『 し 』 で 始 ま る レ ト ロ 語  
 
【省 線】 1920年(大正9年)から1949年(昭和24年)の間、現在のJRのことを
 省線または省線電車と言っていました。当時の国有鉄道が鉄道省(1920年〜1943
 年)、運輸通信省(1943年〜1945年)、運輸省(1945年〜1949年)の「省」レベル
 の政府機関によって運営されていたためです。    
  1949年(昭和24年)に日本国有鉄道となり、「国電」となりました。今はJRで
 すが、我々より年配の方の中に、たまに「省線/省線電車」という方がおられます
 が、完全なレトロ語でしょう。
 
 《1920年(大正9年)の会社は、第一次世界大戦後の恐慌当時、和田社長は胸を病
  んで社務を執れず、専務の一人に経営を託したが放漫経営を行い、経営危機に陥
  り、愛知時計電機鰍ヨ会社売渡し交渉調印寸前で、和田社長の英断で破棄される
  という大変な年でした。
  業界・一般では、第1回東京―箱根間往復駅伝競走を実施、松竹キネマの蒲田撮
  影所開設、我が国初のメーデー挙行、東西両株式市場において株式暴落の他、国
  際連盟が成立し、日本も加盟した年でした。》
【尻押し】 1955年(昭和30年)、新宿駅に初めて登場しました。当時の国電のラッ
 シュ時に超満員の電車に乗客を押し込む役目です。結 尻押部隊
尻押部隊
 構重労働なため、当時は学生アルバイトが中心でした
 が、満員の度合いにより正規の駅員も押していました。
 この尻押し部隊は1970年代末くらいまで続いたように
 記憶しています。
  超満員の「国電」を「酷電」と皮肉るほどで、ニュ
 ース映画以外に海外にも広く伝えられました。今、思
 うに冬場は特に大変だったと思います。今と違って厚
 手のオーバーコートを着ていたからです。現在でも、乗客次第では駅員が駆けつけ
 て尻押しをしてスムーズに電車を発車させる努力をするでしょうが、昔のような学
 生アルバイトの尻押しは死語でしょう。
 
 《1955年(昭和30年)の会社に関する記述は、「う」行の「歌声喫茶」の項を参
  照。》
昭和30年の会社
【人造バター】 ヤシ油などの植物性油を原料として、バターに似た風味の食品であ
るマーガリンのことです。明治中期から1950年代ごろまで「人造バター」と呼ばれ
ていました。バターやオリーブオイルなどと同じように、パンに塗って食べるため
大いに普及しました。さらに、バターより安価なため、バターの代用品として多く
の食品の原材料に使われていますが、今どき「人造バター」と言う人はおられない
でしょう。
 
【死の灰】 核兵器や原子力事故などの爆発で生じた物質がいったん上空に舞い上が
キノコ雲
キノコ雲
り、爆発地点は当然のことですが風に乗って世界中に拡  
散する放射性降下物です。
1954年(昭和29年)3〜5月に、米国が中部太平洋の
ビキニ環礁で実施した一連の水爆実験で発生した死の灰
は日本はもちろん、米国を含む世界122ケ国に飛散した
ことが判明しています。日本では「第5福竜丸」が被ば
くし犠牲者がでました。2014年はその60周年目に当たり
ます。被災地での追悼式が新聞紙上に大きく報道されま
 した。
  過去、地球上では核大国による数々の実験の結果、公表はされていませんが、放
 射性汚染が原因で死亡した人、健康を害した被爆者・後遺症に悩んでいる人が多数
 います。シリア問題で、米国とロシアにより化学兵器禁止の話し合いの糸口が見え
 ましたが、日本の近くの国では「先制核攻撃論」を真面目に主張している状況下、
 早急な核兵器の使用禁止は絶対必要でしょう。
 《1954年(昭和29年)の会社に関する記述は、「い」行の「糸編景気/糸姫」の項
  を参照。》
昭和29年の会社
【神武景気】 1954年(昭和29年)12月〜1957年(昭和32年)6月までの期間は、19
 50年(昭和25年)から3年間の朝鮮戦争により、米軍からの特需により爆発的な好
 景気となり、日本の高度経済成長がスタートしました。我が国初代天皇とされる神
 武天皇が即位された年(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で「神
 武景気」と名付けられました。そして、1956年(昭和31年)の経済白書には「もは
 や戦後ではない」と記され、戦後復興の終了宣言がなされました。
  2020年のオリンピック・東京開催が決まりました。これは、これで素晴らしいこ
 とです。日本にもたらす経済的効果も大きいでしょう。しかし、東日本大震災で被
 害に遭われて苦しい生活をされておられる方々が大勢います。復興も依然として進
 んでいません。原発問題を含めて、一日でも早く復興終了宣言を聞きたいもので
 す。そして、晴れて日本の力(安全な日本、平和な日本、美しい日本、おもてなし
 のできる日本)を全世界にアピールしましょう。
 
 《1956年(昭和31年)の会社に関する記述は、「か」行の「火炎びん」の項を参
  照。》
昭和31年の会社
【巡 幸】 観光旅行中、各地で明治天皇、大正天皇、昭和天皇の行幸、巡幸の碑を
 みることがあります。場合によっては行啓/巡幸、行幸啓/巡幸啓の碑もみられます。
  天皇が外出されることを行幸、目的地が複数おありの場合を特に巡幸と呼ばれて
 います。一方、皇后、皇太后、皇太子・皇太子妃の外出は行啓/巡啓、行幸と併せ
 て行幸啓/巡幸啓と呼ぶようです。単に行幸啓という場合は天皇と皇后がご一緒に
 外出されることを指す場合が多いと記されていました。
  庶民の我々は、観光、見学、見物、鑑賞などの用語で事足りますが、皇室・宮内
 庁用語は難解です。最近のマスコミは、本来の用語を使わず、「ご訪問」「ご視
 察」「ご静養」など庶民的な用語を使われているのは、親しみが感じられて歓迎で
 す。庶民の会話では、もう使われないのではないでしょうか。 
 
【手動式遮断機を操作している踏切番/警守】 昔の踏切の多くは手動式遮断機で、
 踏切の手前に小さな踏切小屋があり、踏切保安掛のお 踏切番
踏切番
 じさんが懸命に遮断機開閉のため手動ハンドルを回し
 ていました。その手動式もほとんどが踏切警報機と併
 せて電動自動式に切り替わっていますので身近に見る
 ことができません。手動式にしているのは幹線道路と
 の立地条件の他、踏切が広すぎる、ダイヤが過密で自
 動だと開かずの踏切になる、踏切内で立ち往生した人
 や車を避難させたり、マイクで注意ができる・・など
 が理由のようですが、過去には手動式がゆえに事故も起きています。
  インターネットで首都圏の手動式踏切を調べたところ、直接確認していませんが、
 新子安―鶴見間にある花月園前踏切、鶴見線沿線にある日本鋳造鰍フ正門前踏切の
 記述がありました。
【しびれる】 「座禅で足が痺れた」のように、体の一部または全体の感覚が自由に
 利かなくなる場合、「感電して痺れた」のように電気などでビリビリ感じた場合の
 他、「彼女に痺れちゃった!」のように心を奪われてうっとりする、強烈な刺激を
 受けて陶酔するさまを、若者言葉で「痺れる」と言いました。1958年(昭和33年)
 ごろ、一時、流行語となり、よく使っていましたが、いつの間にか消えてしまいま
 した。
 
