『 た 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【タイガー計算器】私が初めてタイガー手動式計算器を使ったのは大学3年生のとき
 でした。各種実験データの整理、卒業論文や卒業設計のための計算、併せて、ヘン
 ミの計算尺や材料の重量計算器は片時も離せませんでした。
 入社して4年後、生産計画部署に異動したころ、同じ職場で見積・原価計算担当の
 S君と出会いましたが、彼はこの計算器の名手でした。
 操作の速さにびっくりしました。
 この計算器は一時、各分野で大いに普及しましたが、 タイガー計算器
タイガー計算器
 1964年(昭和39年)以降、トランジスタ式電卓、IC使
 用電卓、LSI使用電卓が次々に登場したため、1970年
 (昭和45年)には製造中止となってしまいました。
 今では、どこかの大学の資料館か国立科学博物館にで
 も行かないと見ることができません。あのチンという
 音が懐かしいですね。
《1964年(昭和39年)の会社に関する記述は、「あ」行
 の「アイビールック/アイビー族」の項を参照。》
昭和39年の会社
【脱脂粉乳の学校給食】スキムミルクとも言われており、製菓、バターや各種料理に
 今でも使われています。保存性がよく、栄養価が高いことから終戦後、ララ物資と
 して1946年(昭和21年)から1952年(昭和27年)、また、ユニセフから1949年(昭
 和24年)から1964年(昭和39年)にかけて、脱脂粉乳の援助を受けてきましたが、
 1950年(昭和25年)代半ばから通常の牛乳に切り替わり始めました。
 私も終戦後の食料難時代には脱脂粉乳のお世話になりましたが、学校給食経験者に
 は、「美味しかった」「臭いが気になり美味しくなかった」の賛否両論があったよ
 うでした。給食経験者の皆さんはいかがでしたか。
《1952年(昭和27年)の会社に関する記述は、「お」行の「踊る宗教」の項を参照。》
昭和27年の会社
【たばこ盆】我が家には祖父愛用の煙草盆がありました。それが東京から長野、長野
 から大阪、大阪から茅ヶ崎へ引っ越している内に家か たばこ盆
たばこ盆
 ら消えていました。
 祖父の煙草盆は盆型の平凡なものでしたが、文献で調
 べると意匠もさまざま、なかには蒔絵が施された調度
 品風の見事なものが見られました。
 禁煙ムードの時代、愛煙家の皆さんも家には灰皿のみ、
 場合によっては、玄関先で携帯用吸殻入れ持参で我慢
 させられている方も多いでしょう。
 煙草盆は家庭から姿を消した物の一つです。
【団地族】1950年(昭和25年)代半ばに日本住宅公団によって建設が始まった公団住
 宅は、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダなどを取り入れ近代的な
 ものとして、当時のサラリーマンをはじめ各種職業の人の憧れの住宅でした。そこ
 から「団地族」という言葉が流行しました。「団地族」を最初に報道したのは1958
 年(昭和33年)7月20日号の「週刊朝日」でした。 団地族
団地族
 しかし、1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)
 代ごろに建設された団地は、5階建てまでに規制され
 ているものが多く、エレベーターが設置されていない
 ものがほとんどです。これらが老朽化の時期を迎え、
 更に住民も高齢化していることから、建て替えや引っ
 越し、バリアフリー化など「団地族」は大きな課題を
 抱えています。
《1958年(昭和33年)の会社に関する記述は、「あ」行の「赤線/青線」の項を参照。》
昭和33年の会社
【ダンパ/ダンパー】「ダンス・パーティー」の略で若者言葉の一つです。元は社交
 ダンスのパーティーを指して使われましたが、1960年(昭和35年)半ば以降、ディ
 スコ・ブームに入ると、クラブで運営するもの、仲間内で場所を借り切って行うダ
 ンス・パーティーとして若者に浸透して行きました。
 更にダンパは単に踊るだけではなく、男女の交際・ ダンス・パーティー
ダンス・パーティー
 合コン的なダンパとなって行きましたが、平成に入り
 ダンパの言葉は使われなくなりレトロ語入りとなりま
 した。ところが、2005年(平成17年)ごろからアニメ
 やゲームなどの登場人物やキャラクターに扮し、ダン
 スするコスプレダンパというコスプレしながら踊るイ
 ベントが増えてきたと言われていますが、どんなもの
 でしょうか。
 
【駄菓子屋】私たちの子どものころは、どこにでも「じじばばがいる駄菓子屋」があ
 り、児童相手に、おもちゃ花火、玩具、糯(もち)竿と糯、ブロマイド、めんこ、
 コマ、各種駄菓子などが所狭しと置かれていました。学校の帰りには必ず立ち寄っ
 たものです。2〜3年前、我が家の近くで小学校への 駄菓子屋
駄菓子屋
 登校路にある駄菓子屋が廃業しました。
 少子化の影響、子どもたちの遊びに対する嗜好の変化、
 駄菓子屋自身の後継者問題、そして、子どもがお年玉
 で貯めた小遣いが昔に比べて豊かになったことで、品
 数が豊富で衛生的なコンビニエンス・ストアなどに客
 足が向いてしまい、1980年(昭和55年)代以降、近場
 では台東区の蔵前や川越市の菓子屋横丁など一部地域
 を除いて激減している駄菓子屋です。
《1983年(昭和58年)の会社に関する記述は、「き」行の「金妻」の項を参照。》
昭和58年の会社
【タイピスト】昔、総務とか海外と文書をやり取りする部署には、タイプライターで
 英文や和文で文書を作成する仕事を専門とするタイピストがおられました。当時は、
 女性の職業としては花形の一つでした。この花形のタイピストを養成する学校もあ
 りました。
 昔の洋画には新聞記者や秘書がタイプを打つシーンが 映画「タイピスト」から
映画「タイピスト」から
 よくありましたが、アメリカ企業の秘書を長年務めた
 家内が言うには、「速く正確に、印字の美しい文書」
 が要求され、同時に口述や原稿、文法上の誤りも指摘
 する能力が必要とのことでした。
 今はタイプライターに代わってパソコンの時代ですが
 同じことが求められています。
 話は反れますが、2012年(平成24年)制作の、フラン
 スのレジス・ロワンサル監督の「タイピスト」という映画があります。
 1950年(昭和25年)代、フランスを舞台にタイプライター世界大会にかけるヒロイ
 ンを描いた映画です。在職中、仕事でお世話になったタイピストの皆様に感謝の意
 味で、一度、鑑賞してみるつもりです。
【代書屋】多磨霊園に墓参に行くとき、府中の自動車運転免許センター前を通ります。
 近くに数軒の「代書屋」の看板がありますが、以前に比べて減っており、閑古鳥が
 鳴いているようです。
 今は行政書士、司法書士と呼ばれており、代書屋と呼ぶ人はほとんどおられないの
 ではないでしょうか。
 ちょっと脱線しますが、母がよく使っていた昔の呼び 代書屋
代書屋
 名に、パーマ屋さん(=美容院)、床屋さん(=散髪
 屋/バーバー)、レコード屋さん(=CDショップ)、
 服屋さん(=アパレル)、郵便屋さん(=郵便局員)、
 株屋さん(=証券会社)、ぽっぽ屋さん(=鉄道会社)
 などがありました。更に大手スーパーや大型店の進出
 で乾物屋、豆腐屋、酒屋、牛乳屋、氷屋、八百屋、魚
 屋など廃業に追い込まれている駅前の商店街を見てい
 ると時代の流れを感じます。
 
