また、俳優、司会者として活躍しました。
 日本テレビ系「笑点」、TBS系「てなもんや三度笠」、
 フジテレビ系「夜のゴールデンショー」の他、NHK総
 合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ」では
 芸能人の似顔絵を上手に描く多才ぶりを発揮し、茶の   
 間の人気を博しました。「びっくりしたなあ、もう!」は彼の代表的なギャグで
 当時の流行語でしたが、1982年(昭和57年)に52歳の若さで他界されました。  
 
 《1982年(昭和57年)の会社に関する記述は、か行「か-3」の「カアチャンヤスメ・
  ハハキトク」の項を参照。》
昭和57年の会社
【ピーコック革命】 1967年(昭和42年)、アメリカのディヒター博士が提唱された 
 男性ファッションの革命のことです。従来のダークトーン中心の色彩から、もっと 
 色彩を取り入れたファッションにすべきであると、孔雀(ピーコック)の雄が雌よ
 りも華やかな色彩を持っていることから「ピーコック革命」と命名されたものです。
 この結果、白一色だったYシャツにもカラーシャツが出現しました。   
 一方、我が国の紳士服業界もキャンペーンに力を入れましたが、なかなか普及せず、
 スーツは相変わらずのダークカラーのドブネズミのものが主流でした。
 しかし、1982年(昭和57年)ごろからカラーシャツが売れるようになり、ネクタイ
 も幅の広いカラフルなものが中心となって行きました。  
 ところで、最近のビジネススーツはダークカラーが主流ですが、右に倣えの国民性
 の表れでしょうか。国の経済状況を反映しているのでしょうか。「ピーコック革命」
 から逆戻りしているように見えます。孔雀に限らず鳥は雄の方がカラフルで美しい
 です。オシャレを楽しみましょう。  
 
 《1967年(昭和42年)の会社に関する記述は、あ行「あ-1」の「アングラ/アング
  ラ族」の項を参照。》
昭和42年の会社
【人寄せパンダ】 1981年(昭和56年)、田中角栄元首相 カンカンとランラン
カンカンとランラン
 が都議会選中、「頼まれればどこへでも行く」と、人
 集め、票集めに応援を買って出ていました。  
 その数年前に「カンカン」と「ランラン」というつが
 いのパンダが中国からやって来て、上野動物園は連日
 の超満員でした。以来、「パンダ=人気=人を呼べる」
 という図式ができ、「自分がパンダの如く人集めや票
 集めをやる」という思いだったのでしょう。これが
 「人寄せパンダ」という言葉となり、当時の流行語となりました。   
 日中関係に陰りが出て、「パンダ」人気も一時ほどではない今日では、「人寄せ
 パンダ」ではなく、くまモンのような「人寄せゆるキャラ」でしょうか。 
【ビロード】 漢字検定ではありませんが、「天鵞絨」 ビロード 
ビロード 
 (てんがじゅう)でビロードと読むようです。私の記
 憶の中では、柔らかい上品な手触りと深い光沢感があ
 る布地素材です。映画に出てくる主演女優のフォーマ    
 ルドレスや豪邸のカーテン、ホールの緞帳(どんちょ
 う)などに用いられていました。  
 語源は、ポルトガル語のveludoと言われています。
 最近、余り耳にしないので調べてみたら、今はベルベッ
 ト(英語:velvete)とか、コーデュロイとか、ベロア、コールテンなど、専門的   
 には定義されているようですが、知らないファッション用語がたくさんありました。
 皆さんは、どういう用語を使われていますか。  
 
【BIG egg】 か行「こ-2」の「後楽園球場」の項を参照。  
後楽園球場
【ひのし/火慰斗】 昔、布地の皺を伸ばすのに炭火の ひのし/火慰斗
ひのし/火慰斗
 熱と器具の重みを利用した炭火アイロンが使われてい
 ました。しかし、細かい繊細な布地の皺を伸ばすには
 重たく、大き過ぎるので真鍮製の小さな片手鍋のよう
 な形状の中に炭火を入れた「ひのし」は、江戸時代中
 期以降に一般化し、大正末期ごろまで和栽用として欠
 かせない道具でした。       
 子どものころ、母が使っていたのは「ひのし」ではな
 く「こてアイロン」でした。炭火アイロン、電気アイロンの出現によって「ひのし」  
 は姿を消しました。 
 
【飛行機跳び】 地方では「グライダー」というようですが、小学校のころ、学校に 
 ある鉄棒で「飛行機跳び」をしてよく遊びました。学校の鉄棒は砂場と隣接してお
 り、遊ぶのに好都合でした。  
 ご存知かと思いますが、鉄棒の上にしゃがんで立ち、両手を順手で握り、後方にそ
 のまま倒れ込み回転の加速をつけ、加速がついたとき、両手を離して前方へ飛び、 
 その距離を競い合う遊びです。今の体操競技ですと「後方回転前方跳び」でしょう 
 か。砂場があり、練習を重ねないと危険ですね。
 