 《1958年(昭和33年)の会社に関する記述は、「あ」行の「赤線/青線」の項を参
  照。》
昭和33年の会社
【シスターボーイ】 1957年(昭和32年)に公開のアメリカ映画「お茶と同情」から
シスターボーイ
シスターボーイ
流行した言葉ですが、言葉使いや態度・しぐさが女性っ
ぽい男性のことでした。国内では、当時、銀座のシャン
ソン喫茶「銀巴里」で歌っていた丸山明宏(現・美輪明
宏)を指して使われたと言われています。そういえば、
入社して直ぐでしたが、東京・大田区嶺町に住む小学校
の友人に誘われて「銀巴里」に行ったとき、初めて彼の
存在を知りました。今でも、ますます、ど派手メイクと
衣装で元気な姿が見られますが、シスターボーイという
 言葉はもうレトロ語でしょう。
 
 《1957年(昭和32年)の会社に関する記述は、「い」行の「一億総懺悔」の項を参
  照。》
昭和32年の会社
【ジャズ喫茶】 ジャンル別の名曲喫茶、ラテン喫茶、タンゴ喫茶同様に、ジャズの
 SP/LPレコードを音源に客はこれを鑑賞するための喫茶店です。昭和初期、ジャ
 ズの普及と共に開業されましたが、戦争により一時消滅したものの、1950年(昭和
 25年)代に再開され、1960年代にピークを迎えました。その後は世代交代でしょう
 か、1970年代には下火になり、多くの店が閉店されました。国内では大都市部に、
 東京だけでも50軒弱がジャズファンのために営業しています。昔と違って、音源の
 多様化、酒類や軽食を提供するなどの経営形態も多様化し、どっこい生きているよ
 うです。ファンとしては嬉しい存在でしょうね。
 
 《1950年(昭和25年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アナタハンの女王事
  件」の項を参照。》 》
昭和25年の会社
【シケモク】 喫煙経験者でしたらお分かりになるでしょう。夜中に煙草を切らして
しまい、火鉢か吸殻入れの中から長めの吸殻を取り出して吸った経験がおありでし
ょう。吸い終わった湿気た煙草のことを「シケモク」と言っていました。
終戦直後、物資不足もありましたが、生活費を稼ぐためモク拾いのおじさんをよく
見かけました。道路はもとより、駅のプラットホームから線路上にある吸殻を長い
竹棒の先に針状のものを付けて、手際よく突いて取っていました。モク拾いのおじ
さんの姿は見ることができませんが、最近は、人通りをボランティアの皆さんが吸
殻を含めて、街の美化のため汗を流しています。
 
【し尿運搬船】 昔、海に通ずる河川で、背の低い、何隻も曳航している「し尿運搬         
 船」をよく見かけました。今はどうなっているのでし し尿運搬船
し尿運搬船
 ょうか。
  江戸時代以来、し尿は貴重な肥料として昭和の時代
 まで利用されていたと思います。明治時代にし尿処理
 は民間に任されましたが、大正時代に入り労賃 の高騰
 により、し尿処理は経済的に引き合わず、更に即効性
 の高い化学肥料の進出もあり、大正期半ば以降、収集
 料金は住民の負担となりました。その後、下水道を利
 用してのし尿をマンホールへの投入が開始されましたが、当時の下水処理場能力で
 は単なる汚水排除ていど、やがて海洋投棄が主流となりました。昔、見ていたのは
 この「し尿運搬船団」だったのです。
  1932年(昭和7年)、東京市が海洋投棄を開始して以来、1956年(昭和31年)、
 し尿処理基本対策要綱が5ケ年計画を打ち出し、海洋投棄廃止、給水浄化を目標に、
 下水道、浄化槽、し尿処理施設の整備を実施した結果、以降、徐々に改善されまし
 た。折りしも、し尿の海洋投棄が国際的な問題となっていたため、2007年(平成19
 年)に、し尿や汚泥の海洋投棄が全面禁止となりました。
 《1932年(昭和7年)は、私立東京計器青年訓練所(後の東京計器青年学校)を府
  許可第1号として開設、製造部より設計課を分離、研究所と併合し、技術部を新
  設した年でした。 》
  人事・制度面では東京計器体育会を設置、柔道、剣道、弓道、野球部が誕生しま
  した。一方、業界・一般では犬養首相射殺事件(5.15事件)、三島徳七博士のMT
  鋼発明、第一京浜国道に初めて懸垂式交通信号器設置(蒲田青果市場前=現・大
  田区産業プラザ)、荏原郡蒲田町が東京市に合併、蒲田区になった年でした。海
  外では、満州国が建国を宣言した年でもありました。》
 
【所得倍増計画】 1960年(昭和35年)、池田内閣の下で策定された長期経済計画で         
 すが、1961年(昭和36年)から10年間で名目国民所得(国民総生産)を26兆円に倍
 増させることを目標にあげました。計画では経済成長率を年率7.2%と想定しました
 が、計画期間の実績は10.9%と大きく上回り、国民1人当たりの消費支出は10年で
 2.3倍となり、当時は「東洋の奇跡」と呼ばれました。
  大蔵大臣時代は「貧乏人は麦を食え」発言で話題となりましたが、「私は嘘を申
 しません」は事実となり、後に流行語となりました。安倍総理は「アベノミクス」
 を前面に出し日本の経済再生に努力中ですが、「所得倍増計画」は二度と使われな
 いレトロ語でしょう。
 
 《1960年(昭和35年)の会社に関する記述は、「あ」行の「赤ヘル」の項を参照。》
昭和35年の会社
【シャツの袖カバー】 水仕事や汚れやすい作業現場は別として、昔、事務所の方は
 Yシャツの袖カバーをしている従業員の姿を見ていましたが、最近のサラリーマン
 で袖カバーをしている姿を見かけません。民間企業ではなく、市役所とか町役場な
 ら見られるのでしょうか。昔と違って、職場の環境も快適ですし、木製の机もスチ
 ール製になり、夏期はクールビズ、書類も手書きではなくPCの時代、社内の書類
 も擦っても汚れない等々で、余り必要がないのでしょうね。
 
【昭和元禄】 江戸幕府5代将軍徳川綱吉の治世とほぼ同じ1688年(元禄元年)〜
 1704年(元禄17年/宝永元年)、それまでの武断政治から社会秩序も安定し、文化
 的にも安定・成熟した元禄文化を引用し、1964年(昭和39年)に福田赳夫首相が、
 高度経済成長期に天下太平、奢侈安逸の時代を指して表現した語が「昭和元禄」で
 す。高度経済成長期に天下太平・・の時代はもう過去のことですが、アベノミクス
 により東日本大震災「復興元禄」が一日でも早く日の目を見たいものです。
 
 《1964年(昭和39年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アイビールック/アイ
  ビー族」の項を参照。》
昭和39年の会社
【斜陽族】 1947年(昭和22年)、文芸雑誌に連載された太宰 治の小説「斜陽」から
太宰
太宰 治の斜陽
生まれた言葉です。
 戦後、華族令が廃止されて、時勢の変化について行け
ずに没落した貴族を描いたものですが、1948年(昭和23
年)に「斜陽族」というネーミングで、没落・衰退、勝
ち組/負け組など、いろいろな場面で使われる流行語とな
りました。
 
  
 《1948年(昭和23年)の会社に関する記述は、「あ」行の「憧れのハワイ航路」の
  項を参照。》
昭和23年の会社
【社用族】 「社用族」は「斜陽族」をもじったもので、1951年(昭和26年)、朝日
 新聞社記者で、著名な「天声人語」を執筆した荒垣秀雄氏の造語であることで知ら
 れています。
  接待と称して会社の接待費で飲食や遊興など社費を乱費するわけですが、昔、営
 業課長の机の引き出しの中は、これらの請求書で一杯、その処理をするのにいつも
 苦労されていたようでした。そうして無事定年退職できたのでしたら二度とできな
 い得難い経験をされたことになります。社用族はレトロ語ですが、経済活性化のた
 め、時代が変わっても大なり、小なりの接待行為はなくならないでしょうね。
 