【たばこの看板/たばこの看板娘】昔、街角の煙草屋さんには赤地のホーロー看板が
 ありました。看板には、「專賣局指定 煙草 小賣所 TOBACCOS」または、「TOBACCOS 
 たばこ」、縦看板には「專賣局指定 煙草小賣所・・」と書かれていました。
 1955年(昭和30年)代の街角に煙草屋さんはガラスケースに腰ほどまでタイルを貼
 った小さな店構えをよく見かけました。 たばこの看板
たばこの看板
 今はブランドデザインを使った看板や自動販売機のみ
 で店終いや他の業種に商売替えし、街の煙草屋さんは
 姿を消しつつありますが、昔は不思議と店先に若いき
 れいな娘さんが応対してくれました。1937年(昭和12
 年)に世に出た「向う横丁のタバコ屋の可愛い看板娘、
 年は十八番茶も出花 いとしじゃないか・・」ご存知
 「タバコ屋の娘」(作詞:菌 ひさし/作曲:鈴木静一)
 の歌のとおりでした。
 
(HP担当者注:皆様、ご存じと思われますが、節回しは、「たんたん狸の・・・」や
 ビックカメラのCMソングです。似たところで、ヨドバシカメラのCMソングは、アメリカ民謡『リパブリック
 讃歌 Battle Hymn of the Republic』です。)
 
《1937年(昭和12年)の会社に関する記述は、「そ」行の「総天然色映画」の項を参
 照。》
昭和12年の会社
【大八車】大八車は江戸時代から、明治、大正、昭和、 大八車
大八車
 終戦後も暫く使用されていました。
 名称の由来は諸説あるようですが、一台で八人分の仕
 事(運搬)ができることから代八車という説と、車台
 の大きさが八尺のものを大八と呼んだ等々ですが、今
 では時代劇の中でしか見られません。
 同じようにリヤカーや牛馬による荷車も同様です。
 
【尋ね人の時間】1946年(昭和21年)7月1日〜1962年(昭和37年)3月末の期間、
 毎週土日を除く平日に放送されたNHKのラジオ番組でした。
 太平洋戦争で離別した人の消息を尋ねるものですが、資料によると放送期間中、ア
 ナウンサーが読み上げた依頼総件数は19,515件、その約1/3にあたる3,797件が尋ね
 人を探し出せたと報告されています。
 幼ごころにアナウンサーが読み上げる依頼人の手紙を聞きながら、消息が早く分か
 ってくれればと祈りながら聞いていたのを思い出します。
《1946年(昭和21年)の会社に関する記述は、「え」行の「駅弁大学」の項を参照。》
昭和21年の会社
【煙草の輪っか遊び】入社して5〜6年は煙草を吸わなかったのですが、設計部署に
 異動してから、図面の検図、計算書のチェック、客先への見解書の作成、特許資料
 のチェック、雑誌への寄稿など、慣れない業務に悪戦苦闘している内に喫煙するこ
 とを覚えてしまいました。
 当時、喫煙者の中で煙草の煙で輪っかを作る遊びが流行っていました。
 器用な人は、いろいろな輪っかを自在に吐き出していました。禁煙して45年経ちま
 すが、街中の喫煙場所でも、飲食店の喫煙コーナーでも、こんな馬鹿な真似をして
 いる人を見たことがありません。気持ちに余裕がないからなのでしょうか。
 
【炭団(たどん)】1955年(昭和30年)代ごろまでは家 炭団(たどん)
炭団(たどん)
 庭でも真っ黒なボール状の炭団を暖房用や調理加熱用
 に、また火鉢や炬燵に使っていたように思います。
 子どものころは雪だるまの目に炭団を、眉毛に木炭を
 使って遊びました。
 脱線しますが、相撲の星取表で負けの印を黒星または
 炭団と言っていますね。
 
 
【筍生活/竹の子生活】広辞苑によると「竹の子の皮をはぐように身の回りの衣類、
 その他の所有品を売って生活費にあてる暮らし、特に第二次大戦直後に言われた」
 とあります。
 我が家も祖父、両親、育ち盛りの4人兄妹で配給米では間に合わず、母親と一緒に
 現在の羽村市方面へ買い出しに出かけました。終戦後も暫く続きました。私の記憶
 では、母の着物はほとんど米やさつま芋などと物々交換されてきました。子ども心
 でも箪笥の中の着物が減って行くのを見ていましたので胸の痛みを感じていました。
 いつの時代でもなんらかの事情で筍生活を余儀なくされる人はいますが、戦争だけ
 は絶対避けねばなりません。
【竹馬経済】1949年(昭和24年)、GHQの経済顧問として来日したジョセフ・ドッジ氏
 は、ドッジ・ラインと言われた9原則の金融引き締め政策を日本政府に求めました。
 そのドッジ氏が来日時、記者会見で日本経済を竹馬経済と評し「片方の足はアメリ
 カの援助、もう一方の足は日本国内の補助金と例え、竹馬の足の高さを上げ過ぎる
 (援助額や補助金の額を上げる)と転んで首を折る危険がある」ということを述べ
 ました。
 結果として、戦後のインフレは収まりましたが、逆にデフレが進み、失業や倒産が
 相次ぐ「ドッジ不況」が引き起こされました。
 《1949年(昭和24年)の会社に関する記述は、「あ」−4「暁に祈る/暁に祈る
  事件」の項を参照。》
昭和24年の会社
【太陽族】懐かしい言葉ですね。1955年(昭和30年)ごろでしたか? 石原慎太郎が
 「太陽の季節」(新潮社)で作家デビューし、同年、芥川賞を受賞しました。そし
 て弟の故・石原裕次郎も同年に「太陽の季節」の映画化で俳優デビューを果たしま
 した。 太陽の季節
太陽の季節
 そこに描かれた夏の海辺などを舞台に無軌道な若者の
 行動を、大宅壮一が「太陽族」と造語したもので、こ
 の年以降、流行語となりました。
 戦後、日本にはいろいろな「○○族」の名称が出ます
 今までどんな「族」が話題となったのでしょうか。
 記憶には、つっぱり族、フーテン族、暴走族、竹の子
 族、カミナリ族、六本木族、みゆき族、原宿族、アン
 ノン族、アイビー族、アングラ族、エレキ族、親指族、しぐれ族、などが話題を呼
 びました。これから、どんな「族」が出るのでしょうか。
《1955年(昭和30年)の会社に関する記述は、「う」行の「歌声喫茶」の項を参照。》
昭和30年の会社
【竹馬遊び】昔から竹馬は子どもの代表的な遊びの一つでした。私自身、技量に応じ
 て、より高いものを自分で作って遊んでいました。普通は竹を使用しますが、地域
 によっては木製もあり、様々な呼び方があるようです。
 似た遊びに、空き缶の底に穴をあけて紐を通し竹馬同様に遊ぶのもありました。
 幼稚園ではバランス感覚や足腰の筋力を鍛えるために竹馬を取り入れているところ
 があるようですが、子どもが竹馬で遊んでいる姿を我が家の近くではお目にかかり
 ません。今の竹馬はステンレス製のものが市販されていますが、自然の材料を使っ
 たものの方が温かみを感じますね。
 