【火 箸】 「火鉢」の項を参照。 
火鉢
【ピンポン】 「ピンポン」には、チャイムのピンポン ピンポン
ピンポン
 音、クイズで正解を意味するピンポンがありますが、
 卓球の別称のピンポンです。昔は、職場旅行で温泉宿
 に宿泊し、時間があると麻雀やピンポンを楽しんでい    
 ました。卓球は英語でtable tennisまたはping-pong
 ですが、英語で「ピンポンをする」は、「play table
 tennis」、ところが「卓球のボール」は、「a table
 tennis ball」とは言わずに、「a ping-pong ball」
 なのですね。でも、今どきピンポンという人はほとんどおられないのではないで
 しょうか。 
【百貫デブ】 1貫=1000匁=3.75kgですので、100貫は375kgとなりますが、当時、
 日本にはそんな巨漢はいなかったのではないでしょうか。100貫もあるように見え 
 るとか太っているという例えでしょう。 
 太った人を見ると「♪デブデブ百貫デブ 電車(車)に轢かれてペッチャンコ ペッ 
 チャンコは煎餅 煎餅は丸い 丸いがボール ボールは跳ねる 跳ねるは蛙 蛙は緑 緑
 は葉っぱ 葉っぱは揺れる 揺れるは幽霊 幽霊は消える 消えるは電気 電気は光る
 光るは親父のはげ頭♪」と言って揶揄した記憶があります。地方によって歌詞もい
 ろいろあるようです。それにしても「百貫デブ」、「親父のはげ頭」など子どもの 
 ふざけには相応しくないですね。 
 
【拍子木を打ち鳴らしながらの火の用心】 拍子木を使 拍子木を打ち鳴らしながらの   火の用心
拍子木を打ち鳴らしながらの   火の用心
 うものには相撲の呼び出し、歌舞伎の開始時や幕切れ 
 の合図に、昔懐かしい紙芝居屋のオジサン、宗教行事
 に、ボクシングのラウンド終了10秒前を知らせる合図、
 そして自警団や警防団の夜の見回り「戸締り用心、火
 の用心」と声をあげながら拍子木を打ち鳴らしながら
 の火の用心などがあります。     
 昔は身近なところで聞いたものですが、最近はとんと
 耳にしません。私の住居地はときどきスピーカー付きの車で巡回する程度です。
 地域によっては、今も自治会をはじめ自警団・警防団で実施されているところがあ 
 ります。高齢化が進む中、本当に素晴らしい活動です。是非、これからも続けて欲
 しいと思います。
 
【火を貸してください】 外出時、タバコを吸おうとポケットに手を入れたらライター
 が無かったとか、ライターを点火しようとしたらガス欠だったなど、喫煙者だった
 らどなたでも経験していることです。
 私自身、ハイライトを1日2箱吸っていましたので、よく見ず知らずの人に気軽に
 タバコの火を借りていました。皆さん、優しいですね。禁煙するまで、一度も断ら
 れたことがありません。喫煙場所が制限されているせいでしょうか、禁煙してから
 50年も経つと煙のあるところには行きませんので、「火を貸してください」の光景
 など見る機会がありません。
 
【ビルマ】 戦前生まれの世代には、現在のミャンマー ビルマの竪琴
ビルマの竪琴
 連邦共和国という国よりビルマの国名の方が懐かしく
 思う方も多いことでしょう。ビルマは19世紀以来、イ
 ギリスの植民地でしたが、1941年から終戦まで、ビル
 マと、その周辺地域を巡って当地へ進攻した日本軍と、
 ビルマ国民軍・インド国民軍がイギリス・アメリカ軍、
 加えて中華民国国民党軍と激しい戦闘をしていました。  
 ビルマは1948年(昭和23年)に独立国となりましたが、
 戦闘の結果、日本人戦没者は18万人と言われています。 
 ビルマと言うと、1956年(昭和31年)に公開された市川 崑監督の「ビルマの竪琴」
 を思い出す方がおありかと思います。最近はミャンマーの民主化運動のリーダーで
 あるアウン・サン・スー・チーさんが注目を浴びていますが、早期に安定した国家
 として歩んで欲しいもんです。
 
 《1956年(昭和31年)の会社に関する記述は、か行「か-1」の「火炎ビン」の項を
  参照。》
昭和31年の会社
【ピチピチギャル】 若く美しくスタイルのよい女性ですが、オジサン以外は使われ 
 ていないようです。この「ピチピチギャル」、「オヤジギャル」、「コギャル」は
 レトロ語です。ただ、業界や若い人の間では、和製カタカナ語の「キャンペンガー
 ル」の略語である「キャンギャル」、魅力的な女性が登場するコンピューターゲー
 ム「ギャルゲ−ム」の略語である「ギャルゲー」、携帯電話のメールに文字を分解・
 変形させた文字で表現する遊び・手法の「ギャル文字」は今でも使われているそう
 です。このままだと日本語がますます可笑しい方向に進みそうですね。
【肥後守】 小学校から中学校時代は鉛筆削りの文房具 肥後守ナイフ
肥後守ナイフ
 として筆箱に入れて通学していました。柄の部分に商
 標登録 肥後守定駒と銘が彫られていました。教室で友
 だちと、どっちが鉛筆を綺麗に削れるかを競って遊ん    
 だものです。終戦後の鉛筆の木質や芯の品質が悪く、 
 なかなか上手く削れなかった思い出があります。   
 肥後守は兵庫県三木市にある永尾製作所の登録商標で
 す。今も生産されていますが、鉛筆削り器の普及と、
 1960年(昭和35年)より中央青少年問題協議会が提唱した「危険な刃物を持たさな
 い運動」に押されて姿を消して行きました。  
 
【左巻き】 右巻き、左巻きは、時計回り、反時計回りと同じように、いろいろな 
 ケースに使われます。しかし、「左巻き」というと頭の回転が鈍いことを意味する
 俗語となります。これは、旋毛が左巻きの人は頭がよくないという説から来ている
 そうですが、これ自体何の科学的根拠も立証もない俗説です。
 しかし、「左ぎっちょ」、「左遷」、「左派」、「左翼」、「左前」など、「右」に比べ
 ると、よくない意味にとれる言葉が多いですね。
 