 《1951年(昭和26年)の会社に関する記述は、「お」行の「親指族」の項を参照。》
昭和26年の会社
【冗談はよし子さん/冗談は顔だけにしろ】 「冗談はよし子さん」は「冗談はよし
 て」に人名を入れて表現した駄洒落でしょうか。「冗談は顔だけにしろ」は、顔自
 体が面白いからそれ以上、言葉などで冗談は言わなくてもよい、十分だ」くらいの
 意味でしょうか。それにしても、顔とか外見などで表現するのは他人様にはタブー
 ですね。せいぜいタレント同士のギャグか漫才の台詞か寄席風の演芸バラエティ番
 組「笑点」くらいでしか、通用しません。
 
【心情三派】 初めて聞いた言葉でした。調べてみたら、三派とは、全学連の中核派、
 社学派、反帝学評のことだそうです。この三派全学連の行動や考え方を心情的に支
 持する立場のことだそうですが、説明文を見ても、私にはさっぱり分かりません。
 当時、三派全学連、民青系学生、反代々木系学生などと、いろいろな派があったよ
 うですが、学生運動が起こる前に卒業してしまった人間には、まったくこの構造は
 理解できません。昔、こんな言葉があったということだけで失礼させていただきま
 す。
 
【深夜喫茶】 1955年(昭和30年)頃から、東京、大阪を中心に爆発的な流行をした
 ようです。名前のとおり深夜まで営業する喫茶店ですが、ほとんどは、明け方まで
 営業するため、未成年者の入り浸りが社会問題となりました。「家出」「犯罪」
 「薬物」「売春」などの「悪の温床」のイメージを植え付けました。結果は、ボッ
 クス席は背もたれの高い同伴席に改造され、周囲からの視線を遮るためカーテンで
 個室化するなどラブホテル化同然でした。  
  東京都は都条例で18歳未満の出入りを禁止しましたが、ほとんど効果がなく、東
 京オリンピックを間近に控えた1964年(昭和39年)に、営業時間を午後11時までと
 する風俗営業法を成立させて、やっと歯止めが掛ったようです。その後、1965年
 (昭和40年)代に入って、カーテンは外されましたが、背もたれの高いシートはそ
 のままで、堂々と「同伴喫茶」の名称で当時の若いカップルを対象に繁栄しました。
 一方、恋人のいない男性をターゲットにしたのが、「美人喫茶」「水着喫茶」「○
 ○パン喫茶」、「メイド喫茶」などでした。
  最近、「喫茶店」そのものが、以前より少なくなったように思われます。この年
 で深夜まで飲み歩くわけではないのですが、都会には、いろいろと経営形態を変え
 て生き残っている店はあるようです
 《1955年(昭和30年)の会社に関する記述は、「う」行の「歌声喫茶」の項を
  参照。》
昭和30年の会社
【人工甘味料ズルチン】 終戦後、物資が不足していた時代、「人工甘味料」のお世
 話になりました。サッカリンと違って苦い味がなく、製造コストが安かったためで
 す。しかし、その後、中毒事故が多発し、肝機能障害や発がん性の毒物が認められ
 た結果、1969年(昭和44年)に食品への添加が全面的に禁止されました。それにし
 ても、ズルチンは久しぶりに目にとまった言葉でした。専門家以外はレトロ語でし  
 ょう。
 
 《1969年(昭和44年)の会社に関する記述は、「あ」行の「あんたも好きねえ」の
  項を参照。》
昭和44年の会社
【純喫茶】 酒類を扱い、接客する店を「特殊喫茶」と 喫茶店
喫茶店
 称することに対して、酒類は扱わず、純粋な喫茶店の
 ことです。1955年(昭和30年)ごろから1975年(昭和
 50年)ごろまでは各地に純喫茶と名乗る店が多くあり
 ましたが、現在ではレトロ語の部類に入っています。
  若いころは彼女と、時には男同志でよく行きました
 が、最近はコーヒーより、もっぱらビール、焼酎の方
 です。
 
《1975年(昭和50年)の会社に関する記述は、「え」行の「Mボタン」の項を参照。》
昭和50年の会社
【GHQの命により】 GHQはGeneral Headquartersの呼称です。1945年(昭和20年)
GHQ本部
GHQ本部
から1952年(昭和27年)の対日平和条約発効まで、占領
下の日本を統括する米軍を主とする連合国最高司令官総
司令部のことで、本部は東京・有楽町の「第一生命館」
でした。
 当時、マッカーサー総司令官の命令は絶対的なもので
あり、最優先事項でした。そこから反抗しがたい意見に
不可抗力で屈したときの弁解として「○○の命により」
が絶対服従の意味で、いろいろな状況下で引用され流行
 語となりました。
 
 《1952年(昭和27年)の会社に関する記述は、「お」行の「踊る宗教」の項を
  参照。》
昭和27年の会社
【進駐軍】 第二次大戦後、日本に進駐した連合国軍の俗称です。1952年(昭和27年)
 4月のサンフランシスコ講和条約発効により、日本は主権が回復し、彼らの進駐が
 終了しました。講和条約発効後は「駐留軍」という名称となりました。子どもでし
 たので戦争に負けたことの意味は理解できず、進駐軍、特に「MP」のカッコよさ
 は今でも脳裏に残っています。
  今の若者の中には、日本が戦争をし、負けたこと、終戦記念日も知らない者もい
 ます。平和ボケの日本を感じます。  
【シャボン】 昔のご年配の方は、「ポット」のことを「魔法瓶」、「帽子」のこと
 を「シャッポ」、「石鹸」のことを「シャボン」と言っていました。「シャボン」
 はポルトガル語の「石鹸」を意味する「サボン」が訛って「シャボン」となったよ
 うです。今は「石鹸」か「ボディソープ」が一般的で、「シャボン」は1971年(昭
 和46年)前後にレトロ語となっていますが、どうしたことか、子どもの遊び「シャ
 ボン玉遊び」だけは残っていますね。  
 
 《1971年(昭和46年)の会社に関する記述は、「え」行の「エトランゼ」の項を
  参照。》
昭和46年の会社
【集合写真を撮るときの言葉「はい、鳩がでますよ〜」】 写真を撮るときのかけ声
 にはいろいろありますが、「はい、チーズ」が一番多いようです。その他は「はい、
 ポーズ」、「ミッキー」、「ウイスキー」、「1+1は?」と声をかけて、「2」
 と答えてもらう、または、「√4は?」と声をかけて、「2」と答えてもらうなど
 があります。
  カメラが普及していなかった昔、写真は近くの写真屋さんへ出かけて撮っていま
 した。薄暗い館内で箱型のカメラに黒い布を被せ、写真屋のおじさんがマグネシウ
 ムのフラッシュを持ち、「お嬢ちゃん、はい、鳩がでますよ〜、こっち向いてちょ
 うだい」と言い、視線を向けさせるために、声をかけていたように記憶しています。
 
【シミチョロ/シミズ みえ子さん】 シミーズ(シュミーズ)は本来「スリップ」の
 仏語・シュミーズが訛ったものですが、私たちの若いころは、女性はスカートを履
 くときにインナーとしてシミーズ(シュミーズ)を着用していました。風のいたず
 らや、椅子に座ったときにスカートの裾からチョロっと見えることを「シミチョロ」
 とか「シミズみえ子さん」などと呼んで楽しんで(?)いました。
  現在はミニスカート全盛時代、この言葉はレトロ語となりました。  
 
【写真機】 本来の語源であるラテン語のcameraは「小さな部屋」を意味するようで
 す。英語のcameraは「暗室」を意味していることから日本語のカメラとなっていま
 すが、写真機、映画の撮影機、テレビカメラのことです。しかし、今どき、老若男
 女とも写真機と言う人はほとんどおられないでしょう。「写真機」はお店の看板・
 屋号以外はレトロ語入りしていませんか。
 