【伊達男】一説には、派手好きな戦国の武将・伊達政宗が粋で洒落たものが好きだっ
 たことからお洒落な男のことを伊達男と呼ぶようになったとか。
 顔立ちがよく、スタイルもよく、洋服などのセンスもよい男となると、“ダンディ”
 でしょうか、“理想の男性”が類語でしょうか。
 ところで、見え、格好、派手、洒落から派生した伊達がつく言葉が結構ありました。
 伊達襟、伊達心、伊達巻き、伊達眼鏡、男伊達、伊達こき、伊達参り、伊達の薄着、
 伊達女などでした。日本語のユニークさ、面白さを感じさせますね。
【ダッコちゃん】1960年(昭和35年)、宝ビニール工業所(現・タカラトミー)が製
 造したソフトビニール製の人形の愛称ですが、正式名称は「ウインキー」だそうで
 す。当初は「木のぼりウインキー」「黒ん坊ブラちゃん」という名称で売り出され
 ましたが、腕などに抱きつくようにぶら下げられることから「ダッコちゃん」とい
 う愛称が付けられ、若い女性が腕やバックに付けたファッションが流行しました。
 当時の価格で180円です。結構よい値段ですね。 ダッコちゃん
ダッコちゃん
 ところが、1988年(昭和63年)ごろ、黒人差別論争に
 巻き込まれて製造中止となりましたが、2001年(平成
 13年)に腰みのや、厚い唇などの人種差別を示す要素
 は取り払われて、代わりに尻尾を付けたキャラクター
 として再登場しているようです。
 残念ながら私自身見たことがありません。
《1988年(昭和63年)の会社に関する記述は、「お」行
 の「オバタリアン」の項を参照。》
昭和63年の会社
【竹の子族】野外で独特の派手な、奇抜な衣装でディスコサウンドに合わせてステッ
 プ・ダンスを踊る若者集団。1980年(昭和55年)ごろ、毎週日曜日の原宿、代々木
 公園横の歩行者天国には竹の子族のチーム約50グループ、およそ2千名と、これら
 を見物する人々で膨れ上がりました。 ブティック・竹の子
ブティック・竹の子
 竹の子族の由来は、自作以外の衣装を1979年(昭和54
 年)に開業したという「ブティック・竹の子」で購入
 していたことが竹の子族の由来の一つと言われていま
 す。1980年代後半には、ツイストダンス、ブレークダ
 ンスや各種バンド等のパフォーマンス集団に押されて
 、竹の子族ブームは下火になりましたが、聞くところ
 では、当時のメンバーに新メンバーが加わり「平成竹
 の子族」を呼称して野外でイベントを開催しているようです。
《1980年(昭和55年)の会社に関する記述は、「か」行の「カラスの勝手でしょ〜」
 の項を参照。》
昭和55年の会社
【ダイヤル式黒電話機】リーンリーンという音が出る懐かしい600形電話機ですね。
 1980年(昭和55年)代にはまだ家庭で使われていまし ダイヤル式黒電話機
ダイヤル式黒電話機
 たが、プッシュフォン式が登場してから姿を消しまし
 た。しかし、今でも電話のマークは「ダイヤル式黒電
 話機の記号」です。
 知人から聞いた話ですが、実家にある黒電話を平成生
 まれのお孫さんに見せたら掛け方が分らず、ダイヤル
 の穴の所を指で押してみたそうです。電話はプッシュ
 フォン、携帯、iPhoneの時代ですから無理もないこと
 でしょう。
 
【ダルマさんが転んだ】遊びなどで10まで数える数え方の一つです。子どものころ、
達磨さんが転んだ
達磨さんが転んだ
よく遊びで使いました。もう一つ「神様の言うとおり」
も覚えています。日本の各地には、いろいろな数え方が
あるようです。「坊さんが屁をこいた」(近畿地方)、
「インド人のくろんぼ」(九州、四国など)は差別用語
になると思われますが、いかがでしょうか。その他、
「兵隊さんが通る」「寿がきやの焼きうどん」などがあ
るようです。皆さんはどんな数え方をしましたか。
 