【ピカドン】 1945年(昭和20年)8月6日に広島、同 原子爆弾のきのこ雲
原子爆弾のきのこ雲
 9日に長崎へ投下された原子爆弾のことですが、ピカっ
 と光った後の、ドンという巨大な爆発音を表現し、当
 時の広島の子どもたちが使い始めた言葉と言われてい
 ます。現在まで原爆被災者を含む亡くなられた方は、    
 広島が40万名、長崎が20万名に上り、毎年数千名が数
 字として追加されているようです。   
 日本が原爆を投下され、戦争に負けたことを知らない
 若者がいることに、日本の行く末が案じられてなりません。「ピカドン」という意 
 味は雷のことと勘違いされそうです。明確に原子爆弾とし、その悲惨さを後世に伝
 えるべきでしょう。
 
【ひ も】 女性を働かせて貢がせる情夫ですが、自分はパチンコ三昧などは立派な
 「ひも」でしょう。「ひも」の語源の一つに、海女(妻)が海に潜るとき腰ひもを
 つけますが、鮑などを捕って浮上するとき、舟で待っている男(夫)は、「ひも」
 を急いで手繰り寄せて海女(妻)を引揚げます。この男(夫)を「ひも」と言った 
 ことからという説がありました。しかし、片時も流されないように操舟したり、海
 女(妻)の命を守っているわけですので、これを悪い意味での「ひも」と言うのは
 失礼ですね。
【秘密基地遊び】 子どものころ、近所の悪ガキ仲間と 秘密基地遊び
秘密基地遊び
 秘密基地でよく遊んだものでした。公園の空き地、橋
 げたの下、廃墟、裏山のほら穴や洞窟、見張り小屋、
 防空壕、太い土管、樹木の上など、今と異なり、子ど    
 もが遊べる安全な場所がたくさんありました。
 無鉄砲なことをしてきましたが、事故もなく何よりで
 した。今の子どもは近くに安全で楽しめる場所がない
 ので、こういう遊びは知らないでしょうね。皆さんは
 どんな秘密基地で遊びましたか。    
 
【東ドイツ】 な行「に」の「西ドイツ」の項を参照。 
西ドイツ
       『 ふ 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【ブラウン管式テレビ】 以前、映画「ALWAYS三丁目の夕日」鑑賞記を投稿したこと
ブラウン管
ブラウン管
がありますが、東京五輪開催当時の庶民の暮らしが克明
に、懐かしく再現されていました。その中に、ブラウン
管式のテレビもありました。ブラウン管はオシロスコー
プ、ビデオモニター、テレビ受像器、コンピューターな
どのディスプレイに多く用いられてきました。このブラ
ウン管の歴史を「Sony History」他から引用してみまし
た。
 
 1897年(明治30年)、カール・フェルディナント・ブラウン(独)が陰極線管を
           発明
 1907年(明治40年)、ポリス・ロージン(露)がブラウン管を使った受像装置を発
           案
 1925年(大正14年)、ベアード(英)が円盤を使ったテレビを発明、同フィロ・フ
           ァーンズワース(米)が電子式テレビ撮像機を開発
 1934年(昭和9年)、独でテレビ放送を開始
 1967年(昭和42年)、ソニーがトリニトロンを開発
 1990年(平成2年)、ソニーがハイビジョンブラウン管テレビを発売
 1996年(平成8年)、ソニーがスーパーフラットトリニトロン管を採用したテレビ
           受像機を発売
 2008年(平成20年)、ソニーがトリニトロン生産を終了
 なんだか、ソニーの宣伝みたいになってしましました。
 
 《1907年(明治40年)は、東京勧業博覧会に羅針儀他、各種計器を出品し、金牌、
  銀牌を受賞した年でした。業界・一般では帝国国防方針を制定(八八艦隊構想な
  ど)の他、日露戦争後の恐慌の年でした。
  1925年(大正14年)は、職工退職手当規定が制定され、業界・一般では、治安維
  持法公布、東京放送局(JOAK)の本放送開始、東京六大学野球リーグ戦が開始さ
  れた年でした。
  1934年(昭和9年)は、実験用飛行機を所有し、技術部に飛行係が、調査、庶務、
  工務、総務の各課を統合し総務部を新設した年でした。人事・制度面では、深川
  の府立実科工業学校適材教育部へ第一回生徒を派遣(終戦までに126名が卒業)の
  他、同好会として囲碁クラブが誕生しました。業界・一般では東京宝塚劇場の開
  場、室戸台風上陸、ベーブルースら米大リーグ野球チームの来日、湯川秀樹博士
  が中間子論を発表、国際的には日本がワシントン条約の単独破棄を決定した年で
  した。》
【文化鍋】 1950年(昭和25年)、文化軽金工業社によって「文化鍋」が発売され話
 題となりました。当時は、やたらと商品に「文化」をつけるのが流行っていたので
 しょうか、「文化鍋」、「文化住宅」、「文化包丁」などが例です。文化鍋は通常
 のアルミ鍋より肉厚があり、蓋からの噴きこぼれを防止するため縁が高くなってい
 ることで、ふっくらしたご飯が炊けるとの宣伝でした。
 「文化鍋」と言えば、会社でも終戦後、三鷹工場で圧力鍋を「TOPICO」マークで販
 売し、2万2千個を販売しました。
 
【プー太郎/プータロー】 久しぶりに耳にする言葉です。就労可能な年齢であるが
 職業に付かずぶらぶらしている人の俗称です。女性の場合は「プー子」というよう
 です。派生は1952年(昭和27年)ごろ、日雇い労働者や建設労働者、沖仲労働者な
 どを「風太郎」という俗語からと言われていますが、正確な語源は分かっていない
 ようです。
 今風に言うと、厚労省などでいろいろと定義がある中で就学、就労、職業訓練のい
 ずれも行っていない状態を指すニート(NEET=Not in Education,Employment or
 Training)という15〜34歳までという若年無業者とは異なり、無職の一人前の大の
 大人ではないでしょうか。一体、悪事に加担せず、どうやったら暮らせるのでしょ
 うか。大いに気になるところです。
 