【食糧メーデー】 1946年(昭和21年)5月、皇居前広場で政府の食料配給遅延に抗
 議する「飯米獲得人民大会」という集会があり、約15 皇居前広場のデモ
皇居前広場のデモ
 万人の労働者や民衆が参加しました。  
  終戦後の食糧難と、出兵したことによる労働力不足
 に起因する農作物の不作、流通経路の混乱による食糧
 配給の遅延などが原因でしたが、東京の配給は10日に
 一度までになり、更に餓死者まででる状況下で、各地
 で「米よこせ大会」が展開されました。しかし、この
 大会に乗じて、日本共産党他が政治的な要求を出した
 ため、GHQのマッカーサー総司令官の「暴民デモ許さず」の命により、運動は鎮静
 化されました。
  飽食の時代、今の若い世代には考えられないことでしょうが、子どもたちに食べ
 させる祖父母、両親などの苦労を忘れてはなりません ね。
 
 《1946年(昭和21年)の会社に関する記述は、「え」行の「駅弁大学」の項を
  参照。》
昭和21年の会社
【新 円】 1946年(昭和21年)、第二次大戦後のインフレ対策として、政府は「金
 融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」の「総合インフレ対策」を発表しました。
 「新円」は新たに発行した日本銀行券の俗称です。ところが、同対策の実施が当初
 想定時期より半年繰り上がったため、一円、五円、拾円、百円の新券の製造が間に
 合わず、「日本銀行券預入令ノ特例ノ件」によって、千円、二百円、百円、拾円の
 証紙を発行し、これを旧券の表面に貼付することで臨時的に新円と看做すことにな
 りました。これが「証紙貼付銀行券」と呼ばれたものです。証紙は日本銀行の他、
 各地の金融機関に配布され、一枚一枚、銀行券に糊付けする作業が徹夜で行われた
 と言われています。
【人民電車事件】 1949年(昭和24年)6月、旧国鉄はダイヤ改正にともなう車掌勤
 務の新交代制を実施する提案を行いましたが、定員削減につながるとして組合側は
 反対を表明し、神奈川と千葉の車掌区分会が業務命令を無視し旧交代制で乗務を続
 行しました。結果として、指導者の懲戒免職処分に反発した組合は、ストに突入す
 る一方で、4本の電車を違法の下、組合の管理下で運行するに至りました。最前部
 の電車には「人民電車」とペンキで白書し、電車の窓には赤旗をなびかせて走行さ
 せました。しかし、翌日にはGHQのマッカーサー総司令官の命によりストは中止させ
 られました。
  旧国鉄はJRとして民営化された現在、旧国鉄当時のスト事件は忘すれられました
 が、それにしても度重なるストで庶民は随分泣かされました。
 
 ≪1949年(昭和24年)の会社に関する記述は、
「あ」行の「暁に祈る/暁に祈る事件」の項を参照。≫
昭和24年の会社
【シームレス・ストッキング】 1938年(昭和13年)、アメリカ・デユポン社によっ
 てナイロン・ストッキングが発明され、第二次大戦終了後に全世界に広まりました。
 当初のストッキングは各部を縫い合わせて作るため、後ろに縫い目がありました。
 その後、縫い目のないシームレス・ストッキングが開発されました。更に1960年代
 (昭和35年代)後半には、ミニスカートの流行により、腰部まであるタイツ状のパ
 ンティ・ストッキングが普及しました。
  1952年(昭和27年)には、日本でナイロン製の「シームレス・ストッキング」が
 製造・販売され、世界の女性に愛用されました。ミニスカートで女性ファッション
 として市民権を得ましたが、終戦後、強くなったのは「女性」と「ストッキング」
 と言われてきました。余り女性が強くなるのは、どうかと思いますが、反面、素晴
 らしいファッション性のある製品が男を楽しませてくれるのは大歓迎です。
 
 《1938年(昭和13年)は、磁気試験場として萩中町に土地(11,369u)を購入しま
  した。一方、陸海軍の共同管理工場に指定された年でした。
   人事・制度面では東京計器銃後後援会/新国貯蓄組合を設立、青年学校舎および
  付属工場が完成した年でした。
   業界・一般では、厚生省が設置され、国家総動員法/工場、事業場管理法施行、
  学校卒業者使用制限令公布されましたが、国際的には昭和15年開催予定の東京オ
  リンピックは日中戦争のため開催を返上した年でした。》
【シャネルの5番】 ご存知、香水のシャネルNo.5ですが、昔、マリリン・モン
 ローがインタビューの中で「寝るときは何を着て寝るのですか?」の質問に、「シ
 ャネルの5番をつけて寝ます」と答えたのは有名な話として伝えられています。す
 なわち、シャネルの5番だけで裸という意味の比喩になっています。wearには(服
 を)着るという意味の他に、(香水を)つけるという意味もありますので、これに
 引っ掛けた答えでした。  
  1962年(昭和37年)、彼女は自宅の寝室で、全裸で死んでいるのが発見されまし
 た。まだ36歳という若さでした。私は勝手に上記の彼女の答えを気にしているおじ
 さんの一人です。  
 
 《1962年(昭和37年)この年の会社に関する記述は、「あ」行の「青田買い」の項
  を参照。》
昭和37年の会社
【シェー】 シェーは赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」に登場する人気キャラクター
シェー
シェー
出っ歯のイヤミが言うギャグです。驚きのときに発する
感動詞ですが、独特のポーズも流行りました。右腕また
は左腕を垂直に上げ、手首を直角に曲げる。反対側の腕
は肘を曲げて胸の辺りに。同時に右足または左足の膝を
曲げて片足で立つポーズです。シェーと言って、このポ
ーズが大流行したのが1965年(昭和40年)ごろでした。
そう言えば、以前寄稿した映画、「ALWAYS三丁目の夕日
'64」で、このポーズをしている少年を見ました。
 
 《1965年(昭和40年)の会社に関する記述は、「い」行の「いざなぎ景気」の項を
  参照。》
昭和40年の会社
【定斎屋】 辞書で調べますと、夏の江戸の町を売り歩く薬の行商人のことでした。
 堺の薬問屋・村田定斎が明の薬法からヒントを得て考案した夏バテ防止の煎じ薬の
 ようでした。
  箪笥風の引き出し箱に入れた薬を天秤棒で担ぎ、歩くたびに薬箱の鐶が揺れて音
 が出るため、家にいても定斎屋が来たのが分るそうです。薬の行商というと富山の
 薬売りを思い出しますが、膏薬売り、がまの油売り、そして定斎屋は落語の世界以
 外はレトロ語ではないでしょうか。
 
【女子学生亡国論】 戦後、女子の大学進学率の上昇に伴い、私立大学の文学部は特
 に女子学生の比率が急上昇しました。1962年(昭和37年)、暉峻康隆・早稲田大学
 教授が「文学部は女子学生に占領され、今や花嫁学校化している」と発言し、週刊
 新潮に「女子学生亡国論」を展開し、社会的に論議を呼びました。「女子学生亡国
 論」はいささか問題ですが、これからは理系にも女性の増加が目立つのではないで
 しょうか。
【人類の進歩と調和】 1970年(昭和45年)3月14日から9月13日までの183日間、
 大阪府吹田市の千里丘陵を舞台にアジアで初めて、77 大阪万博
大阪万博
 カ国4国際機関参加の下で開催された日本万国博覧会
 のテーマだったのが「人類の進歩と調和」でした。      
  1964年(昭和39年)の東京オリンピック、そして日
 本万国博覧会は、戦後、高度経済成長を成し遂げ、ア
 メリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な国家プ
 ロジェクトでした。総入場者数は外国人約170万人を含
 む6,421万余人、売上金額は入場券、約350億円、食堂
 ・売店他、約450億円。そして、1日の最高入場者は83万余人、最低入場者16万余
 人、平均約35万人という盛況ぶりでした。この異常な混雑ぶりから、マスコミは
 テーマをもじって、「人類の辛抱と長蛇」とか「残酷博」と揶揄されました。
 さて、2020年の東京オリンピックは、どんなスローガンやテーマの下に開催される
 のでしょうか。
 