【だいじょうX】「大丈夫」と英語の「X」をかけた言葉で、「大丈夫」と同意です
だいじょうX
だいじょうX
が、言うときに、Xサインを出しながら言うものだそう
です。インターネット上では、大丈X=(^−^)Dと
顔文字を絡めた形で使われていますが、基本的にはレト
ロ語で、しかも、親父ギャルの一つですね。
 TVで、どこかで聞いたことがあると思い調べてみま
した。思い出しました。1990年(平成2年)、タケダの
アリナミンXのTVコマーシャルでアーノルド・シュワ
ルツエネンガーが出演している当時の面白CMの第1位
 でした。
《1990年(平成2年)の会社に関する記述は、「こ」行の「恍惚の人」の項を参照。》
平成2年の会社
【俵(たわら/ひょう/ぴょう)】かつては米、大豆・小麦の雑穀は俵で流通していた
俵(たわら/ひょう/ぴょう)
俵(たわら/ひょう/ぴょう)
もので、元来は一つの俵に入る容量単位でしたが、現在
はほとんど重量単位です。
俵が単位として全国的に統一されたのは明治時代のよう
です。米1俵は4斗(約72リットル)、1斗(約18リッ
トル)の重さは約15Kgですので、旧1俵は約60kgです。
1951年(昭和26年)の計量法施行により正式に60kgと改
められました。少し脱線しますが、昔の農業従事者や関
連する労働者は力持ちだったのですね。
 60kgの俵を担いで運んでいました。現在は農業従事者の高齢化などで流通されてい
 る米袋は旧1俵の半分の30kg入りの包装が標準となっています。同じ入れ物に莚
 (むしろ)を袋にして穀物、塩、石灰、肥料を入れた「かます」もありました。
《1951年(昭和26年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アジャパー」の項を参
 照。》
昭和26年の会社
【たらい/盥】昔、洗濯機のない時代の洗濯は「たらい」と洗濯板でした。疎開先の
たらい/盥
たらい/盥
信州では、家の裏手に綺麗な小川があり、そこが洗濯場
でした。「たらい」も桶の製作技術を使って木製のかな
り大きなものでした。夏には行水用に、妹が生まれると、
保温性に優れているので産湯用に使われました。また、
冷蔵庫のない時代、井戸から汲み上げた冷たい水で西瓜
を冷やすのに使用もできました。
終戦後は、「木製たらい」からアルミニウムやメッキ加
工した鋼板製、トタンを用いた「金だらい」(かなだら
 い)、そしてプラスチック製と変わって行きました。
 行水も今やシャワーの時代です。今では「たらい舟」、「寿司桶」、「たらいうど
 ん」など観光用、料理用に使用されていますが、一般家庭からは完全に姿を消して
 しまいました。不思議なことに、「物事を次から次へと送り回す」、「責任を転嫁
 する」意味の「たらい回し」は残っています。
 
【タニシ】文献では、南米、南極を除いた大陸と、その周辺の水田、用水路、池など
田螺
田螺
に生息する・・と記載されています。子どものころ、疎
開先の信州の田んぼにはたくさん生息していました。
農薬を使用する前は食用として、味噌汁や和え物として
食卓を飾っていました。
戦後、農薬使用の影響で急激に減少して行きました。
今では絶滅が危惧されているようです。我が国は環境条
件も改善され、自然が戻って来ているように思っていま
すが、まだまだなのですね。ホタルやメダカ、そしてタ
 ニシなどが戻っている里山を、もう一度見たいものです。
【大名古屋ビルヂング】私は英語の建物buildingをカタカナ語にすると、「ビルジン
大名古屋ビルヂング
大名古屋ビルヂング
グ」「ビルヂング」とは書かず「ビルディング」と書き
ます。皆さんはいかがでしょうか。 1965年(昭和40年)
5月、東海道新幹線の開通後間もなく名古屋駅桜通口正
面に竣工したオフィス兼商業ビルの大名古屋ビルヂング
です。このビルが一躍有名になったのは看板が大名古屋
ビルヂングだったからです。 そのビルも2012年(平成
24年)9月をもって閉鎖され、現在、2015年10月竣工予
定で新ビルへの建て替えが進められています。
 資料を調べてみますと、1923年(大正12年)、桜井小太郎設計の丸ノ内ビルヂング
 も「ヂ」を使っています。さらに、日本ビルヂング協会及び、同協会会員の各地の
 協会も大阪、仙台、中国が、大阪/仙台/中国ビルディング協会の名称を使用してい
 ますが、その他はすべて○○ビルヂング協会でした。これも不思議ですね。
《1923年(大正12年)の会社に関する記述は、「お」行の「オートバイ」の項を参照。》
大正12年の会社
【竹のカーテン】人気の家具・インテリアの竹製カーテンではありません。東アジア
竹のカーテン
竹のカーテン
における共産主義陣営と反共主義陣営との境界線を、か
つての冷戦下の欧州における「鉄のカーテン」、同様に
「竹のカーテン」と表現したようです。具体的には、中
国大陸、朝鮮半島の北緯38度線、ベトナムの北緯17度線
などの共産党国家と反共産主義国家との境界です。
1946年(昭和21年)、当時のチャーチル英国首相が演説
の中で「社会主義国家の東欧諸国が資本主義の西欧諸国
に対して障壁を作っている」として、旧ソ連等を含めて
 「鉄のカーテン」という表現を使い世界中で脚光を浴びましたが、中国をはじめ、
 共産主義と体制の内情がよく分からないという意味を込めて「竹のカーテン」と呼
 ばれたのでしょうか。日本にも、かつて外国人から皇室に対して「菊のカーテン」
 と表現されたことがありました。
《1946年(昭和21年)の会社に関する記述は、「え」行の「駅弁大学」の項を参照。》
昭和21年の会社
【タバコで火を借りるシーン】昔、私もタバコを吸っていたころ、マッチがなくなる
タバコで火を借りるシーン
タバコで火を借りるシーン
と近くでタバコを吸っている人に、「すいません!火を
貸してください」と言って相手のタバコの火を借りたも
のです。
昔と違って、どこでも勝手に喫煙できないということも
ありますが、最近は喫煙者同士でタバコに火をつけるシ
ーンを見たことがありません。今思うと、いろいろな場
所で他人との会話のきっかけにはよかったような気がし
ますが、いかがでしょうか。
 
【タンマ】一時中断とか、ちょっと待っての意味で、子どものころ、遊びの最中によ
猫のタンマ
猫のタンマ
く使いました。 調べてみますと、「タイム」が訛って
「タンマ」となった、また、器械体操で手足の滑り止め
にパウダー状の「炭酸マグネシウム」を使いますが、こ
れを略して「タンマ」となった、さらに、「短」い「間」
から「タンマ」などの諸説がありました。最近は耳にし
ませんが、今でも子どもさんたちは遊びで使っているの
でしょうか。
 
【ターザンごっこ】「ア〜アア〜」というターザンの野性的な雄叫びが印象的でした。
ターザンごっこ
ターザンごっこ
終戦後、オリンピック水泳の金メダリストであったジョ
ニー・ワイズミュラー主演の数多くの「ターザンシリー
ズ」の内で、当時上映された「ターザンと豹女」、「ター
ザンの怒り」はチンパンジーを連れてジャングルの王者
として君臨し、密猟者や害を及ぼす猛獣に鉄槌を下すス
トーリーに胸を躍らせたのを思い出します。
疎開先の信州は自然の豊かな所、ターザン映画に刺激さ
れて木のぼり、縄を利用しての跳び競争や木々への移動
 などターザンごっこが流行りました。 今と異なり、テレビも携帯電話もゲーム器
 も何もない時代でしたが、当時の子どもは、自然に恵まれて、みな元気でした。
 ターザンごっこも過去の遊びの一つとなりました。
 