 《1952年(昭和27年)の会社に関する記述は、「お」行の「踊る宗教」の項を
  参照。》
昭和27年の会社
【復古調】 これも最近、聞かない言葉の一つですが、過去の生活の中では、今みた
 いに、満ち足りている生活に感謝しながら、昔の懐か 復古調のバス
復古調のバス
 しい生活、文化、音楽などの世界を思い出してノスタ
 ルジアを感じている方も多いでしょう。例えば「復古
 調のファッション」、「復古調の文学」、「復古調の
 音楽」など があります。
 古い人間で恐縮ですが、私の復古調の例は家族の在り
 方です。父親がいる朝晩の食卓は幸せな家庭の原型で
 す。私は昔の「修身教育」を現代風に改定して復活を
 望みます。よい意味で自国を愛し、国の政策に協力し共存共栄、年寄りを労り、家
 族を大切にし、隣組との絆などを大切にする社会は、これからの日本が最も大切に
 すべきことではないでしょうか。
【浮浪児の刈り込み】 戦争の痛ましい落し子です。敗戦後、米軍の空襲で両親や身
 内を亡くした戦争・戦災孤児・引揚げ孤児は3万5千人(朝日年鑑)いたとの記録
 がありますが、一方、1948年(昭和23年)、当時の厚生省調査では12万3千人余と
 の記録もあり、定かではありません。
孤児の物売り
孤児の物売り
中には、親や保護者の元を離れ、一定の住居も職もない
浮浪者もいたようですが、これらの少年・少女たちは住
むところもなく、食べ物をめぐんでもらい(お貰い)、
ごみ箱の残飯で飢えを凌いでいました。時には盗み・た
かりなどを働き懸命に生きていたのです。
上野など都会の地下道などを生活の拠点として、彼らの
行動や非衛生的な状況が社会問題となり、占領軍から浮
浪児を収容するよう指令が出された結果、国は彼らを劣
 悪な環境の施設に強制収容することになりましたが、彼らを「捕えること=収容す
 ること」を「刈り込み」と称し、まるで動物狩りのようであったと報道されていま
 す。ちょっと次元が違うかも知れませんが、先の東日本大震災時の国民の行動、団
 結と比較して、戦争孤児は戦争未亡人、復員兵、傷痍軍人とともに、疲弊し混乱し
 ていた終戦後の日本の社会を象徴するものであったことは事実ですが、国の無力さ
 を嘆かずにはいられません。
 国からも社会からも見放された当時の少年、少女たちは今どうされておられるので
 しょうか。もう後期高齢者に達しておられるでしょう。幸せな余生を過ごして欲し
 いと願う一人です。
 
 《1948年(昭和23年)の会社に関する記述は、「あ」行の「憧れのハワイ航路」
  の項を参照。》
昭和23年の会社
【不逞の輩】 辞書では「身勝手に振る舞う奴」、「道義に外れた行いをする者」の
 意ですが、吉田 茂元首相が発言した言葉です。1945年(昭和20年)、GHQの命によ
 り思想、言論規制法規の撤廃と政治犯の釈放を指令した結果、同年から翌年にかけ
 て労働組合が急速に結成されました。
 1947年(昭和22年)12月、当時の社会党指導下の日本労働組合総同盟(組合員数86
 万人)や、共産党系の各種労組(組合員数157万人)が中心となり、生活を守るため
 には政治闘争が必要と、当時の吉田内閣打倒を掲げて50万人を集めて皇居広場でデ
 モ集会を行いました。このデモに対して、マッカーサー司令官は、「暴民デモ」、
 「集団的暴力行為は日本の将来の発展に重大な脅威となる」と警告をしました。
 この争議の中、47年元旦のラジオ放送で吉田首相は「経済再建のため挙国一致を破
 らんとするが如きもの」を「不逞の輩」と呼び、「彼らの行動を排撃せざるを得な
 い」と述べたときの言葉です。
 当然、労組側はいっせいに反発し、全官公庁労組までが全国的なゼネスト実施を決
 定しましたが、GHQの命令でゼネストは中止されました。
 「不逞の輩」は、しばらく話題語でしたが、その後は登場したことは記憶にありま
 せん。
 《1971年(昭和46年)の会社に関する記述は、「え」行の「エトランゼ」の項を
  参照。》
昭和46年の会社
【不沈空母】 1983年(昭和58年)、当時の中曽根首相が渡米しワシントン・ポスト
 紙の記者の質問に対して、米ソ冷戦中、ソ連の長距離爆撃機の侵入に備え、日米同
 盟を堅持する狙いもあり、我が国を対ソ連の太平洋の陸上の航空基地・軍事拠点と
 いう意を「不沈空母」という造語で表現したものです。
 一方、「不沈空母」は通訳の誤訳説がありますが、帰国後、中曽根首相は「日本の
 防空を全うするという意味で述べたもの」とし、否定も肯定もされていないようで
 す。当時のアメリカの大統領はロナルド・レーガンさんでした。例の日の出山荘で
 チャンチャンコを羽織り、「ロン」、「ヤス」と呼び合った仲ですから特別のリッ
 プ・サービスもあり、ついでに「日米運命共同論」も発言し、物議を醸し、中曽根
 内閣不支持が43%に跳ね上がってしまいました。
 