 《1970年(昭和45年)の会社に関する記述は、「う」行の「ウハウハ」の項を
  参照。》
昭和45年の会社
【ジャパゆきさん】 1970年(昭和45年)代後半から急激に増加した日本への出稼ぎ
 に来る、主にフィリッピンをはじめ東南アジア人女性のことを呼んだ語です。その
 後も増え続け、ジャパゆきさんは1983年(昭和58年)の流行語となりました。    
  戦前、貧しい地方の女性が経済的に繁栄していた東南アジアの都市部に娼婦とし
 て働いた日本女性を「唐(から)ゆきさん」と呼んだことに対比して名付けられた
 ようです。今では、日本で働く外国人女性は珍しい存在ではなくなったこともあり、
 ジャパゆきさんはレトロ語となっています。
 
 《1983年(昭和58年)の会社に関する記述は、「お」行の「おしん/おしんする」
  の項を参照。》
昭和58年の会社
【仕立屋】 衣服を裁縫し、または縫い直し、継ぎはぎなどの修理をする職業人で、
 仕立物師、仕立物屋とも呼ばれました。
  時代劇には、よく登場します。貧乏長屋には必ず「仕立物」とか、「仕立物賜り
 ます」などの札が入口に下がっています。亭主の稼ぎが足らないのか、稼いだ金を
 賭博につぎ込む亭主のために女房殿が頑張っていたのでしょう。今は入口に札は見
 られませんが、富裕層の着物の仕立てや、有名ブランド洋服のサイズ直しなど、和
 栽・洋裁のできる主婦層では、よい稼ぎの内職として結構流行っているようです。
 
【新御三家】 ここで言う新御三家は1970年(昭和45年)代にアイドル歌手として、
 人気を集めていた郷 ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人を称して新御三家と言わ
 れました。それ以前は、橋 幸夫、舟木一夫、西郷輝彦が「御三家」と言われてい
 ました。
  新御三家は、1955年(昭和30年)〜1956年(昭和31年)生まれで、デビューも19
 71年(昭和46年)から1972年(昭和47年)と、ほぼ同じ時期のライバル同士です。
 「御三家」の語を例にすると徳川御三家が有名ですが、その他、御三家は中学・高
 校の入学難易度の他、芸能界、スポーツ、企業、商品などに紹介されてきました。
 今流なら「TOP3」「ベスト3」「ビッグ3」などの表示ではないでしょうか。
 その他、「三人娘」「トリオ」「三役」「三羽ガラス」「三本柱」「三巨頭」「三
 銃士」などと、いろいろな表現がありますね。
【集団就職列車】 1960年(昭和35年)代を中心とした高度経済成長期に集団就職で
集団就職列車
集団就職列車
故郷、家族、友人たちと別れ、不安と希望を胸に多くの
「金の卵」と言われた少年少女たちが地方から大都市部
へ移り住みました。この集団就職者の移動手段だったの
が臨時に仕立てられた「集団就職列車」でした。
 1954年(昭和29年)4月5日、15時23分、青森発、上
野行き臨時夜行列車から運行開始され、各県からの専用
列車も加わり、1975年(昭和50年)に運行が終了するま
での21年間にわたって少年少女たちを送って来ました。
 その上野駅広小路口前のガード下には井沢八郎のヒット曲「あゝ上野駅」の歌碑が
 建立されています。そして、昨年2013年(平成25年)7月28日には、上野駅開業
 130周年を記念して、この歌碑から連なる13番ホームの発車メロディとして採用さ
 れています。当事者の皆さんには悠々自適の現在、懐かしい集団就職列車だったの
 でしょうね。
 
 《1954年(昭和29年)の会社に関する記述は、「い」行の「糸偏景気/糸姫」の項
  を参照。》
昭和29年の会社
【試験管ベビー】 卵巣から成熟した卵子を採取し試験管の中で精子と受精させて、
 子宮へ移して着床させる方法で誕生した体外人工授精児の俗称です。
  1978年7月25日、午後11時47分、英国で世界初の体外受精技術による女児ルイー
 ズ・ブラウンさんが誕生しました。今は立派な母親となられてハッピーな毎日を送
 っておられるとのことです。でも、試験管ベビーという名前はよくないですね。
 
 《1978年(昭和53年)の会社に関する記述は、「お」行の「おセンチ」の項を
  参照。》
昭和53年の会社
【陣取り遊び/陣取り合戦遊び】 昔の子どもの遊びの一つです。遊び方は忘れてし
 まいましたが、確か二組に分かれて、相手にタッチし、早くタッチした方が相手を
 自分の陣地に捕虜にし、相手を全員捕虜にすれば勝ち、自チームの捕虜を助けるに
 は相手陣地へ行き、自チームの捕虜にタッチしなければなりません。その他、男児
 だけのときは、「軍艦ごっこ」とか(駆逐・水雷ごっこ)などでよく遊んだ記憶が
 あります。「ゴム跳び」「石けり」「ビー玉」「釘刺し」「竹馬」「ケンケン相撲」
 「おしくらまんじゅう」「馬乗り」「めんこ」「コマ回し」「ベーゴマ」「鬼ごっ
 こ」などは当時の子どもの遊びでした。
 
【シャッポ】 「シャッポ」は、つばのある帽子を意味する仏語・シャポー<chapeau>
 からの外来語ですが、今どきシャッポという言い方をする人はいないでしょう。
 ただ、降参する/脱帽するという場合、「シャッポを脱ぐ」と言います。また、こ
 れから派生したものに「ぽしゃる」という語があります。
 
【ジャパン・アズ・ナンバーワン】 ご存知、1979年(昭和54年)、70万部を超える
 ベストセラーとなった社会学者エズラ・ヴォーゲルの ジャパン・アズ・ナンバーワン
ジャパン・アズ・ナンバーワン
 著書です。戦後の日本経済の高度経済成長の要因を分
 析し、日本的経営を高く評価したものです。
  アメリカへの教訓として「高い技術レベル、社員の
 会社に対する、また会社の社員に対する忠誠心、高い
 教育水準、質の高い官僚、低い犯罪率、世界中から学
 ぼうという姿勢、これこそが、日本が強く豊かな社会
 でいられる基盤である」という。歯が浮くような評価
 です。その日本はバブル崩壊後どうだったでしょうか、鳴かず飛ばずの日本でした。
 ジャパン・アズ・ナンバーワンはレトロ語となりましたが、アベノミクスの成果を
 大いに期待したいものです。
 《1979年(昭和54年)の会社に関する記述は、「う」行の「うさぎ小屋」の項を
 参照。》
昭和54年の会社
【車内呼び出し】 以前は、「前橋からご乗車の○○様、お連れ様が5号車でお待ち
 しています」などの車内呼び出しがよくありましたが、よほどの緊急時以外は最近
 ほとんど聞きません。車内呼び出しは本来の業務外のことですが、携帯電話の普及
 で呼び出しを依頼する人がいなくなったのでしょうね。
 
【手動用クランクシャフト】 私は入社8年目の1965年(昭和40年)、父が茅ヶ崎の
ダイハツベルリーナ
ダイハツベルリーナ
山側・スリーハンドレッドGC近くに家を新築したのを契
機に、週の半分は自家用車で本社へ通勤しました。まだ、
当時は車通勤の方は少なく、暫くは本館前や熱処理工場・
板金工場前に駐車していました。自家用車といっても高
級なものではなく、当時、人気テレビ番組の「月光仮面」
に登場していたダイハツのベルリーナを月賦で購入しま
した。
 春から秋の期間は茅ヶ崎の自宅を出るときは順調でし
 たが、冬場になると、スタート時、エンジンが中々掛らず、家族総出で押してもら
 って、エンジンをスタートさせたりしました。当時の車は今と異なり、低圧縮比で
 あり、小排気量でしたので冬場の始動やバッテリーがあがったときなどは、標準車
 載工具のクランク・ハンドルを全面部の穴から入れてクランクシャフトと接続して、
 タイミングよくシャフトを回してエンジンを始動させていました。今では、カー・
 マニアが大事にしているクラシック・カーか自動車博物館でしか見ることができな
 いでしょうね。
 