【だんご3兄弟】1999年(平成11年)に、ポニーキャニオンから出されたタンゴ系の
だんご3兄弟
だんご3兄弟
童謡です。主人公が3兄弟の串だんごというキャラクタ
ーですが、あっという間に子どもたちの間で人気となり、
続いて発売されたCDも大ヒットしました。同年の第41
回日本レコード大賞特別賞、ゴールデン・アロー賞、日
本ゴールドディスク賞など多数の賞を受賞しました。
ところで、この「だんご3兄弟」は、串の上から長男の
「串団子一郎」、次男の「同次郎」、三男の「同三郎」
と命名されており、このブームを利用して各地の団子屋
 さんはいろいろな串団子を創作し販売したと聞いています。しかし、このブームか
 ら約10年以上経過し沈静化しましたが、世間には、この「○○3兄弟」という言葉
 だけが残っています。例の2004年(平成16年)に発覚した政治家の年金未納問題で
 は、当時の小泉内閣の福田康夫内閣官房長官を含む閣僚の大物を比喩して「未納3
 兄弟」とか、2013年(平成25年)春の中国からの大気汚染物質PM2.5の飛来、更に
 黄砂、それと国内の杉花粉が重なったことから「飛散3兄弟」と呼んだように、マ
 スコミ、政界では利用できそうな言葉のようです。
 
【立ちん坊/たちんぼ】調べてみたら、元々の「立ちん坊」は明治から大正時代、車が
 輸入され、国産車が開発しだしたころ、まだ、車の性能がよくなかった時代でした。
 当然、坂を上り切れない車がありました。坂のところに立って車を待ち、車が差し
 掛かると上り坂を押して、何がしかの小遣いをもらう人がいたようです。
 また、昔の職業安定所近辺をぶらぶらと立ちながら仕事を探す日雇い労働者のこと
 も意味しました。その後、道路に立って客を待つ、当時の娼婦のことも「立ちん坊」
 と呼ばれるように解釈が拡大されて行きました。当然、「長い時間立っていること」
 も含まれています。
 また、脱線しますが、日本語は難しいと、よく外国人から指摘されますが、やたら
 と「坊/ぼ」がつく言葉の多いのに気がつきました。 解説は省略して列挙すると、
 「暴れん坊」、「赤ん坊/ぼ」、「けちん坊/ぼ」、「甘えん坊」、「怒りん坊/ぼ」、
 「食いしん坊」、「寝坊」、「利かん坊」、「木偶坊(でくのぼう)」、「卑しん坊」、
 「黒ん坊」、「桜ん坊」、「通せん坊/ぼ」の他、喋り言葉で「忘れん坊」、「慌てん
 坊」、などです。「坊/ぼう」のことを調べると面白いでしょうね。
【代用食】戦時中の1941年(昭和16年)、前年に都市部では砂糖、マッチが配給制に
代用食
代用食
なったのに続き、主食の米も配給制となりました。
そこで登場したのが「すいとん」や芋類など「代用食」
です。「欲しがりません、勝つまでは」と、ひもじい思
いをして耐えていました。今は「飽食の時代」、日本が
戦争に負けたことも知らない世代が次世代を担って行く
ことになります。某国ではありませんが、自国の歴史認
識をする必要があるようです。
ところで、「代用食」ではないですが、「代用品」とい
 う言葉があります。「ある物の代わりに使う品/間に合わせ品」です。食品だと「コ
 ピー食品」、「○○もどき」でしょうか。「蟹蒲鉾」、「人造イクラ」、「人造キャ
 ビア」から「人工甘味料」など、数えきれないほど店内に溢れています。
 これらは、先のホテルやデパートの偽装問題と異なり、中身が正しく表示されてい
 れば問題はありません。
 同じように、回転寿司の低価格のネタはすべて代用魚(偽装魚)が使われているの
 は常識となっていますが、低価格で満足できるから黙っていますが、不当表示で高  
 い価格で販売すると問題となるでしょう。早急に業界のルール作りが望まれるとこ
 ろでしょう。
 
【大日本帝国陸海軍/大本営】1871年(明治4年)〜1945年(昭和20年)までの日本の
大日本帝国陸海軍/大本営
大日本帝国陸海軍/大本営
軍隊組織でした。旧ソ連同様、現在は存在しませんので、
その意味ではレトロ語です。戦後は旧日本陸軍/海軍と呼
ばれるが、同様に旧軍隊に関する陸軍省、海軍省、大本
営、参謀本部、艦政本部、連合艦隊、特務機関、階級名
などの名称も同様です。
話題にするときは、当然、旧をつけるのでしょうね。
《上記期間中の1935年(昭和10年)は、東京計器青年訓
練所を私立東京計器青年学校練所を私立東京計器青年学
 校に改称し、機関紙「東計青校」を発刊した年でした。
 人事・制度面では、自衛消防隊の結成、社員記章・就業記章の制定、制服の採用、
 課長制の採用の他、同好会にカメラクラブ、吟詠部が誕生した年でした。一方、業
 界・一般では青年学校令が公布され、海外では独国再軍備を宣言した年でした。》
《同1936年(昭和11年)は、羽田飛行場に土地を購入し格納庫を建設し、格納庫隣接
 地(3,749u)を海軍へ寄贈した年でした。
 人事・制度面では、社内炊事制度の実施、社歌(旧)の制定がありました。一方、
 業界・一般では、日本のロンドン軍縮会議脱退、2.26事件、退職積立金および退職
 手当法が公布された年でした。》
【大陸の花嫁】国策として進められた満蒙開拓は、1937年(昭和12年)に勃発の日中
大陸の花嫁
大陸の花嫁
戦争により、当地の成人男子は兵隊に駆り出されました。
しかし、本土からの移民も短期間に実現することが困難
なため、現地の10代の少年を「満蒙開拓青少年義勇軍」
とし、彼らの結婚相手となる女性を鳴り物入りで「大陸
の花嫁」として送り込みました。その後、「満州建設勤
労奉仕隊」が発足し、「女子勤労奉仕隊」として渡満し
た女性も「大陸の花嫁」となりました。
敗戦後の彼女らの現実は筆舌に尽くし難いものであった
 と、いろいろな著書や資料で見ることができます。旧ソ連軍の参戦を含めて戦争の
 犠牲となった方々、病死や自決された方々の無念さ。そして中国残留婦人、残留孤
 児の方々のことを決して風化させてはならないという思いです。なぜならば、今日
 の平和な日本は、彼女らを含めたすべての先人の犠牲の上にあるからです。
《1937年(昭和12年)の会社に関する記述は、「こ」行の「後楽園球場」の項を参照。》
昭和12年の会社
【男子の本懐】「男の本懐」の類語には、「男の美学」、「男のロマン」、「男の夢」、
男子の本懐
男子の本懐
「男冥利」などがありますが、濱口雄幸首相と井上準之
助蔵相の政治に生命を賭けた「男の本懐」とは重み違う
ように思います。城山三郎の「男の本懐」をご存知の方
も多いと思います。第一次世界大戦後の慢性的不況を脱
するために、1930年(昭和5年)に断行された金解禁を
遂行した気骨のある政治家・濱口首相と井上蔵相が如何
にして政治に生命を賭けたか、人間の生きがいとは何か
を問いかけた長編経済小説です。結果として二人は信念
 を貫きますが、右翼の手で凶弾と暗殺で倒れています。
 濱口首相が首相就任時に家族に語ったと言われる言葉に、「仮令玉砕すとも男子の
 本懐ならずや」があります。政策についての論評は別として、国家のために生命を
 賭けて取り組む思いが感じられます。しかし、最近の政治家を見ると、党利党略、
 保身が目立ち、「国家、万民のために・・」という姿勢が見られないのは残念です
 ね。
《1930年(昭和5年)の会社に関する記述は、「か」行の「ガラス製のハエ取り器」
の項を参照。》
昭和5年の会社
【タフガイ】英語のtough guy で、たくましい男/屈強な男の意味ですが、1958年
タフガイ
タフガイ
(昭和33年)、「太陽族」の理想像・石原裕次郎らを指し
て流行した言葉です。
guy はアメリカの俗語で「男、若者、青年、奴」の意味
ですが、「ガイ」を取り入れて「マイトガイ」や「ナイ
スガイ」などの語も生まれましたが、ほとんど使われて
いないと思います。
 