 《1983年(昭和58年)の会社に関する記述は、「お」行の「おしん」の項を参照。》
昭和58年の会社
【ブロマイド】 子どものころ、駄菓子屋で1枚1銭のメンコサイズの相撲力士のプ
 ロマイド集めをしていました。英語のbromideは臭化物を指す語ですが、当時は訛っ
 てpuromideと言っていたと思います。浅草にある潟}ルベルという会社は、「プ
 (pu)ロマイド」と名付けて映画女優の栗島すみ子を ブロマイド屋さん
ブロマイド屋さん
 写真第1号として売り出したのが、1921年(大正10年)
 と言われています。その後、人気女優の川田芳子、岡
 田嘉子、夏川静江、時代劇スターでは林 長二郎(長
 谷川一夫)、嵐 寛寿郎、阪東妻三郎、岡田時彦、片
 岡千恵蔵、市川右太衛門などが飛ぶように売れたよう
 です。その潟}ルベルは、現在もブロマイド事業の他、
 レストラン、宅配弁当、厨房用品卸などの多角経営企
 業となっています。
 私たちの年代はブロマイド写真には無縁ですが、今風に言うと「トレカ」(トレー
 ディング・カード)というスポーツ選手、人気タレント、アニメなど趣味としての
 収集や交換することを目的のトランプ大のカードが若い世代に流行っているようで
 す。
 
 《1921年(大正10年)は、創立25周年記念大祝賀会を鶴見花月園で開催した年でし
  た。人事・制度面では、発明改良に関する審査委員会の設立、直接工員による組
  合「親交会」が結成されています。業界・一般では、ベルサイユ講和条約が調印
  された年でした。》
【ブルマ】 bloomersは女性が運動などを行うときに活動しやすいように下半身に着
 用する衣類で、日本では女学生の指定体操着でした。「ブルマ/ブルーマ/ブルー
 マー」と呼ばれていました。確か東京五輪の女子バレーボールの選手はこのスタイ
 ルではなかったでしょうか。                 
 1990年(平成2年)代に入り、風俗問題に巻きこまれて全国的に学校でブルマが衰
 退して行きました。そして、2000年代中ごろには絶滅したと言われます。風俗問題
 の理由は存じませんが、特に問題となるスタイルではないと思うのですが、いかが
 でしょうか。
 
【普通の女の子に戻りたい】 キャンディーズは1972年(昭和47年)〜1978年(昭和
キャンディーズ
キャンディーズ
53年)に活躍した伊藤 蘭(ラン)、田中好子(スー)、
藤村美樹(ミキ)の三人娘のアイドルグループでした。
ところが、人気絶頂時の1977年(昭和52年)に、キャン
ディーズは突然の解散を発表しました。そのとき、伊藤
蘭は泣きながら「普通の女の子に戻りたい」と発言した
のが、当時の流行語となりました。そして、1978年(昭
和53年)4月、当時の後楽園球場に空前の55,000人を集
めたお別れコンサートを開催し活動に終止符を打ちまし         
 た。
 昭和30/31年生まれの彼女らは、今は普通のおばさんに戻って人生を楽しんでおられ
 るのでしょうか。
 
 《1978年(昭和53年)の会社に関する記述は、「お」行の「おセンチ」の項を
  参照。》
昭和53年の会社
【風鈴売り】 「三寸」と呼ぶ木製の枠組みを両サイドに天秤棒を通して担ぎながら、
 涼しい音色を辺りに響かせてくれた夏の風物詩、「風 風鈴売り
風鈴売り
 鈴売り」の姿は、昔は街角でよく見かけましたが、最
 近は夏の夜店以外でしか見られません。
 しかし、今でも銀座をはじめ、新宿、六本木などで風
 鈴売りを30年以上続けておられる人気者の「風鈴売り」
 の方がおられるようです。4〜6月が東京で、7月は
 北海道で商売をされると聞きました。
 狂歌に「売る声もなくて 買い手の数あるは 音に知ら
 れる風鈴の徳」と詠われているように、風鈴の音を聞いてもらうため、売り声は出
 さないようですね。姿が見えなくなると淋しいものです。
【フーテン/フーテン族】 一般的には、「仕事もせず学業もせず、ぶらぶらしてい
 る人」のようですが、1967年(昭和42年)の夏ごろ、新宿東口に集まる長髪に、ラ
 ッパズボン、さらに、サングラス姿の若者の集団を「フーテン族」と呼ぶようにな
 ったようです。この恰好からすると、1960年後半、アメリカ発祥のヒッピー族の日
 本版でしょうか。         
 1968年(昭和43年)には「フーテンの寅さん」でお馴染の「男はつらいよ」がTV
 でスタートしましたが、渥美 清が演じる車 寅次郎は的屋という定職があった筈で
 す。この点、「フーテンの寅さん」とは少々意とするところは異なります。あの
 「寅さん」も他界された今、「フーテン族」はレトロ語ではないでしょうか。一方、
 定まった居所や仕事もなく、ぶらぶらしている人を「風来坊」とか「風来者」と言
 いますが、こちらもほとんど使われていないですね。今風なら新聞記事などのよう
 に、「自称○○」、「住所不定」でしょうか。
 
 《1967年(昭和42年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アングラ/アングラ族」
  の項を参照。》
昭和42年の会社
【婦人代議士】 世界各国と比較すると、我が国の女性の社会的地位は、まだまだ低         
 いようです。
 世界の議会での女性議員数比率を見ると、日本は190ケ国中、7.9%で163位だそうで
 す。比率が高いから国会の審議レベルが必ずしも高いとは思いませんが、やはり世
 界の平均レベルを目指す必要がありそうです。       
 戦後初の衆議院総選挙は、1946年(昭和21年)でしたが、女性候補者は全国で89名
 でした。結果、39名の婦人代議士が誕生しました。その中には、大石ヨシエ、加藤
 シズエ、紅露みつ、近藤鶴代、榊原千代、武田キヨ、戸叶里子、松尾トシ子、松谷
 天光光、最上英子、山口シズエ、山崎道子(藤原)、山下春江(以上、2期以上当
 選者)の各氏がおられました。今は女性国会議員、女性議員、女性代議士などの一
 般名称でしょうか。
 