 《1965年(昭和40年)の会社に関する記述は、「い」行の「いざなぎ景気」の項を
  参照。》
昭和40年の会社
【重厚長大】 「重厚長大」は、鉄鋼業、セメント、非鉄金属、造船、化学工業と、
 これに関連する装置産業などの重要基礎産業ですが、石油危機に起因する高度経済
 成長の終焉期に生まれた言葉です。
  1980年(昭和55年)ごろから産業構造のソフト化やサービス化の流れが広がり、
 重厚長大は不可欠な産業ですが、+アルファとして、技術と高付加価値製品に軸足
 を移して、その他はアジアの発展途上国に譲り、エレクトロニクス、ソフトウエア
 などの軽薄短小産業・ハイテク産業へとシフトされて行きました。国としても産業
 としても、この分野が元気でないと経済の活性化は不可能です。重厚長大と軽薄短
 小がバランスよく発展して行く必要がありますが、これから、どんな「重厚長大」
 産業が再現されるのでしょうか。将来への宇宙関連産業でしょうか。それとも深
 海・地中への分野でしょうか。
 
 《1980年(昭和55年)の会社に関する記述は、「あ」行の「あ〜う〜」の項を
  参照。》
昭和55年の会社
【ジャパン・バッシング】 以前は牛肉、米、柑橘類他でアメリカの対日貿易不均衡
 に対しての反発や対抗手段で日本は叩かれました(bashing)。こらから派生して
 日本に対する抗議や非難する語になりました。その後、パッシング(passing)、
 日本は対象外の素通り。更にナッシング(nothing)、日本を無視。更なる強烈なの
 がジャパン・ディッシング(dissing)、日本を切り捨ての態度・行動が浮き彫りに
 されています。外交や投資などの相手として、日本は素通り、無視されて、中国を
 重視する傾向の中、最近、やっと日本を中心に、アジア諸国へ目を向け出したよう
 に思いますが、強国化する中国の脅威は遠方のアメリカには未だ理解されていない
 ように思えます。
  最近では、2020年のオリンピック招致合戦で宗教上の問題で相手国を批判したり、
 論外の無意味な従軍慰安婦発言などは「叩き」の最たるものでしょう。国としては
 正確な根拠を示し、過ちがあったら謝罪し、根拠がなければ、どうどうと争うべき
 ではないでしょうか。戦争を知らない世代の人間にまで、1000年先までのバッシン
 グは味合わせたくありません。
【職 安】 厚労省設置法23条に基づいて設置される公的職業紹介所で「公共職業安
 定所」の略で、サラリーマンなら一度はお世話になったところですね。最近は職安
 でなく「ハローワーク」と呼ばれることが一般的になりました。レトロ語の「職安」
 という言葉には、何か暗いイメージがありますね。
 
【しおらしい】 反対語の「こなまいき」「かんにさわる」「こざましい」に対して、
 「萎れる」の形容詞化でしょうか、「控えめで従順」「慎み深く、いじらしい」、
 「可愛らしい」「可憐である」「けなげである」「殊勝である」「上品で優美であ
 る」など、よいこと尽くめですね。こんな女性がおられたら男は黙っていないでし
 ょう。残念ながら最近は、ほとんど耳にしません。
 
【支那そば】 茅ヶ崎の我が家から秦野市のゴルフ場に行く途中に「支那そば」の看
 板があります。街中では「中華そば」の暖簾もよく見 支那そば
支那そば
 かけます。これと「ラーメン」の違いを調べてみまし
 た。
  日本で最初に中華麺を食べたのは徳川光圀(水戸黄
 門)であるとする説がありますが、庶民の口に入るよ
 うになったのは明治初期に、「南京そば」からのよう
 です。更に中期ごろには「中華そば」「柳麺」「老麺」
 などと呼ばれ、戦後、「支那」の用語が使用自粛され
 たことにより「中華そば」と呼ばれるようになったようです。では、なぜ、店によ
 り「支那」「中華」と名乗っているかというと、地域で上記そばが普及した時代で
 の呼び方をしたり、創業した時代の呼び方で看板を出しているようです。一方、
 「ラーメン」は「拉麺」「柳麺」「老麺」からでしょうが、1958年(昭和33年)に、
 日清食品が即席麺の「チキンラーメン」を発売してから、今や日本各地で土地々々
 の特徴を生かしたご当地ラーメンが大繁盛、全世界の食料品店・スーパーマーケッ
 トで売られています。丼の雷文の模様も懐かしいですね。
 
 《この年の会社に関する記述は、「あ」−1の「赤線/青線」を参照。》
昭和33年の会社
【ジャケツ】 袖の長い毛糸編みの上着でジャケットの古い言い方だそうです。初め
て知りました。ジャケットに似た語にセーターがありますが、身に付けるものの中
で「チョッキ」(=ベスト)、「ズボン」(=パンツ)、「ズボン下」(=ステテ
コ/ロングトランクス、タイツ、レギンス)など、私たちの年代で使っていた用語が
どんどんカタカナ語となってきており、ややこしいですね。でも「ジャケツ」は、
そろそろ通用しないでしょう。
 
【女 史】 見識・教養豊かで社会的地位や名声のある女性に敬意を込めていう語で、
 その女性の名前に添えて表す語ですが、男女雇用機会均等法から見て、女性もすべ
 て「氏」で統一され「女史」はほとんど使われていないようです。反面、職場など
 で気位が高い熟年の女性への揶揄の意味で、男性間では内緒で使われているのでは
 ないでしょうか。しかし、我が社で初めての女性管理職になられたTさんには、多
 くの従業員からT女史と言われていました。次の女史の出現を見たいものです。
【C 調】 音楽用語に「C調」がありますが、ここでの「C調」は、調子いい人や
 調子いい様を表す言葉です。1960年(昭和35年)代からミュージシャンや芸能人を
 中心に使われていたそうです。
  C調とは、「調子いい(=ちょうしいい)」を「ちょうしー」と読み、前後をひ
 っくり返して「しーちょう=C調」としたものです。その後、1979年(昭和54年)、
 サザンオールスターズの5枚目のシングル「C調言葉にご用心」を発売したことで、
 広く一般に認知されましたが、最近は、ほとんど耳にしないレトロ語となっていま
 す。
 
 《1979年(昭和54年)の会社に関する記述は、「う」行の「うさぎ小屋」の項を
  参照。》
昭和54年の会社
【「塩」の看板】 青地に白文字の塩の看板は専売制でしたので昔よく見かけました。
「塩」の看板
「塩」の看板
地方に行くと、ときたま、懐かしい看板の名残である、
「たばこ」、「東芝電気洗濯機」、「日立ランプ」など
と共に見かけることがあります。
 塩の専売制は1905年(明治38年)から導入されました
が、前年に始まった日露戦争がきっかけでした。大正・
昭和の代まで維持され、1984年(昭和59年)に日本たば
こ産業鰍ェ発足し、この専売制は廃止されました。
 