 
 
       『 ち 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
【チンチン電車】 市街地を走る路面電車ですが、子ど チンチン電車
チンチン電車
 ものころ、運転手や車掌が紐を引いて鐘を「チンチン」
 と鳴らしながら走るので「チンチン電車」と呼んでい
 ました。かつては国内の多くの市街地で運行されてい
 ましたが、自動車の普及、都市人口の増加に伴い、交
 通の妨げとなる路面電車の多くが廃止され、モノレー
 ルや地下鉄に代わりました。
 調べたところ全国20の街で22路線電車が走っているよ
 うです。首都圏では都電荒川線、東急世田谷線、北海道は札幌と函館、その他富山
 市、京都周辺、大阪と堺市で阪神電気軌道、岡山市、広島市、高知市などでしょうか。
 
【ちゅうちゅうタコかいな】 2個単位で数を数える歌の一種で、妹は「おはじき」
 などのときに使っていました。関東では「ちゅう・ちゅう・たこ・かいな」ですが、
 京都では「ちゅう・ちゅう・たあ・かいの・とう」、大阪は「ちゅう・ちゅう・た
 ま・かいの、じゅう」と、地域により多少違うようです。
 語源・由来を調べてみたら、「ちゅう」は双六用語の「重二(じゅうに)」が変化
 したもので「重二」は、2のゾロ目で「4」を意味し、「ちゅう」を二度繰り返し
 た「ちゅう・ちゅう」は「8」となり、8本足の蛸を連想して「タコかいな」(タ
 コですか)となったとの説の他、2〜3の説があるようですが、最近は聞いたこと
 がありません。
 
【帳 面】 ノート・冊子など広く帳簿のことですが、目的などによりいろいろな言
 い方がされています。「メモや覚書を記録するもの」には、通帳、ノートブック、
 筆記帳、控え帳/控帳、手帖/手帳、備忘録、万覚え帳、覚帳、学習帳、雑記帳など、
 「何か、だれかに関する事実の収集物」としては、実紀/実記、年譜、文書、流記、
 記録、書付、調書など。更に法的な証拠として機能する資料としては、記文、筆記、
 書留、文書、記録、書付/書付け、帳簿、書案、検面調書、留書/留書き、訴訟記録、
 調書、書契、台帳などがあります。いずれにせよ帳面他はレトロ語入りではないで
 しょうか。
 
【チャンネルを回す】 昔のブラウン管式のテレビは、 ブラウン管式のテレビ
ブラウン管式のテレビ
 選局するのにテレビの前面にあるダイヤルを回してチ
 ャンネルを切り替えていました。アナログ放送が終了
 している今でも「チャンネルを回す」という単語は残
 っています。その当時、見ていた40歳代以上の人が使
 っている言葉のようです。
 現在はリモコン式のためダイヤル式のテレビは姿を消
 しましたが、皆さんは「チャンネルを回す」派ですか、
 それとも「チャンネルを変える」派ですか。
【朝鮮特需】 200万人とも言われる同じ民族での戦争犠牲者を出した朝鮮戦争の不
 幸が敗戦後の日本の復興に多大な影響を与え、復興に大きな支えとなったのですが、
 国や民族の不幸を考えると単純には喜べないもので、早期復興のもとは日本人の勤
 勉さがあったからこそと思いたいのです。 
 1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)の3年間、朝鮮戦争に伴い、在朝鮮や
 在日米軍から日本へ発注された物資やサービスなどの特需としての額は10億ドル、
 1955年(昭和30年)までの間接特需として36億ドルと言われています。この朝鮮特
 需によって引き起こされた好景気は、特需景気、特に糸へん景気、金へん景気と呼
 ばれました。
 
 《1952年(昭和27年)の会社に関する記述は、あ行(お-1)の「踊る宗教」の項
  を参照。》
昭和27年の会社
【チャンバラごっこ】 チャンバラは刀で斬り合う音を チャンバラごっこ
チャンバラごっこ
 表す擬音に由来する副詞語的語句「ちゃんちゃんばら
 ばら」の略のようです。
 1920年(大正9年)代以降、演劇や映画の「剣劇」や
 「ちゃんばら映画」のシーンを真似た男児の代表的な
 遊びの一つでした。オモチャの刀の他、木の枝、竹、
 新聞紙を丸めて刀に模し、元気に遊んだものです。
 ルールなどは特になく、正義の味方役と悪人役に分か
 れて、「斬られたら死んだフリ」をするという単純なものでした。
 近年はスポーツの一種として、スポーツ・チャンバラが登場していますが、子ども
 の遊びとしての「チャンバラごっこ」は見られません。
 