 《1946年(昭和21年)の会社に関する記述は、「え」行の「駅弁大学」の項を
  参照。》
昭和21年の会社
【冬彦さん】 「冬彦さん」は、1992年(平成4年)のTBS系列の金曜ドラマ「ずっ
冬彦さん
冬彦さん
とあなたが好きだった」で佐野史郎が演じるマザコン男
性の名前です。ドラマ中に繰り広げられる特異なマザコ
ン男の行動に「冬彦さん現象」と言われるほど一大ブー
ムを作り、最終回は34.1%と、同年の民放連続ドラマ中
の最高視聴率に輝くほど、「冬彦さん」はマザコン男の
代名詞となりました。今ではすっかり忘れられて完全な         
レトロ語となっています。
 
 
 《1992年(平成4年)の会社に関する記述は、「は」行の「花の中三トリオ」の
  項を参照。》
平成4年の会社
【プラッシー】 昔、我が家は、「バヤリース・オレンジ」の他、当時は何の不思議
 さも感じず、武田薬品の名前が印刷された黄色の木箱入りの「プラッシー」を近く
 の米屋さんから届けてもらっていました。
 「プラッシー」はハウス食品の子会社・ハウスウエルネスフーズが販売しているオ
 レンジ果汁入り飲料ですが、当初は武田製薬の子会社・タケダ食品工業が1957年
 (昭和32年)に発売したときは、主として全国の米穀店と自動販売機で販売されて
 いました。
 母体が製薬会社でしたので清涼飲料の販売ルートを持たないため、流通を米穀店に
 絞って販売したようです。当時、米の小売りは主として米穀店の配達に頼っていた
 時代でしたので、瓶入りで重い「プラッシー」も一緒に配達できるメリットがあり
 ました。その後、ハウスウエルネスフーズが販売元となり、従来の米穀店だけに限
 らず、スーパーマーケットやコンビニなどでも販売されるようになりました。私に
 は懐かしいジュースです。
 《1957年(昭和32年)の会社に関する記述は、「い」行の「一億総白痴化」の項
  を参照。》
昭和32年の会社
【ファニー・フェイス】 1957年(昭和32年)に制作されたアメリカのミュージカル
 映画「パリの恋人 Fanny Face」の主役;オードリー・ヘップバーンがファニー・
 フェイスの代名詞的な顔立ちと言う人がいます。ところが、「おかしな顔」、「滑
 稽な顔」、「面白い顔」などの意味があり、注釈ではクール・ビューティに対する
 語で、ツンと澄ました顔ではなく、親しみを感じる可愛らしい顔立ちと説明してあ
 りますが、余り女性に対して言う言葉としては難しい言葉ですね。それに、最近は
 ほとんど話題にならないように思いますが、いかがでしょうか。
 
【ブラジル移民】 過去、日本人が国策として推奨され移住した国は、主にアメリカ
 ・ハワイ州とブラジルでした。ブラジルは1908年(明治41年)、初めて移民船「笠
移民船
移民船
戸丸」にてブラジルへ移住して、2008年(平成20年)で
100周年を迎えました。
1993年(平成5年)に移民制度が廃止されるまで、正確
な数字がありませんが、戦前に19万人、戦後6万人の25
万人とか、1958年(昭和33年)までに40万人とか、いろ
いろな資料があります。そして、現在のブラジルの日系
人は150万人以上と推定されています。
礼儀正しく真面目に働いた日本人移民と日系人たちは、
 想像を絶する困難と立ち向かい、コーヒー、綿、胡椒、紅茶、じゃがいもなどの各
 野菜、果物の栽培でブラジルの農産物発展に寄与し、勤勉さと教育レベルの高さか
 ら社会的地位の高い職業についているケースが多く、ブラジルの発展に大きく貢献
 しています。
 高齢化が進む日本では、これから国策として他国へ集団移民することは考えられま
 せんが、将来、環境問題で地球がおかしくなり、月へでも集団移民するなどないで
 しょうか。
 
 《1908年(明治41年)の会社に関する記述は、「は」行の「箱膳」の項を参照。》
明治41年の会社
【婦人子供専用車】 現在の「女性専用車両」が、初めてお目見えしたのが意外と古
 いのに驚きました。1912年(明治45年/大正元年)に中央線の朝夕の通勤・通学ラッ
 シュ時間帯に登場した「婦人専用電車」だそうです。
 この「婦人専用電車」は、男性と女性が一緒の車両に乗るのは風紀上好ましくない
 という、当時の国民的意向を反映して導入されましたが、意外にも不評で、直ぐに
 廃止されました。その他、関西でも神戸市電や、阪神急行電鉄(阪急)などでも運
 行されましたが、いずれも長続きはしなかったようです。
 そして戦後、1947年(昭和22年)に中央線で、同京浜 女性専用車両
女性専用車両
 東北線で導入されましたが、1973年(昭和48年)、当
 時の「敬老の日」から導入された「シルバーシート
 (優先席)」が出現するや、これも廃止されました。
 この背景には、車内における迷惑行為や痴漢行為とい
 う社会問題があったためと、少子化や利用者の減少、
 輸送力の増強など、いろいろな条件が背景にあり、時
 代々々で、出現しては廃止を繰り返してきたように思
 われます。
 私自身、定期的に行くところが決まっているため、詳しいことは分かりませんが、
 今でも一部のJRや私鉄で運行中ですが、座っておられる女性のほとんどがスマホ
 やメールに夢中です。男性でも80歳以上の高齢者にも解放するべきではないでしょ
 うか。
 《1912年(明治45年/大正元年)の会社に関する記述は、「か」行の「カンカン帽」
  の項を参照。》
大正元年の会社
【ブギウギ】 ブギウギで思い出すのは、1948年(昭和23年)、服部良一作曲、笠置
 シヅ子による“東京ブギウギ リズム ウキウキ、心ズキズキ ワクワク・・”で始ま
 る「東京ブギウギ」です。独特な声で舞台狭しと、踊りながら歌いまくっていまし
 た。「買物ブギ」、「ヘイヘイ・ブギー」、「大阪ブギウギ」、「ジャングル・ブ
 ギー」、「ホームラン・ブギ」などのレコードが立て続けに発売されて、「ブギの
 女王」として一世を風靡しました。
 音楽のことは分かりませんが、ブギそのものが話題になりませんね。
 