 
 《1905年(明治38年)の会社に関する記述は、「え」行の「Mボタン」の項を
  参照。》
明治38年の会社
【春 歌】 入社してすぐの職場旅行は女性がいませんでした。宴会の終わりごろに
 なると、歌う民謡がなくなりますので、出てくるのは先輩の春歌でした。セックス
 に関する表現ばかりでしたので驚いて聞いていました。代表的なものが「炭坑節」
 「ヨサホイ節」「あっぴょ節」「真室川音頭」「数え唄」などでした。今はカラオ
 ケの時代ですが、民謡を歌う人はおりませんし、まして春歌を歌う場所も機会もあ
 りません。
【シネマスコープ】 昔、映画の宣伝に「シネマスコープ・総天然色映画・・」とい
 うのがあり、わくわくしながら鑑賞しました。シネマ シネマスコープ
シネマスコープ
 スコープは、1953年(昭和28年)に米国・20世紀FOX社
 で実用化させ、「聖衣」という歴史大作が第1作とな
 りました。文献を調べると、特殊な円柱レンズを用い
 て横幅を圧縮して撮影した画像を、映写の際に横に拡
 大映写する方式で、画面の縦横比は1対2.35(普通は
 3対4)と し、大スペクタルのカラー大作で観客の動
 員に大いに寄与しましたが、近年はめったにシネスコ
 で制作されることがないようです。このシネスコの他に、パラマウント社のヴィス
 タサイズ、MGM社のパナヴィジョン、さらに70ミリ映画などが、次々に開発されまし
 た。
  外国と日本ではいろいろと事情が違いますが、シネスコは「ただ横に広いだけで、
 芸術作品には適さない」との評価で、日本映画は1980年(昭和55年)ごろから、ほ
 とんどの作品がシネスコからビスタに変わっているようです。その理由は、上記評
 価と併せて「TV放映」「ビデオ化」の際にもっとも見やすいサイズと言われていま
 す。
 
 《1953年(昭和28年)の会社に関する記述は、「あ」行の「赤電話」の項を参照。》
昭和28年の会社
【新国劇】 1917年(大正6年)、当時の芸術座を脱退した澤田正二郎らによって新
新国劇
新国劇
国劇が結成され、歌舞伎よりリアルな立ち回りを多用し
「月形半平太」や「国定忠治」などの時代劇で庶民の人
気を得ました。
 1929年(昭和4年)に澤田が急死し、若手代表の島田
正吾や辰巳柳太郎を主役に抜擢することで、戦前から戦
後にかけて全盛期でした。しかし、戦後の大衆娯楽の変
化、時代劇ファンのニーズの変化もあり、観客数が減少
し始め、1960年(昭和35年)後半以降は低迷の一途を辿
 りました。島田、辰巳の後継者不在のまま、1987年(昭和62年)、創立70周年記念
 公演を最後に解散しました。しかし、新国劇の影響を受けて、阪東妻三郎、大河内
 伝次郎、林長二郎(長谷川一夫)、市川右太衛門、片岡千恵蔵らの剣劇映画スター
 らが活躍の場を得たと言っても過言ではないようです。
 
 《1917年(大正6年)は、合資会社東京計器製作所の買収、事業継承、権利授受し、
  鞄結梃v器製作所を資本金300万円で設立、更に日本光学工業鰍設立した年でし
  た。12月には鞄結梃v器製作所の第1回定時株主総会が開催されました。人事・
  制度面では恩給制度が制定されました。一方、業界・一般ではロシア10月革命が
  あった年でした。》
 
【シーソー】 通称「ぎったんばっこん」「ぎっこんばったん」と呼んでいました。         
  支点シーソーは、長い板の中心を支点にして取り付けられ、板の両端に人が乗り
 上下運動をする遊具です。その他、ブラ下がりシーソーやバネシーソーもありまし
 た。昔から公園や遊園地、幼稚園、小学校に設置され、子どもの遊びとして親しま
 れてきました。散歩中に家の近くの公園や幼稚園を見ても余り目にしません。衝撃
 により、シーソーの握り棒への衝突や板の下に足を挟むような事故が想定される関
 係で、管理面から設置場所が減少しているのでしょうか。
【GIルック】 GI(Goverment issue)の略で主にアメリカの兵隊を指し、GI
 ルックはアメリカ兵の服装をまねたアーミールックの一種で、当時のファッション
 の一つでした。終戦後、日本に進駐したアメリカ兵がジープに乗って通り過ぎる姿
 を見て、子ども心でも旧日本兵の服装と対比して、カッコいいと思っていました。
 同じような「○○ルック」には、過去にアイビールックがあるように、スキニール
 ック、エスニックルック、インディアンルック、コンチネンタルルックが話題とな
 りました。
  時代と共に新しいファッションが現れては消え、消えては、また新しいファッシ
 ョンが現れることでしょう。しかし、GIルックのような兵隊をイメージするファ
 ッションは無しにしたいものです。
 
【地震・雷・火事・おやじ】 「か」行の「カミナリ親父」を参照下さい。
カミナリ親父
 
【しらけ世代】 誰が命名したのでしょうか。その年代の方は、いささか頭に来ませ
 んか。「しらけ(白け)世代」は、無気力で、白けた態度をとる世代で、日本の学
 生運動が下火になった時期に大学生活を送った年代、あるいは、そのころ成人を迎
 えた世代のことだそうです。いろいろ調べたら、大正生まれから平成生まれに命名
 されたものが下記です。世代の定義や特徴は省略します。
       世代名              生まれた年代
     ・大正世代            大正元年〜大正15年/昭和元年
     ・昭和1桁世代          昭和元年〜昭和9年
     ・焼け跡世代           昭和10年〜昭和21年
     ・全共闘世代           昭和16年〜昭和24年 
     ・団塊世代            昭和22年〜昭和24年
     ・白け世代/マンガ世代       昭和25年〜昭和34年
     ・新人類             昭和35年〜昭和39年
     ・バブル世代           昭和40年〜昭和44年
     ・団塊ジュニア世代        昭和46年〜昭和49年
     ・氷河期時代           昭和45年〜昭和57年
     ・ゆとり世代           昭和62年〜
     ・新人類/バブルジュニア世代   平成2年前後〜
 だそうです。団塊世代、同ジュニア世代、新人類、ゆとり世代以外はレトロ語入り
 ではないでしょうか。
 
 《大正15年は、創立30周年記念大祝賀会を荒川遊園地で開催した年でした。人事・
  制度面では、健康保険組合(民間会社初の組合で認可番号「東1」をいただきま
  した。
   業界・一般では、青年訓練所令、健康保険法の施行、大正天皇が崩御され、昭
  和と改元された年でした。》
【新人類】 1960年(昭和35年)〜1964年(昭和39年)ごろに生まれた世代で、団塊
 の世代と団塊ジュニアの中間に位置する世代です。従来とは異なる価値観や感性、
 行動規範を持つ、一風変わった若者群ということで、「新人類」は、ジャーナリス
 トの筑紫哲也氏の作と言われており、1986年(昭和61年)に流行語となったもので
 す。  「新人類」は自分勝手、無感覚、冷笑的であざける態度などのマイナス・
 イメージがある半面、物おじしない、明るい性格がある若者群というイメージで、
 この「新人類」に選ばれたのが、当時、西武ライオンズの清原和博、工藤公康、渡
 辺久信選手でした。
  彼らが「新人類」を代表していたかは存じませんが、この世代も中年となり、旧
 人類となりつつある現在、新たな価値観をもった新しい若者が登場する時代となり、
 今では余り使われない言葉ですね。
 
 《1986年(昭和61年)の会社に関する記述は、「か」行の「唐草模様の風呂敷」
  の項を参照。》
昭和61年の会社
【書 生】 1872年(明治5年)に学制が布かれると、地方から都会の高等学校や大
 学へ進学する若者が現れました。しかし、当時は単身 書生さん
書生さん
 者が住居するような施設もなく、炊事・洗濯も不慣れ
 な若者が生活するには親戚縁者の世話になったり、紹
 介してもらい他人の家に下宿することになりました。
 「書生」は他家に世話になって家事や雑務を手伝いな
 がら勉強する者を指す言葉となりました。その後、各
 学校の寄宿舎や学生用のアパートが整備され、こうし
 た書生は徐々に減少しましたが、逆に政治家や作家な
 どの家に寄宿して、将来、この分野で志をたてる者を指すようになりました。主に
 明治、大正期に用いられた言葉です。
  大きな志を抱いて上京した書生には、いろいろな言葉が派生しています。「書生
 芝居」「書生羽織」「書生節」「書生部屋」「書生論」「書生言葉」「書生っぽ」
 などです。
 