 《1920年(大正9年)の会社に関する記述は、さ行(し-1)の「省線」の項を
  参照。》
大正9年の会社
【チリ紙交換】 以前は住宅地を「毎度おなじみのチリ紙交換・・、多少に関わらず、
 お声をかけてください」のテープを流しながら回る軽トラックの姿を見かけました。
 おなじみのチリ紙交換です。今は自治体により多少異なるようですが、我が家は新
 聞屋が決める古紙回収日(月に一回、古新聞と広告のみ)に玄関先に出しておくと、
 量によりトイレット・ペーパーを置いてくれます。その他、一般の古雑誌・本、段
 ボ−ル、牛乳パックなどの資源物回収は月に二回、自治会が定めた場所に回収して
 もらいます。
 「毎度おなじみのチリ紙交換・・」の声が聞けなくなると懐かしく感じますが、古
 紙単価に比べて回収・処分コストが増大し採算がとれず多くの業者が廃業されたと
 聞いています。
【ちかれたびー】 1974年(昭和49年)、中外製薬の滋養強壮剤「新グロモント」で
 使われたセリフです。農作業をしている二人の男性の一人が「今日はちかれたなー」
 というのに対して、もう一人の男性が「ああ、ちかれたびー(=ああ、疲れたよー)」
 と答えるシーンがありました。これは、「疲れた」を意味する秋田県鹿角市辺りの
 方言のようです。これが、1975年(昭和50年)の流行語となりました。
 このころ、他の栄養ドリンク剤のCMで、俳優の宝田 明が大正製薬の「リポビタン
 D」で「お疲れさん」もよく画面に出ていました。日本人は真面目で働き者、元気
 でよく働いて、よく飲んだ時代だったのでしょうか。
 
 《1974年(昭和49年)の会社に関する記述は、あ行(お-1)の「オート三輪」の
  項を参照。》
昭和49年の会社
【ちゃっぷい、ちゃっぷい】 時代は定かではありませんが、「金鳥」の使い捨てカ
 イロ「金鳥どんと」のCMのセリフです。復員日本兵らしい人が雪の降る焼け野原 
 で震えながら「ちゃっぷい、ちゃっぷい(寒い、寒い)、どんとぽっちー(「ど
 んと」欲しい)」と言っていました。どうも、赤ちゃん言葉をもじって商品名の
 「どんと」と合わせたようですね。この手のCMはとっくに死語です。
 
【ちょうちんブルマー】 懐かしい格好ですね。ブルマ ちょうちんブルマー
ちょうちんブルマー
 ーは女子が運動などを行うときに着用する衣類(スポ
 ーツ用パンツ)ですが、20世紀に世界的に普及しまし
 た。日本に紹介されたのは、1903年(明治36年)、女
 子師範学校(現・お茶の水女子大学)で留学先のアメ
 リカから持ち帰った井口阿くりにより紹介され、大正
 末期から昭和初期にかけて女学校で採用されることに
 なりました。終戦後、私の時代は中学、高校とも女子
 生徒は紺色か黒色のちょうちん型を着用していました。
 その後、徐々に改良され、ファッション性も取り入れられて、1970年(昭和45年)
 代以降に普及したショーツ型ブルマーから、1990年(平成2年)代中ごろから徐々
 にハーフパンツとかクオーターパンツが採用されて行きました。
 
 《1903年(明治36年)は、1902年(明治35年)に合資会社東京計器製作所が設立さ
  れた翌年で、圧力計及び回転計用試験器等の製造に着手した年でした。
  業界・一般ではライト兄弟の初飛行が成功した年でもありました。》
 
【チョンガー】 恥ずかしながら「チョンガー」が朝鮮語とは知りませんでした。
 「総角」(チョンガッ)に由来するそうです。我が国で使われるようになったのは
 1910年(明治43年)以降で、軍(主に海軍)を中心に使われ、一般に普及したとさ
 れています。今の若い世代には通用しないと言われていますが、いかがでしょうか。
 「独身男性」「独身」が一般的で「チョンガー」はレトロ語扱いとされています。
 
 《1910年(明治43年)は資本金を3万円に増資し、計器研究所設立を企画、建設に
  着手した年でした。業界・一般では、エルマースペリー博士により、スペリージャ
  イロスコープ社が設立され、韓国を併合、朝鮮に改称した年でした。》
【チョベリバ】 「超ベリー・バッド(very bad)」の略で、1995年(平成7年)ご
 ろから女子中・高生に使われた若者語・コギャル語です。「超バッド」より更に強
 く「最悪」を意味する語です。さらに1996年(平成8年)にTVドラマ「ロングバ
 ケーション」で使われてから、この年の新語・流行語となりました。 
 言葉を略して短くするのは若者言葉で現在も同じでしょうが、チョベリバという言
 葉はレトロ語となっています。参考までに「チョベリバ」の反対語は「チョベリグ」
 で「超ベリー・グッド」のようです。類義語として、「チョベリブ:超ベリー・ブ
 ルー(憂鬱)」「チョバチョブ:超最悪で超ブルー」というのもありました。
 
 《1995年(平成7年)は、「経営企画室」、潟gキメック情報システムズに「リー
  ス事業部」、「道路関連事業推進室/同仙台駐在員事務所」、矢板事業所に「生
  産技術センター」、シンガポール駐在員事務所、米国駐在員事務所、トキメック
  ビルシステム神戸営業所などを新設・設立しました他、名古屋営業所が名神ビル
  へ、札幌営業所が藤井ビルへ移転しました。一方、経営面では新たな事業展開構
  想と組織改革に向けて「新改革」スタート及び事業領域、事業展開構想が提示さ
  れた年でした。 
  また、この年、春の叙勲で廣野信衛会長が勲三等瑞宝章を受章されました。その
  他、会社役員賠償責任保険付保、支払手形の廃止とファクタリング業務が開始さ
  れた年でしたが、堀越 洋監査役が逝去された年でもありました。  
  人事・制度面では、葬儀共済制度、「フレッシュ手当」の新設等福利厚生制度の
  見直し、管理職の特別職資格・処遇制度、「PL対策緊急会議」、「製品安全推進
  委員会」、「就業時間割変更」、契約社員の登録制度、危機管理マニュアル作成
  プロジェクト、人事異動通知のTOA化などの新設・実施がありました。
  その他、トキメック三浦リゾートの開設、創立100周年記念ニュースの発行、ユ
  ニオン結成50周年記念、同民主化20周年記念、創立100周年記念行事のキャッチ
  フレーズ決定や創立100周年記念論文募集などが実施されました。また、阪神大
  震災の義援金として社員から5,163千円が寄せられました。
  業界・一般では、兵庫県南部でM7.2の大地震が発生し、死者6,308名以上の大惨
  事が発生した他、地下鉄サリン事件、東京地裁がオウム真理教に解散命令、高速
  増殖炉原子炉「もんじゅ」で冷却用液体ナトリウム漏れの事故発生など天災・人
  災の悲しい出来事が重なった年でした。
  経済面では、九州縦貫自動車道が完成し青森―鹿児島間が貫通、前年の新規造船
  受注で日本が2年ぶりに首位奪回しましたが、円相場が1ドル79円75銭を記録、
  日経平均株価が14,295円まで下落、公定歩合、史上最低の0.5%となった年でし
  た。》
 