 《1948年(昭和23年)の会社に関する記述は、「あ」行の「憧れのハワイ航路」の
  項を参照。》
昭和23年の会社
【普 請】 時代劇を見ていると、「普請場」、「普請奉行」、「普請方」、「普請
 役」などの言葉がよく出てきますが、日常会話で「普請」という言葉が今の若者に
 通じるでしょうか。私自身使ったことはありません。普通に「家の建て替え」とか
 「リフォーム」を使ってきました。
 地方では「堰普請」という言葉が生きているようです。春の農村で田圃などに利用
 する用水路の清掃を部落全体で共同作業をするようですが、家を新築したり、修理・
 改築する意味の「普請」はレトロ語扱いではないでしょうか。
 
【フェミ男くん】 「女性に甘い男性」、「女性を大切にする男性」を意味するフェ
 ミニスト系の男性の呼称かと思いました。1994年(平成6年)ごろ話題となった言
 葉のようです。体型、ファッション、言動など女性っぽい雰囲気をもつ少年のこと
 で、英語のfemaleまたはfeminineからきているようです。同じような意味で、昔、
 「シスターボーイ」「オトメン」などに似た意味でしょうか。最近はまったく耳に
 しません。
 
 《1994年(平成6年)の会社に関する記述は、「す」行の「すったもんだがありま
  した」の項を参照。》
平成6年の会社
【フォークゲリラ】 ベトナム戦争中の1968年(昭和43年)ごろ、東京・大阪などで
反戦集会
反戦集会
始まった学生や市民による反戦フォーク・ソングを歌う
反戦集会が頻繁に行われました。警察が機動隊を投入し
排除しようとすると、集会に参加した群集が別の場所に
移動し、そこでまた集会を開くことから、マスコミが
「ゲリラ」に例えてネーミングしたそうです。
ベトナム戦争反対は理解できますが、アメリカ寄りの体
制に対する抵抗でしょうか、体制に反発しエネルギーを
発散させたのでしょう。そこに参加していた若者も、も
 う60代後半の年齢ですね。
【フジヤマのトビウオ】 「フジヤマのトビウオ」は、橋爪四郎選手と共に敗戦後の
 日本人に勇気と希望を与えてくれた古橋広之進さんです。テレビの無かった時代、
 ラジオにかじり付いて試合の様子を聞いていました。
 1948年(昭和23年)、ロンドン五輪が開催されましたが、敗戦国である日本の参加
 が認められませんでした。そこで日本水泳連盟は五輪 練習中の橋爪・古橋選手
練習中の橋爪・古橋選手
 が開催される同じ日に日本水泳選手権大会を開催しま
 した。そこで古橋選手の出した記録は、五輪で優勝し
 た選手より8秒近くも上回る世界記録でした。
 翌年、全米水泳選手権に招待された古橋選手は、400m
 自由形で4分33秒3、同800mで9分33秒5、同1500mで
 18分19秒と次々に世界新記録を樹立し、アメリカのマ
 スコミから「フジヤマのトビウオ」と呼ばれるように
 なりました。
 しかし、彼は五輪には見放されました。選手としてピークが過ぎていたこともあり、
 1952年(昭和27年)のヘルシンキ大会では8位に終わりました。古橋選手の活躍な
 くして、今日の日本の発展はなかったと思われるほど、日本人に勇気と希望を与え
 てくれた国民的ヒーローでした。2009年(平成21年)8月、ローマで開催中の世界
 水泳選手権に視察中、滞在先のホテルで急逝されました。享年80歳でした。合掌
 
 《1949年(昭和24年)の会社に関する記述は、「あ」−4「暁に祈る/暁に祈る
  事件」の項を参照。》
昭和24年の会社
【物価メーデー】 懐かしい言葉です。当時の報道写真を見たら、「国鉄ウンチン値
 上げ反対」の他、「水道料金」、「国民健康保険料」、「郵便料金」などの公共料
物価メーデー
物価メーデー
金の値上げ反対、「米の値段」、「楽しい我が家が欲し
いな」、「お嫁に行けない物価高」など、様々なプラカ
ードが見られました。1966年(昭和41年)、総評、中立
労連の春闘共闘委員会が「物価メーデー」を全国218会場
で開催し、200万人超が参加したとされています。
中央大会となった代々木の旧オリンピック選手村では、
当日、子ども連れの家族など、30万人超が諸物価の値上
げ反対を訴えていました。資料によると、1965年(昭和
 40年)の独身サラリーマンの月収は、平均23,200円で、貯金が138,000円、レジャー
 費は月3,000円程度の時代でしたが、我が家は共稼ぎで、実家から200mと近かった
 関係で、母の手作り料理が毎日届いていましたので、当時を振り返ると、余り物価
 高の実感はありません。
 これは過去のことですが、今進めている「アベノミクス」と、将来の日本経済が、
 このようなことにならないよう願っているところです。
 