【守銭奴】 会話で相手をここまで表現するのを聞いたことがありません。借金をお
 願いした挙句、断られて、捨て台詞に「この守銭奴!、もう頼まない!」こんなと
 きくらいしか出ない言葉ですね。金銭を貯めることに異常な執念を持つと、世間で
 は「ケチ」「がめつい」などと決して良くは言いません。せいぜい、「がっちり
 屋」「握り屋」でしょうか。
 
【自己批判】 自分の誤りを自発的に認めて、公の場で自分自身を批判することです
 が、過去の例だと日本共産党や新左翼の各派で多数見られました。特に連合赤軍の
 「総括」は当時話題となりました。一方、自己批判を人事研修に取り入れた企業が
 結構ありました。しかし、単に自己批判で終わる訳ではなく、大勢のメンバーの中
 で罵倒されたり、批判されたりでの矯正教育が行われた結果、精神的圧迫を受ける
 ため、正常な人間には耐えられないケースがあるようです。そう言えば、昔、AMC
 という名の研修があったのを思い出しました。
【実 年】 年代により、いろいろネーミングをいただいていますが、多すぎて頭に
 入りません。一般に年齢を表す言葉には、15歳=志学、20歳=弱冠、30歳=而立、
 40歳=不惑、48歳=桑年、50歳=知名、60歳=耳順、61歳=還暦、70歳=従心/
 古希、77歳=喜寿、80歳=傘寿、88歳=米寿、90歳=卒寿、99歳=白寿、100歳=
 百寿、108歳=茶寿、110歳=珍寿、111歳=皇寿(以下省略)というのがあります
 が、これを、ある年齢で区分して表した一つが「実年」です。
 「実年」は、1985年(昭和60年)、当時の厚生省が公募して決定した「少」「青」
 「壮」「老」に並べて使うのに適当と、50歳、60歳代の年齢層を指す言葉ですが、
 一般には使われていません。参考までに、「実年」以外のどんな表現があるか順不
 同で羅列してみます。「中年」「ミドル」「中高年」「シニア」「熟年」「初老」
 「高齢者」「後期高齢者」「グランドシニア」「老人」「寿」などです。
 
 《1985年(昭和60年)の会社に関する記述は、「い」行の「いちご世代」の項を
  参照。》
昭和60年の会社
【ジベタリアン】 最近は余り見かけませんが、1997年(平成9年)ごろ、コンビニ
 や電車内など所構わず、若者、高校生が地べたに座り、ダベッている「ジベタリア
 ン」を見かけていました。「ジベタリアン」は菜食主義を意味する「ベジタリアン」
 と、「地面」の「地べた」をもじった造語と思われます。私見で恐縮ですが、一時、
 高校生が地面を引きずるようにズボンを下げてはくのが流行っていました。そのズ
 ボンの裾の汚さ!そのまま、家に上がっていたのでしょうか。そんな息子の親御さ
 んの顔を見たいと思っていました。
 
【熟 年】 「実年」の項を参照。
実年
【シャウプ勧告】 GHQの要請を受けて、1949年(昭和24年)に結成されたコロンビ
 ア大学の財政学者・カール・シャウプ氏を団長とした、我が国の税制を根本的に改
 正するため勧告書です。この勧告書の基本原則は、1950年(昭和25年)の税制改正
 に反映され、時代とともに現状に即した調整が加えられ、今日の税制が築き上げら
 れたのでしょうか。戦後の混乱、経済活動の停滞による税収の低下に対処するため
 だったのでしょう。
 
 《1950年(昭和25年)の会社に関する記述は、「あ」行の「アナタハンの女王事件」
  の項を参照。》
昭和25年の会社
【シャン】 「は」行の「バックシャン」の項を参照。
バックシャン
【女 給】 明治時代以降、大正、昭和と流行したカフェ、バー、キャバレーなどで
カフェの女給
カフェの女給
客の接待に当たった女性ですが、さすが、今日では「給
仕」とか「女給」という呼称は用いられておらず、男性
の場合は、「ボーイ」とか、「ギャルソン(仏語)」、
もしくは「ウエーター」、女性の場合は、「ウエートレ
ス」でしょうか。バー、キャバレー、クラブでは「ホス
ト」、「ホステス」と呼ぶのでしょうか。「キャバクラ
嬢」というのがありますが俗語でしょう。
 
【職業婦人】 社会に出て職業に就いている女性が少なかった時代に、職業に就いて
 いる女性ですが、1912年(大正元年)11月の「内外新聞」に、以下のような当時の
 「婦人の職業」が掲載されていました。以下、順不同で列挙しますと、医師、看護
 婦、薬剤師、産婆、教師、音楽家、新聞記者、写真家、電話交換手、タイピスト、
 専売局女工、手芸・裁縫、そして、大正中期以降になると、広く各種女工、事務員、
 外交員、美容師、雑誌記者、バスガール、デパート店員と女給が新たに加わり、さ
 らに、映画女優、女性アナウンサーなども加わりました。このころにモダンガール
 (モガ)が銀座をはじめ、都会の中心部に登場しはじめたようです。
 
 《大正中期前後の1916年(大正5年)の会社は、創立20周年大祝賀会を目黒の大日
  本ビール会社構内で開催し、さらに、資本金を50万円に増資した年でした。更に、
  1918年(大正7年)の会社は、東洋酸素鰍設立した年でした。
  人事・制度面では従業員有志の親睦会が発足しました(金鶏会の前身)。
  一方、業界・一般では、米騒動が起こり、シベリア出兵を宣言した年でした。
  外国では、独国が降伏し、第1次世界大戦が終結した年でした。》
 
【真空総理】 第84代・小渕恵三総理を形容した言葉には「冷めたピザ」「ボキャ貧」
 と、「真空総理」が有名です。「冷めたピザ」は、ニ 故_小渕元総理
故_小渕元総理
 ューヨーク・タイムズの東京支局長であったニコラス・
 クリストフ氏の命名とされ、同氏に言わせると、「彼
 の名前を聞いても全然興奮しない。誰も食べない食卓
 の残り物(=冷めたピザ)のようで、つまらないとい
 うことを伝えたかった」と語っています。どうも、あ
 との二つの言葉と関係がありそうですね。
  「ボキャ貧」は、よくマスコミから言われていたよ
 うです。穏やかな性格の持ち主でしたが、会話のボキャブラリーが貧困で味もそっ
 けもなく、面白味がないということでしょうか。最後の「真空総理」は「真空」の
 とおり、「真に空っぽで何もない」と、何と第71〜73代・中曽根総理が何かの折り
 に揶揄されたものでした。いろいろと厳しいことを言われるものですね。総理の激
 務のせいでしょうか、心臓病の持病に加えて、脳梗塞で倒れ、62歳の若さでご逝去
 されました。
【新・三種の神器】 初代三種の神器は、1950年(昭和25年)後半、神武景気のころ
 でしょうか、「白黒テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」でした。更に高度経済成長期の
 1960年代(昭和35年代)半ばは「3C=カラーテレビ・クーラー・カー(自家用車)」
 となりました。平成時代は、どうなったのでしょうか。「デジタルカメラ」「DVD
 レコーダー」「薄型大型テレビ」のデジタル家電が「新・三種の神器」と呼ばれて
 いますが、もう、これもそろそろレトロ語入りで、物が満ち足りてきた現在、
 「新々・三種に神器」は何なのでしょうか。
 
 《1960年代(昭和35年代)半ばの、昭和37年の会社に関する記述は、「あ」行の
  「青田買い」の項を参照。》
昭和37年の会社