【チラリズム】 終戦後、大活躍した女優の浅香光代が大衆劇・剣劇芝居の立ち回り
 中にチラリと見えた太ももが性的欲求を喚起するとのことでマスコミが表現した言
 葉と言われており、1951年(昭和26年)の流行語となりました。
 近ごろの若い女性は、パンチラ、ブラチラ、胸チラ、ハミ乳、チクチラと言われる
 ように肌の露出や下着を見せることを気にせず、むしろ、ファッションとして楽し
 んでいるように思います。業界でもファッション的にも、また男性を楽しませる下
 着を出していますので、チラリズムはレトロ語となっています。同じ言葉に、さ行
 (し-2)に「シミチョロ/シミズみえ子さん」がありますのでご参照下さい。
シミチョロ
 
 《1951年(昭和26年)の会社に関する記述は、あ行(お-1)の「親指族」の項を
  参照。》
昭和26年の会社
【チョッキ】 「チョッキ」の由来には諸説があるよう チョッキ
チョッキ
 です。
 ポルトガル語のjaqueが訛ったものとか、チョット着ら
 れるからチョッ着、肌に直接着るから直着(チョッキ)
 などの説明がありましたが、1960年(昭和35年)代か
 ら1970年(昭和45年)代にかけてほとんどレトロ語化
 し、代わって「ベスト」という呼び方が普通となりま
 した。英国では「ウエストコート」だそうです。 
 「チョッキ」に関連して「防弾チョッキ」などと、つい出てしまいますが、英語
 では「防弾ベスト/防弾ジャケット」でした。
【ちゃぶ台】 「ちゃぶ台」は1887年(明治20年)ごろ ちゃぶ台
ちゃぶ台
 から我が国の家族団欒のシンボル的な食卓として使用
 されてきました。一般的には方形あるいは円形で折畳
 み式が多かったようです。しかし、戦後1960年(昭和
 35年)ごろから畳の生活から洋式の生活が始まり、椅
 子式のダイニング・テーブルが普及し始め、1963年
 (昭和38年)をピークにちゃぶ台の生産は減少に転じ 
 ました。
 ダイニング・テーブルの普及率は、1988年(昭和63年)時で67%強という数字が公
 表されていますので、現在はもっと高い普及率でしょう。
 年をとると足腰のためには椅子式のダイニング・テーブルが何かと便利です。
 皆さんのところはいかがでしょうか。
 
 《1988年(昭和63年)の会社に関する記述は、あ行の(お-2)「オバタリアン」
  の項を参照。》
昭和63年の会社
【ちょちょいのちょい】 語源ははっきりしませんが、お囃子の「よよいのよい」、
 「ちょちょんがちょん」、「ちょちょいのちょい」などに似ていますね。意味は
 「お茶の子さいさい」、「簡単にやってしまう様子/事」ですが、軽いノリ、リズ
 ミカルな言葉のやり取りを楽しんだものではないでしょうか。ヘボ将棋や囲碁で、
 お互いに「余裕のよっちゃん」、「平気のへっちゃん」、「冗談はよしこさん」、
 「困った、困ったこまどり姉妹」、「しまった、しまった島倉千代子」など名前を
 入れた駄洒落がぽんぽんと飛び交っているのを見たことがあります。戦局より駄洒
 落の方がよっぽど面白かった記憶があります。  
 
【中流意識】 1958年(昭和33年)から始まった内閣府の「国民生活に関する世論調
 査」の第一回調査結果によると、自分の生活レベルに関する回答が中流と回答した
 者が7割を超え、以降1960年(昭和35年)代半ばには8割を超え、日本のGNPが世界
 第2位となった1968年(昭和43年)から1970年(昭和45年)以降は9割にもなり、
 1979年(昭和54年)の「国民生活白書」では国民の中流意識が定着したと結論付け
 ています。中流意識は下流国民の背伸び、上流国民金持ちと思われたくないとする
 意識が合い混じり、国民総中流という日本独特な意識が形成されたと言われていま
 す。
 その後、バブル崩壊後の失われた10年、リーマン・ショック、デフレ停滞から東日
 本大震災と原発問題を抱えている日本です。自民党政権となり、経済の立て直しを
 図っているところですが、増税と上記の問題を抱えた現状、国民の貧富の格差が以
 前より顕著になりつつあり、徐々に、この意識は崩壊されていくのではないでしょ
 うか。
 
 《1968年(昭和43年)の会社に関する記述は、か行の(か-2)「紙芝居屋」の項
  を参照。》
昭和43年の会社
【乳バンド】 随分、クラシックな言い方ですね。明治の時代に入り、洋装が紹介さ
 れましたが、ブラジャーという言葉が当時の日本人には馴染めず、「乳バンド」と
 か「乳ベルト」と呼んで広告に使われたようです。
 近所のおじいさんが「乳バンド」と言っていたと、ある方から聞きましたが、その
 方は国宝級の方でしょう。
【ちょんちょこりん】 これも懐かしい言葉です。子ど ちょんちょこりん(小さな子どもが髪を無理矢理結んでいる)
ちょんちょこりん(小さな子どもが髪を無理矢理結んでいる)
 ものころ、頭や衣服についているゴミを見つけては
 「誰かさんの頭にちょんちょこりんがとまった」と囃
 したてていました。幼児言葉の一種でしょうか。 
 一方、「ちょんちょこりん」は地方の方言でもあるよ
 うです。調べてみましたら、山口弁では「衣服の丈が
 短くなっている」とか、津軽弁では「小さくて可愛い
 子ども」、関東地方では「小さな子どもが髪を無理矢
 理結んでいる様」などがありました。山口弁の「衣服の丈が短くなっている」様は、
 子どものころ「つんつるてん」と言っていた記憶がありますが、いかがでしょうか。 
 
【近 目】 以前、ご年配の皆さんは近目、遠目と言っておられる方が多いようです
 ね。近目はどちらかというと話し言葉で、近視/近眼のことですが、医学用語は近
 視が使われています
 一方、近目は、ある位置から近いこと、また、その様というときに使用されます。
 野球の解説で、解説者が「速球を打者の近目に投げているのはよいですね・・」
 などと解説しています。「目」の近めは、今ではレトロ語ではないでしょうか。
 
【中ピ連】 中ピ連は「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合という
 1973年(昭和48年)以降に活動した戦闘的なウーマンリブ団体です。
 代表は元薬事評論家の榎 美沙子氏で、ピンク色のヘルメットを着用し、反対団体
 や組織に乱入し、抗議行動を繰り返しては当時のマスコミを賑わせました。
 しかし、その結末は、当時のピルは副作用が大きく、かつ性病の蔓延を助長すると
 いう理由から、我が国ではほとんど普及せず活動は衰退し、1975年(昭和50年)に
 解散しました。
 《1973年(昭和48年)の会社に関する記述は、「あ」行(あ-3)の「赤チン」の
  項を参照。》
昭和48年の会社