 《1966年(昭和41年)の会社に関する記述は、「う」行の「ウーマンリブ」の項を
  参照。》
昭和41年の会社
【フィーバー】 英語のfeverで熱狂する意味の和製英語ですが、これが流行語とな
 ったのは、1977年(昭和52年)制作のアメリカ映画「サタデー・ナイト・フィーバ
 ー」が翌年の昭和53年に日本で公開されて、ディスコに熱狂する若者たちの姿が紹
 介されてからです。
 パチンコ通のおじさんに聞いたのですが、且O共というパチンコ・スロットメーカ
 ーのパチンコ台で「フィーバー」シリ−ズというのがあるらしいです。パチンコに
 は無縁ですので分かりませんが、いずれにせよ、日本語に「熱狂する」という言葉
 がありますので、あえて、「フィーバー」を使う必要はなさそうですね。
 《1977年(昭和52年)の会社に関する記述は、「え」行の「エレックする」の項を
  参照。》
昭和52年の会社
【ぶりっ子】 東北地方ではハタハタの卵を「ぶりこ」または「ぶりっこ」と呼ぶそ
 うですが、「ぶりっ子」は男性の前で可愛い子ぶる女性のことです。
 1980年(昭和55年)〜1981年(昭和56年)にかけて、 ぶりっ子
ぶりっ子
 若者の間で使われた言葉のようですが、人気女性コメ
 ディアン・山田邦子のギャグから一般に広まったと言
 われています。
 分かっているのに上品ぶって知らないふりをする女性
 を「カマトト」と言います。また「猫をかぶっている」
 とか「可愛い子のふり」、「可愛子ぶる」を使う人の
 方が多いようです。
 
 《1981年(昭和56年)の会社に関する記述は、「あ」行の「青い鳥症候群」の項を
  参照。》
昭和56年の会社
【ぶ り】  「と」行の「とんぼ取り」を参照。
とんぼ取り
【プロテクター(アウトサイド・プロテクター)】 英語の chest protector です。
 様々なスポーツにおいて審判員や選手が身につける防具ですが、野球の場合、捕手
 も球審も昔に比べて小さくなり、動きやすそうに見えます。特に昔の球審のプロテ
 クターは、アウトサイド・プロテクターと呼ばれる浮き袋の代わりになるような大
アウトサイド・プロテクター
アウトサイド・プロテクター
きなものでした。これが、今では服の中に着込むインサ
イド・プロテクターがほとんどです。
現在、メジャーリーグ・ベースボール(MLB)では1979年
(昭和54年)に、日本プロ野球(NPB)ではセ・リーグ
が1980年(昭和55年)後半から徐々に使用され、両リー
グ共に1994年(平成6年)から使用が義務化されました。
一方、高校野球も1999年(平成11年)の第71回選抜高等
学校野球大会から使用されました。
 インサイド・プロテクターは身軽に動ける半面、防御面積が狭く怪我の可能性が増
 す問題があります。アウトサイド・プロテクターは球審は大変でしょうが、あれを
 付けてのジャッジも中々様になっていたと思いますがいかがでしょうか。
 
【ふんどし/褌担ぎ】 もとは相撲の世界で関取の身の回りや褌を持ち運ぶ役をする
 序二段以下の力士に対する俗語です。これが転じて、その世界で最も地位の低い人
 のことを意味する言葉となりました。関連した俗語には、「三下」、「使いっ走り」、
 「新米」、「雑魚」、「兵隊」、「ペーペー」などがあります。
 
【プラトニック・ラブ】 私たちの年代ですと、学生時代に一度はプラトニック・ラ
 ブを経験しているのではないでしょうか。男女が肉体関係のない精神的な愛情をお
 互いに抱く恋愛関係をプラトニック・ラブと呼んでいます。それほど相手が眩しか
 ったのでしょうか、お互いに純粋だったのでしょうか、幼かったのでしょうか。
 現在は、結婚を約束していなくても、肉体関係を持つ男女が多い中、好き合ってい
 れば肉体関係を持つのは自然なこと・・、というのが一般的ですのでプラトニック・
 ラブは完全にレトロ語となりました。
【ブルジョア/ブルジョワ】 これも最近余り使われなくなっていませんか。対義語
 のプロレタリア(労働者、無産者)が話題にならなくなったからでしょうか。
 bourgeois(英仏)で、いわゆる金持ち、財産家、資産家のことです。
 最近、日本ではお金持ちのことを「セレブ」をよく使っているようですが、英語の
 セレブ(celebrity)の本来の意味はテレビや映画に出るような著名人のことのよ
 う、著名人=金持ちとなっているのでしょうか。
 
【風来坊】 「フーテン/フーテン族」の項を参照。
フーテン
【プッチホン】 初めて知りました。あの第84代内閣総理大臣の小渕さんが、政治以
 外でご活躍とは知りませんでした。「ブ(ぶ)ッチホン」は「プッシュホン」をも
 じったものですが、実は、あの人柄の良さそうな、決して多弁ではなさそうな首相
 が、こういう趣味(?)、というのか「器用さ」、 小渕_元首相
小渕_元首相
 「行動力」が、あったのかと驚いています。
 「ブッチホン」は、小渕首相の「渕」(ぶち)と、電
 話の「ホン」を掛け合わせて生まれた造語のようです。
 小渕首相は、秘書を通さず、放映中の番組でも感激し
 たり、気に入ると直接会場に電話をしたり、顔見知り
 のビートたけしや中村勘九郎などタレントや俳優など
 に電話を掛けまくったと言われています。
 掛けられた方は大変だったようです。「小渕ですが・・」と言うと、「どちらの小
 渕さんでしょうか?」、「総理大臣の小渕です」ということで、皆さん大変戸惑っ
 たようです。
 これが「ブッチホン」だそうで、1999年の「日本新語・流行語大賞」に選ばれまし
 た。